下記の記事はハルメクWebからの借用(コピー)です。
87歳の今も俳優として第一線で活躍する・草笛光子(くさぶえ・みつこ)さん。草笛さんのハツラツとした姿と言葉から、きれいにを生きるヒントを学ぶ特集です。第4回は老いの気付きや、亡き母への後悔について伺った等身大のインタビューをお届けします。
目次
1. 草笛光子さんが骨折してわかった「やっぱりがたつく」
2. 草笛光子さんの無理をしないためのブレーキ3か条
3. 認知症の母を介護施設に入れたことを今も悔いています
4. 草笛光子さんのプロフィール
5. 2021年10月公開映画「老後の資金がありません!」に出演草笛光子さんが骨折してわかった「やっぱりがたつく」
毎週2時間、きつい筋肉トレーニングを続ける精神力。脚が肩の高さまで上がる柔軟性。80代とは思えない若々しい肉体と精神をお持ちの草笛光子さん。「年齢なんて気にしたりしないわ」と公言してきたけれど、このところ、ちょっと変化があったのだそうです。
「あんまり大きな声では言えないんですけれど、春先に背中の骨を折ったんです。胸椎第11番の圧迫骨折。何だか痛いなと思ってハリやマッサージに行ったもののよくならないので病院で診てもらったら、『折れています』と。
すぐにコルセットを着け、3か月は安静にするよう、言われました。実はそのとき主演の舞台中でしたので、もうだめかな……と頭をかすめたのですが、結局、痛みを我慢して、共演者やスタッフには黙って舞台に出ました。公演の終盤には、さすがに白状しましたが」
ここ数年、何度かけがをしたり、体の調子を崩したことがあって、草笛さんはその都度、お医者さまから念を押されてきたことがあります。
「『草笛さんはどうしても外見が元気そうに見えるから、みなさんから元気ですねと言われるでしょうけれど、それをいい気になって聞いてちゃいけない』と。
体は80年以上生きてきて、しかも舞台でいろんな無理をして、以前と同じように丈夫であるはずがないんですよね。『だから体が悲鳴を上げたのだ。それをよく頭に入れて、激しく動くときは気をつけなさい!』と、きつく注意されちゃいました。
それに、舞台の上では孤独だから、自分と、この体一つが頼り。常に一生懸命です。身をていして演じ切ります。俳優とはそういうものだと思うし、これから先もそうしていきたい。
そんな自分のために、舞台が終わったら食べるものに気を付けたり、体を大事にしたり、お付き合いの仕方を見直したり、普段の過ごし方に少しブレーキをかけることを覚えました。
最近、草笛光子といえばトレーニング、というくらい、芸のことより筋トレや体のことを聞かれるのですが(笑)、今は骨折中に落ちた筋力を取り戻すのに、少々焦っています。
特に体幹(体の軸)ね。この年齢で一番怖いのは転ぶこと。転ばないためにも体幹はしっかり鍛え直さないと」
筋肉がつくと体が軽くなるし、食欲も湧くし、頭もさえるし、いいことずくめ、と草笛さん。何年も変わらず、毎日の一人ストレッチと、週に1回、腰に8kgの重りを巻いてスクワットをするなどの2時間筋トレは続けています。
「負荷を減らすどころか、トレーナーからは『もうちょっと重くしましょうか』と言われます。トレーニングは限界ぎりぎりのところまでやっておくと、いざ舞台に立つとき、余裕を持って臨めます。アスリートみたいでしょ。というかアスリートなの。
でも、自分を痛めつける前にちょっとブレーキをかけるのが、今の私流です」草笛光子さんの無理をしないためのブレーキ3か条
1. ほめ言葉に浮かれない
「お若い」「お元気」と言われても、体は80年も動いてきた年代物。いつどこががたついてもおかしくないことを自覚する。
2. 冠婚葬祭は無理して出ない
義理を欠くことをいとわない。そこで自分を抑えるようにして、大事な舞台や仕事で、自分を出し切ることに一生懸命になる。
3. 運動はむやみにがんばらない
体との向き合い方を変える。運動を漫然とやらないで、昨日の体との違いを意識して行う。そして、まず転ばないために体幹と筋肉を育てる。認知症の母を介護施設に入れたことを今も悔いています
草笛さんが2016年に全国を回った朗読劇「白い犬とワルツを」。物語は、もう会えないと思っていた愛する人に、再び会える互いのうれしさ。現実にはありえないけれど、“こんなことがあったらいいなあ”があるお話です。
「私の場合、2009年に92歳で亡くなった母を、今も近くに感じています。家にふと、けし粒ほどの黒い虫が飛んでいると、『あ、お母さんが帰ってきた』『お母さん、いるの?』と声をかけたりして、うれしくなります。
一緒に暮らしてきた母は、晩年、認知症を患って台所で鍋を焦がしたり、徘徊がひどくて廊下に柵をつけても出て行ってしまったりの状態でした。けれど、私が母のそばに寝て終始面倒を見ようと思っても、現実には仕事を辞められません。
世間にも、一人で親を見る方がいらっしゃるでしょう。大変なはずです。どうしたらいいのでしょうね……。私は苦渋の選択でしたが、弟と妹が決めた施設に預けることにしました。
母に会いに、たびたび施設へ行きました。和やかな時を過ごして、帰る時間になると、母は決まって一緒に帰ろうとするのです。エレベーターが閉まる間際まで、『光子ちゃん、私帰りたいのよ』と懇願しました。
帰りの車に揺られながら、母の顔と声が頭から離れず、これでいいのかと自問し、心が引き裂かれるようでした。今でもそのときのことを考えると、涙がこぼれます。
あのとき、連れて帰ればよかった、母の最期は家で迎えさせてあげたかった、臨終のときにいてあげたかった――。後悔しないように生きようと思っても、少しずつ、こうした後悔が残っています」
元気な頃は、親としてマネージャーとして、いつも草笛さんに的確なアドバイスをくれていたお母様でした。
「晩年も、数日だけ許され施設から帰宅し、二人で晩酌をしていたら、突然しゃんとした頭になって『何を気取ってるの。もっと思い切ってやりなさい、もっとできるはず』と私を叱ったことがありました。
そうした母の言葉の数々が、今も鮮明に私の中に残っているからでしょう、仏壇にその日の出来事や、うれしかったこと、悲しかったこと、迷っていることを話しかけると、母の言葉で答えが返ってくるのです。
普段は気配だけの母が、小さな黒い虫になって私のところに現れるように、愛する人を失ったら、どんな形でもいいから姿を見せてほしいと夢見ることは、誰にでもあるのではないでしょうか。その夢を、この舞台の物語に重ねて、叶えさせてあげられたら。そう思っています」
草笛光子さんのプロフィール
くさぶえ・みつこ 1933(昭和8)年、神奈川県生まれ。50年松竹歌劇団に入団。53年に映画デビュー。日本ミュージカル界の草分け的存在で「ラ・マンチャの男」「シカゴ」などの日本初演に参加。その演技が認められ、芸術祭賞、紀伊國屋演劇賞個人賞、毎日芸術賞など受賞多数。99年に紫綬褒章、2005年に旭日小綬章を受章。
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