下記は日経ウーマンオンラインからの借用(コピー)です
快活な母に異変が起き始めたのは昨年の夏のこと。長期入院で自分の内に深く潜り込んでしまった母に、意を決して父の死を伝えた日
遠く離れた実家で、父が孤独死していた――。東京でフリーランスエディターをしている如月サラさんはある日、予想もしなかった知らせを受けます。如月さんは50代独身、ひとりっ子。葬儀、実家の片付け、相続に母の遠距離介護など、ショックに立ち尽くす間もなく突如直面することになった現実をひとりで切り抜けていく日々をリアルにつづります。
入院中の母には、父の死を告げられずにいた
冬、遠く離れた故郷で父がひとりで死んでいたのが見つかって、慌てて帰省し葬儀と納骨を済ませ、大量に残っていたゴミを片付けた。葛藤の末、取り残された4匹の老猫を東京の狭い1LDKに引き取ることを決め、飛行機で連れ帰った。
まだ、金庫の中を確認したり、請求書や郵便物を見て各所に連絡をしたりという面倒な作業は山ほど残っていたが、すぐに済ませなければならないことはひとまず終わった。そのとき、心に大きく浮上してきたのが、母のことだ。
母は父が亡くなる半年前の夏に、熱中症で倒れて病院に運ばれたことをきっかけとして、レビー小体型認知症と老人性うつを発症していることが分かり、専門病院に入院していた。コロナ禍で長引く入院で誰も面会は許されず、どんどん自分の内側にこもるようになり、ものも食べず口も開かなくなっていった。
「お父様が亡くなられたことは、知らせないほうがいいでしょう」と主治医は言った。私もそう思った。アルツハイマー型ではないからか、もの忘れはほとんどなかったが、せん妄と呼ばれる妄想と、強い自責の念によるうつ状態がひどかったからだ。
快活だった80代の母が、友人の急死を境に沈みがちに
話は遡る。母(83歳)の様子がおかしいな、とはっきり思ったのは「手がしびれて震える」という電話がかかってきたときだった。夏真っ盛りを予感させる6月末のことだった。
年齢より若く見えてバリバリと元気なのが自慢だった母は、グラウンド・ゴルフが趣味で、長年、毎日のように出掛けていた。それにあまり行かなくなったと聞いたのだ。「疲れる」「気分が乗らない」と、誘いを断るようになったという。
そもそも母の気分が沈み始めたのは、近所に住む仲の良い茶飲み友達が急に亡くなったことに端を発する。穏やかで上品で物腰の柔らかい「Yのおばちゃん」は私も大好きな人で、帰省する度に母と遊びに行っていた。ある夜の風呂上がりに急に倒れ、そのまま帰らぬ人となったと聞いた。
「Yのおばちゃん」が亡くなってから目に見えるほどに落ち込んでいった母は、不安な気持ちを紛らわせるように、4人の実の姉妹たちに朝から夜まで順繰りに電話をしては長話を繰り返すようになっていった。
朝4時半の電話に、ただならぬ事態を確信
私にも母からの電話が次第に増えていき、朝も夜も関係なくかかってくるようになった。しかし、私もリモートとはいえ仕事をする身。毎回、相手をするわけにはいかない。母からの着信があっても無視することが増えていき、そのうち着信音がするだけで反射的に吐き気を催すようになった。かなりのストレスだったのだろう。
ある日、「はいはい、用がないなら切るからね」といつものように邪険に応じて電話を切ろうとしたのだが、そのときは少し様子が違う感じがした。
「手がしびれて震えるんだけど、お父さんがそんなことはないだろうと言って怒る。でもずっとしびれてる気がする。私の脳がおかしいのかも」
母親の「ガラケー」には鈴がつけられていたが、話している間中、チリチリチリチリと音を立てていた。本当に震えているのだ。私の背中にヒヤリとしたものが走った。もしかしたら、一大事になるかもしれない。そんな予感がした。
しばらくののち、決定的な電話がかかってきた。時間は朝の4時半。
「まだ私の頭がおかしくならないうちに言っておくけれど、これまでいいお母さんじゃなかったこと、ごめんね」
これはただごとではないと思った私は、急いで翌日の飛行機を予約した。緊急事態宣言こそ終わっていたものの、「東京の人間は決して他県に行くべからず」という空気が非常に強かった時期。誰ひとり告げることなく故郷へと向かった。
「私が世界中の人に迷惑をかけているみたい…」
空港から、バスとタクシーを乗り継いで実家へ。果たしてそこにいたのは、私の記憶とは全く違う母の姿だった。痩せこけて目が落ちくぼみ、辺りをうかがうようなおびえた顔つきをしたみすぼらしい老女だったのだ。このところほとんど飲むことも食べることもしていないという。
さらに、風呂にもほとんど入っていない様子で、いつ着替えをしたのかも分からず、手足の爪は伸び放題。足は棒きれのように細くなり、ほとんど歩くこともできない。これが父親の言う「僕の目から見ると何も変化がない」という母なのか……? あまりの変わりように衝撃を受ける私に、全身をブルブルと震わせながら、母はささやくように小さな声で私に言った。
「あのね、私がコロナのクラスターの中心だから、世界中の人に迷惑をかけているみたい」
やはり。母の電話の様子から、これはレビー小体型認知症ではないかと当たりをつけていた私は、小股でわずかな距離しか歩けず、妄言をひたすら繰り返すばかりの母を見て、そう確信した。
どうにかしなければと思いながらも、その日は地域包括支援センターに相談することしかできず、すぐに東京に帰らなければならなかった。しかし2日後に母は熱中症で倒れ、それをきっかけに認知症の専門医院に緊急入院することになった。「東京の人間が接触したら一切、診察をすることも入院することもできない」と言われ、私は実家に行くこともできなかった。
父の死を知らぬまま、「家族の日々」から遠ざかっていく母
それから約半年。母が不在の実家で、父はひとり死んでいった。状況が許さず、父は一度も母を見舞いに行くこともなかった。残された父のスマートフォンには、母の携帯電話に発信した履歴がいくつか残されていたが、つながった形跡はなかった。母は電話の取り方もかけ方も分からなくなり、携帯電話は病院に預けてあったからだ。
父に、体調が悪いならちゃんと病院に行くように、緊急事態だと感じたら救急車を呼ぶようにと伝えたことがあるが、「僕が入院でもしたら誰もいなくなるこの家はどうなるの? 猫の面倒は誰が見るの?」と固辞した。母が元気でいればまだ死んでいなかったのかもしれない。
暑い夏の日、不意に別々になり、一度も会話することなく彼の世に行ってしまった父のことを、母にどう伝えればいいのか私には分からなかった。
母が元気な頃から実家の庭にやってくる野良猫
もちろん私も一度も会うことができなかった。電話をかけてもオンライン面会をしても、自分の内に深く潜り込んでしまった母との意思疎通は、だんだん難しくなっていくようだった。
こんなに長い間、自宅に帰れないとは思いもしなかっただろう。10カ月の入院生活で、いつもそれなりに染めて整えられていた母の髪は真っ白く伸び放題になり、かつて快活に笑っていた顔からは表情が消えた。
なぜだか、母は入院してから一度も父のことを聞かなかった。あんなにかわいがっていた4匹の猫たちのことも聞かなかった。まるで家族で暮らした日々を忘れたかのようだった。たまに面会に行く母の姉妹たちに、「娘の頃のように、またみんなで一緒に暮らせたらいいのにね」と言ったと聞いた。そこには父の姿も私の姿もなかった。
遺影を前にした母は、かすれる声でつぶやいた
父の死後、ひとりで暮らすのは難しいだろうと判断し、実家の近くの高齢者施設を探していたところ、希望する場所に空きが出たと連絡があった。病院からも退院の許可が出た。ウイルスを持ち込む可能性が高いからと東京の人間を忌避する田舎の雰囲気の中で、施設から、移動の日のみ母との随伴が認められ、私は久しぶりに飛行機に乗った。
大雨・洪水警報が出され、激しい雨の降る中。施設に移動する前に、一度、家を見せたかった。前日に帰り、念入りに庭の草むしりをして、部屋中に掃除機をかけておいた。病院から遠回りして実家に寄り、母が1日のほとんどの時間を過ごしていた居間に手を引いていった。懐かしそうにゆっくりと辺りを見回す母に、意を決して私は伝えた。
「ママ、お父さん、死んだよ」
母は息を止めたようだった。雨の音が強くなった。遺影に手を合わせるかと聞くとうなずいたので、奥の和室に連れていった。若い笑顔の父の写真を見ると、それまでずっと黙っていた母は、かすれる声を出した。
「ごめんねえ、お父さん」
その言葉が、何に向けられたものか私には分からない。自分の不在中に死ななければならなかったことへなのか、諍(いさか)いを続けてきた年月に対してなのか、共に歩まなければならなかった運命に向かってなのか。
母が語る日はおそらく来ないだろう。でもきっと、それでいいのだろう。
居間が、長年の母のお気に入りの場所だった
如月サラ
きさらぎさら
フリーランスエディター、文筆家
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