周代の頃の支那では、北方の異民族を総じて狄と呼んでいました。
方角である北を加えて北狄とも言い、恐らく元来は北方のとある民族の名称だったものと思われますが、やがて多分に通称として遊牧民そのものを指すようになりました。
他の三方の異民族はそれぞれ南蛮・東夷・西戎と言い、四方を総称して蛮夷戎狄などと呼ぶこともあります。
例えば今でも日常的に使われる「野蛮人」という言葉は、もともと南方の未開人を表したもので、同じ文化を共有しない集団に対する「夷狄」という蔑称は、東夷と北狄を合わせたものです。
そして周建国に始まる三千年の歴史の中で、支那人にとって最大の外敵は常に北狄であり、黄河文明発祥の地である中原を制圧し、漢人を臣従させた唯一の異民族も北狄でした。
方角である北を加えて北狄とも言い、恐らく元来は北方のとある民族の名称だったものと思われますが、やがて多分に通称として遊牧民そのものを指すようになりました。
他の三方の異民族はそれぞれ南蛮・東夷・西戎と言い、四方を総称して蛮夷戎狄などと呼ぶこともあります。
例えば今でも日常的に使われる「野蛮人」という言葉は、もともと南方の未開人を表したもので、同じ文化を共有しない集団に対する「夷狄」という蔑称は、東夷と北狄を合わせたものです。
そして周建国に始まる三千年の歴史の中で、支那人にとって最大の外敵は常に北狄であり、黄河文明発祥の地である中原を制圧し、漢人を臣従させた唯一の異民族も北狄でした。
秦が天下を統一し、秦王政が始皇帝を称した頃、長城の北の大地は三つの主要遊牧民によって分割されていました。
東の東胡、西の月氏、その両者に挟まれた匈奴です。
東胡は「胡」を訓読みで「戎」と同じく「えびす」と読むように、元来は胡という単語自体が狄や戎と似たような意味を持っており、東の胡族だから東胡です。
民族的にはツングース系とする説が有力で、烏丸や鮮卑はこの東胡の一派と伝えられ、後の女真族とも同系となります。
月氏については不明な点が多く、後年匈奴に敗れて更に西方へ移住してしまったこともあって、言語や人種の系統は確定されていませんが、近年では屈折語系の人々だったのではないかとする見方が主流となっています。
漢人にとって長く最大の外敵だった匈奴を見てみると、他の多くの遊牧民同様に匈奴には文字がなく、自分達では一切記録を残さなかったので、やはりその民族や言語の系統については殆ど分かっていません。
以前は月氏と匈奴を共に西方系とする説が唱えられたりもしたようですが、最近では蒙古系もしくは東方トルコ系とする見方が一般的なようです。
その匈奴の放牧地は、黄河が几字型に屈曲する高地の北面一帯で、そこは支那文明の中心である関中や中原の真北に当り、特に現代の陝西省北部から内蒙古自治区にかけての境域は、古来支那人と遊牧民が領有権を巡って幾度となく争ってきた土地でした。
そして漢代初期には漢帝国を凌ぐほどの勢力を誇っていたこともあって、匈奴と言うと常に強大だったような印象を持ってしまいますが、秦代までの匈奴は北方の三者の中で最も弱小な集団であり、天下統一を果たしたばかりの秦帝国からは、関中に最も近い外敵という点を除けば然程に脅威とも思われていませんでした。
秦が長城を築いた頃の単于(遊牧民の王)を頭蔓と言い、この単于の時代の匈奴は、秦軍の討伐を受けてオルドス地方を追われたり、子の冒頓を人質として月氏に送ったりと、秦・月氏・東胡の強力な三方に囲まれて、そのパワーバランスの中で独立を保っているような状態でした。
やがて秦が崩壊して支那大陸が群雄割拠の様相を呈すると、匈奴も再び南下して秦に追われた土地を奪い返したりしたものの、頭蔓単于の代には目に見えて版図を拡大させたような形跡はありません。
匈奴が大躍進を遂げるのは頭蔓の子の冒頓の代で、冒頓は単于として匈奴を地上最強の騎兵集団に育て上げたのみならず、数十万の人馬を一元的な指揮命令系統に服させるなど、遊牧民の用兵の常識をも一変させた改革者として名高い単于です。
その冒頓は若い頃、両族の和平の証として月氏へ人質に出されていたのですが、父親の頭蔓が月氏に攻め入ったため危うく殺されそうになりました。
これは匈奴が嫡子の冒頓を差し出したことで月氏が油断していたのと、頭蔓は先妻の子の冒頓ではなく後妻の子を後継者にしようと目論んでおり、月氏と戦争になれば冒頓が殺されることを見越しての開戦だったといいます。
冒頓がその窮地を自力で脱出して匈奴へ戻ると、表向き単于はこれを喜んで彼に配下を与えましたが、冒頓の方は継母と異母弟がいる限りいずれ自分は殺されると察して、密かに謀叛の準備を始めました。
冒頓が大志を遂げるためにまず実行したのは、織田信長と同じく自分に忠実で屈強な部下を育成することであり、彼の命令を徹底させるために用いた鏑矢の逸話は余りに有名です。
やがて実父の頭蔓を手始めに、継母や異母弟をも殺して単于となった冒頓は、匈奴を甘く見て油断していた東胡を急襲して滅亡させると、因縁浅からぬ月氏を敗走させて遥か遠方へ追い遣るなど、僅か十年ほどで未曾有の大勢力を築き上げます。
その冒頓が単于に即位したのは紀元前二〇九年とされ、これは秦の旧楚領で陳勝と呉広が決起した年であり、文字通り秦の崩壊から漢の隆興にかけての期間とほぼ時を同じくして、匈奴もまた北の大地で巨大化した訳です。
そしてモンゴル高原の覇者として、建国間もない漢帝国の前にその姿を現したのでした。
漢と匈奴との初の接触は、漢の高祖七年(紀元前二〇〇年)、北方の諸民族を尽く傘下に収めた匈奴が、太原郡へ侵攻して韓王信(韓信とは別人)を降伏させ、同郡一帯を占領して民衆を略奪したことでした。
これに対して漢は、高祖自ら親征して匈奴を迎撃し、太原郡を奪回するなど一時的な戦果を挙げたものの、匈奴の策略に嵌って深追いしたところを雪原に包囲され(白登山の戦い)、あわや皇帝が捕虜もしくは戦死という事態に陥ってしまいます。
その窮地を謀臣陳平の献策で何とか凌ぎ、辛うじて匈奴の包囲網を突破した高祖は、匈奴が敗走する漢軍を敢て追撃しなかったこともあって、無事兵を撤退させて長安へ帰還することに成功しますが、一歩間違えれば建国から十年を待たずして漢帝国が崩壊するところでした。
匈奴の方も漢に対して国運を賭けた一戦をする気はなかったようで、その後は双方共に大軍を動かすこともなく、両者の間で停戦の協定が結ばれることになりました。
しかし実質的には漢の大敗だったこともあり、その後の和平交渉で漢は、匈奴に対して大幅な譲歩を強いられる結果となりました。
そして締結された条約の内容というのは、漢が毎年匈奴へ大量の物品を貢献することと、以後匈奴と漢は兄弟の礼を以て接するものの、その上下は匈奴が兄で漢が弟という、文明国である漢にとっては屈辱的なものでした。
言わば漢が全面的に敗北を受け入れる形での和平であり、この関係は高祖の曾孫の武帝の代まで続くことになります。
つまり今では民族名の語源ともなっている漢帝国は、建国と同時に北狄を上位に頂くという、何とも歪な形でその歴史が始まった訳です。
元より漢がこの一方的な条件を受け入れてまで匈奴との休戦を選択したのは、建国間もない漢では未だ国内の体制が安定していなかったことや、長引く戦乱で国民が疲弊していたこと等から、これ以上匈奴との戦争を続ければ、再び天下が乱れかねないという懸念があったからに他なりません。
むしろ匈奴の方はそうした漢の内情を承知した上で戦争を仕掛けてきたのであり、停戦後のかなり強気な要求にしても、恐らく戦線の長期化を望まない漢が、ある程度までは呑むだろうと見越してのものです。
漢にしてみれば国内の安定を優先させるために已むを得ない講和だったとは言え、以後の外交でも常に匈奴の下位に立たたなければならないことや、それが招く子々孫々までの国辱を思えば、高祖としても苦渋の決断ことでしょう。
そもそも三十万もの兵を動員した今回の戦役にしても、皇帝自らが親征しなければならないこと自体、これ以上漢が匈奴との戦争を続けられない背景を如実に現していて、例えば始皇帝や武帝などは、それがどれほど大規模な動員であろうと遠征は全て将軍に任せており、君主自身は親征どころか戦場に赴くことさえしませんでした。
しかし高祖の時代の漢では、十万の兵を指揮できるような将は尽く建国の功臣であり、褒賞として彼等の大半を各地の王に封じていたため、下手に大軍を預けるとそのまま割拠してしまう恐れがありました。
現に白登山の戦いの少し前、楚王に封じられていた韓信が参内を拒否して独立の姿勢を見せた際には、わざわざ高祖が楚国の近くまで巡幸し、出迎えた韓信を捕えるという形で解決しており、匈奴との停戦後に各地の王が起こした造反に対しても、その殆どは親征によって平定しなければならなかったのです。
戦後の両者の領域について言えば、勝者である匈奴に有利な条件での講和となったことで、境界線として築いた筈の万里の長城は殆ど意味を成さなくなりました。
こうした人工の国境線というのは、相手にそれを守らせようとする側の力が、相手よりも強大である場合にこそ有効なのであり、敗者である漢がいくらそれを主張したところで、匈奴がそれを認めなければ効力を失うのは当然でしょう。
もともと長城は、秦の将軍蒙恬が匈奴を討伐した後に築いているので、従来の両者の境界からすれば些か北に偏っていたこともあって、秦末の混乱期にオルドス地方を占領されたのに加えて、この停戦後は他の地域でも匈奴が長城を越えて来るようになりました。
国境付近での緊張も相変らずで、匈奴と漢が兄弟の盟を結び、表向きは両者の間に不戦協定が成立した筈でしたが、現実にはその後も紛争は無くなりませんでした。
約定を破るのは常に匈奴の方であり、しばしば漢領を侵しては略奪を働くので、漢から幾度となく単于の許へ使者を送り、匈奴側の違約行為を非難してはいるものの、外交だけでは殆ど埒が明きませんでした。
但しこうした侵略は必ずしも単于の指示ではなく、専ら国境付近の部族が勝手にやっていたことで、その狼藉が目に余るような時は漢も兵を挙げてこれを撃退しており、匈奴側に非があるような場合は単于もこれを咎めてはいません。
そもそも漢は歴とした国家なので、一旦政府が他国と条約を結べば、それが末端の組織にまで徹底されますが、匈奴の統治体制は到底国家と呼べるものではなく、所詮は諸部族の連合体に過ぎなかったため、基本的に各部族は自己責任の範囲で自由に行動していました。
この匈奴の行動原理は日本のヤクザ社会とも似ていて、言わば匈奴の諸部族にとって単于と漢帝の関係というのは、本家の親分同士が手打ちをして義兄弟の契りを結んだようなものですから、それがそのまま下部組織の抗争(シノギ)まで拘束するものではなかったのです。
これは室町時代の守護大名と地侍の関係もほぼ同じで、一応守護と地侍(或いは守護と国人、国人と地侍)の間には主従の契約が結ばれており、その所領は守護によって安堵されていたとは言え、地侍は地侍でそれとは無関係に取合いをやっていました。
要するに漢と匈奴の条約などというのは、所詮その程度のものだった訳です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます