史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

記紀神話:天の岩戸隠れ

2020-01-02 | 記紀神話
岩戸隠れを巡って
ではアマテラスの岩戸隠れとは一体何だったのでしょうか。
アマテラスが日神とされていること、日神が石窟に籠ると葦原中国が昼夜の区別もない常闇となったこと、彼女が石窟から出てくると再び世界に光が満ちたこと等から、これを日食に比する説は古くからあって、確かにこの物語の構成要素の中に日食という自然現象が含まれている可能性は高いと思われます。
また天照大神のモデルとなった女神は一人ではなく実は二人で、岩戸隠れの物語は新旧女王の交代劇が神話化されたものではないかとする見方もあり、『魏志』倭人伝にも二人の女王が登場すること等から、これも一定の支持を得ているようですが、ここでは敢てどちらの説にも立ち入りません。

岩戸隠れと石窟
アマテラスの石窟籠りを語る文言は、『古事記』では「天の石屋戸を開けてさし籠りましき」とし、『日本書紀』本文では「天の石窟に入りまして磐戸を閉じて幽り居しぬ」とします。
どちらもかなり不穏なことを連想させる表現なのは事実で、『万葉集』の中にもそれを暗示するような歌があること等から、石窟籠りをアマテラスの死と解説する書も珍しくありません。
「石屋」と「石窟」は共に「いわや」と読み、山の壁面などに開いた岩窟のことです。
天然の洞窟もあれば人工の石窟もあります。
初歩的な誤解を招きやすいのは「磐戸」の方で、これは何も岩の戸という意味ではなく、『古事記』には「石屋戸」とあり、黄泉の入口を「黄泉戸」と言うように、単に石窟の入口を指す言葉で、必ずしもそこに戸が設けられていた訳ではありません。

例えばイザナギが黄泉の国へ妻を追って行き、これをイザナミが出迎えた時の様子について『古事記』には、「ここに殿の縢戸より出で向かへし」とあります。
殿というのは、これが神話であれば黄泉の国でイザナミが横たわっていた館、殯であればイザナミの遺体が安置されている館もしくは部屋であり、「縢戸」は「さしど、くみど、あがりど」などと読まれますが、意味するところはイザナミのいる館の入口であって、そこに現代の我々が思い浮かべるような戸があったとは限りません。
もともと黄泉巡りの神話自体が、殯という日本古来の儀式を神話化したものだと言えますが、腐敗した遺体を見て妻の死を確信したイザナギは、彼女を本葬して陵墓の入口を文字通りの岩戸で塞いだのでした。
因みに同じ語法により、海への入口は水戸(水門:みなと)であり、山への入口は山戸(山門:やまと)となります。

ではアマテラスが籠ってしまった石窟というのは、一体どういうものだったのでしょうか。
無論今となってはその概容さえ知る由もありませんが、日本のみならず東亜に遺る石窟の多くが、住民から神聖な場所として崇められている土地、または何らかの人工的な宗教施設であることから、恐らくはアマテラスの石窟にしても、彼女にしか立入りを許されない高位の霊場、または宗廟のようなものだったと思われます。
要はスサノヲの悪行に怒ったアマテラスが、里の宮殿を出て山の石窟に移ってしまった訳で、彼女は高天原の国主ですから当然その間はまつりごとが滞る、つまり世の中が闇夜となります。
諸神は何とかしてアマテラスを呼び戻したいのですが、彼らは石窟の中までは入って行けないので、皆で知恵を絞って彼女が自発的に出て来るよう仕向けたというのが、この神話の大まかな流れになります。

岩戸隠れの背景
ただやはり疑問として残るのは、アマテラスを石窟に籠らせた事由に関する件で、史書で言うように祭事を行う神殿に糞をしたとか、機屋に皮を剥いだ駒を投げ入れたなどというのも常軌を逸した蛮行には違いありません。
従って直接の引金はその通りだったかも知れませんが、高天原の国主が宮殿から石窟に移ってしまったことや、その後の騒ぎの大きさに対する説明としては説得力に欠けるものです。
記紀共に高天原に於けるスサノヲの悪行として挙げているのは、いずれもアマテラスへの非礼に関するものですが、恐らく前にイザナギがスサノヲを放逐した項で描かれた彼の性状や暴虐性こそが、衆神から見た高天原でのスサノヲの実態と非道の数々であり、それが史書の中では前後に振り分けて語られたものと思われます。

従ってそうしたスサノヲの行状に対して、国として然るべき対処をするよう求める訴えが、(相手が国主の実弟であるだけに)尽くアマテラスの下へ寄せられていたことは間違いなく、彼女は立場上それに応えなければなりません。
ただ父イザナギの子は数多いとは言え、恐らくアマテラスにとって血を分けた実の兄弟はツクヨミとスサノヲの二人だけで、どれほど出来が悪くとも掛替えのない家族であることに変りはありませんでした。
しかも厄介なのは、そもそもスサノヲが高天原に留まることを許したのも、その免罪符を与えたのもアマテラス自身だったことです。
当然諸神の方は、そうした経緯も踏まえた上で、スサノヲに対する厳しい対応を迫っていたものと思われ、記紀にもあるように初めの内こそ弟を庇っていたアマテラスでしたが、余りの無法ぶりに次第に庇い切れなくなって行ったのでしょう。

そんな姉の親心を知ってか知らずか、スサノヲの暴力は遂に庇護者であるアマテラスの近辺にも及び始めた訳で、これでは最早彼女としても弟を救済しようがありません。
ここに至ってアマテラスが取るべき道として考えられるのは次の三つで、諸神の求めに応じ情を捨ててスサノヲに厳罰を下すか、記紀にあるように敢て厳しい態度(奥に籠ってしまう等)を示すことでスサノヲに反省を促すか、アマテラス自身が諸神や民衆に対して責任を取るかです。
また神話では触れられていませんが、誰もがスサノヲの横暴を止められなかったことや、アマテラスが岩戸隠れという道を選んだことを鑑みると、恐らくスサノヲは常に屈強な取巻きを従えていたものと思われ、打つ手を誤ると内乱を引起し兼ねないような状況だった可能性もあります。

行間から読み解くもの
また全ての事象が史書に記されているとは限らないので、岩戸隠れにまつわる一連の騒動に関して、何か別の要因があったことも十分考えられます。
例えば後の神功皇后の治世について日本の史書では、皇后が海を渡って新羅に攻め入り、新羅王を臣従させたという一時的な戦果は伝えていても、その後に新羅の救援要請を受けて南下した高句麗軍によって占領地を奪回されたことや、その四年後に百済救援のために再び朝鮮半島へ出兵しながら、待ち受けた高句麗軍に大敗させられたことの記録は全て削られています。
二度の敗戦という結果に終った朝鮮出兵は、その後の神功皇后から応神帝への権力の移行に際して、直接の原因になった可能性も指摘されるほどの出来事ですが、朝鮮側の史料がなければ今も我々は知る術を持たなかった事件の一つです。
アマテラスの時代にも同じように歴史から消された事件がなかったという保障はありません。

岩戸隠れの場で何が起きていたかについては、諸神が磐戸の前で執り行った神事の真意を知ることもまた、物事の本質を解く鍵になるでしょう。
つまり記紀に描かれた神事に込められた祈りは、果して本当にアマテラスを称えるものだったのか、或いは一説に言われるようにアマテラスを弔うものだったのか、或いは同じく一説に言われるように新たな女神を祝うものだったのかということです。
神式の儀礼では慶弔を問わずに榊を用いるので、榊を一本なりに根から掘り起こしてきたのは良いとして、その榊に掛ける鏡や玉を新たに造らせたとか、思兼神の発案で偶像を造らせたという件や、天細女命の演舞と神憑りなどは、何らかの手掛りを含んでいるかも知れません。


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