1月28日(木)
フィリピンの話題が続出。
天皇.皇后両陛下がご訪問されたのだ。
昨年に続いて、太平洋戦争の激戦地をご訪問になられた。
お二人の御身体は如何かと、自分に合わせて考える。
特にフィリピンは常夏の国で、これからの季節は、益々、暑さが厳しくなる。
私はかつて三年間、マニラに住んでいた。
日本人学校の教師として文部省から派遣されたのだ。
まだ、この国は戒厳令の敷かれた時代で、夜間の外出などは難しい時代だった。
日本人社会の中での交流が多く、現地の人との触れ合いは僅かなものであった。
そうした中でも、戦時中のフィリピンの出来事の幾つかを聞き、実際に目にしている。
フィリピンは太平洋戦時中、最も厳しい状況下にあった事も聞いていた。
日米両軍の激しい戦いで、将兵の犠牲もおびただしいものであったが、戦場と化したフィリピン全土に住む住民にとっては、実に悲惨なものであった。
この国には古くから日本人も多く住んでいた。
その多くの人達が、敵軍に追われて北へ北へとルソン島の北部へ避難しようとした。
そして、多数の犠牲者を出した。
他の島を合わせて、その数、五十万人を超えていると聞いている。
しかし、戦後の実際のフィリピンの生活の中で、あの過酷だった戦時下の現地の人達や在留日本人達が、どれ程、過酷な状況に追いやられていたかは、十分に知らされていなかった。
若しかすると、知ろうとしなかったのは、フレンドリーなフィリピンの人達の言動の裏にあるものに気がつこうとしなかったのかも知れない。
しかし、たまたま、疑問に思うような事実を目にしたり耳にした時、私はよく質問する事があった。
それは、立場や場所こそ違え、戦争の厳しさを身に染みるほど感じてきたからだ。
ある時、腕がない中年の女性を見かけた。
友達に聞くと「あの人は、子供の時、日本の憲兵に一家が斬り殺された。彼女は腕を切り落とされたけれど、命拾いをした」と聞かされた。
すごいショックを受けた私は、初めて、太平洋戦争の為に、この国の人達が受けた言いようのない痛ましい過去を、目の前で知る事になったのである。
また、ある時は学校のスクールバスの運転手さんの叔父さんが、戦時中、日本軍によって殺されたと聞いた。
日頃の彼の温厚な人柄から見て信頼出来る、実に良い人だった。しかし、本当は日本人に対してどんな感情を抱いているかを推し量りたくなったものだ。
何と言っても、忘れられないのは、マニラに住んでいる人が書いた手記である。
その本の事を聞いた私は、知人に借りて読み始めた。
あまりにも過酷な逃亡生活。
日本軍だけでなく、在住日本人がルソン島ではマニラから北へ北へと山中をさまよい歩いたと言う。
密林の中では、道中、米軍の過酷な襲撃に身を隠す事さえ出来ずに多くの人が死んでいった話だった。
また、食料も水もなく、草や虫、生き物まで食べようとするが、火を焚くと、すぐに襲撃されて、多くの犠牲者が出たと言う。
夜通しかけて、この本を読み終わった私の目は真っ赤に充血した。
その目で勤務に出かけた事を未だに思い出す。
我々日本人が『御国の為に』と言う言葉に、どれ程、苦しさを耐え忍んできただろうか?
しかし、このフィリピンの地では一般市民の日本人が死んでいった事実を知って、大変なショックを受けた。
そして、友好的なフィリピンの人達が、なんの罪も無いのに受けてきた犠牲を深く考えなければならないと思う。
特に
日本人学校へ派遣された者は、その国の事情を歴史の上でも熟知する事の大切さをしみじみと思う。
両陛下が自国の国民の追悼だけでなく、戦争に巻き込まれた罪の無いフィリピンの人達の事を深く考えられて、このご訪問をされた事を嬉しく思い、また暑い国の気候は御身体は如何かと思いながら、テレビの映像を拝見させていただいた。
フィリピンの話題が続出。
天皇.皇后両陛下がご訪問されたのだ。
昨年に続いて、太平洋戦争の激戦地をご訪問になられた。
お二人の御身体は如何かと、自分に合わせて考える。
特にフィリピンは常夏の国で、これからの季節は、益々、暑さが厳しくなる。
私はかつて三年間、マニラに住んでいた。
日本人学校の教師として文部省から派遣されたのだ。
まだ、この国は戒厳令の敷かれた時代で、夜間の外出などは難しい時代だった。
日本人社会の中での交流が多く、現地の人との触れ合いは僅かなものであった。
そうした中でも、戦時中のフィリピンの出来事の幾つかを聞き、実際に目にしている。
フィリピンは太平洋戦時中、最も厳しい状況下にあった事も聞いていた。
日米両軍の激しい戦いで、将兵の犠牲もおびただしいものであったが、戦場と化したフィリピン全土に住む住民にとっては、実に悲惨なものであった。
この国には古くから日本人も多く住んでいた。
その多くの人達が、敵軍に追われて北へ北へとルソン島の北部へ避難しようとした。
そして、多数の犠牲者を出した。
他の島を合わせて、その数、五十万人を超えていると聞いている。
しかし、戦後の実際のフィリピンの生活の中で、あの過酷だった戦時下の現地の人達や在留日本人達が、どれ程、過酷な状況に追いやられていたかは、十分に知らされていなかった。
若しかすると、知ろうとしなかったのは、フレンドリーなフィリピンの人達の言動の裏にあるものに気がつこうとしなかったのかも知れない。
しかし、たまたま、疑問に思うような事実を目にしたり耳にした時、私はよく質問する事があった。
それは、立場や場所こそ違え、戦争の厳しさを身に染みるほど感じてきたからだ。
ある時、腕がない中年の女性を見かけた。
友達に聞くと「あの人は、子供の時、日本の憲兵に一家が斬り殺された。彼女は腕を切り落とされたけれど、命拾いをした」と聞かされた。
すごいショックを受けた私は、初めて、太平洋戦争の為に、この国の人達が受けた言いようのない痛ましい過去を、目の前で知る事になったのである。
また、ある時は学校のスクールバスの運転手さんの叔父さんが、戦時中、日本軍によって殺されたと聞いた。
日頃の彼の温厚な人柄から見て信頼出来る、実に良い人だった。しかし、本当は日本人に対してどんな感情を抱いているかを推し量りたくなったものだ。
何と言っても、忘れられないのは、マニラに住んでいる人が書いた手記である。
その本の事を聞いた私は、知人に借りて読み始めた。
あまりにも過酷な逃亡生活。
日本軍だけでなく、在住日本人がルソン島ではマニラから北へ北へと山中をさまよい歩いたと言う。
密林の中では、道中、米軍の過酷な襲撃に身を隠す事さえ出来ずに多くの人が死んでいった話だった。
また、食料も水もなく、草や虫、生き物まで食べようとするが、火を焚くと、すぐに襲撃されて、多くの犠牲者が出たと言う。
夜通しかけて、この本を読み終わった私の目は真っ赤に充血した。
その目で勤務に出かけた事を未だに思い出す。
我々日本人が『御国の為に』と言う言葉に、どれ程、苦しさを耐え忍んできただろうか?
しかし、このフィリピンの地では一般市民の日本人が死んでいった事実を知って、大変なショックを受けた。
そして、友好的なフィリピンの人達が、なんの罪も無いのに受けてきた犠牲を深く考えなければならないと思う。
特に
日本人学校へ派遣された者は、その国の事情を歴史の上でも熟知する事の大切さをしみじみと思う。
両陛下が自国の国民の追悼だけでなく、戦争に巻き込まれた罪の無いフィリピンの人達の事を深く考えられて、このご訪問をされた事を嬉しく思い、また暑い国の気候は御身体は如何かと思いながら、テレビの映像を拝見させていただいた。
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