史書から読み解く日本史

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武帝の功罪(豪族の台頭)

2019-03-07 | 漢武帝
治安の目安となるもう一つの犯罪とは、庶民と犯罪者の垣根がないような日常の軽犯罪ではなく、盗賊や裏社会といった組織的な犯罪で、代々漢の朝廷が頭を痛めたのもこれでした。
いつの時代もこうした犯罪組織というのは、社会から逸脱して行き場を失った不適格者に加えて、国内の少数民族や海外からの移民といった、所謂マイノリティと呼ばれる集団よって構成されるのが一般的です。
そして武帝の治世はその輝かしい成功の陰で、前述した流浪農民の他にも、度重なる徴兵や徭役によって多数の逃亡兵を発生させており、故郷にも帰れない彼等は無戸籍の日陰者として生きる以外に術はなく、その中から多くの犯罪者が育成されて行きました。
また急激な領土拡大は多様な人種を国内に抱え込むことにもなり、それに伴って従来の生活手段を失った民族や、漢人の制度に溶け込めない集団も随所に同居していましたから、犯罪組織の予備軍には事欠かない状態だったと言えます。

但し当時の漢帝国は世界有数の超大国であり、同時に先進国でもありましたから、今も各地の途上国で見られるように、犯罪組織が社会に隠然たる影響力を持つなどということはありませんでした。
それでいて犯罪の増加に歯止めが掛からなかったのは、急激な発展に伴う社会の変革によって、戦国時代から連綿と受け継がれてきた民間の秩序が、根底から崩れ始めていたからに他なりません。
もともと社会の治安を維持しているのは、決して法律や行政などではなく、基本的にはお互いに歴史や文化を共有し、規則や常識を尊重することによって成立する民衆の自治能力だからです。
これは一般に「村社会」などとも言われるもので、時にそれは閉鎖的で不自由な組織の代名詞のようにも扱われますが、江戸時代の鎖国を見れば分かる通り、本来平和とは閉鎖的な空間でお互いが不自由を忍ぶことですから、誰もが個人の自由を求めて開放を望めば、民間の自治能力が失われるのは自明の理と言えるでしょう。

日本を例に取れば、戦後も(戦前ほどではないにせよ)昭和の頃までは、あらゆる組織や共同体にこうした自治能力が当然のように備わっていました。
仮に共同体内で罪を犯す者が出たとしても、殺人のような余程のことでもない限り警察沙汰にはしないとか、内輪や他の組織との間で揉め事が起きても、内々の調停で済ませて裁判沙汰にはしないとか、自分達の土地は山林や水路に至るまで住民総出で管理して、なるべく行政の手を煩わせない、つまりは公金を浪費しないといったものです。
無論そこには無条件に協調を強いられる共同体の内規や、組織の長(オヤジ)には絶対服従の理不尽な縦社会のように、個人の権利よりも組織の存続を優先する郷村の風土に加えて、地域の顔役といった必要悪の存在もあって、必ずしも「古き良き」とばかり言えないのは事実なのですが。

しかし現代の日本では、隣近所との些細な揉め事も警察に通報、身内の財産分与も裁判所が調停、自分達が住む土地の清掃も行政任せといった具合に、民間の自治能力が著しく低下してきています。
但しこれは社会が豊かになったことの証でもあって、共同体に頼らずとも自活が可能になったことで、家族にとって必要以上の不自由には甘んじることなく、共同の負担は労力ではなく税金で支払うといった具合に、貧しさという不自由から解放されたが故の変化なのです。
確かに漢代や平安時代と、現代の先進国とでは、その置かれた状況が全く異なるとは言え、国家全体を一変させるような経済成長の末に、社会の根底を支えてきた民衆の自治能力が失われ、それと並行する形で犯罪が増加し始めたという点では同じであり、今はまだ比較的治安の良い日本も、今後は他の先進国並の犯罪発生率を覚悟しておいた方がいいかも知れません。

そしてここで問題となるのは、民間の自治能力が低下してしまった以上、国民には納税という形でそれを負担させて、長く民衆が互助活動によって補ってきた分野を行政が代行しなければならないのですが、既にその頃には行政側にもそれだけの能力がないことです。
これは何とも始末に負えない話であって、確かに経済成長は税収を増加させますが、政府というものは入れば入っただけ予算を付けてしまいますし、税収を天下に還元するのも政府の仕事ですから、成長が一段落して不況の波が来る頃には、潤沢だった資金はとうに底を突き、財政は火の車というのが常となります。
これは漢帝国の最盛期を築いた武帝の時代も同様であって、文景両帝が節約を励行したこともあり、武帝が即位する頃には銭穀が溢れていたという漢朝の国庫も、後年は増税をしなければならぬほど逼迫していました。

また経済成長に伴う税収の増加は、役所と役人の数も爆発的に増加させます。
人口の増加や領土の拡大といった自然増は元より、公共事業によって次々に建てられた施設や、社会の多様化に対応すべく新たに設置された部署など、果してそれが本当に必要だったのかという職種も含めて、財政に占める固定経費の額は年々凄まじいものになって行きます。
言わば民衆の自治能力が失われる頃には、中央地方を問わず既に政府の収支もまた限界を迎えており、行政が自治を代行するどころか、財政を健全化するために行政機能を縮小させ、逆にこれまで政府が行ってきたことを民間に委託しようという、全く相反する流れが同時に進行する矛盾に突き当たる訳です。

そして所謂「小さな政府」を実現するためには、江戸幕府や鎌倉幕府のように、地方の事は地方の自治に任せて、政府は中央政府としての統治に専念すべきだというのは、寸考すれば誰にでも分かることでしょう。
しかしそれが可能なのは、集落等の最小単位まで自治環境が整っている場合であって、今流行りの地方分権のように、末端レベルの自治機能が低下している状態で地方自治体に権限を丸投げすれば、終いには住民の大半を公務員にしなければ手が回らないという喜劇を生じます。
当然ながら漢朝であれ平安朝であれ、増え過ぎた部署や業務を縮小して人員を削減し、不要な国有地や公共施設は民間に払い下げるなど、最終的には権限の維持よりも財政の健全化を優先しており、むしろ国家の破綻を回避しようとするならば他に選択肢はありませんでした。

つまり資産家に富が集中する一方で、農民が土地を捨てて流浪するなど、漢帝国を支えてきた末端の自治共同体が崩壊を始めたにも拘らず、政府にはそれを補助するだけの余力がないとなれば、いつまで経っても根本的な社会不安は解消されない訳ですから、それが治安の悪化を招くのは避けられない結果だと言えます。
とは言え依然として漢帝国は健在であり、途上国のような犯罪大国になることもなく、その後も世界的な基準で見れば十分過ぎるほど平和だったのは、社会全体に政府や庶民とは別の自助能力が働いたからに他なりません。
要はそれが豪族だった訳です。
実のところ漢代も半ばを過ぎると、徴税や治安の維持といった末端の統治は、行政に代って地主が担うようになっており、行き場を失った民衆に職を与えて定住させるなど、労働力を管理していたのも彼等でした。

一般に豪族などと言うと、「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺にもある通り、自分の領地では絶対者として振る舞う地方の親分といった、余り好ましくない印象を持たれることが多いと思われます。
しかし半ば壊滅していた農村を再生させたり、行政能力の低下した地方官庁に代って国家を支えていたのは、紛れもなくそうした豪族達であって、むしろ漢朝や平安朝などは、彼等が存在したことによって政府を身軽にできたのです。
平安時代の日本を例に取ると、自作農制度の崩壊によって多くの農村が機能しなくなる中で、国衙や有力寺社からその復興を請け負ったのが在地の武士であり、彼等が開発地主と呼ばれたのはそのためです。或いは今後の日本にもそうした時代が来るかも知れません。

もともと盗賊のような犯罪組織にとって、何も持っていないような民衆を襲うより、裕福な資産家や官物を狙った方が手っ取り早い訳ですから、ある程度の財産を持つ者ならば誰しも庶民に比べて治安には敏感になります。
そして余りに犯罪が多発するようになると、彼等は自分の家族と財産を守るために私兵を養って武装するようになりました。
本来秦が戦国を終らせて天下に統一の法治を施行して以来、個人が武器を所有したり、兵を囲ったりするのは禁止されていたのですが、政府が犯罪の増加を止められない以上、否応なしに身を守る権利は認めざるを得なくなります。
また政府や郡県が地主や大商人に対して、ある程度は自衛のための武装を認めたのは、その兵力が地域の治安維持に役立つという一面もあったからで、要は警察力の不足を自警団で補おうとした訳です。

因みに現代のアメリカ合衆国に於いて、大富豪がこれ見よがしの豪邸に住んでいられるのは、個人が武器を所有する権利を認めているからで、もし違法に銃剣を所持している犯罪者に対して、自分や護衛の方は徒手での対応を強いられるならば、富豪は米国を捨ててもっと治安の良い国へ移住しなければならなくなります。
また日本の時代劇などを観ていると、庄屋や商人といった江戸時代の資産家が、腕の立つ浪人や荒くれ者を用心棒に雇っている場面が出てきますが、史実に従えば実際の彼等は家族や財産を守るための私兵など持っておらず(幕府も禁止していましたが)、その一事だけでも江戸時代の驚異的な治安の良さが窺い知れるというものです。
むしろ自分の身を守るために私兵を養っていたのは、資産家ではなくヤクザ者でした。

ただ在地の有力者に武装を認めたことは、それが地域の治安の回復にも効果を得た反面、利害を巡って豪族同士が私闘を始めるなど、時にその兵力が却って社会不安を招くという副作用も生じています。
或いは豪族と犯罪組織の境界が曖昧だった例も多く、昼間は農民を指揮して田畑を耕作している地主が、夜には地元の顔役という裏の一面を持っていたとか、官庁から公馬の管理を任されている牧場の下司が、裏へ回れば盗賊の頭目だったなどというのも決して珍しいことではありませんでした。
やがてそうした小豪族もまた、自然の淘汰の中で限られた有力者の下に集約されて行き、広大な土地と農民、そして私兵を有した彼等は次第に小領主の様相を呈するようになり、遂には州郡の中枢にも食い込んで地方の自治権を占有するようになりますが、それはまた後の話です。

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