ここまでくると女王の境界の全貌が見えてきます。即ち当時の女王圏というのは、首都の邪馬台が畿内にあって、対馬から山陰を経て畿内に至るまでの、西日本一帯に及んでいたことが分かります。ただ後の日本史を知る我々は、首都が畿内に置かれているということに違和感を覚えないので、仮に王都邪馬台が畿内にあって、そこから女王が西日本を統治していたと聞いても何ら疑問を抱かないのですが、これは考古学的に見ると実に興味深い事実を含んでいます。と言うのも、西日本一帯を領土とする国家の首都が畿内というのでは、余りにも首都が東に偏り過ぎているからです。 . . . 本文を読む