
まず始めに、私は鬼嫁ではありません。それに40才ではなく、まだ39才です。そして顔面表皮異常発達症などという、ありもしない病気でもありません。
便所の100Wのようなこの男と、どうして結婚するような破目になったのか、いまだによくわからないままです。
ついでに言えば、何が嬉しくて、この夏休みにお寺まわりをしているのでしょうか?普通、家族旅行といえば、海外とまではいかなくても、ディズニーランドとかユニバーサルスタジオあたりではないでしょうか。
ジプシーじゃあるまいし、ポンコツワゴンに泊まりながらお遍路なんて。
保育園の保護者会で変人扱いされるのも嫌なので、子供達にはお遍路でなく、この旅行はキャンプよとごまかしています。
いつもこうなんです、妙な理屈やもっともらしい言い回しに、振り回されて気が付けば、世間並みでない事に巻き込まれています。
ついでに言わせてもらえれば、昨年の私の誕生日プレゼントは、ドモフォルン・リンクルの「無料お試しセット」でした。
こういう奴なんです。
その上、都合の悪いことは、ある事ない事すべて私のせいにします。
愚痴ばかりで恥ずかしのですが、ことこの男に関してはまだまだ言い足りません。
結婚当初はそれでも、収入も世間並で、主人に関しても、少し毛並みの変わった感じの人ぐらいに思っていましたが、とにかくお酒の好きな人で、とうとう体を壊してしまい、酒もタバコも、ドクターストップがかかってしまいました。
普通のサラリーマン家庭に育って、保母をしていた私は、慣れない魚屋家業に戸惑うばかりで、主人の病気を機に、あれよ、あれよと言う間に、商売は左前になり、今では主人のご両親の援助で、なんとか生活している有様です。
主人は、お遍路で何かかが変わるとでも思っているようですが、私は早くに亡くなった母と、先年死んだ父の供養と、子供達の無病息災を想い廻っています。
それに恥かしながら、もうひとつ。結婚前に友人の紹介で、愛媛県は今治の男性とお付き合いをしていた時期がありました。
横山さんとおっしゃる大きなみかん農家の三男。市役所にお勤めで、とでもおとなしくて真面目で髪の毛もちゃんとある方でした。
今になって思えば、この方といっしょになっておけば、世間並みの生活は間違いなく出来たでしょうが、当時は、なんとなくもの足りなさの様なものを感じて、プロポーズをして頂いたにもかかわらず、お断りをしてしまいました。
返す、返すも、もったいない事をしたものです。だからといって、今一度会いたいとか、どうにかなりたいとか云う気持ちはなく、遠巻きにでも様子が窺えるような事でもあれば、また、違った自分の人生が想像できたりして、どうかなと思う程度です。
ここまで書いて、やつと胸のつかえがおり、落ち着きました。
左手には広い太平洋で、天気もよくさわやかです。歩いてお遍路をしている方々を、無遠慮に追い抜いていくのが、なんだか申し訳ないような気がします。
こっちを見て手を上げている遍路風の方が見えてきました。焼山寺でお乗せしたお坊さんです。近づいて車を止めウインドーを下げると
「また、ヒッチハイクさせて頂けませんか?」
「また、お話を伺いますよ、よろしいですか?」
ということになり、荷物を移動させ、助手席に乗ってもらいました。
「さてさて、今度はどのような事でしょうか?」
「私、ずーと、不思議に思っていたんですけど、御釈迦さんでも、キリストさんでも、モハメッドさんでもいんですけど、ただ困ってる人を助けるのに、なんでこんなに色んな宗教があって、さらに宗派とかもあって、ややこしいのですか?」
「これはまたまた大変なことをお聞きになる。そうですね、よく例えられるのは、富士山よおな大きな山を、宗教の世界に見立てて説明しています。頂上に一つだけの=真理=が在るとします。
この真理を得るのには山に登らなければいけません、北から登る人もいれば、南から登る人もいます。この各々の登山口がキリスト教、仏教、イスラム教や各宗派に相当するという考え方です。
そして努力して山に登り、運よく真理に出会え、ふもとを、来た道を見下ろし、他の人のルートも理解します。また、下界を理解し、上を見上げ、異界を感じます。
おそらく自分は何者で、どこから来て、どこに行こうとしているのかを悟ります。そこで山を降りて、自分のなすべき事を淡々と行うのです。
宗教や宗派にちがいがあっても、人が正しく生きていく根本の道に、違いはありません。」
「じゃぁ、なぜ宗教、宗派の違いで喧嘩をしたり、戦争になったりするんですか?」
「どの登山口から登っても、各々が真理に向かってただ突き進めば紛争は起きません。しかし、人間とは弱いもので、なかなか一気に頂上まで登れません。休憩をとり、横を見たり後ろを見たりします。
他に登山者がいれば、最初の内は励ましたり、助け合ったりしてとても仲が良いのですが、頂上に近づくにつれ、他の集団も見えて来る様になる。
こうなると人間は=比較=という悪い癖が出ます。やれ向こうの方が人数が多いだの、きれいな服を着ているだの、食料がたっぷり有りそうだのと、元来頂上に向かって歩いているのに、横の方にばかり関心がいくようになり、他人の持ち物をうらやみます。
頂上に早く到達するには荷物は軽いほうが良いのに、あの登山靴のほうが性能が良さそうだとか、あのテントの方が良くねむれそうだとか、かっこいいとか、向こうの食べ物の方が、美味そうだとか。
奪い合えば戦争になり、荷物だらけに成れば、その重さに耐えかねて、転げ落ちかねません。頂上はすぐそこなのに、なんとももったいない話です。」
「戦争はなくならないのですか?」
「全ての人が、余計なものに惑わされないで、ただ、真理に向かうなら戦争は起きません。」
「なぜ、そうならないのですか?」
「今は長い争いの歴史から、色んな人がこの事に気付き始めました。いずれこれらの人の小さな波紋が、大きなうねりと成ることでしょう。」
「それはいつの事ですか?」
「はい、それはあなた方次第ではないでしょか?」
「そんな、人ごとみたいに・・・ もう少しいいですか? 例えば仏教なら、お釈迦さんが真理を説いたのに、お弟子さん拠って色々と変化していきます、本当の事はただ一つなのではないのですか?」
「はい、本当の事は一つです。ただし時は流れるものです。原始時代にパソコンを持っていっても無用の長物ですし、現代に縄文土器で食事をするには不便です。
仏教ではこういった現象を=諸行無常=の現れの一つと考えます。この世は、全体的には整合しながら、常に移り変わっています。
その時代には、その時代に合った釈尊のお弟子さんが出て、本当のただひとつの事を、その時代の人々に、理解できる方法で諭すのです。
さっきの山の例えで言いますと、季節によりまた天候により、各人の体力や個性により、小さなリフトをつけたり、大きなロープウエーをつけたり、東口から、あるいは西口の方が良いと言っているだけで、頂上に行くことには変わりありません。
そして、道は上に往くほど細く険しく成りますが、人々は常に頂上へ向かっている道であることだけ確認できれば良いのです。」
「どうやれば確認できますか、それは誰にでも出来ますか?」
「はい、損得によらずに、善悪で判断しましょう。とても簡単です。どのお方の中にも必ず、仏さまがいらっしゃいます。独りよがりにならず、この仏さまの心を察してみるのです」
「えーー、とーー・・ もっと具体的に・・・」
「はいはい、次のお寺、神峯さんはそこの角を右ですよ、私は高知に急ぎますので、ここらで結構です。では気を付けて。」
と、車を降りて合掌して、国道55号を歩きはじめた。なんと手強いお坊さんだろう。
私はといえば、まだむしゃくしゃとした質問にならない想いにさいなまれ、とても運転どころではなくなり、後ろで寝ているハゲをたたき起こし、有無を言わさず運転交代した。
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