東夷と並んで『魏志』に録された烏丸と鮮卑について軽く触れておくと、かつて秦末から前漢初期にかけて、支那大陸の北の平原に強大な勢力を張っていたのは、漢帝国にとって最大の外敵でもある匈奴でした。やがて漢の武帝が匈奴を駆逐し、北の国境はやや平穏になったものの、漢帝国が総督を派遣して匈奴の放牧地を支配した訳ではないので、依然として匈奴が遊牧民の中では最大の脅威であることに変りはありませんでした。やがて帝室 . . . 本文を読む
公孫氏討伐の総司令官である司馬懿は、(大尉という地位からすれば当然ですが)東夷には殆ど関っておらず、もともと明帝から司馬懿に与えられた任務は公孫氏の討伐であり、四万の軍勢もこの戦役のために編成されたものでしたから、景初二年の八月末に襄平が陥落して公孫氏が滅びると、戦後の処置を済ませて翌月には兵と共に帰路に着いています。従って内政では戦後の旧燕領を経営してその復興を担い、外交では東夷との折衝に当って . . . 本文を読む
東夷に目を向けてみると、東夷伝の序にも記されたように、その背景には遼東の公孫淵の存在があります。後漢末の遼東に於ける公孫氏の地盤は、献帝の代に淵の祖父の公孫度が、董卓から遼東太守に任ぜられたのが始まりで、中原の混乱に乗じて郡内を掌握すると、隣接する北の玄菟郡と東の楽浪郡をも占領し、度一代で半ば独立国の体を成すまでに成長します。尤も玄菟・楽浪の両郡については、後漢が半ばその管理を放棄しているような状 . . . 本文を読む
『魏志』や『後漢書』の東夷伝のように、史書の中に異国の伝を設けるというのは、始め司馬遷が『史記』を著述するに当って示した手法であり、続く『漢書』がこの形式を引き継いだことで、以後の国史もこれを踏襲して行くことになりました。ここで『史記』から『後漢書』までの各史書に収められた異国(異人)伝を見てみると、巻数も含めて次のようになっています。但し『後漢書』の場合、東夷伝は専ら『魏志』からの引用です。また . . . 本文を読む
次に倭国や倭人が漢籍に登場するのは『三国志』になります。著者の陳寿は始め蜀漢に仕え、その滅亡後は晋に仕えたという経歴を持ち、蜀の出身ということで益州に関する書物も多く著したといいますが、『三国志』以外の著書は現存していません。『三国志』は『魏書』三十巻(本紀四巻、列伝二十六巻)、『呉書』二十巻、『蜀書』十五巻の計六十五巻から成り、他の『魏書』や『呉書』と区別するため『魏志』『呉志』『蜀志』と呼ぶこ . . . 本文を読む