史書から読み解く日本史

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魏志:女王の境界

2019-07-31 | 魏志倭人伝
方位のからくり
次いで方位を見てみると、郡から狗邪韓までの「乍南乍東」については、特に問題ないものと思われます。
ただ狗邪韓以降については、明らかに方位が時計回りへ回転されているのが見て取れます。
倭人伝では狗邪韓から末蘆までを全て南としていますが、実際にはほぼ一直線に東南へ向かっていますし、末盧(松浦)から伊都(怡土)、怡土から奴(儺)への方向をどちらも東南としていますが、実際には(東北東に近い)北東です。
もともと倭人伝は地理書ではないので、これが対馬海峡に限ったことならば、東南が南になっているくらいは許容範囲と言えるでしょうが、倭本土上陸以降はまるで見当違いな方向を指しています。
不弥の場所については諸説あるものの、素直に倭人伝を読む限りでは、不弥が投馬への出港地とされているので、恐らくその比定地は糟屋から宗像方面と思われます。
 
では倭人伝に記された狗邪韓以降の方位は、一体どのように導き出されたものなのかと言うと、実は至って単純なからくりで、まず狗邪韓から末蘆までを時計回りに八分の一回転させ、続いて末蘆から不弥までを更に八分の一回転させただけのものでした。
逆に言えば、その回転分を修正してやるだけで、狗邪韓から不弥までの全ての方位が実測と一致してしまう訳ですから、最早これは意図的に方位を書き換えたとしか思えません。
同時にそれは里数や方位に関して、魏の使者達はかなり正確な地理を把握していたことを示しており、前述の粉飾的な数値の誇張と同じように、何らかの意図をもってその情報を操作していたことが分かります。
 
正常な地図上で見る各国の配置と進路


時計回りに約八分の一回転させた地図。
対馬から末蘆までの方位が倭人伝と一致する。
 
 
更に八分の一回転させた地図。
末蘆以降の方位が倭人伝と完全に一致する。
 
 
投馬と邪馬台はどこか
そして不弥から南へ二十日ほど航行すると投馬があり、そこから更に海路を南へ十日、陸路を一月行くと邪馬台に着くといいます。
この投馬と邪馬台が果してどこなのかというのが、長年に渡る邪馬台国論争の焦点でもある訳ですが、当然それは不弥から投馬への方位を倭人伝にある通り南と読むか、反時計回りに修正して東と読むかによって変ってきます。
前者であれば九州が適地となりますし、後者であれば畿内が有力地となるでしよう。
或いは不弥以降を更に八分の一回転させると、投馬は不弥から見て北東ということになり、不弥を出港した舟は山陰へ向けて進路を取ることになります。
かつて本居宣長は九州説、新井白石は畿内説を唱えるなど、古くは江戸時代から意見の分かれてきた問題であり、周知の通り今もって解決していない訳ですが、最近では四国説や果ては沖縄説まであって、人の数だけ邪馬台国の候補地があるという冗談まであります。
 
ただそうした根拠の希薄な珍説はさておき、投馬と邪馬台という当時の日本にあって最も大きいと思われる二つの国の所在地を比定する場合、その最も有力な根拠となるのは、やはり両国の人口でしょう。
倭人伝によると、九州北部という早くから開けた土地にある伊都と奴の戸数が、それぞれ千余戸と二万余戸であるのに対して、投馬は約五万余戸、邪馬台は七万余戸となっています。
そして前述の通り、これらの戸数そのものが実数に近いとは言えないでしょうが、各国の規模を比較する上では参考となるでしょう。
尤も伊都国に限っては、『魏志』では同国の人口を千余戸としていますが、同書に先行する『魏略』では万余戸となっており、代々王が統治していたこと、魏使の常駐地となっていたことなどを考えると、『魏志』の千余というのは万余の誤植と思われます。
現実問題として、糸島郡の人口が対馬と同等で、壱岐の三分の一などというのは有り得ません。
 
では一体投馬と邪馬台はどこだったのかとなると、倭人伝に記されたこの両国の戸数が九州北部よりも多いこと、末盧以降(つまり本土上陸以降)の方位が何らかの理由で時計回りへ回転させられていること、不弥から邪馬台までの間に存在したと思われる投馬以外の国々が省略されている(つまり不弥から邪馬台までの間では投馬が突出して大きい)ことなどから、投馬は出雲、邪馬台は大和と考えるのが現時点では妥当でしょうか。
そして不弥から投馬までの行路を粕谷もしくは宗像から出雲までと仮定した場合、これが水行というのは問題ないとして、投馬から邪馬台までが水行の後に陸行となっているのも合点が行きます。

因みに先の計算式によって、不弥から邪馬台までの日数を里数に換算した後、更にそれを五分の一にしてみると、不弥から投馬までは水行で八百里(約320㎞)、投馬から邪馬台までは水行で四百里(約160㎞)陸行で六百里(約240㎞)となり、これは北九州からまず海路を出雲へ渡り、次いで出雲から同じく海路を因幡へ渡り、因幡で舟を降りて陸路を大和まで歩いた実測値とほぼ同じになります。
また後世の我々からすると、九州と畿内を結ぶ道程はあくまで山陽道が表道で、山陰道は裏道という印象を持ってしまいますが、恐らく当時は出雲から北陸へ抜けるのが主道で、記紀にある神武帝の東征の進路などはむしろ裏道だったのかも知れません。

朝鮮通信使との比較
そして邪馬台が畿内だったと仮定した場合、魏使の辿った行路を考察する際に、よく引合いに出される事例として、室町時代から江戸時代に掛けて、日本と朝鮮半島を往来していた朝鮮通信使の記録があります。
中でも慶長元年(文禄五年:西暦一五九六年)に、明の冊封使に同行する形で来日した李朝の使節団が、その行程を書き留めた紀行文は、『萬暦丙申秋冬通信使一行日本往還日記』として後世に伝えられ、当時を知る上で貴重な資料となっています。
その『日本往還日記』によると、この時の通信使の一行は総勢三百余人で、四隻の軍船に分乗して同年八月四日に釜山を出立し、十一月二十三日に日本から帰還しており、釜山と堺の間を往路に四十四日、復路に七十三日かけて往復しています。
 
尤も実際に移動に費やしたのは、往路復路共に二十日程度で、残りの日数は天候不順による逗留や、諸事情による滞在等が占めています。
特に復路は季節が冬に入っていたこともあり、対馬海峡の渡航にかなりの日数を割いています。
これが身軽な漁船や廻船であれば、もう少し日数を縮められたのでしょうが、総勢三百人の使節団ではそうも行かなかったのでしょう。
無論この時代の朝鮮から畿内への航路は、日本海ではなく瀬戸内海経由です。
少しく時代が下って、江戸時代に朝鮮と江戸の間を往来した通信使の記録を見ると、やはり釜山から大阪までの海路に一月半、大阪から江戸までの陸路に二十日弱というのが、ほぼ平均的な移動日数で、日本での滞在期間は四ヵ月から八ヵ月程度でした。
これを見ると日本海に比べて時化の少ない瀬戸内海でさえ、海路での移動にこれだけの日数を費やす反面、大阪から江戸までの陸路に要する日数がその半分以下ということは、江戸時代の街道がいかに整備されていたかを物語っていると言えます。
 
倭国の官名
次いで倭人伝に記された諸国の官名を見てみると、「ヒコ」と「ヒナモリ」については改めて説明の必要もなく、他の官職についてもそれが何を意味しているのかを理解するのは、それほど困難は作業ではないでしょう。
特に投馬の「ミミ」という特徴的な官名については、これが出雲系に多く見られる名称であることは広く指摘されています。
またこれは後の『隋書』等にも言えることですが、こうした東夷の官職などという取るに足らないことまでを、現地の言葉のままに書き記してくれているのが漢文の史書の有り難いところで、同じように当て字で書かれた二十ほどの国名が殆ど読めないことを思えば、極めて貴重な記録だと言えるでしょう。
 
女王傘下の諸国
倭人伝では対馬から不弥の六国、投馬と邪馬台の二国の他に、狗奴国を含めた二十二の国が記されていて、狗奴以外の国々は皆女王の傘下で、且つ女王国の北にあることが示されています。
原文では「自女王国以北其戸数道理可得略載、其余旁国遠絶不可得詳」となっており、「可得」は「すればできる」、「不可得」は「したくてもできない」の意で、ここに記された国々については、戸数やその国までの里数を略載しようとすればできるが(しかし実際には国名を羅列するのみ)、ここに記されていないような国は遠絶の地にあるので、詳らかにしたくてもできないと言っています。
また国名の前に付けられた「次」という字に何ら意味はなく、稀にこの「次に」という単語を諸国間の位置関係のように解釈する向きも見受けられますが、元来これは単に「それから」程度の意味であって、各国を順番通りに並べてある訳でも何でもありません。
 
そして女王国の北というのは即ち西ということですから、ここに記された狗奴を除く二十一の国々は、不弥(或いは伊都)から邪馬台までの間に点在していたことが分かります。
その二十一国の最後に再び奴国が出てきており、これが北九州の奴国と同一国なのか別国なのかは意見の分かれるところで、今もって定説は得られていません。
ただ全ての国名が所詮は当て字ですし、他にも「奴」の字が頻繁に使われていることから見て、恐らくは写本の際に脱植があったのでしょう。
そしてこの二十一国に先の八国と狗奴国を加えるとちょうど三十となり、倭人伝の冒頭に記された「今使訳通ずる所は三十国」と一致する訳です。
逆に言えば魏との間に人や物資の往来がある国々だからこそ、その国名を『魏志』に記載されている訳で、当時の日本で大陸と交易していた国々は、ほぼ例外なく邪馬台の傘下にあったことになります。
と言うより後の勘合貿易と同じように、邪馬台の許可がなければできなかったのでしょう。
 
ここまでくると女王の境界の全貌が見えてきます。
即ち当時の女王圏というのは、首都の邪馬台が畿内にあって、対馬から山陰を経て畿内に至るまでの、西日本一帯に及んでいたことが分かります。
では四国や山陽地方はどうだったのかとなると、大陸との交易を邪馬台が押さえてしまっている以上は、否応なしに女王の傘下へ入るしかなかったでしょう。
そして邪馬台の東(倭人伝では南)に狗奴という女王に属さない国があった訳です。
ただ後の日本史を知る我々は、首都が畿内に置かれているということに違和感を覚えないので、仮に王都邪馬台が畿内にあって、そこから女王が西日本を統治していたと聞いても何ら疑問を抱かないのですが、これは考古学的に見ると実に興味深い事実を含んでいます。
 
 
 
 
邪馬台は東から来たか
と言うのも、西日本一帯を領土とする国家の首都が畿内というのでは、余りにも首都が東に偏り過ぎているからです。
他国の例を挙げてみると、漢の首都長安は国土全域から見れば著しく西に偏っていますが、これは秦の首都咸陽を踏襲しているからです。
そして秦の首都咸陽というのは、元来は秦の故地である関中の中心であって、秦が西の関中から東の中原へと領土を拡大し、遂には天下を統一した後も秦帝国の首都としたため、統治対象の大半が東にあるという歪な形になりました。
これは西周の首都鎬京も同様です。
またアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.も今では国土の東端になってしまっていますが、独立前の十三州だけを見ればほぼ中心になります。
同じく位地的に偏った首都として北京があり、そもそも北京を統一帝国の首都としたのは蒙古族の建てた元で、永楽帝が明の首都として踏襲したことから、清以降も支那の首都として定着しています。
そしてこの蒙古族、燕王朱棣(永楽帝)、満州族の三者に共通しているのは、いずれも北から南下して天下を平定したということです。
 
従って倭国の女王が、その版図の最も奥(東)から領内を統治していたということは、かつて周や秦が西の奥から東へ進出して行ったように、邪馬台は(従来の説とは逆に)東から西へと領土を拡大した国か、或いは南の楚から起こった漢が西の関中を都としたように、もともと畿内に存在した王都を継承したのが邪馬台だったとも考えられる訳です。
確かにそうした面から見てみると、畿内は関中と同じく守るに適した土地であり、事実神武帝の軍勢も一度は撃退されて、紀伊半島を迂回して背後の山道から攻め入るしかありませんでした。
また周や秦が本拠とした関中は、古くから東西の文化が交流する場所として知られ、特に秦の躍進の背景には鉄器を始めとする西方文明の流入を指摘する声が多くあります。
そして日本の畿内から琵琶湖周辺の地域もまた、東西の異なる文化の交流地点であったことが、近年の遺跡の発掘などから次第に解明されてきています。
或いは邪馬台もまたそうした環境下で国力を蓄えた後、中国地方から更には九州へと進出して行った集団だったのかも知れません。
 
邪馬台王室考
ここで周と秦の王室について軽く触れておくと、周王室は姓を姫と言い、その家系が歴史に登場するのは殷の帝辛(紂王)から西伯に封ぜられた文王の代で、その祖先については文王の祖父を古公亶父と伝える以外に(信憑性に欠ける伝説を除けば)殆ど記録がありません。
そしてその文王の子が殷を滅ぼして周王朝を興した武王ですから、周朝八百年の宗主でありながら、実際にはいつ頃どこから来た氏族なのかも一切不明なのです。
周王室の家伝によると、姫氏の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて功績があったとされているものの、この逸話は後世の創作でしょう。
一方の秦王室は、周が犬戎に追われて東遷した際に、時の平王を護衛した功により、周の故地である岐に封ぜられたという襄公を初代と伝えています。
しかし春秋五覇の一人である穆公(第九代)以前については不明な点が多く、かつて周の孝王に仕えて功績のあった祖先が、嬴姓を賜って秦の地に封ぜられたのが始祖と伝えるものの、やはりこれも史実というには説得力に欠けます。
 
では邪馬台国の王家が、いつ頃どこから来た氏族だったのかとなると、当然ながらこれは全く分からりません。
何しろ周や秦の王室の出自でさえ曖昧なくらいですから、文字すら無かった時代の倭王の家系など調査の術もないでしょう。
ただそれが更に東から来た集団だったのか、或いは始めから畿内土着の勢力だったのか、或いは後の大和朝廷のように西から畿内へ移住した一派だったのか、分からないまでも有り得る限りの可能性を模索し続けて行くことは決して無意味ではないでしょう。
そして邪馬台国に関しては、既に多くの識者が実践している通り、記紀神話や大和朝廷の歴史とも照らし合せて考察することが重要であり、双方の欠けている箇所を補完することで見えてくる真実もあると思われますが、それについては後述します。

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