史書から読み解く日本史

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武帝の功罪(汚職の蔓延)

2019-03-08 | 漢武帝
治安の悪化と並んで、内政面での武帝の評価を落としている現象に、汚職の蔓延があります。
無論汚職そのものはいつの時代にもあることで、何も武帝の時代に限ったことではないし、これから先も絶対になくなりません。
また当時の漢は世界有数の超大国であり、且つ先進国でもあったから、どれほど汚職が目立つようになったと言っても、それが大漢帝国を傾けたとか、統治機構を崩壊させたなどということもなありませんでした。
とは言え武帝以降の漢では、治安の悪化と同様に、汚職もまた国民からは当然の日常と認識されるようになっており、歴代の皇帝にとっても頭の痛い問題であったことに変りはありません。
何しろ本来は君主を補佐して、それを撲滅すべき立場にある朝廷の重臣でさえ、お世辞にも清廉潔白とは言えませんでしたから、効果的な改善など余り期待できないのは自明の理であったかも知れません。

恐らく汚職と聞いて誰もが真っ先に思い浮かべるのは、やはり収賄でしょうか。
古来収賄は汚職の代名詞とも言うべきもので、いつの時代も人々が殊更に収賄を忌み嫌うのは、誰もが共通の法規を守り、且つそれが平等に適用されることを前提に成り立っている社会を、根底から否定する行為だからに他なりません。
もし賄賂によって自分に都合の悪い法令が適用されるのを免れたり、権力側から特別な便宜を図られるような不正がまかり通れば、決め事を守って真っ当に生きるのは愚か者ということになってしまいますし、公的立場にある者がその権限を利用して私腹を肥やすような行為を許せば、真面目に働いて日々の糧を得るのが馬鹿々々しくなります。
しかしそうした民心とは裏腹に、収賄の横行が社会を頽廃させたとか、高度な文明を退行させたなどという例は殆どなく、それが売国行為でもない限り、実際には余り神経質になる必要もないような部類の汚職なのですが。

例えば今なお突出した超大国であるアメリカ合衆国は、建国以来それを抜きにしては歴史を語れないと言っても過言ではないほど、社会全体に収賄とその効力が根付いています。
二十一世紀の現在はともかくとして、少なくとも東西冷戦が続いている間でさえ米国では、警察や判事であろうと金さえ積めば当然のように買収できましたし、政治家を利用するためのロビー活動が公然と行われるなど、一切の収賄を用いずに事を為そうとする方が却って珍しいくらいだったと言えます。
にも拘らず米国は衰退するどころか、追従する国も見当たらないほどの繁栄を持続している訳ですから、この現実を見ても国家の盛衰と収賄との間には、殆ど関連性のないことが分かります。
むしろ今も昔も買収大国である米国は、建国以来一貫して世界で最も先進的な法治国家であり、現在もなお行政・立法・司法の各分野に於いて、万国の基準となる統治能力を保持しているのです。

言わば合衆国のような国の場合、どれほど収賄が横行していると言っても、それはあくまで憲法以下の諸法規と、その法令によって定められた諸制度が、常時世界最高の水準で維持された上での話であって、元よりそうした些細な汚職が直接国家の体制に影響を与えるようなものではありません。
実のところ制度と収賄の関係については再考すべき点も多く、時には無茶苦茶とも言える超法規的な措置が、結果として社会の発展に多大な貢献をしたような事例が多いのもまた事実なのです。
逆に言えば国家という土台があってこその汚職なのであって、今も各地の後進国で見られるように、上は政治家から下は末端の役人に至るまで、賄賂がなければ何一つ事が進まないなどという国は、そもそも基本的な体制そのものが機能していない訳ですから、既にそれは汚職ですらないと言えます。

果して収賄が必ずしも汚職と言えるのかという点ついては、よく引合いに出される例として江戸時代の慣習があります。
江戸時代の日本が、(それなりの人口と文化水準を満たした国としては)世界史上最も平和な国であったことは異論を挟む余地もないのですが、その一方で江戸時代は、日本史上でも他に例を見ないような贈答社会でもありました。
その贈答社会の生んだ悲劇の一つに『忠臣蔵』がある訳ですが、当時の日本では誰かに何かを依頼したり、助言や教示を乞うような場合、(たとい相手はそれをするのが職務上当然であったとしても)それ相応の金品を贈呈するのが慣習化しており、赤穂浪士による吉良邸討入りが社会問題となった後も、贈答そのものを制限すべきという議論にはなりませんでした。
言わば収賄という必要悪である以前に、金品の往来が文字通りの潤滑油となることで、制度の穏便な運営に役立っていた訳です。

そして「清官三代」という俗諺もある通り、支那大陸もまた有史以来一貫して、根深い収賄社会であることは論を待ちません。
しかしその一方で中国は、秦による中央集権や唐の律令など、常に世界の規範となるような法治の環境が整備されているのも事実で、この相反する漢民族の二面性もまた、前述の通り国家に於ける建前としての制度と、法外の領域でそれを運営する人治との連動性を、学問として体系的に考察しなければならない所以でもあります。
当然ながら武帝の時代もまた、御多分に漏れず帝国全土で収賄が横行しており、流石に朝廷も事態を重く見て度々綱紀粛正を命じてはいるものの、実のところ余り効果はありませんでした。
ただ武帝の治世に問題視された汚職としては、確かに収賄もその一つには違いありませんが、後世への影響の大きさという点から見れば、実は更に別の問題がありました。

収賄とは別に、武帝の治世に蔓延した汚職というのは、役人が自分の立場や権限を利用して、我先にと私財を蓄えていたことでした。
誰しも役人の蓄財と聞いて、真っ先に連想するのは賄賂やリベートでしょうし、前述の通りそれはそれで横行していたのですが、この場合はそうした他力本願の収入ではなく、役人自身(或いはその身内)が率先して土地や金品等の私有財産の入手に精を出していたのです。
無論こうした風潮を踏み出したのは、急激な経済発展と、それに伴う富裕層の増加であり、時代の波に乗って上手くやっている成功者を目の当りにした人々が、「舟に乗り遅れるな」とばかり一斉に同じことを始めたのでした。
言わば史上空前の経済成長を支えた活動の中には、そうした違法な事業も多分に含まれていた訳です。

尤も社会を根底から変えるような発展の裏側で、その原動力として公権力が大きな比重を占めるのは、今も昔も変りません。
例えば今なお厳然たる支配力を持つ欧州の大財閥や、多国籍企業の上位を独占する米国の超巨大資本、旧財閥系から続く日本の中核企業など、近代の金融産業界を代表する経済資本にあって、大なり小なり公権力との結託なしに発展した例は、まず一つもないと言えます。
ただ根本的に異なる点として、こうした近代の資本と権力との関係では、経済活動を通して利益を追求していたのは銀行家や企業家といった民間人であり、政治家や官僚はあくまでその協力者として仕事をしたに過ぎず、両者の間には明確な棲み分けが為されていることです。

しかし流石に今から二千年も前の漢代では、近代のような資本形態などある筈もなく、公人と民間人、即ち為政者と資産家の境界はないに等しいものでした。
何しろどれほどの土地を持つ地主であろうと、単に農民というだけでは県の末端の役人にさえ頭が上がらず、どれほどの人や物品を動かす力を持つ商人であろうと、商人という職業そのものが下層の扱いを受けていたような時代であり、社会的な地位と財産の双方を手に入れようとするならば、官僚になって俸禄を受給する以外の進路はなかった時代です。
従って個人にどれほどの資質があろうと、当時にあって庶民が自力で成し遂げられることなど高が知れていますから、周りの人間に負けぬよう自分の家系を繁栄させたければ、それなりの公権力(もしくはその地位にある身内)を利用するのが一番手っ取り早い方法なのでした。

具体的に言うと、この頃に中央地方を問わず流行していた汚職というのは、立場を利用した公的財産の私物化とも言うべきもので、公費で開発した農地を占有する、公共施設を専横して私物化する、租税の一部を横領するといった類の行為です。
更にこれが酷くなると、他人が苦労して開発した土地を没収したり、利権の大きい部署の先任者を排除して自分の身内を後釜に据えたり、商人と結託して官物を転売するといった具合になります。
無論こうした所業は汚職の最たるもので、発覚すれば一族まで連座するほどの重罪なのですが、大なり小なり誰もがやっていることでしたから、恐らく現代の汚職大国もそうであるように、当事者に罪の意識などは微塵もなく、発覚したら運が悪かったというくらいの感覚だったでしょう。

武帝の治世は開発の時代とも言えて、未耕地の開墾のような新興の開発も大々的に行われたのは無論のこと、旧市街地や生産性の低い圃場の再開発等も帝国全土で進行したため、そこに莫大な利権が生じたのは自然の流れだったと言えます。
そして地主や商人のみならず、役人や裏社会までもが国を挙げて私利私欲に走った結果、もはや何が合法で何が違法なのかも判別できないほど、経済全体が甚だ混沌化して行きました。
従って汚職が蔓延したと言っても、建前としての法令はともかく、社会の実態に照らし合わせれば、果してどこまでが公務でどこからが汚職なのか、その判断に適性を求めるのは殆ど不可能に近かったと言えます。
何しろ厳格に法を適用しようとすれば、上は政府の高官から下は郷村の役人に至るまで、臣下の大半が犯罪者になってしまうのです。

但し現実問題として、既存の法律や制度は未来の情勢を想定していませんから、もともと社会の急激な変化に対して迅速な対応などできませんし、新たな政策が現状に追い付くまでの間にかなりの時間差を生じます。
その過程で一時的な無法状態を許してしまうのは、是非善悪を別にしても避けられないもので、進行する社会情勢に対応すべく施行される制度や法律は、そうした無法によって淘汰された現実を追従し、ある程度はそれを事後承諾する形で制定する以外に方法がありません。
そして現代も旧共産圏の諸国等で見られるように、殆ど無法地帯とも言えるような放縦経済が、結果として国家の躍進を牽引したのは紛れもない事実であって、それを強権で無理矢理抑え込もうとすれば、忽ち景気が失速して更なる混乱を引き起こしますから、政府としても一時的に黙認するしかない訳です。
尤も国家の方も強かなもので、しばらくは自由に泳がせておいて、機が熟したら全てを取り上げてしまうような権力者もいるのですが。

一例を挙げてみると、凡そ武帝の前後を境として、漢では国の根幹となる農業の形態が変りつつありました。
従来のような農村の小規模農家を主体とする生産体制から、小作人を使用した地主による大規模経営へと移行し始めていたのです。
そして逃亡農民や新興豪族というのは、そうした流れの中から出てきたもので、言わば国全体で産業構造が変革期を迎えていたのでした。
しかし漢の制度は、基本的に農村の統治を前提としたものでしたから、農民の逃亡(減少)によって荒れ果ててしまった村落や、逆に郷村とは無関係に農場を経営している大地主といった、想定外の事態に対しては適切な対応ができません。
そこで既存の法令に当て嵌まらないような法の空白分野に関しては、担当する部署や官吏の人治によって埋めざるを得なかったため、結果としてそれが汚職の温床ともなっていました。

またそれは商売についても同様で、従来の発想で商売と言えば、各地に立つ市での物々交換や、旅の行商人といった程度の認識しかなく、商取引に関しては細かい規定や罰則も設けられていませんでした。
と言うより古来「商人は法の外」という固定観念さえあったと言えます。
従って国内の経済成長が続く中で、殆ど制約を受けなかった商人達は自由を謳歌し、才覚と欲望の赴くままに巨万の富を築き上げて行ったのです。
そして極端な富の集中が至る所で不穏な空気を発生させていました。
また複雑化した経済活動は、随所に未知の火種を発生させていて、取引上の揉め事や、利権を巡る争い、需要と供給の不確定性、物価の乱高下など、全く新しい問題が次々に噴出しており、朝廷としても早急な対応が求められていました。

そうした状況下にあって、武帝も様々な経済政策を試みていますが、中でも特に著名なものに、塩と鉄(後年これに酒も加わる)の専売制と、均輸法・平準法という物価安定策があります。
これらの法が施行されたのは、武帝の即位から約二十年を経て、ちょうど衛青等による匈奴との戦争が佳境を迎えている頃で、いずれの策も桑弘羊という者が建言したのだといいます。
塩と鉄について言えば、どちらも社会の必需品であると同時に、国家にとっても重要な戦略物資であり、専売制が実施される前には、市場への流通はほぼ商人に任されていました。
そして豊富な資金力を背景に、各地で塩と鉄の利権を独占していた大商人は、在地の有力者や役人とも結託して暴利を得ており、それが政府から格好の標的とされたのは、いつの時代も変らぬ自然の流れだったと言えます。

武帝が帝国全土に於いて、塩と鉄を国家の専売とすることに決定した主な理由は、政府の財政収支を常に安定させるためで、その背景には長引く匈奴への外征の負担がありました。
いかに大漢帝国が富強とは言え、最大の外敵との十年近くにも及ぶ戦役は、文景時代とは比較にならぬほど国家財政を圧迫しており、要は戦時体制下に於ける戦費の捻出という側面もあった訳です。
しかし市場原理を無視して、国家が販売を統制するというやり方は、現実の経済活動との間に乖離を生じることも多く、専売制の存続を巡っては武帝の死後に朝廷内でも論争が繰り広げられており、それを記録したのが『塩鉄論』です。
そして塩と鉄については専売が継続されたものの、酒については廃止されています。

均輸法と平準法は、どちらも国内の流通と物価を安定させるための法で、帝国全土で生活水準を向上させた(平均化させた)という点では、それなりの成果を上げた法律です。
均輸法の内容は、ある物資の余っている(安い)土地からは国家へ納付させ、それを不足している(高い)土地へ持って行って安く売ることで、その物資の価格を全国で均一化することと、天下に隈なく流通させることを目的とします。
もう一方の平準法は、ある物資の価格が下落した際には、政府がこれを買い支えて物価を安定させると共に、購入した物資を国庫に貯蔵しておき、逆に価格が高騰した際には在庫を放出することで、需要と供給のバランスと、価格の高下を一定範囲内に留めることを目的としていました。

そしてどちらの法も近世以前の国家の経済政策としては基本的もので、世界各地で同じことが繰り返し行われている一事を見ても、所信として間違っていた訳ではないでしょう。
しかし問題だったのは、その理念ではなく実務の方で、実際に現場で輸送や売買の運営を担ったのが役所だったことです。
また両法は国内市場を安定させるために制定されたとは言え、その過程で発生する利益を政府の収入とすることも意図していましたから、それが役人の利権と化してしまう危険は常にありました。
加えて当時はまだ現代に比べて遥かに民度が低く、前述の通り公務と民間の区別も甚だ曖昧(と言うより殆ど区別がないよう)な時代でしたから、こうした制度そのものが必然的に汚職の温床となって行きました。

ただ外征が華々しい戦果をあげている間は、内政面で多少の不具合があっても、大事の前の小事ということで、余り至急の課題となることはありませんでした。
と言うより外交や戦争のように目に見えて成果の現れる(逆に失敗の影響もすぐに現れますが)政事と違って、内面的な災禍は今すぐ社会全体に多大な影響を及ぼす訳でもないので、事の重大性に反して問題を先送りする傾向があります。
ですがそれは逆に言えば、成功にかこつけて将来の禍根を放置しているに過ぎず、むしろそれこそが武帝の治世そのものだったと言えます。
やがて外征と成長が一段落すると、否応なしに目を逸らしていた内情を直視せざるを得なくなり、それが晩年の武帝の錯乱にも繋がって行くのです。

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