3月23日 月曜日
おはようございます。 酒好きの思想家です。
創作活動のさ中の物書きは、
みなさんが言うところの「変わり者」そのものだ。
異彩にして変人。そして正真正銘の二重人格者であり、
社会的、個人的な責任を果たす能力を保持する者。
文章を書いている時、まさにそのようだと想像していいと思う。
人を動かすのは様々だ。
一番代表的なのが「札束」だろう。
現代社会は誰が何を言おうが物質社会だ。疑う者はいないだろう。
次に人を動かす方法は、やはりヒエラルキー、上下関係だろう。
日本には階級社会は存在しないと言うが、
部下は上司に服従し、会社は社員に忠誠を誓わせ、後輩は先輩のしもべである。
逆らう者はいないだろう。
その次に人を動かすのが、恐怖とハッタリか。それにはコツがある。
人を感情的に訴えかけて衝動させることが重要だ。
可哀想な自分を演じ、不安を煽りながら、友情をもって同情する。
まさかと思う者はいないだろう。
しかし、創作行為にある物書きたちは、そうは考えない。
書き手が考える人を動かす方法はこうだ。
物質社会でも精神社会でもなく文学社会であると。
言葉が生み出す言語学にあるのだと。
文学こそが人を正しく動かす方法だと信じているのである。
ー 文学は国家の大業にして名誉である - と。
物書きから見て思うことは、
文学以外に人を動かす方法がどれも策略にしか見えないのである。
だまし騙し人を動かす術とでも言おうか。
私はよく「人たらし」だと言われるが、とんだお門違いだ。
みんなはメールをするだろう。
メールはコミュニケーションの一つなのだが、
人を動かすならば立派な文学だ。
例えばメールで、
「暖かくなりました。一緒に出掛けましょ。」また、
「料理の腕が上がりました。食べに来て。」
どうだろうか。人が動くなら文学だ。
日本文学史上最高の評価の一つ紫式部の源氏物語は、
当時の女性たちの感性が生き生きと読み取れる傑作である。
その時代に貴重な役割を果たしたこと、
百人一首や日本書紀、西行や世阿弥、芭蕉。
そして現代にまで続くまさに大いなる連鎖と呼ぶに相応しい偉業である。
本物の文学とはその時代の末世の相を証言せしめたものであって、
日本文学がこまめにゆるやかに流れにそって分かれながらも、
それでいて、なかなか興味深いものなのだが、
随所に独特な感性がよこたわり、
母型というか断章というか個性的というか、
そこにあるはずのものがなかったり、また
そこにあるはずがないものが見えたりするという、
風情、風合い、風流、かすかに揺れる草花の間合いを読み取る感性。
それは科学であり哲学であり芸術なのである。
まるで自然との会話の中に見え隠れする表の欲求と裏の欲求、
そんな言霊文学が言語として今日ここによみがえる。
人を動かすものは文学だ。
「やまとうた、人の心をくさとして、万代の言葉ぞ、もののあらわれ。」
つづく。
おはようございます。 酒好きの思想家です。
創作活動のさ中の物書きは、
みなさんが言うところの「変わり者」そのものだ。
異彩にして変人。そして正真正銘の二重人格者であり、
社会的、個人的な責任を果たす能力を保持する者。
文章を書いている時、まさにそのようだと想像していいと思う。
人を動かすのは様々だ。
一番代表的なのが「札束」だろう。
現代社会は誰が何を言おうが物質社会だ。疑う者はいないだろう。
次に人を動かす方法は、やはりヒエラルキー、上下関係だろう。
日本には階級社会は存在しないと言うが、
部下は上司に服従し、会社は社員に忠誠を誓わせ、後輩は先輩のしもべである。
逆らう者はいないだろう。
その次に人を動かすのが、恐怖とハッタリか。それにはコツがある。
人を感情的に訴えかけて衝動させることが重要だ。
可哀想な自分を演じ、不安を煽りながら、友情をもって同情する。
まさかと思う者はいないだろう。
しかし、創作行為にある物書きたちは、そうは考えない。
書き手が考える人を動かす方法はこうだ。
物質社会でも精神社会でもなく文学社会であると。
言葉が生み出す言語学にあるのだと。
文学こそが人を正しく動かす方法だと信じているのである。
ー 文学は国家の大業にして名誉である - と。
物書きから見て思うことは、
文学以外に人を動かす方法がどれも策略にしか見えないのである。
だまし騙し人を動かす術とでも言おうか。
私はよく「人たらし」だと言われるが、とんだお門違いだ。
みんなはメールをするだろう。
メールはコミュニケーションの一つなのだが、
人を動かすならば立派な文学だ。
例えばメールで、
「暖かくなりました。一緒に出掛けましょ。」また、
「料理の腕が上がりました。食べに来て。」
どうだろうか。人が動くなら文学だ。
日本文学史上最高の評価の一つ紫式部の源氏物語は、
当時の女性たちの感性が生き生きと読み取れる傑作である。
その時代に貴重な役割を果たしたこと、
百人一首や日本書紀、西行や世阿弥、芭蕉。
そして現代にまで続くまさに大いなる連鎖と呼ぶに相応しい偉業である。
本物の文学とはその時代の末世の相を証言せしめたものであって、
日本文学がこまめにゆるやかに流れにそって分かれながらも、
それでいて、なかなか興味深いものなのだが、
随所に独特な感性がよこたわり、
母型というか断章というか個性的というか、
そこにあるはずのものがなかったり、また
そこにあるはずがないものが見えたりするという、
風情、風合い、風流、かすかに揺れる草花の間合いを読み取る感性。
それは科学であり哲学であり芸術なのである。
まるで自然との会話の中に見え隠れする表の欲求と裏の欲求、
そんな言霊文学が言語として今日ここによみがえる。
人を動かすものは文学だ。
「やまとうた、人の心をくさとして、万代の言葉ぞ、もののあらわれ。」
つづく。
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