黄老の理念に基づき職務を行っていた漢朝の役人というのは、たといどんな不都合があろうと、基本的には現状をそのまま肯定し、既に出来上がっている体制を無理なく運営することを本分としており、そこに何らかの自発的な改革を求めることは殆ど不可能に近いような集団になっていました。
もともと内部の人間が、自分の所属している組織を変えること自体が甚だ困難であるのに、変えないことを是とする思想のお墨付がある訳ですから、殆どの役人は自分の任期中のことしか考えません。
従って武帝が即位した時、若く野心的な皇帝の目に映ったのは、凡そ合理化などという概念もなく、何をするにも仕事が遅い上に、自分には責任が及ばぬことを優先にして作業を進めているような、いつの時代にも変らぬ硬直化したお役所の姿でした。
もともと内部の人間が、自分の所属している組織を変えること自体が甚だ困難であるのに、変えないことを是とする思想のお墨付がある訳ですから、殆どの役人は自分の任期中のことしか考えません。
従って武帝が即位した時、若く野心的な皇帝の目に映ったのは、凡そ合理化などという概念もなく、何をするにも仕事が遅い上に、自分には責任が及ばぬことを優先にして作業を進めているような、いつの時代にも変らぬ硬直化したお役所の姿でした。
そしてその形骸化した組織に大改革を施したのが武帝だった訳ですが、その変革を現代に譬えてみると、景帝以前と武帝以降に於ける漢朝の変化というのは、ちょうど民営化を境にした電電公社とNTT、国鉄とJRのようなものだったと思えば分かり易いでしょう。
確かに日本の電電公社や国鉄は、民営化直前でさえ世界最高水準の技術力と信頼性を誇っており、経営面を別にすれば世界有数の優良企業でした。
但しそれは国際的な自由経済下で厳しい競争に晒されていた民間企業が、国民全体の経済水準を向上させていたからで、その競争を免れた国営企業の実態は、凡そ経営の基本を無視した赤字体質であり、その末路は民営化による分割でした。
同じくそうした競争がないまま、既存の組織を運営するだけで徒に時を過ごし、一時的な創業の勢いで築いた制度や施設が老朽化しても放置するに任せて、遂には国家そのものの老衰を招いたのが共産諸国だった訳です。
また競争は結果として常に勝者と敗者を生み、敗者に淘汰を強いることで健全さを保つ反面、各々が切磋琢磨することにより開発の費用や人材等の負担を分散することができ、且つその成果を共有できるという利点を持ちます。
しかし競争を否定してしまった社会では、他者の努力の結晶もまた享受することができないので、かつて共産圏に於いて、そのコストを実質的に一国で捻出していたソ連の負担は凄まじいもので、それを軽減するために同国が産業スパイを多用したのも無理からぬ話ではあります。
そして最終的には、その重荷に耐え兼ねたソ連が、自ら体制改革と情報公開を解禁することで長く続いた一党独裁を放棄し、西側に白旗を揚げることで東西冷戦が終結しています。
無論武帝が即位した頃の漢朝は、破綻するどころか財政収支は常に黒字で、国庫には消費されない米穀が腐って溢れ、銅銭は束ねた紐が綻びてその額を数えられなかったというくらいですから、日本の旧国営企業や共産国と単純な比較はできません。
また文帝と景帝の治世は、後に文景の治とも称されるように、国内では善政が布かれていた時代として認識されており、むしろ内政に関しては武帝よりも評価は高いくらいなのです。
但しそれは文景両帝が、(戦争は無論のこと)宮中での派手な出費や大規模な公共事業など、目に見えて負担の大きい支出を控えて貯蓄を増やし、租税や徭役を減じて民力を養ったからで、果して以後も無条件に同じ政策が奏功したかというと、これは甚だ疑問と言えるでしょう。
と言うのも確かに文景両帝は、無駄な出費を抑えることで財政の健全化を図りましたが、それが可能だったのは社会全体に創業の余沢がまだ残っていたからで、実際には上は宮殿から下は郷村の水路に至るまで、修繕でお茶を濁したまま老朽化した施設も多く、国庫に穀銭を溢れさせながら問題を先送りした感は否めませんでした。
何より皇帝自らが質素倹約を信条としていたので、朝廷としても特に経済を活性化させるような政策は施しておらず、それでいて国内が日々豊かになって行ったのは、戦後の自然成長が続いていたからに他なりません。
景帝時代の豊かさの象徴として引用されることの多い前の逸話にしても、要は種籾として再利用されない穀物や、市場に流通していない箪笥預金など、社会に還元されない休眠資産を国富と称したもので、税収の自然増加分がそのまま国庫の余裕となって表れていたに過ぎません。
また誰の目にも見える大きな支出を削る一方で、表には出て来ないような数多の経費は増え続けており、そうした小さな無駄は改善されることもなく、まるで腐敗物が体内に蓄積するかのように、徐々にではあるが確実に国家を蝕んでいました。
実のところ景帝は漢朝の抱えるこうした諸問題を認識しており、帝が十男の劉徹を後継者に選んだのは、子息の中で最も積極性が高かったのも理由の一つだといいます。
そうした意味では景帝もまた、自分が成し得なかった朝廷の改革を武帝に期待していた訳です。尤も当の武帝は改革を断行するのみならず、積極財政が過ぎて前二帝の蓄えた財産を一代で使い果たしてしまうのですが。
武帝が儒教重視の姿勢を示し始めたのは既に十代の頃からで、景帝の代から博士の地位にあった董仲舒が、儒学以外の諸子百家を排して儒教を唯一の国学とすべきだと上奏した際には、これを嘉納しています。
しかし朝廷の実権を握っていた董太皇太后が儒者を厭っていたため、董氏の存命中は政策として実行に移されることはなく、むしろ太后に嫌われた儒者が朝廷から追放されてしまうような時期もありました。
やがて武帝が親政を始めると、董仲舒の献策に従って各郡に太学を設置し、朝廷内では五経博士を新設するなど、儒教を官学とする姿勢を明確にしたことで、以後仕官を志す者にとっては儒学の教養が必須科目となって行きます。
また太皇太后逝去の翌年の元光元年(西暦前一三四年)、同じく武帝は董仲舒の建言を容れて、全国の郡守に毎年一人の有徳者を推挙するように命じ、これが後世まで続く郷挙里選の基礎となりました。
この選挙制度は、建国以来功臣の一族が優先的に任ぜられてきた官職の採用基準(任子制)を見直し、身分を問わずに帝国全土から優秀な人材を集めるためのもので、武帝の行った改革の中でも柱礎となる政策の一つです。
そして儒教を官学に据えたことと、全国から人材を募ったことは、当然その出所が一緒な訳ですから、この二つが合体して一つに収まるのは自然の流れと言えます。
更に後年には後漢の世祖光武帝が、謀叛防止のために察挙常科の中でも特に孝廉を重視するなど、次第に選挙の基準が四書五経を始めとする儒学の知識へ偏重するようになり、やがてこれが清代まで続く国家試験の科挙として完成することになります。
董仲舒が儒教だけを国学とするよう主張し、武帝もまたそれに賛同したのは、仲舒自身が儒者だったという点を差し引いても、元よりそれなりの理由がありました。
秦の崩壊を受けて天下を統一した漢でしたが、高祖やその側近の多くが庶民の出身だったことや、焚書に代表されるように秦が法家以外の諸家を否定し、法治を徹底する余り自壊したのを目の当りにしていたこともあって、建国以来漢には国家を貫くような一本筋の通った教義が設けられていませんでした。
また建国間もない頃の漢では、臣下の出身地が複雑だったのは無論のこと、諸国の旧王族から果ては盗賊に至るまで、その出身階級も多種多様でしたから、官学を一つに決めること自体が不可能に近いものでした。
なればこそ秦は全ての思想を排して法家に統一したのであり、漢はむしろ何もできなかったからこそ、何もしないことを是とする教義を選択したのでしょう。
従って漢が黄老の思想に則って統治していたなどと言っても、後の儒教のようにそれが制度化されていた訳でもなく、儒者を始めとして他の諸家もまた、その所信を存したままに仕官を許されていました。
或いは道教が漢の政治方針として採用された背景には、そうした他の教義とも余り波風を立てない学風が好まれたところもあったのかも知れません。
しかし建国から四代を経て、唯一の国家である漢の存在が揺るぎないものとなり、地域によって異なる言語や風習をも超越した「漢民族」が形成されるようになると、やはり帝国全土を統制する共通の規範が必要になります。
そして後に漢文明を輸入した周辺諸国や、日本の鎌倉江戸両幕府もまたそうであったように、その規範が儒教に落ち着いたのは、むしろ自然の成り行きだったとも言えます。
そもそも儒家の教義を一言で表すと、それは「経国済民」となります。
基本的に儒教というのは、勉学によって人徳と能力を向上させ、それを世のために活かすことを本義とします。
従って隠遁者的な傾向のある道教とは異なり、むしろ積極的に社会へ出て行き、学んだことを世間で実践することにより、更なる高みを目指すのが儒教の神髄です。
そして学を積み重ねた結果、全ての徳を兼ね備えるようになった者が聖人であり、この聖人が天子となって国を治め、賢者がこれを補佐し、君子が官僚となって民を導くというのが、儒教の理想とする政治でした。
こうした社会に対する積極性と、教義と政治を一体視する姿勢もまた、数ある思想の中から特に儒教が武帝の性向に合致した所以でもあるでしょう。
一方の道教はと言うと、聖人を至高とする点は儒教と同じですが、そこへ至るために為すべきことは、儒教のように世俗に塗れて自己を磨くのではなく、全ての欲望を捨てて自己と自然とを一体化し、天の摂理である「道」を体現することであり、そうした所は仏教の解脱ともよく似ていました。
従って誤解を恐れずに略言すれば、積み重ねることに努力するのが儒教であり、脱ぎ捨てることに努力するのが道教であるとも言えます。
そして道教では、あらゆる世俗を超越して、無為の境地に至った者が聖人という定義なので、むしろ勉学や修練といった美行でさえ、無駄に知識や技能を身に付ける行為が、却って人間を道から遠のかせると見做す傾向がありました。
しかし人間の文化活動そのものを否定するということは、却って今ある現実をそのまま肯定するだけになってしまうので、その真意に深い哲理を内包していながらも、道教が「世捨て人の思想」とか「無責任者の放言」なとど揶揄される所以ともなっていました。
しかし儒教と道教はあくまでコインの表裏であって、共に人間が最終的に至るべき境地を聖人としている点では同じであり、この「聖人」という支那大陸特有の信仰の起源については未だ解明されていないものの、どちらも周文明を構成していた人々の根底に流れる思考から派生したものでしょう。
そして老子を始祖とする道教は、春秋戦国という理不尽な時代にあって、主流派の儒教に対するアンチテーゼとして提唱された学派で、これが『荘子』になると更にその姿勢が明確になっており、それはユダヤ教に於けるファリサイ派とエッセネ派の関係ともよく似ていました。
従って基本的に両者は同系なので、儒教が官学となった後も道教は廃れることなく、土着の信仰や風習を育みながら漢文化圏で受け継がれ、更に西方から導入された仏教を加えた中国の三大宗教として、今なお健在です。
もともと人格形成と政治学が共存している儒教は、君臣の義や上下の礼を明確に定義しているため、御用学問としては常に重宝されますが、万人受けし易い道教と違って、何かと敵を作ることも多かったのです。
要は一言で言うと、やはり儒教というのは色々と小難しいのであり、その教えを説く儒者にしても、礼儀や仕来りに口喧しい堅物という印象が強く、どちらかと言えば他の学派に対しても攻撃的でした。
有名なところでは、漢の高祖は大の儒者嫌いで、農家の末っ子から叩き上げで地位を得た劉邦にとって、屁理屈ばかりで説教臭い儒者とは生涯肌が合わなかったようです。
但し儒者そのものは嫌っても、その人物が優れた人格者や有能者であれば、たとい儒者であろうと抜擢して彼等の意見に耳を傾けており、その辺りは天下人の度量と言うべきでしょう。
儒教を一顧だにしなかったという点では、秦は更に徹底していて、法家の思想を具現化することで強国となった秦にしてみれば、徳治や礼節を重んじる儒者の統治学などは凡そ現実離れした夢物語であり、それでいて自分達が正しいという態度を崩さない儒者連中を全く評価しませんでした。
一方の儒者にしても、たとい秦が天下を統一しようと、主筋である周王朝を滅ぼした秦王家は叛臣であり、法と力だけを信じて天下に君臨しようとする秦の政治を謗っていましたから、そもそも両者は相容れない間柄だったと言えます。
これは楚の項羽にしても同様で、主君である義帝を弑して自ら覇王となった項羽は、どれほどの武功があろうと簒臣であることに変りはなく、それを知ってか項羽もまた儒者を重用しようとはしませんでした。
その秦と楚に代った漢はと言うと、始め高祖は故郷で亭長という役職にあり、末端ながらも秦の役人だった訳ですから、秦に背いて挙兵した行為が謀叛であることには違いありません。
しかし秦崩壊の主因が相次ぐ暴政による自壊だったことや、首都咸陽への進攻が楚王配下の一将としての行軍だったこと、秦王家を滅ぼしたのが同僚の項羽だったこと等もあり、高祖自身は叛臣の汚名を免れています。
実際に当時の劉邦がそこまで考えて行動していたかどうかは分かりませんが(謀臣張良は先を見越して献策していたようですが)、秦王子嬰の降伏を受け入れて助命したことや、攻略した城下での略奪を禁止したことなど、一時の激情を抑えて徳を積み重ねたことが、最後には帝位という形で劉邦に返って来たのでした。
そして漢が儒教を官学に指定したということは、儒者の方もまた漢帝を天子として認めたことを意味しており、些か逆説的な論法となりますが、これは始祖である劉邦の出自が庶民だったことも大きく作用していたとも言えます。
何故なら八百年以上に渡って続いた周室の天命が尽き、その周王に封ぜられた諸侯までもが尽くこの地上から姿を消す中で、農家に生まれた名もない一人の男が皇帝にまで登り詰めたのですから、文字通り劉邦は数百年に一度の易姓革命の体現者に他なりませんでした。
その劉氏が秦帝のように短命で終ることなく、文景の治を超えてなおも安定している以上、儒家もまた漢室を中華の正統として扱わざるを得なかったのです。
むしろ劉邦の即位を天命と認め、劉氏を天下の宗主とすることで救われたのは、案外儒者の方だったかも知れません。
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