史書から読み解く日本史

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武帝の功罪(人事の成否)

2019-03-13 | 漢武帝
郡国に令して毎年有徳者一名を推挙するよう命じた翌年、馬邑に大軍を動員しながらも空振りに終った一件を契機として官軍の再編に着手するなど、着実に親政への移行を進めていた武帝でしたが、解決しなければならない問題は身近にもありました。
かつて劉徹は立太子の代償として伯母である館陶公主の娘と婚約しており、即位後はその妻を皇后に立てていました。
公主が陳氏という臣下に降嫁していたため陳皇后と呼ばれています。
その陳皇后は、武帝が即位できたのは自分の母親のお陰だということを知っていて、彼女の生まれ育った家庭が内親王である母親を中心に動いていたことや、夫の即位後もしばらくは実の祖母である董太皇太后が朝廷の実権を握っていたこと等も影響してか、帝に対して不遜な態度を取ることもあったようで、このいとこ同士の結婚は余り良い結果を生みませんでした。

太皇太后の存命中こそ公主と皇后に遠慮していた武帝でしたが、皇后が子宝に恵まれなかったこともあり、次第に武帝は皇后ではなく(後に皇后となる)寵姫の衛士夫と過ごす時間が多くなりました。
そして董太后の死から五年後、衛士夫を呪詛したという罪に問われて陳皇后は廃され、遂に武帝は政治と後宮を切り離すことにも成功しました。
以後武帝は女性が政治に口を出すことを認めていません。
衛青等が騎兵を率いて匈奴へ出陣したのはこの翌年であり、或いは陳皇后廃位の一件を以て武帝の青年期の終幕と見ることもできるでしょう。
時に武帝は二十七歳であり、この若い皇帝の親政の始まりは、漢帝国延いては東亜全体にとっての新時代の幕開けでもありました。

親政を始めた武帝は漢帝国の改革に着手して行きましたが、その成果が表れるのに然して時間は掛かりませんでした。
と言うのも表面には出て来なかっただけで、実際には朝廷の内部でさえ旧体制に対する潜在的な否定派は多数存在しており、しかもそうした改革の支持者達には若く活動的な人材が多かったからです。
反対に文景体制の維持を主張し、あくまで従来通りの方針に則った運営を支持していた保守派というのは、お世辞にもこれからの国家に必要とは言えない顔触れが揃っていました。
そうした保守派の大半は、個人の能力や実績ではなく、縁故や派閥によって取り立てられており、或いは過去に何らかの功績はあったにしても、その僅かな功名を生涯の拠り所としているので、自分達のやり方を変えようとしないのは無論のこと、誰かがそれを変えようとすることさえ認めませんでした。

武帝が断行した改革を論ずる場合、皇帝劉徹が余りにも個性的であるが故に、帝個人の意向ばかりを探る傾向にあります。
しかし現実に武帝を動かしていたのは、彼自身の意思よりも、むしろ周囲からの期待の方が大きかったと言えます。
十六歳での即位からしばらくの間は、天子とは名ばかりで、自分の意思だけでは何もできなかった武帝ですが、それは何も独り帝に限ったことではなく、新主に期待する人々もまた何もできなかったからです。
恐らく数ある景帝の皇子の中から特に劉徹が太子に選ばれ、やがて十代で即位した当初から、董太皇太后亡き後の彼の治世に期待を寄せる有志は多かった筈で、そうした臣下の想いは若い君主にも十分過ぎるほど伝わっていたものと思われます。
つまり親政を始めた武帝には、既にそれを可能とする支持基盤が備わっていたのであり、そうした助力がなければいかに皇帝とは言え、強固な保守派の牙城を崩すのは時間的に容易ではありません。

武帝が実際に即位して気付いたことは、結局のところ国家というものは、国権の最高責任者である君主自身が陣頭指揮を執らなければ、何一つ変えられないということでした。
無論これは現代のいかなる組織でも同様であって、例えばそれが政府や地方自治体であれば選挙によって選ばれた行政の首長が、企業であればオーナー社長もしくは株主から全権を託された経営者が動かない限り、仮に改革の必要性が眼前に迫っていたとしても、その組織は何も変りません。
逆に言えば、年功序列や天下りによって地位を得た老人や、縁故や依怙贔屓によって昇格した伴食に、組織の命運を賭けるような改革を期待したところで、そもそも彼等にはそれだけの権限がありませんし、そのための発想もありません。
これは会社が倒産の危機に瀕しながらも内部の人間だけでは終に建て直すことができず、外部からの強権を発動させることでしか再生できなかった企業を見ればよく分かります。

従って改革のためにまず武帝がしなければならなかったのは、あらゆる部署で人材を入れ替えることでした。
要はその任に堪え得る者には重要な仕事をさせ、堪えられない者はその任を解き、以後はそれなりの仕事しかさせないということであり、信賞必罰に基づく能力主義を導入した訳です。
更には武帝の志す新たな時代を理解し、それに向けて意識を変えることのできた者には機会が与えられ、漢帝国の新たな方向性を理解できず、古い意識を変えられなかった者は次第に居場所を失って行きました。
任子制の見直しと郷挙里選の導入も、そうした流れの中で実行された人事改革の一環であり、役席の数には限りがある以上、帝国全土から優秀な人材を集めるということは、功臣の子孫に割り当てられていた席数が減ることを意味していました。

結局のところ人間の組織というのは、人事の可否がその存亡を決するのであって、ある組織の将来を判断するには、その人事さえ見ればいいと言えます。
例えば内閣に期待が持てるかどうかは組閣の人事を見れば凡その見当が付きますし、ある会社の前途が有望であるかどうかは役職人事を見ればほぼ察せられます。
古来人事は全ての社会組織の基本であり、人事が適切であれば内部の誰もが納得するので、黙っていても組織内は何事もなく治まりますし、人事が不適であれば逆に誰もが納得しないので、いくら首長や幹部が声高に喚いたところで一向に治まりません。
そして人事が全てを決するということは、武帝の統治の成否もまた人事次第ということであり、史上最大とも言える帝業を可能としたのも、後世にまで暴君としての悪名を残してしまったのも、その原因は尽く人事に端を発していました。

武帝は五十年以上にも及ぶその治世に於いて、自己の判断によって実に多種多様な人材を登用しましたが、その明確な選考基準は特に伝わっておらず、皇族や外戚(寵妃の身内含む)を別にすれば、その選抜方法は多くの場合、自らの政治方針に沿うか否かということと、天子らしく己の直感でした。
そしてそれは在位期間を通して殆ど変ることはなく、漢帝国に史上空前の繁栄を齎したのも、晩節に汚名を残してしまったのも、実のところその根本は同じものであり、要するに若い頃は概ね上手く行った方法が、老いてからは逆に悪い方にしか行かなくなったに過ぎませんでした。
しかも厄介なことに、武帝本人は自分が変ったなどとは夢にも思っていなかったので、晩年やること為すことが尽く空回りするようになっても、かつて漢帝国を発展させたのと同じやり方をしていると信じており、生涯それを改めようとはしなかったのです。

少なくとも陳皇后を廃して後宮の憂いを除き、匈奴征伐に明確な成果が表れて以降は、武帝が自分の方針に最も忠実な臣下を抜擢するのは、それほど困難なことではありませんでした。
もともと武帝は大漢帝国の君主であり、財源や人材の不足を案ずる必要もないので、親政の意思を示してそれを実行に移せば、あとは優秀な臣下が上意を斟酌して行動してくれます。
むしろ臣下にしてみれば、漢朝の官僚として勤務する以上、果して今上がどういう人物で、何を好み何を嫌うのか、何に喜び何に怒るのか、いかなる所信で国政に臨み、国家をどこへ導こうとしているのか、予め察知しておかなければ出処進退を誤ることになります。
そうした点で漢の武帝こと劉徹は、始皇同様に多少の難しいところはあったにせよ、上の求めるところを臣下が理解するのに然程困ることはありませんでしたし、朝廷の方も人選の正当性を示し易かったと言えます。
そして武帝の方針に沿った人事もまた、初期の頃には尽く奏功しました。

但しこうした兆候は甚だ危険な一面も併せ持っています。
確かにこれが武帝の青荘年期であれば、臣下が探るべき主君の意向は基本的に帝の政治方針であり、それは取りも直さず漢帝国の進路でもありました。
もともと武帝の改革と言うのは、景帝まで続いた漢朝の政治を大転換させることであり、ある意味ではその方向性が甚だ明確でした。
仕える側にしてみれば、国の進むべき道や臣下のやるべき事を政府が明示してくれる訳ですから、これほど仕事がやり易い環境もありません。
ましてやればやった分だけ目に見えて成果が表れるならば尚更です。
加えて景帝末期の頃にもなると、あらゆる分野で社会が行詰りを見せ始めていたこともあり、総論賛成各論反対は多々あったにしても、元首である皇帝自らが改革の意向を強く主張すれば、世の中全体がその方向へ動いてくれたのでした。

そして武帝と漢帝国が最盛期を迎えようとしていた頃(或いはその前夜)には、まるで草木が風に靡くかのように、帝が命じた通りに人が動き、帝が示した通り(或いはそれ以上)に世界が変り、且つ誰もが想像だにしなかったほど多大な成果を齎しました。
言わばその頃の武帝と漢帝国の関係というのは、帝の望むことが即ち国家にとって良いことであり、帝はただ自分の信念を貫けば国家が富強になり、漢が偉大になれば結果として世界が平和になった訳です。
無論それ自体は実に素晴らしいことなのですが、やがてこれが自分の判断は絶対に正しいという全知意識と、自分が望んだことは何でも実現するかのような全能感を生むようになります。
そうした錯覚を起こすのも無理はないほど、この時期の武帝と漢帝国の勢いには凄まじいものがありました。

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