2006.
福住簾ゼミ
アート評
岩崎タクジ
七夕
**********
「限界-球技」
いったい何がゴールを成立させるのか? 何がアートを成立させるのか? 決定力不足の日本に提案したい。最終ラインを押し上げるために、有効かもしれない。
ボールが、プレーヤーが、相手ディフェンスを切り裂く。だが華麗なドリブルも、見事なキラーパスも、ゴールでない。決定的瞬間に放たれた豪快なシュートも、入らなければ得点でない。
ボールはゴールを割ったか? 体ごと押し込んでも、相手に当たってチョコンと入ってもゴールはゴール。必要なのは、ゴールへの執念? いや、根性論ではない。問題はゴールを生む文化! 一国的には縄文と弥生の相克である。ゴールという枠組みを身体的に文化的に構築する、解体する、必要がある。
一神教的な狩猟社会では、天の神に祈って一直線に獲物を射る。ゴールは標的なのだ。この世界ではオンタイムでボールがゴールを割ったと主審が判定すれば、ゴ~~ル! そのようにルールが、神が、存在する。
ところが八百万の神が偏在する農耕社会では、笹の葉さぁらさらと、軒端で願い事が揺れている。方向性のない祈り=文法のない言語が世界を形作っている。
我が国は、いまだに弥生式文化から抜け出していない。なので、ゴールゲットという身体的な幻想が制度として成立しない。八百万種類の神が存在すると言う事は、神が存在しないのと同じ事。バチだとか、ハジだとかは蔓延しているが、正確な意味でルールが成立しない。正確に言えば、正確な意味という概念すら成立しない。
立場を失った八百万の神は、とりあえず借り物の神を、ルールを設定した。八百万の神である弥生の神は、あたかも唯一の神であるかのように振る舞い、あちら側のオフサイドラインを押し上げてくる。実体のない幻想。そのようにして、長い時間をかけて、この国はワールドカップ=グローバル化への道を突き進むに到った。だが幸か不幸か、身体が付いていかない!
弥生時代も、そろそろ末期の様相を呈し始めている。歩み始めたグローバル化への道。行ったり来たりする事はあっても、大局的に見れば逆行できないだろう。とすれば、フォワ―ド=経済だけを前線に孤立させず、身体・文化ラインを押し上げなければならない。
文法を持たない八百万の神は、あちら側の神であると同時に、こちら側の神でもある。神も人も、ゴールとゴールの間を右往左往するだけ。
ならばいったい、どうすれば身体が付いて行くのか? 縄文へのルネサンス? それは無茶だ! ユニフォームを小細工しても手遅れである。
ここで話が飛ぶ。やけくそだ! 待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへウサギが飛んで出て、コロリ転げた木の根っこ。得点は、ありがたき拾い物である。これでは、勝てるわけがない!? って、はたして言い切れるだろうか?
あちらの神に、こちらの神に、収穫物を捧げる。いっそのこと、そんなサッカーに徹してみてはどうだろうか。ゴールが犯すことの出来ない祭壇ならば、シュートを捨てよう。身体がラインに付いて行くのではなく、ラインを身体に合わせよう。
ひたすら神々に感謝し、フィールドを耕そう。汗と涙を、お供えしよう! 事あるごとに愛を込め、あちらに向け、こちらへ向け、手当たり次第にパスして差し上げるのだ! 勝てないかもしれない。それ以前に、勝ち負けが成立しないかもしれない。だが現状も似たり寄ったりじゃないか。検討して欲しい。
神さまは見ていてくれる。いつの日かきっと、感謝の気持ちが通じ、ゴールという幻想の果実が実体として成立するだろう。いや違う。これは農本主義の提唱ではない。新興宗教でもない。待っていても、ゴールは成立しない。ゴールは今、ここにある。そう決めてしまおう。すでに、ここがゴ~~ル! なのだ。
雨ニモマケズ、神ニモマケズ・・・。そこにある。ここにある。そんなサッカー! そんなアート。想像力、創造力、それこそが決定力。資本が定義付ける前に、世界をゲットしよう。やばい。けっこう論理的かも??・・・んなわきゃ、ねえよな!
これまでの事は水に流そう。人に優しく! 自分に優しく! 短冊に願いを込めて、川に流そう・・・おかげさまでなにより。
2006.07.
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2008-05-18 16:00:00 up -about
福住簾ゼミ
アート評
岩崎タクジ
七夕
**********
「限界-球技」
いったい何がゴールを成立させるのか? 何がアートを成立させるのか? 決定力不足の日本に提案したい。最終ラインを押し上げるために、有効かもしれない。
ボールが、プレーヤーが、相手ディフェンスを切り裂く。だが華麗なドリブルも、見事なキラーパスも、ゴールでない。決定的瞬間に放たれた豪快なシュートも、入らなければ得点でない。
ボールはゴールを割ったか? 体ごと押し込んでも、相手に当たってチョコンと入ってもゴールはゴール。必要なのは、ゴールへの執念? いや、根性論ではない。問題はゴールを生む文化! 一国的には縄文と弥生の相克である。ゴールという枠組みを身体的に文化的に構築する、解体する、必要がある。
一神教的な狩猟社会では、天の神に祈って一直線に獲物を射る。ゴールは標的なのだ。この世界ではオンタイムでボールがゴールを割ったと主審が判定すれば、ゴ~~ル! そのようにルールが、神が、存在する。
ところが八百万の神が偏在する農耕社会では、笹の葉さぁらさらと、軒端で願い事が揺れている。方向性のない祈り=文法のない言語が世界を形作っている。
我が国は、いまだに弥生式文化から抜け出していない。なので、ゴールゲットという身体的な幻想が制度として成立しない。八百万種類の神が存在すると言う事は、神が存在しないのと同じ事。バチだとか、ハジだとかは蔓延しているが、正確な意味でルールが成立しない。正確に言えば、正確な意味という概念すら成立しない。
立場を失った八百万の神は、とりあえず借り物の神を、ルールを設定した。八百万の神である弥生の神は、あたかも唯一の神であるかのように振る舞い、あちら側のオフサイドラインを押し上げてくる。実体のない幻想。そのようにして、長い時間をかけて、この国はワールドカップ=グローバル化への道を突き進むに到った。だが幸か不幸か、身体が付いていかない!
弥生時代も、そろそろ末期の様相を呈し始めている。歩み始めたグローバル化への道。行ったり来たりする事はあっても、大局的に見れば逆行できないだろう。とすれば、フォワ―ド=経済だけを前線に孤立させず、身体・文化ラインを押し上げなければならない。
文法を持たない八百万の神は、あちら側の神であると同時に、こちら側の神でもある。神も人も、ゴールとゴールの間を右往左往するだけ。
ならばいったい、どうすれば身体が付いて行くのか? 縄文へのルネサンス? それは無茶だ! ユニフォームを小細工しても手遅れである。
ここで話が飛ぶ。やけくそだ! 待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへウサギが飛んで出て、コロリ転げた木の根っこ。得点は、ありがたき拾い物である。これでは、勝てるわけがない!? って、はたして言い切れるだろうか?
あちらの神に、こちらの神に、収穫物を捧げる。いっそのこと、そんなサッカーに徹してみてはどうだろうか。ゴールが犯すことの出来ない祭壇ならば、シュートを捨てよう。身体がラインに付いて行くのではなく、ラインを身体に合わせよう。
ひたすら神々に感謝し、フィールドを耕そう。汗と涙を、お供えしよう! 事あるごとに愛を込め、あちらに向け、こちらへ向け、手当たり次第にパスして差し上げるのだ! 勝てないかもしれない。それ以前に、勝ち負けが成立しないかもしれない。だが現状も似たり寄ったりじゃないか。検討して欲しい。
神さまは見ていてくれる。いつの日かきっと、感謝の気持ちが通じ、ゴールという幻想の果実が実体として成立するだろう。いや違う。これは農本主義の提唱ではない。新興宗教でもない。待っていても、ゴールは成立しない。ゴールは今、ここにある。そう決めてしまおう。すでに、ここがゴ~~ル! なのだ。
雨ニモマケズ、神ニモマケズ・・・。そこにある。ここにある。そんなサッカー! そんなアート。想像力、創造力、それこそが決定力。資本が定義付ける前に、世界をゲットしよう。やばい。けっこう論理的かも??・・・んなわきゃ、ねえよな!
これまでの事は水に流そう。人に優しく! 自分に優しく! 短冊に願いを込めて、川に流そう・・・おかげさまでなにより。
2006.07.
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