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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-3 大和朝廷の百済・任那救援
高句麗の侵攻から百済、任那を守るべく、大和朝廷は大軍を送り込んだ。
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■1.「大和朝廷の軍勢は百済を助けて、高句麗とはげしく戦った」
中国と北朝鮮の国境をなす鴨緑江の北岸に、巨大な石碑が建っている。自由社版の歴史教科書は、その写真を載せ、次のような説明文をつけている。
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高句麗の広開土王(好太王)碑 高さ6.4m。この碑文に391年、朝鮮半島に出兵した大和朝廷が、高句麗と戦ったことがしるされている。[1,p60]
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本文には、当時の情勢をこう説明している。
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そんな中(JOG注: 中国が内乱のために影響力が弱まった)、朝鮮半島北部の高句麗が強大になり、4世紀初めに、朝鮮半島にあった中国領土の楽浪郡を攻め滅ぼし、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。
百済は大和朝廷に助けを求めた。大和朝廷は、もともと、貴重な鉄の資源の供給地である半島南部と深い交流をもっていたので、海をわたって朝鮮に出兵した。このころから、半島南部の任那(みまな、加羅(から))に影響力をもったと考えられる。
大和朝廷の軍勢は、百済を助けて、高句麗とはげしく戦った。高句麗の広開土王(好太王)の碑文には、そのことが記されている。高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落としたが、百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった。[1,p60]
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369年に百済王が倭王(日本書紀では神功皇后)に送った七枝刀(ななさやのたち)が、石上神宮に所蔵されている。長さ74.9センチで、左右にそれぞれ3つの枝がでて、剣先と合わせて7つの枝がでているという意味だ。高句麗との戦いに備えて、百済が大和朝廷に助けを求めた際の献上品である。
ちょうど、朝鮮戦争で北朝鮮が韓国に攻め込んだのに対し、国連軍が参戦して侵略を阻止したのとよく似た戦争が、西暦400年前後に起きたのである。
■2.倭国は東アジアの大国だった
東京書籍版は、広開土王(好太王)碑については、注で以下のように記している。
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高句麗の好太王(広開土王)の功績をたたえる石碑には、好太王がしばしば倭の軍を破ったことが記されています。[2,p26]
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石碑そのものが好太王の功績を称えるためのものだから、「しばしば倭の軍を破った」と誇るのは当然である。東書版が北朝鮮の歴史教科書で、かの国の祖先であろう高句麗の視点から書くなら、これでも良い。
しかし、わが国の歴史から見れば、5世紀初頭の大和朝廷が朝鮮半島に大軍を送りこむほどの軍事力、経済力を備えていたという歴史事実の方が重要であって、個々の戦闘でしばしば負けたとしても、さしたる重要事ではない。
この100年ほど前に書かれた「魏志倭人伝」では、東アジアで君主国として機能しているのは、高句麗と倭のみで、半島中南部は70余国に分立している後進地域であったと書かれている。さらに高句麗は人口15万人ほどに過ぎず、倭国はすでに100万人規模の大国であったという[a]。
西暦391年に大和朝廷が激しく高句麗と戦った時期の天皇は、第15代応神天皇であった。応神天皇陵は全長418メートルあり、次代の仁徳天皇陵全長485メートルに次ぐ最大級の古墳である。
仁徳天皇陵の建造は、1日2千人が働いたとしても約16年かかるほどの大土木工事で、そんな巨大古墳を二代続けて建造できるほどに、当時の大和朝廷の国力は充実していたのである。[b]
■3.百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)、、、
この戦いの背景について、東書版の本文では、中国の南北朝への分裂を記述した後に、こう説明している。
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いっぽう朝鮮半島では、高句麗(コグリョ、こうくり)と、4世紀におこった百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)の三国が、たがいに勢力を争っていました。大和政権は、百済や、小国が分立していた加羅(カラ、から、(任那(イムナ、みまな)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦いました。[2,p32]
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記述内容の比較に入る前に、まずふりがなに言いがかりをつけておく。コグリョ、ペクチェ、シルラなどという韓国語読みが、なぜ日本の、それも中学の教科書に必要なのか、という点である。
そもそも地名や人名の呼び方は、各国語さまざまで良いというのが国際常識である。たとえば、フランスの「パリ」は、英語では「Paris, パリス」、ドイツ語では「Paris, パリース」、イタリア語にいたっては「Parigi, パリージ」などと、隣接国でも勝手に呼んでいる。
フランス人が英語で話す時は「Paris, パリス」と言うのが常識である。逆にフランスの首都なのだから、イギリスの教科書にも「パリ」と書けと要求したら、非常識な中華思想の持ち主と軽蔑されてしまう。
まして義務教育である中学の歴史教科書とは、各国民が持つべき歴史常識を次世代の子供たちに伝えるためのものである。日本語では百済は「くだら」であり、「ペクチェ」などと言う日本人はいないのだから、ふりがなは「くだら」で十分である。
このシリーズで何度も述べてきたように、東書版では随所に半島寄りのアンバランスな視点が見られる。よほど愛国的な半島出身の執筆陣が書いていると邪推しているが、それならそもそも韓国語で、韓国か北朝鮮の歴史教科書を書いたらどうか。
■4.正反対の歴史観
次いで本文の比較をしてみよう。
自由社版では、高句麗が南進し、百済が助けを求めたので、大和朝廷が出兵した、という経緯が記されている。さらに、「高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落としたが、百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった」と結果を記している。
大和朝廷が参戦したのは、百済の救援のためであり、それによって百済は独立を守れたのだから、戦争目的は達成できた、ということになる。
東書版に描かれた光景はまったく異なる。高句麗と百済、新羅の勢力争いに、大和政権が百済、任那と同盟して参戦した、と描かれている。これでは単に、朝鮮半島での勢力争いに加わったというだけである。
さらに、その戦いで、高句麗がしばしば勝ったという。これでは、豊臣秀吉のはるか以前から日本は朝鮮半島を侵略しようとしていたが、高句麗の強兵に阻まれた、という言い方でもできよう。
歴史観の違いとはこういう事である。この二つの中学歴史教科書はまさに正反対の歴史観を唱えているわけである。
■5.半島南部は大和朝廷の勢力圏
もう一つ、自由社版にあって、東書版にないのが、任那と大和朝廷との関係である。自由社版では「大和朝廷は、もともと、貴重な鉄の資源の供給地である半島南部と深い交流をもっていた」「このころから、半島南部の任那(みまな、加羅(から))に影響力をもったと考えられる」と、記している。
この100年ほど前にかかれた『魏書』では「「魏志倭人伝」と並んで「韓伝」「高句麗伝」など、半島の情勢も伝えているが、そこには半島南端部は「倭」の領土である、という認識が示されている。そして半島南東部では倭人が鉄の採取を行っていた、という記事がる。[a]
考古学的に見ても、半島西南端の栄山江地域には、5~6世紀に築造された日本独特の前方後円墳が10数基も築造されている[a]
同時に日本列島からもたらされた遺物、列島からやってきた人物が現地で製作したと思われる遺物が半島南部から少なからず出土している。任那の地には倭人が集団で移住していたのである[3,p23]。
百済、新羅との関係においても、両国から王族などが人質として大和朝廷に送られた。ただし、これは純粋な人質というよりも、次代の王族を「親日派」として育てようという狙いもあったようで、405年に百済で王が没すると王位継承争いが起こり、大和朝廷は人質として来ていた王子を送還して、その即位を支援している。[3,p45]
こうして見ると、大和朝廷は任那をほぼ直轄領土として治めており、さらにその北側の百済、新羅を服属国として勢力圏内においていた、と言ってもよさそうである。そこに高句麗が攻め込んできたら、大軍を送って防衛するのは宗主国の当然の努めである。
こうした史実から見ると、自由社版の「深い交流」「影響力」という表現は控えめながらも妥当であり、東書版のあたかも対等な同盟のような書きぶりは、史実にそぐわないと言える。
■6.南朝への上表文
高句麗を牽制するために、大和朝廷が打ったもう一つの手は、中国の南朝宋と結ぶことだった。自由社版はこう説明する。
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南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、次々に使者を送ったことや、大和朝廷の支配が広がっていくようすが書かれていた。大和朝廷が南朝に朝貢したのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部への軍事的影響力を維持するためだった。[1,p61]
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さらに倭王武(第21代・雄略天皇)が送った次のような上表文が引用されている。
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昔からわが祖先はみずからよろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川をわたって落ち着くひまもありませんでした。東は毛人(1)を55か国、西は衆夷(2)を66カ国、海をわたって北の95カ国(3)を平定しました。(「宋書倭国伝」より)
(1)東北地方の人々のことか。(2)九州地方の人々のことか。(3)朝鮮半島のことか。
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東北地方や九州地方を平定したとは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語を思い起こさせる[c]。雄略天皇の治世は456年から479年であるが、大和朝廷が高句麗と激しく戦った391年は、その曾祖父・第15代応神天皇の時代であった。
その応神天皇の母親が三韓征伐の神功皇后であり、祖父にあたるのが日本武尊である。こうしてみると、大和朝廷は代々、国内および朝鮮半島の平定のために務めてきたわけで、「よろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川をわたって落ち着くひまもありませんでした」というのも、実感の籠もった言葉である。
東書版でも、この上表文は引用されているが、「海をわたって95国を平定しました」という部分については、自由社版のような「朝鮮半島のことか」という注釈はない。海をわたったら朝鮮半島だというのは言わずもがなのことだからか、あるいは大和朝廷が半島に勢力を広げていた事実を少しでも隠したいのか、、、
■7.中国の冊封体制には従わない、という外交方針
倭王武の上表文の目的は、高句麗に対抗すべく、国内および高句麗を除く朝鮮半島全域での軍政権を宋に認めさせることであった。上表文の冒頭で、東北、九州、朝鮮半島での平定の歴史を訴えているのは、そのためである。
しかし、南朝の宋は北魏と対立中であり、南北両朝に両属外交を展開していた高句麗を敵に回すわけにはいかなかった。そのため、倭王の要請は聞き入れられなかった。
そして、これを最後に、大和朝廷から中国へ遣いを送ることはなくなった。望みを聞いて貰えない以上、つきあっても意味はない、という事であろう。
中国の王朝から、周辺国の王が位を授けられ、領土の支配を認められることを冊封と呼ぶ。わが国の君主で、冊封を受けたのは、卑弥呼と、この倭王武を含めた倭の五王のみである。[3,p83]
卑弥呼は、魏と高句麗との対立が激化したタイミングを見計らって遣いを送り、高句麗を共通の敵として、魏との一種の同盟関係を結んだ[d]。倭の五王も、高句麗との対決のために宋と同盟関係を作ろうとしたが、中国が南北朝に分裂していたので実現しなかった。
こう見ると、中国王朝の冊封体制とは、わが国にとっては、利用価値のある時だけ、それに従ったという外交手段に過ぎないと言えよう。
倭王武で途絶えた外交関係の途絶は、隋が中国大陸を統一し、それに対して聖徳太子が遣隋使を送るまで120年余も続く。そして、太子は隋に対して、あくまで対等な立場で国書を送っているのである。それでも隋は高句麗との対決上、使者を丁重に扱っている。
雄略天皇は、この上表文を最後に、中国王朝との断交を決意したようだ。この時期に、国内では「治天下大王」という称号が用いられ始める[3,p79]。これは中国の皇帝を世界の中心とする中華思想からの離脱であって、以後、中国の冊封体制には従わない、というのが、大和朝廷の外交方針として定着していくのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(685) 倭国は東アジアの大国だった。
中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。
http://blog.jog-net.jp/201102/article_1.html
b. JOG(766) 歴史教科書読み比べ(5) ~ 古墳はなぜ作られたのか?
その規模と数で世界史的にも特筆すべき日本の古墳が作られた理由は何か。
http://blog.jog-net.jp/201209/article_4.html
c. JOG(584) 日本武尊 ~「安国(やすくに)」への道
日本武尊は大君から「服(まつろ)わぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せ」と命ぜられた。
http://bit.ly/ZHTBGE
d. JOG(759) 歴史教科書読み比べ(4):邪馬台国の戦略外交
「魏志倭人伝」から、朝貢外交を学ぶか、戦略外交を学ぶか。
http://blog.jog-net.jp/201207/article_7.html
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1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
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2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
3. 熊谷公男『大王から天皇へ 日本の歴史03』★★★、 (講談社学術文庫) 、H10
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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-2 倭国は東アジアの大国だった
中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。
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■1.古代中国の見た朝鮮半島
古代史の研究にはかならず出てくる「魏志倭人伝」は、西暦280年から290年頃に編纂された『三国志』のうちの『魏書』の一部であるが、この書は我が国のみならず、「韓伝」「高句麗伝」など、東アジア各地の地理、歴史、国情を伝えている。たとえば:
__________
「高句麗伝」
国の広さはほぼ2千里四方で、戸数は3万戸である。人々の性格は凶悪性急で、さかんに他国を侵攻し、財物を盗む。
「韓伝」
韓は帯方(JOG注: 朝鮮半島の中西部)の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している。・・・
馬韓(JOG注: 韓の3つの地域の一つ)は、月支国など全部で50余国。・・・馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥がいるが村落が整備されず入り乱れているためよく統治することができない。北部の帯方郡に近い諸国は礼俗をわきまえているが、遠い地域では全く囚人や奴卑のようで礼俗は備えていない。
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一方で、『魏書』は我が国に対しては「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬をしない、盗みがなく、訴訟も少ない」などとやけに好意的である。中国が手を焼いていた隣接地域と比較して、友好的な外交関係を結んでいた倭国への「えこひいき」もあるかと思う。
■2.東アジアの大国・倭国
「凶悪性急」などという主観的な評価は別にして、これら「倭人伝」「高句麗伝」「韓伝」などをもとに、当時の東アジアの国勢調査という形でまとめたものが、大平裕氏の『日本古代史 正解』に出てくる。それによると:
1)君主国として機能しているのは高句麗と倭のみで、半島中南部の三韓の地は村落共同体が首長をいだいているといった後進地域であること。人口こそ、合計14万5千戸と多いが、70余ヶ国に分立している。
2)君主国としてまとまっていた高句麗(現在の満洲から北朝鮮を占める)は、人口わずか3万戸。一戸平均5人とすると、15万人に過ぎない。
3)倭国は人口15万戸。邪馬台国に従わない周辺国家を含めると、20万戸を超える。人口にして100万人規模である。
こうして見れば、国家としての統合度、および人口規模において、当時の東アジアで倭国がずば抜けた大国であった事が分かる。
その大国ぶりは、魏の厚遇ぶりにも現れている。邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」の称号を与えられているが、これは229年の大月氏国に与えられた「親魏大月氏王」と同格で、外臣に与える称号としては最高のものであった。遣使の二人にまで銀印青綬が与えられ、さらに銅鏡100枚をはじめ高価な品々を贈った。
倭国の使節がやってきたのは、魏が、それまで遼東半島を押さえていた公孫氏を滅ぼした翌年である。政情さだまらぬ朝鮮半島を抑える上で、大国・倭を心強い味方と歓迎したのだろう。
■3.朝鮮半島南部に倭国の領土があった
もう一つ「韓伝」から分かることは、朝鮮半島南部に倭の領土があった、ということである。「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」との表現から、この事が窺える。
倭との間で海を挟んでいたら、東西のみならず、南も「海をもって境界とし」という表現になっていたはずだ。「接している」とは、地続きだ、という意味である。
三韓の一つ、半島南東部で日本海に面していた「弁辰」(後の新羅の地を含む)は12ヶ国からなり、そのうちの一つ「涜廬」に関しても、再度「倭と接している」という記述がある。
さらに、「弁辰の国々からは鉄を産出する。韓・わい(「さんずい」に「歳」)・倭が、鉄を採取している」とあり、倭人が鉄の採掘まで行っていた事が窺われる。
また、魏志倭人伝の中で、有名な邪馬台国までの行程を表現した部分で、帯方郡から海岸沿いに南へ下り、さらに東へ行くと、「其の北岸の狗邪韓國(くやかんこく)に至る」という一節がある。韓半島の南端を、「其の北岸」と言っているのは、「倭国の北岸」という意味にとるのが、一般的な解釈である。
■4.新羅の4代目王は倭人
朝鮮最古の史書『三国史記』は、新羅、高句麗、百済の歴史を述べており、高麗王朝(918-1392)がそれまでの古史書をまとめて、1145年に完成させた。我が国で言えばその400年以上前に編纂された『日本書紀』にあたる。
その「新羅本紀」の4代目王・脱解王初年(西暦57年)の条には、こう記されている。
__________
脱解はそもそも多婆那(たばな)国の生まれだ。その国は倭国の東北1千里にある。[2,p23]
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倭国の中心が近畿地方にあったとすれば、その東北1千里(400キロ強)という多婆那国は新潟県あたりとなる。脱解は多婆那国の王妃から卵で生まれたという奇怪な伝説があり、それで海に流され、辰韓の海岸に流れ着いたという。「新羅本紀」では初代王も卵から生まれたという伝説があるので、おそらく王を継ぐにふさわしい人物だという権威付けであろう。
2代目王は脱解が賢者であることを知り、自らの長女を嫁がせ、さらに最高官職である大輔(総理大臣兼軍司令官)に任じた。その後、14年間も大輔として活躍し、3代目の王は自身に息子が二人いたにも関わらず、脱解を4代目王に推挙した。
脱解は王位につくと、翌年には瓠公(ホゴン)を大輔に任命する。瓠公も倭人で、瓠(ひょうたん)を腰に下げて、海を渡ってやってきたので、瓠公と称される。なにやら浦島太郎を連想させる。
いずれにせよ、新羅は4代目王も総理大臣も日本人だった。その後、5~8代目は3代目王の血筋に戻るが、13代目を除いて9~16代目は脱解の子孫が続いている。これが「新羅本紀」の記録なのである。
そしてこの記録をまとめた高麗王朝は、「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」と自らを位置づけている。[2,p15]
■5.新羅も百済も倭国を敬仰していた
倭人が王となった事を堂々と書く「新羅本紀」には、現代の韓国人が「朝鮮が先進文明を日本にもたらした」と主張するような尊大な姿勢はまるで感じられない。
7世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』には、こんな一節がある。[2,p13]
__________
新羅も百済も○国(倭国)を大国とみている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も○国を敬仰し、常に使節が往来している。
(○:人偏に「妥」、『隋書』では倭国をこう表記した。)
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先に、「弁辰」(後の新羅の地を含む)で、倭人が鉄を採掘している、という『韓伝』の記事を紹介したが、考古学の世界では、半島では3世紀になっても刀剣は鋳鉄だったが、日本列島では進んだ鍛造品が作られていたことが、明らかになっている。[2,p48]
鋳鉄は、溶解させた鉄を型に流し込んで作るが、伸びが無く、堅くて脆い。鍛造は鉄を叩いて成形する際に、金属内部の空隙をつぶし強度を高める。後の日本刀の工法である。
また日本独特の墓制である前方後円墳は3世紀頃から作り始められているが、半島西南端の栄山江地域には、5~6世紀に築造された10数基の前方後円墳が見つかっている。この頃の半島南端部には、100メートル近い墓を作る倭人の強力な勢力があった。[2,p79]
こうした考古学上の発見と合わせて考えると、半島南端部は倭人が勢力を張り、また新羅地域にも倭人が住んで、鉄の採掘などをしていた。進んだ技術で「敬仰」されていた倭人の一人が王位を継承したことを、新羅や高麗の人々は自然に受け止めていたのであろう。
■6.倭国の進攻
しかし倭人が王となった新羅に対しても、倭国はたびたび進攻を試みている。『新羅本紀』によれば、紀元前50年、第一代王の時に「倭人が出兵し、辺境を侵そうとしたが云々」が最初である。
倭人の4代王・脱解の治世では、西暦59年「夏5月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した」と、倭人同士のよしみか、一度は友好関係を結ぶが、西暦73年には「倭人が木出島(蔚山市)に侵入、王は角干羽烏(かくかんうう)を派遣したが敗退、羽烏は戦死した」とある。
このような記述で、紀元前50年から364年の400年間に、12回もの侵攻があったと『新羅本紀』は述べている。
この364年の侵攻が、『古事記』『日本書紀』に伝えられる「神功皇后の三韓征伐」だというのが、[1]の著者・大平裕氏の見解である。氏は、神功皇后が当時の半島情勢の中で果たした役割について、こう述べている。
__________
(神功皇后は)・・・大和朝廷の偉大な皇后であり、朝鮮半島では、倭国の権益圏内にあった伽那、加羅地方の宗主国として新興の新羅と戦い、半島中部に進出して高句麗の南下に備え、百済の支援を精力的におしすすめた人物なのです。
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当時の朝鮮半島は、新羅、高句麗、百済、そして倭国領土と、あたかも今日のバルカン半島の如くに錯綜・拮抗していた。この地域が新羅か高句麗に統一されてしまうと、我が国は半島南部の権益を失うだけでなく、日本列島そのものにも危機が及ぶ。
地政学的に言えば、朝鮮半島は我が国につきつけられたハンマーであり、それが敵対する強国に握られることは、日本にとって安全保障上、最大の問題であった。日清戦争、日露戦争、そしてアメリカが戦った朝鮮戦争も、すべてここに起因している。したがって、百済をバックアップして、新羅や高句麗から守ろうするのは、理に適った戦略なのである。[a]
■7.神功皇后の新羅征討
大平氏は、神功皇后の新羅征討を次のように、簡潔に記述している。
__________
仲哀天皇の崩御後、神功皇后は臨月にもかかわらず神功皇后元年(362年)、対馬より水軍を進め、新羅の地に上陸して王都まで兵を進出させました。
新羅王はほとんど抵抗することなく降伏、自ら首に白い組みひもをかけ手を後ろでに縛り、土地の図面と人民の籍を封印して皇后に奉じ、「今から以後、天地とともに長く、(降)伏して(馬)飼部(かいべ)となります。・・・また海(路の)遠いのをものともせず、年毎に男女の調(みつぎ)を貢上しましょう」と申し出ています。
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一方『新羅本紀』には、次のように記されている。
__________
9年(364年)夏4月、倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて(倭軍の勢力に)対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて吐岩山の麓にならべ、勇士1千人を斧けん(山へんに「見」)の東の野原に伏せておおいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをしかけた。倭軍が大敗して逃亡したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。[1,p185]
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紀年に2年の食い違いがあり、また勝敗の記述も異なるが、共通しているのは新羅が正面からの抵抗を諦めざるをえないほどの圧倒的な大軍を倭国が送ってきたことである。
最近、韓国教員大学の研究者たちによって、倭軍が新羅の東海岸から上陸したという研究成果が公にされている。神功皇后の実在を疑う向きもまだまだ多いが、その問題とは別に、当時の日本が、多くの軍船で大軍を半島に送りうる、まさに「東アジアの大国」であったことは、両国の史書を見ても動かない事実である。
■8.建国記念の日に
『古事記』『日本書紀』は7世紀前半に、朝廷の統治を正当化するために創作された物語、と主張したのは、大正年間、今から100年近くも前に研究を行っていた津田左右吉である。そしてこの見方が、戦後の自虐史観に利用されて歴史学研究を拘束し、今も初代・神武天皇[b]からここで述べた神功皇后まで十数代の天皇、皇后の実在が否定されている。
しかし『古事記』『日本書紀』を否定するばかりで、それではどのように我が国が建国されたのか、その史実を探究しないのであれば、それは歴史学の名に値しない。
その一方で、『古事記』『日本書紀』と中国、朝鮮の史書の比較研究、さらには考古学的研究が進み、古代の我が国の姿がおぼろげながら明らかになりつつある。
本編では、そのごく一部を紹介したが、歴史学がイデオロギー的制約から解放され、真の学問的研究成果によって国民が先人たちの歩みに想いを馳せる、そんな「建国記念の日」が待ち遠しい。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(468) 日出づる国の防衛戦略
平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog468.html
b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 大平裕『日本古代史 正解』★★★、講談社、H11
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062152371/japanontheg01-22/
2. 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』★★、新潮新書、H12
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4106103605/japanontheg01-22/
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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-5 日韓の架け橋・李方子妃
日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母へ。
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■1.毅然たる覚悟■
大正5(1916)年8月3日朝、大磯の別邸で夏を過ごしていた梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃は、いつものように新聞を拡げると「あっ」と声をあげて、両手をわなわなと震わせた。
「李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約」
という大見出しとともに、まぎれもなく自分の袴姿の写真が掲載されている。隣には、李王世子、すなわち大韓帝国皇太子・垠(ウン)殿下の写真が並んでいる。
東京に帰った方子妃は、父守正王から正式に婚約を告げられ、次のようにきっぱりと答えた。
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よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両親様のお考えのように努力してみます。
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母・伊都子妃は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉もなくただ涙された。この時から日韓の狭間で波乱の人生が始まるのだが、方子妃はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の架け橋としての役目を果たし続ける。
2学期が始まると、学習院では「皇太子妃におなりになる。でも朝鮮のお方がお相手ではね」と学友達はささやきあっていた。そこに方子妃が髪を中心から分けて結う韓国式の髪型で、昂然と胸を張って登校してきた。みなはその覚悟の見事さに感心した。
■2.韓国併合■
皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こしていただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。
大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱いをした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられ、よく御所に召されて、贈り物を与えられた。
太子大師(皇太子の主任教師)に任命されていた伊藤博文が、「垠のためにならないから」と断っても、両陛下はやめられなかった。伊藤自身も孫のように垠を慈しみ、安重根に暗殺された後、垠はよく「伊藤公が生きておられたら」と語っていた。
明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。
後の首相・原敬は「今日決行するの必要ありや否や疑はし」と評し、小説家・有島武郎は「この日、朝鮮民族の心情やいかんと涙する」と記している。
■3.旧朝鮮王妃としての責任■
併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家などはわずか3万8千円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150万坪を越す土地や4千万円以上の預金を所有していた。
垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同等」という扱いはここにも及んでいた。
また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。
大正9(1920)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の李王邸で結婚式が執り行われた。婚儀に反対する朝鮮人大学生が、ピストルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、朝鮮人刑事が検挙して事なきを得た。
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王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じました。
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方子妃は自伝にこう述べている。
■4.王子晉の死■
垠殿下と方子妃は本物の愛情を育てて行かれた。2年後、王子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。
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その心配も朝鮮側の熱烈な歓迎に吹き飛び、元気いっぱいの晉はかわいい若宮様と女官達にも大変な人気であった。
2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日はこの地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、なんとはなしに寂しさをおぼえたのは、殿下のみならず、私にとっても晉にとっても、この国、この地がふるさとであることを、心でも、肌でもたしかめることができたからでしょうか、、、
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しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか8ヶ月の生命を終えた。
日本人の医師達は、急性消化不良と断定した。しかし、出発の前の晩、細心の警戒が最後にゆるんだのを狙っていたように起きただけに、方子妃はじめ多くの人は、毒殺に違いない、と思った。
■5.幸福の日々■
昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひとこと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。皇室典範は、男子がいないときは王家廃絶をうたっており、朝鮮王統の存立がかかっていたからである。方子妃は次の歌を詠まれた。
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つもりたるととせ(十年)のなやみ今日晴れて高き産声きくぞ嬉しき
必ずいつの日か、朝鮮王国の血を受け継いだこの子に、しっかりと父祖の国の大地に立てる日を迎えさせねばならない。
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との悲願を心の底に深く刻みつけた。
昭和10(1935)年、垠殿下は宇都宮第14師団歩兵第59連隊連隊長として赴任、方子妃も玖とともに宇都宮に住む。農家の人達と気軽に話をしたり、スキーに夢中になったりと、しばしの幸福の日々が続いた。
昭和18(1943)年、第一航空軍司令官に任命される。垠殿下は、部下には思いやり深く、上官にはよく尽くし、事にあたって動ずることなく、王者の風格があった。
幼年学校の同期生の一人は「少なくともわれわれ軍人、殊に同期生にとっては、最も親しい敬愛する宮様であって、人質とか異国人とかいった感情は露ほどもなかったのが事実である」と語っている。立派な日本軍人、理想的な日本皇族として、ふるまわれていた。
また人材育成にも心を砕き、日本留学中の朝鮮人留学生のための寮を作り、毎年10万円もの奨学金を下賜されていた。
■6.終戦後の臣籍降下■
昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇が特に行く末を案じられたが、皇族の身分を奪われ、財産の大半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に奪われてしまった。
方子妃は、これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、したいように暮らしていただこう、戦うのも私、守るのも私なのだ、と決心した。
昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。
昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡してきた。
■7.反日感情渦巻く韓国へ■
昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。
たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。
当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。
方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げると、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」などと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで、足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。
■8.障害児の教育を始める■
そんな中で、方子妃は精神薄弱児の教育を始める。ポリオなどで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめられていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て上げることを目指した。
新聞に心身障害児募集の公告を出すと、たった一人8歳の精神薄弱の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りできた。机などは古道具屋を廻って調達した。
あの家にポリオの子供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えられた事もたびたびだった。それでも1年して、聾唖や小児麻痺の子どもが10人ほども集まった。
政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとんど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重労働であった。
■9.韓国障害児の母■
生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方子妃は王朝衣装ショーを始め、自らも宮中衣装を着て海外を廻られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもらいたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよそに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた。
このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数150名、校地4千坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場まで備える規模に成長していった。
方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことである。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃はよそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。
一緒に訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はその後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。
平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民が見送った。[2]
日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに「韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(005) 国際交渉の常識
日本の朝鮮統治の悪しき遺産?!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h9/jog005.htm
b. JOG(056) 忘れられた国土開発
日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「朝鮮王朝最後の皇太子妃」★★、本田節子、文春文庫、H9.7
2. 「日韓2000年の真実」★★★、名越二荒之助、国際企画、H9.7
以上
http://ac10.i2i.jp/bin/2nd_gets.php?00953189"
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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-4「朝鮮産業革命の祖」野口遵
北朝鮮に世界最大級のダムを造り、一大化学工業地帯を出現させた男。
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水豊ダムは、日本統治下の朝鮮総督府と満洲国政府が工事費用を折半して1937年に建設着手。41年から発電を始めた。貯水量は、琵琶湖の約半分に相当し、当時としては世界最大級だった。
45年の終戦時に、進駐してきたソ連軍が発電施設の一部を持ち去った。朝鮮戦争中にも米軍の空爆に遭ったが、壊滅的被害は免れた。中朝両国は55年、ダムの共同利用協定を結び、年間36億8千万キロワット時の発電を半分ずつ分け合っている。
安定した発電を続ける水豊ダムは、エネルギー不足に悩む北朝鮮にとって今でも貴重な存在だ。韓国統計庁の推計では、2003年の北朝鮮の発電量は196億キロワット時で、その9%強が、水豊ダムから供給されている計算になる。
この水豊ダムをはじめ、朝鮮の水力開発に大きく貢献し、「朝鮮産業革命の祖」「朝鮮人の恩人」と称される人物がいる。日本窒素肥料を中核とする一大コンツェルンを築いた野口遵である。
彼が朝鮮で展開した事業は次のようなものであった(黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社)。
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野口氏は、威興の北にある鴫緑江上流を堰き止めて、日本国内になかった17万キロワットの巨大発電所をつくった。大正14年に着工、昭和3年に完成した。さらに2年後、20万キロワットの発電所をつくった。計37万キロワットという大発電所である。・・・
それに続いて、白頭山、豆満江、虚川江などに続々と水力発電所を建設し、いずれも15万キロワット級であった。それから鴨緑江には、義州、雲峰、水豊など7カ所にダムを建設し、巨大な湖をつくって、180万から2百万キロワット出力の大発電所を計画していた。・・・水豊ダムは、高さ102メートル、・・・出力70万キロワット、昭和12年から着工3年で完成した。
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野口の事業について、『日本の創造力(10)』(NHK出版)には、こう記されている。
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朝鮮半島の地形は背骨ともいうべき長白山脈が半島の東を走っている。そのため北朝鮮の日本海側は厳しい山岳地帯を形成している。西側は高原地帯を形成し、長白山に源を発する多くの河川は、ゆるやかに西流し、鴨緑江となって黄海に注いでいる。
野口はこの水流を変更、日本海側の厳しい落差(約1千メートル)の地形を利用して新型の水力発電を行い、それを基本にして大化学工場を建設した。
・・・川の流れを変えるのであるから、工事は大規模なものとなる。鉄道を敷き、トンネルをうがち、人工の湖をつくり、ダムを建設した。そしてそこに働く人たちのために町づくりもした。
いっぽう、昭和2年(1927)には朝鮮窒素肥料会社を設立、輿南に化学工場をつくり、一大化学工業地帯を出現させた。まさに野口の朝鮮開発は壮挙であった。
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ちなみに、野口は昭和15年に脳溢血で倒れた後、全財産3千万円を寄付し、うち25百万円で財団法人野口研究所を、残り5百万円で朝鮮奨学会を設立した。研究所はその後化学の発展に寄与し、奨学会は約4万人の奨学生を送り出した。病に倒れた時、野口は側近にこう語ったという(日経2000・3・6)。
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古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ・・・化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい。
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台湾で東洋一のダムを造り、百万人の農民を豊かにした八田與一は、今も台湾の人々に敬愛されているが、北朝鮮は野口遵の事など一切語らずに、さらに援助をせしめようとするのみである。「報徳とか報恩」を知らない国は、国民が発憤して発展するはずもない。
(参考:日本政策研究センター『明日への選択』H17.7)
http://www.seisaku-center.net/
a. JOG(216) 八田與一~戦前の台湾で東洋一のダムを作った男
台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、百万人の農民を豊かにした烏山頭ダムの建設者。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog216.html
b. JOG(056) 忘れられた国土開発
日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
以上
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韓国問題-歴史編 第2部 朝鮮近代化に尽くした日本人
2-2 枡富安左衛門 ~ 韓国民の精神開発を使命とした日本人
日本人校長は韓国人学生に「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように説いた。
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■1.韓国政府から国民勲章を授けられた日本人■
1995(平成7)年12月16日、韓国の京郷新聞は次のような記事を掲載した。[1,p195]
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15日午前、ソウル市鐘路区三清洞にある中央教育研修院の講堂では、国民教育に寄与した功労で、3092人に達する国民教育功労者の褒章式が開かれた。
そのなかで、もうすでに故人になった一人の日本人が、私立学校の設立に功績があったとして追贈され、国民勲章の牡丹章の受章者に選ばれて注目された。(その人物の名前は)枡富安左衛門氏(ますとみ・やすざえもん)。
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国民勲章とは、政治や経済、社会、教育などの分野で韓国民の福祉向上と国家の発展に大きく寄与した人物に与えられる勲章で、日本の文化勲章に相当する。等級は5段階に分かれており、その中で「牡丹章」は2番目に高いクラスである。
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故人の娘の石井武子さん(75)が、父親の代わりに勲章を受け、参加した人々から熱い拍手喝采を浴びた。・・
枡富氏は1918(大正7)年から全羅北道富安郡に富安教会、富安小学校、高敞高等学校を設立して、この地域の人々の精神啓発に一生を捧げた。・・・
高敞高校出身のハングル学者の韓甲洙さん(83)も、「日本人にかかわらず、自分の私財を投じて学校と教会を建てるなど、韓国を愛し、この地方の開花に種をまいた先駆者だ」と話し、「日本人だというだけで罵倒してしまうには、あまりにも大切な方だ」と述懐している
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1995年といえば、韓国にとっては「光復(植民地からの解放)」50年にあたっていた。光復節の8月15日には、旧朝鮮総督府の建物が日本統治の象徴として解体撤去され、その式典で、金永三大統領が「植民地支配と侵略行為を日本は素直に反省すべきだ」と演説した。
こうした反日感情の中で、日本統治時代の朝鮮に生きた一人の日本人が、韓国政府から「国民勲章」を受けるとは、どうしたわけか。そこには日韓両国にまたがる人々の強い絆があった。
■2.韓国農業で国利民福を志す■
枡富安左衛門は、明治13(1880)年、福岡県門司市の醤油製造業を営む家に生まれた。下関商業学校在学中に父を失ったため、17歳にして家業を継ぎ、店を切り盛りしながら、学校で商業を学んだ。
明治37(1904)年2月、日露戦争勃発と共に、枡富は出征して、食料・物資の調達・分配など後方の兵站部門に従事した。
出征前から「韓国農業に付きて之れが経営をなして国利民福(JOG注:国に利益をもたらし民を幸福にする)を謀る考えなり」と、韓国での農業経営の志を抱いていたが、出征の途上で、全羅北道(朝鮮半島南西部)の沃野を自らの目で確かめて、その意思が固まった。
当時の朝鮮半島は、停滞した李朝王朝のもとで農業も荒廃の極みにあり、しばしば飢饉に襲われていた[a,b]。そこに日本の進んだ農業技術を導入することで、生産性を飛躍的に上げる余地があった。
日露戦争が終わって帰国した枡富は、明治39(1906)年6月、再び全羅北道を訪れた。この地は李朝末期の東学党の乱の発祥地であり、この頃でも残党が山野に潜伏して、韓国人地主を襲撃したりしていた。そんな中を馬にまたがって、土地を物色して廻る枡富の姿は、農民たちから「無謀な行為」として驚きをもって迎えられた。
■3.尊敬と思慕の念を集めた農業経営■
枡富は、この地で4万坪の土地を購入して、農業経営を始めた。当時の朝鮮半島での農業は原始的な零細農で、面積当たりの収穫も少なかった。また毎年のように洪水や日照りに襲われていた。
枡富は半島でも有数規模の水利組合の結成に参画し、近くの湖から農業用水を確保して、干ばつや洪水の被害防止に大きな成果を上げた。また湖からの水流を利用して発電し、この地方に電灯をともすことに成功したという。燃料源として乱伐が進んでいた付近の山々の植林事業にも、近隣の日本人農業主や韓国人農民と協力して取り組んだ。
さらに悲惨な生活を送っていた小作人たちの救済のために、畑作の改良、緑肥の調整、二毛作、間作などに取り組ませた。こうした農業経営を進めた枡富は、小作人を含め近隣住民から尊敬と思慕の念を集めた。
■4.「韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」■
枡富の農業経営に思想的な基盤を与えたのが、妻・照子の影響で入信したキリスト教だった。韓国での農業経営を始めた翌年の明治40(1907)年、枡富は照子と結婚した。照子は福岡英和女学校(現在の福岡女学院)在学中に、アメリカ人女性宣教師と出会い、卒業の年に洗礼を受けていた。
当初、照子は韓国に渡って新婚生活を営んだが、慣れぬ土地で体調を崩し、病気がちになったため、国内に戻って療養生活を送るようになった。以後、枡富は韓国を、照子は日本国内を本拠地とし、数ヶ月単位でお互いに行き来するようになった。
照子は枡富にキリスト教入信を勧めたが、枡富は「仏教にも、儒教にも良い所はある。すべての宗教の長所をとって、国のためになしたい」と言って、なかなか聞き入れなかった。
しかし、照子とともに教会通いをしているうちに、ついに折れて、「僕も信者になる。韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」と言った。結婚3年後のことであった。
「信仰に基づいた農業経営」を目指した枡富は、デンマークを自らの事業のモデルとした。この点を次のように語っている。
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1850年代に一人の牧師が現れて、信仰に基づいた農業と教育の振興を唱え、それが広く国民に受け入れられた。その結果、やせてどうにもならなかった土地が開墾され、世界にも模範的な農業国になった。[1,p145]
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枡富は、まずは自身の信仰を確かなものとするために、大正元(1912)年、神戸の神学校に入学した。韓国での事業は、一時的に友人に託した。さらに将来の韓国での教会事業は、韓国人自身の手によらなければならないとして、3人の優秀な韓国人学生を呼び寄せ、自分とともに神学校に入学させた。
この後、枡富は多くの韓国人学生に奨学金を出して、日本やソウルの大学、神学校で学ばせるようになった。
■5.私立小学校の設立■
神戸の神学校で学んでいる間に、枡富は韓国の農場の近隣で、子ども向けの学校として「私立興徳学堂」を設立した。当時の韓国全土には、370万人の就学年齢の児童がいたが、寺子屋のような私塾を含めても、18万5千人、全児童の5%しか、教育を受けていなかった。
当初は、村人たちも子供を通わせるのをいやがり、入学希望者は非常に少なかった。経済的な理由からであろう。そこで枡富は、児童全員に教科書やノート、鉛筆などを無料で提供し、授業料までもただにした。
村民たちは、こうした枡富の教育への熱心さや、正規の小学校と変わらない充実した教育内容ぶりを知って、すすんで子供たちを学堂に通わせるようになった。
神戸神学校で学んでいた3人の奨学生が大正5(1916)年に卒業して教員に加わった。彼らは学校に寝泊まりして、教育内容の充実に智恵を絞った。
こうした努力が実って、大正8(1919)年、興徳学堂は学校法人としての認可を受け、私立吾山普通学校と改名した。当時、普通学校は1郡に1校を原則として設立が進められていたが、いち早く普通校を持てた高敞郡は、他地域の住民たちから非常に羨ましがられたという。
■6.学校存続に立ち上がった郡民たち■
大正7(1918)年、枡富は所有する土地約2100坪を使って、「私立吾山高等学校」を設立し、中等教育に乗り出した。早くも2年後に、正式な学校法人としての認可を受け、「吾山高等普通学校」に昇格した。当時の高等普通学校は、朝鮮全土でも12校しかなかったところに、近隣6道での初めての高等普通学校が人口まばらな寒村に出現したことは、大きな話題となった。
ここまでは順調に成長してきたが、第一次大戦後の経済不況の波が、枡富の事業経営を直撃した。今まで農業で得た利益を学校経営につぎ込んできたのだが、それも難しくなった。
枡富は、大正11(1922)年3月31日限りで、吾山高等普通学校を廃校させざるをえない、と発表した。生徒全員は他の学校に転校させ、その学費と交通費を負担することとした。
しかし、この地方ではかけがえのない高等普通学校を潰してはならない、と高敞郡守・金相鉛の呼びかけのもと、地元郡民たちが立ち上がった。もともと独立意識の強い地方で、「自主独立は教育を通じての知性の開明が伴わなければならない」を合い言葉に、学校存続を決議した。
郡民は募金活動を展開し、約30万円を集めた。意気に感じた枡富も生徒たちへの弁済にあてるつもりだった1万5千円を寄付した。枡富はしばらく校長、理事長の立場に留まることとなった。
同時に人里離れた吾山から郡庁のある高敞に移転され、ここに「高敞高等普通学校」として再スタートした。大正15(1926)年、校舎を近代的な赤レンガ造りの2階建てに改築した際の落成式には斎藤実・朝鮮総督が参列した。斎藤は「文化政治」を標榜していた。枡富と親交があり、人作りを最優先した枡富の事業に共感を抱いていたのだろう。
吾山普通学校も、枡富は敷地、校舎、施設のいっさいを当局に寄付し、富安公立普通学校と改称された。
■7.「本当に独立を望むなら学ぶのだ」■
枡富は「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように生徒たちに説いた。韓国の人々の独立への思いに共感し、そのためには現地の青年たちが将来様々な方面で活躍し、自分の力で発展できるよう、生徒たちの教育に心を砕いた。
その精神は、高敞高等普通学校にも受け継がれた。抗日運動、独立運動に参加して公立学校を退学させられた生徒たちを進んで受け入れ、勉学の場を提供した。やがて高敞は「民族運動揺籃の地」として、朝鮮全土に知られるようになる。
冒頭の新聞記事に登場したハングル学者の韓甲洙氏もその一人だ。昭和5(1930)年に光州学生独立運動に参加して、それまで学んでいた学校から退学処分となり、監獄出所後はどこの学校も編入学を認めようとしなかった。
風の噂をたよりに高敞高等普通学校の門を叩くと、応対に出た職員は「韓国のために戦う学生は、勉強させなければならない」とただちに入学を認めてくれた。
韓甲洙氏は、教鞭をとっていたハングル語学者・鄭寅承に出会い、ハングル研究の道を志す。後に韓国で初めてのハングル辞典の編纂委員の一人となり、戦後は李承晩大統領の秘書室長も務めるなど、韓国の政界、教育界の中枢で活躍した。
■8.「私の使命は韓国民の精神開発」■
昭和10(1935)年に高敞高等普通学校を卒業した一人が鄭成沢氏である。枡富はすでに日本に戻り、その前年に亡くなっていたので、直接の面識はなかった。鄭氏は卒業後、教育者の道を歩み、戦後の1966(昭和41)年、富安国民学校の校長に任命された。
鄭氏が教育の一環として、生徒たちに学校の歴史を調べさせたところ、同校が枡富の手によって設立されたことを初めて知った。自分でも関連資料を探したところ、近隣の老人が『枡富安左衛門追想録』と題した分厚い本を差し出した。枡富の夫人・照子が編纂したもので、枡富自身の手紙や文章が収録されていた。それを読んだ鄭氏は深く心を動かされた。
鄭氏は翌年の創立記念日に、全校児童にこう語りかけた。
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皆さんは、日本人が建てた学校に通っている。韓国民を熱烈に愛した日本人が、その熱情に動かされて建てられた学校に通っているのだ。皆さんは、それを誇りに思って貰いたい。
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鄭氏は枡富の命日に追悼式を行い、さらに私費を投じて顕彰碑を建てた。「枡富先生教育功労碑」としたかったが、当時の反日感情の中では打ち壊される恐れもあったので、「学校設立記念碑」とし、裏面に設立の歴史として、枡富の事績を記した。
しかし、反日教育を受けた若い職員らから「倭人を称えるなど、もってのほかだ」と批判され、その一人が「親日校長」などと非難する投書を教育委員会などに送り続けた。鄭氏は、学校や同僚にも迷惑がかかるとして、教職を去った。
■9.「私の使命は韓国民の精神開発」■
1995(平成7)年、枡富の60回忌の年に、鄭氏は韓甲洙氏らとともに再び立ち上がった。学校を設立した外国人が韓国政府から相次いで表彰されていたので、同様の政府表彰を申請したのだった。
「日本人を表彰するなどもってのほか」と担当の役人たちは迷惑そうな表情を隠さなかったが、韓氏の人脈を通じて粘り強く説得し、ついに大統領の決裁がおりたのである。こうして冒頭の「国民勲章牡丹章」授賞が実現した。
富安国民学校の校庭には、開校時に植えられたアカシアの苗木は今は巨木となって、子供たちに格好の日陰を提供している。校庭の片隅には、鄭氏の建てた石碑が今も残っている。その側面には、鄭氏の好んだ枡富の言葉がさりげなく刻まれている。
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私の使命は韓国民の精神開発であり、私のすべてのものは、即ちそのためにあるだけだ。
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(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(056) 忘れられた国土開発
日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
b. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog204.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 黒瀬悦成『知られざる懸け橋―枡富安左衛門と韓国とその時代』★★、朝日ソノラマ、H8
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4257034734/japanontheg01-22%22
http://ac10.i2i.jp/bin/2nd_gets.php?00953189"
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