下記の記事は日経ARIAからの借用(コピー)です
「お父さんがベッドの脇の床に倒れている」
今年の1月半ばに、独り暮らしだった父(84)が遠く離れた実家の自室で倒れて亡くなっているのが見つかった。死後1週間たっていた。
父が独り暮らしになったのは、昨年の夏に母(82)が熱中症で倒れたことをきっかけに長期入院してからだ。母のことばかりに気を取られて、父はなんとかやっているものだと思っていた。思うようにしていた。
父と私の意思疎通は、月に1回の、母の入院費の支払額を連絡するときだけだった。病院からの請求書は私が東京で受け取り、支払いは父にお願いしていたのだ。
母の入院に納得していなかった父と言い合いになるので、私は電話を次第にかけなくなった。誕生日にも。お正月にも。
そして1月の半ば。今月の入院費を連絡しようと何度か電話をかけたが、出ない。嫌な予感がした。
実家の鍵を預けてある叔母に電話をして、様子を見に行ってくれないかと頼んだ。東京の自宅で仕事をしながら不安が募っていった。16時頃、叔母から電話がかかってきた。
「お父さんがベッドの脇の床に倒れている」
「倒れて苦しんでいるんですか、もう死んでいるんですか」
叔母は「うーん……」と言った。
生きていれば119番。死んでいれば110番。その知識はあった。
「ああ……死んでいるんですね、110番してください」
そう言うのが精いっぱいだった。
翌日飛行機で故郷へ、まず向かったのは警察
羽田から故郷への最終便は19時頃。今から準備すれば間に合うかもしれない。しかし私の東京の家には2匹の猫がいる。この帰省は1週間近くかかるだろう。その間、猫をどうしよう。
そんなことを考えながらグルグルグルグルと狭い部屋の中を歩き回った。何から手を着ければいいか分からなかった。
そのうち、警察から「これからしばらくののち、事情聴取のお電話をします。明日の朝にご遺体の解剖をしますので、明日来てくだされば大丈夫です」と電話がかかってきた。明日の朝一番の羽田からの便を予約し、とにかくまずは猫を預けておこうとペットホテルに連れていった。
若い警官は、ご遺体、と言った。
父は、遺体になってしまったのだ。
遠い知らない世界の話を聞いているようだった
事情聴取は1時間以上に及んだ。最後に会った日、最後に電話をした日、父の病歴、預金額など事細かに聞かれたが、私はほとんど何も知らなかった。父は私にとっては父だったから。それ以外のことなど、知らなくても良かったのだ。これまでは。
警察によると、郵便受けに1週間前からの新聞がたまっていたので、亡くなったのはその頃だろうということだった。洋服がベッド脇に置かれ下着姿だったこと、他の部屋の電気はすべて消えており自室の電気とエアコンだけがついていたことから、就寝しようとして倒れ、そのまま事切れたのではないかということだった。
「当地でもこの冬で一番寒い夜でした」と若い警官は言った。
そうだろう。私もその夜は寒かった。東京も寒かった。覚えている。
翌朝、空港から警察署に直接行くと、現場検証の写真を見せられた。
このように倒れておられました。このようなお顔でした。部屋の様子はこうでした。バッグにはこんなものが入っていました。現金はこれだけお持ちでした。預金通帳の内容はこうです。携帯電話の発信記録はこうです。
……なんだか遠い知らない世界の話を聞いているようだった。
死んでいた父の手足は、棒きれのようだった。最終的に体重は38キロだったと本人がレシートの裏に書いていた。
「今まで一生懸命に生きてこられたのでしょう」と年配の警官が言った。
ご遺体を確認していただけますか。そう言われ、安置室に向かう。既に葬儀屋さんによってきれいにされ、お棺に入れられた安らかな父の顔を見て初めて、お別れが来たのだと分かった。
「お父さん、今までよくがんばったね」
それしか言えなかった。涙は出なかった。
父が日中ほとんどの時間を過ごしていた場所から見える風景
慌ただしく過ぎていった2日間でつらかったこと
葬儀場には内金が入れられ、納骨堂も購入してあった。僕たちが死んだらここに連絡してここにお骨を入れるように、とあらかじめ聞いていたけれど、まさかそんな日が急に来るとは思ってもいなかった。
葬儀、火葬、納骨と2日間は慌ただしかった。コロナ禍でありながらもごく少数の親戚が来てくれて、父の若い頃の思い出話を聞き、心慰められた。
でも、この悲しみや不安を、同時進行で一緒に受け止めてくれる人がいないことがつらかった。ひとりっ子で遠距離でバツイチ独り暮らしでパートナーも子どももいないというのは、こういうことなのだ。
急に襲ってきた重荷や不安に耐えきれず、多くの友人たちにメッセージをしたり電話をもらったりした。とてもありがたいと思った。でも中には、私の話が重すぎて負担になった人もいただろう。申し訳ないと思う。
もっとも耐えがたい気持ちは、父を孤独死させてしまったという自責の念だった。なぜ、あまり連絡をしなかったのか。なぜ、母にばかり気を取られて痩せ細っていく父のことを気遣ってやれなかったか。何度も何度もそう考えた。
しかし、父自身が、誰にも黙って死んでいくことを選んだのではないかとだんだん思えるようになってきた。カッコつけたがりの人だったから、誰の世話にもなりたくなかったのだろう。最後まで自分の力で生きると決めていたのだろう。
父がいつも肌身離さず持っていたバッグの中を全部改めさせてもらった。底には、私の幼い頃の写真が1枚、入っていた。
セーフティーネットは機能しなかった
残された領収書を見ると、大みそかまで近所に買い物に行っている形跡があった。2021年のカレンダーがいくつか買ってあり、家のあちこちにぶら下げてあったけれど、表紙がめくられていなかった。
年賀状を15枚買ってあったけれど、なくなっていたのは2枚だけだった。いつも私にも年賀状をくれるのに、今年は来ないなと思っていた。
なめるように新聞を読み赤線を引き、抜き書きするのが好きだったのに、取り込んだ1週間分くらいは読まずに積み上げてあった。読む気力が残されていなかったのだろう。
新聞といえば、この地元の新聞社は「○○販売センター県内○店のネットワークは、独り暮らしの高齢者や子どもたちが安心して地域で生活できるよう活動する『○○見守り応援隊』として、県、県警、県社会福祉協議会、県民生委員児童委員協議会と協定を結んでいます」と言っている。そのセーフティーネットは機能しなかったんだな、と思った。
実家にひとりでいるのが怖くなった
怒濤(どとう)の2日間が過ぎると、誰もいない実家にいるのが怖くなった。
父も母もいない一軒家。学生時代を過ごした部屋にいると、コーヒーが入ったよ、と父がひょっこり現れるような気がした。怖かったのは両親の不在ではない。誰かがどこかから入ってきたら私はひとたまりもない、ということだった。東京でマンションに住んでいるときには感じたことのない恐怖。闇が襲いかかってくるようだった。
これから無人になる実家の防犯についても考えなくてはならない。家の名義も変えなくてはならない。父の年金を止めて母の遺族年金をもらう手続きをしなくてはならない。携帯電話をはじめ、契約していたであろうさまざまなサービスを止めなくてはならない。車を廃車しなくてはならない。保険はどうなっているんだろう。
明日からやらなくてはならない膨大な事務作業のことを思うと、恐怖に加えて気が遠くなった。
3人だった家族が、近い将来には私だけになる
そんな日々でもおなかはすくし、シャンプーやリンスも切れる。実家の近所にはイオンタウンがあり、田舎のどこにでもある風景が広がっている。夕暮れに買い物をしながら巨大なモールを歩いていると、じんわりとさびしさが胸に広がってきた。
私はひとりっ子だ。閉経してしまったから、これから子どもを持つことはできない。3人いた家族がひとり欠けて、たぶん近い将来には私だけになる。我が家はこれで絶えてしまうのだ。これがその始まりなんだ。
家族3人という状態がずっと続くとはもちろん思っていなかったけれど、実際に起こってみるまで、この底の抜けたような不安や恐怖や悲しさが襲ってくることは想像できなかった。
この寄る辺ない気持ちをどうしていいか分からなかった。暗い、誰もいない実家で私はその夜、父が死んでから初めて号泣した。
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