兎神伝
紅兎〜追想編〜
(15)弁当
愛は、赤子を抱いて、ゆったりと椅子に腰掛けていた。
本当は、皆と一緒に宮司(みやつかさ)屋敷の食堂に向かう筈だったのだが…
『私、疲れちゃった…もう少し、休んで良い?』
愛が言うと…
『そうそう、愛ちゃんはとっても疲れてごじゃるよ。』
何かにピンと来た朱理は、皆に何やら目で合図を送ると。
『そうでござるな、愛ちゃんはもう少し休んだ方が良かろう。拙者達は先に参るから、後からゆるりと参られるが良い。』
進次郎が言い…
『それじゃあ、おいら達、先行ってるから、愛ちゃんは後から、爺じに連れてきて貰いな。』
竜也が言うと…
『ウォッホン!私も些か疲れてるぞ。何しろ、一日、赤子の子守を任されていたからのう。』
純一郎が言い…
『何を仰る父上。幼い拙者と兄上を母上に任せきりで、十年もの間、好き勝手をされていたのでござる。今日一日、愛ちゃんの赤子の世話くらい、大した事ござるまい。』
進次郎が言うと…
『好き勝手とは失敬な…私は、逓信と運輸を領民(かなめのたみ)に委ねる事に全人生をかけてきたのだぞ。逓信と運輸を領民(かなめのたみ)に委ねればだなあ、和邇雨一族の独裁を、ぶっ壊す事が…』
純一郎が、例によって得意の熱弁を振るいそうになり…
『はいはい、わかりました、わかりました。とにかく、お邪魔虫さんは、さっさと、此処を去る去る。行くわよ、妻子をほかした駄目父さん。』
雪絵は、純一郎の背中を押しながら、ひょこっと私の方に首を伸ばし…
『ちゃーんと、愛ちゃんと赤ちゃん、連れて来てあげるのよ。このダメ父さんみたいに、仕事を理由にホカしちゃダメですよ、爺じ。』
と、言い残して、皆と一緒に去って行った。
太郎だけは、何か物言いたげな眼差しを向けて、暫し立ち尽くしていたが…
『行くよ!』
相変わらず、私と目を合わせようとしない亜美に、引き摺るように連れて行かれた。
そして、沈黙が支配する。
何と言葉をかけてやれば良いのだろう…
二人取り残された愛を目の前に、私は自問自答を続けた。
素直な気持ちを言えば、愛の前にひれ伏して謝りたかった。
私は、愛を赤兎にする事を防ぐ事が出来なかった。鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)の神使(みさき)達を抑える事は出来た。権宮司(かりのみやつかさ)にして河泉産土宮司(かわいずみのうぶすなみやつかさ)である純一郎と、神漏(みもろ)衆河泉組組頭にして本社(もとつやしろ)奉行職進次郎の力で支持者を増やす事もできた。
当面、赤兎は置かない…
あと一歩で、そう取り決められそうにもなった。
しかし…
土壇場にきて、裏切りが起きた。
長らく空位にあった鱶見大連(ふかみのおおむらじ)の座を巡って、河泉産土宮司(かわいずみのうぶすなのみやつかさ)純一郎連と河渕産土宮司(かわぶちのうぶすなのみやつかさ)恵三(よしみつ)の間に熾烈な争いが繰り返されていた。そして、息子の進次郎が本社(もとつやしろ)奉行職に就く事で、大連の座は、ほぼ純一郎に決定していた。
それを、急遽、純一郎は身を引き、大連の座は恵三(よしみつ)に譲る事にした。鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)に、当面、赤兎を置かない事に同意する事を条件にしてである。
ところが、大連になるや、恵三(よしみつ)は掌を返した。
厳密に言えば、鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)の実質的な最高権力者である、康弘連(やすひろのむらじ)が、裏から圧力をかけてきたのである。
康弘連(やすひろのむらじ)としては、売り上げに掛ける三割の玉串料を五割に引き上げたい目論みがあった。それには、莫大な利権が絡む赤兎の兎弊と皮剥に固執する一派の支持を必要とした。勿論、康弘連(やすひろのむらじ)自身が、廃止するどころか、一社(ひとやしろ)に一人兎弊する社畜(やしろちく)の赤兎とは別に、各町村の産土社や氏神社に一人兎弊する社畜(やしろちく)の赤兎、鰐鮫一族一家に一人兎弊する家畜(いえちく)の赤兎も復活させたいと思っていた。
更に言えば…
社領(やしろのかなめ)によっては、人数制限なしに、社(やしろ)に背いた者を兎神(とがみ)家に落とし、一番幼い娘を穢畜(わいちく)と呼ばれる赤兎に兎幣する制度を設けたいとも思っていた。
また…
十年前…
売り上げに玉串料を掛ける制度を執り行わない約束で、康弘連は大連に推戴された。
しかし、康弘連が大連の座につくや、この公約は反故にされた。
理屈としては、こうであった。
売り上げに玉串を掛ける間接玉串料の話が浮上した時、その掛け方について、二派に分かれた。
五割の玉串料を掛けると言う大型間接玉串派と、一割の玉串料をかける小型間接玉串派である。
康弘連(やすひろのむらじ)は、どちらも行わないと公約した。
だから、大型も小型も行わず、三割の玉串料を掛ける、中型間接玉串料を行うとしたのである。
これに対し、中小商工の座頭衆と農林水産の座頭衆が猛烈に反発した。
殊に、愛の父の親友であり、兎神家(とがみのいえ)の庇護者でもあった、本社(もとつやしろ)中小商工座頭衆笑点会の林屋木久蔵(はやしやのきくぞう)と桂屋歌丸(かつらやのうたまる)が猛反発し、司宰(しさい)の三遊亭圓楽(さんゆうていのえんらく)を動かし、不信任の書状を提出した。
私もまた、別の理由で康弘連(やすひろのむらじ)の罷免を考えていた。
間接玉串料が浮上した同じ頃…
前任の宮司(みやつかさ)である眞悟の非道が告発された。
告発したのも、間接玉串料に反対したのと同じ、笑点会の木久蔵と歌丸であった。
木久蔵と歌丸の告発は、かなり波紋を広げた。
あと一歩で、眞悟のみならず、眞悟を支持後押しする事で暴利を貪っていた、神使(みさき)達や河副屋浩正(かわぞえやのひろまさ)ら大商工座頭衆秋桜会も罷免されるところまで追い詰めた。
しかし…
これを握り潰したのが、康弘連(やすひろのむらじ)であった。
眞悟宮司(しんごのみやつかさ)非道の告発を、秋桜会の汚職問題にすり替え、全て自身の執事、神使(みさき)達の家宰達や座頭達の番頭達に責任転嫁する事で、解決してしまったのである。
康弘連(やすひろのむらじ)が大連の地位に就いてなければ、少なくとも五年早く眞悟は宮司職(みやつかさしき)を解かれ、その間に彼の非道で死んだ兎神子(とみこ)達は生きながらえたかも知れない。
その事を思えば康弘連(やすひろのむらじ)を許せず、大連(おおむらじ)の不信任と罷免に賛同したのである。
これが元で、康弘連(やすひろのむらじ)は、大連(おおむらじ)のみならず、鎮守社警護番総組頭(しずめのもりつやしろけいごばんふさつくみがしら)も罷免された。
また、康弘連(やすひろのむらじ)を支持していた、多くの神漏(みもろ)や神使(みさき)達も罷免。
私は、この機に、赤兎は一社(ひとやしろ)に一人と言う古の原則を復活させ、家畜(いえちく)や穢畜(わいちく)の赤兎を悉く廃止して解放。また、各町村の産土社(うぶすなやしろ)や氏神社(うじがみやしろ)に兎幣されていた赤兎も、全て解放した。
しかし…
無官になったとは言え、康弘連(やすひろのむらじ)は、河曽根鱶見家棟梁(かわそねのふかみのいえのむねはり)に変わりはない。
また、嫡子の文弘連(ふみひろのむらじ)は鎮守社宮司(しずめのもりつみやつかさ)、庶子の美唯二郎は鎮守社警護番組頭(しずめのもりつやしろのけいごばんくみがしら)である。
その後も、社領(やしろのかなめ)で絶大的な力を持ち続けた康弘連(やすひろのむるじ)は、大連の座を奪った私や、笑点会を執念深く恨み続けた。
その恨みが、間接玉串料の値上げと重なり、愛の皮剥のゴリ押しと言う形に現れたのである。
康弘連(やすひろのむらじ)は、恵三大連(よちみつのおおむらじ)と赤兎の兎弊と皮剥に固執する一派に、総宮社(ふさつみやしろ)の父に奏上させ、私に圧力を掛けさせた。
私は、父の圧力に屈するしかなかった。
背き続ければ、私は宮司(みやつかさ)を解かれ、父の意に沿う…おそらくは、康弘連(やすひろのむらじ)が本社宮司(もとつやしろのみやつかさ)に置かれたであろう。
結果として、ここの兎神子(とみこ)達は、かつてと同じ境遇におかれるようになるだろう。
そればかりか、漸く認知された拾里や隠里の取り潰しが決められ、重病を患った者や、障害を負った者は、再び排除される事になるだろう。
私は、そう自分に言い聞かせて、父の意向に従った。
赤兎の兎弊と皮剥に固執する者達に迎合した。
より多くの者を守る為…
そう言い聞かせて、愛を皮剥した。
結果、誰も守る事などできなかった。
愛だけでなく、愛を愛していた皆の心を踏みにじり、傷つけただけだった。
挙句、智子と早苗を死なせてもしまった。
私は、皆を守る為と言い訳し、実際には、単に保身に走ったに過ぎなかった。
「何考えてるの?」
不意に、愛が私の顔を見上げて言った。
「いや、何も…何故?」
「難しい顔、してるから…」
まっすぐに向けられた眼差しは、私の心の奥底を見透かしているようにも思われた。
「愛ちゃん、済まなかった…」
言いかけた私の言葉を遮るように…
「見て。この子の目元、爺じに似てると思わない?」
「そうか?それは、可哀想に…」
「どうして?」
「女の子だから…」
「そんな事ないわ。きっと、美人さんになるわ。お父さんに似て…」
「私に似て、美人?」
「ええ。爺じ、とっても綺麗な顔してるもの…カズ兄ちゃんやヒデ兄ちゃん、シンさんとはまた違ってね。」
愛は、片目瞬きをしながら、ニッコリ笑って言った。
「この子、どんな娘に育つのかな。大きくなったこの子、見てみたいな…」
私はまた、激しい胸の疼きを覚えた。
愛は愛しげに…そして、何処か寂しそうに、赤子の頭を撫でている。
「ねえ、私の肩を抱いて…」
「こうか?」
「うん。」
私が、愛の肩に腕を回すと、愛は静かに笑って頷いた。
「爺じ、覚えてる?初めて、境内で出会った時の事。」
「覚えてるとも。君は、木陰に座って、切り絵をしていたね。」
言いながら、ふと、四年近く前の昼下がりを思い出した。
早春…
雪溶けを終え、梅が咲き染めようとしていた頃。
外出先から戻ると、社を切り絵に描く愛の姿を見出した。
私は、初めて見る大人びた少女に首を傾げると…
『こんにちわ。』
愛は、立ち上がるなり、実に礼儀正しくお辞儀したかと思うと、不意に片目瞬きをして、ませた笑みを浮かべた。
『私は愛、おじさんは?』
『こんにちわ。私は、ここの宮司(みやつかさ)だよ。』
私が答えると…
『あ…申し訳ありません、私…』
愛は、慌てて直立不動の姿勢になり、おどおどし始めた。
『良いんだよ。それより、切り絵、上手だね。』
『ありがとう…ございます。』
『実はね、私も切り絵が大好きなんだよ。』
私は、尚も身を固くしてる愛に言うと…
『本当、ですか!』
愛は、急に目を煌めかせて、首を擡げた。
『本当だよ。私の切り絵も見てみる?』
『うん!あ…はい!』
『良い返事だ。それじゃあ、ついておいで。』
言いながら、私も、先程の愛を真似て片目瞬きをして見せると、愛は漸く緊張を解きほぐして、クスクスと笑い出した。
それから…
愛は、毎日、私を訪ねるようになった。
最初は、互いの作品を見せ合う事から始まり…
少しずつ、境内の散策、更に裏山の散策をしながら、様々な題材を見つけては、一緒に切り絵を楽しんだのである。
『親社(おやしろ)様、あーそびましょー。』
いつの頃か、愛が部屋の窓越しから、私を呼びかけるのが待ち遠しくなった。
彼女が訪れるのは、いつも同じ昼下がり…
丁度、境内で私と遊ぶ兎神子(とみこ)達が、一人残らず穂供(そなえ)にやってきた社領(やしろのかなめ)の者達と神饌所に消えて行く頃であった。
神饌所二階の部屋部屋から漏れ聞こえる、穂供(そなえ)にやってきた男達や、兎神子(とみこ)達の喘ぎ声は、私に幼き日々の光景を思い出させた。
私に、幼少期の楽しい思い出は皆無に等しい。
目を瞑って思い出す光景と言えば…
幼い少女達が、苦痛や羞恥を訴える事も許されず、父達や社領(やしろのかなめ)の人々に陵辱される姿か、拷問にも等しい仕置を受けて泣き叫ぶ姿…
或いは…
『脚を拡げてやれ。』
父に命じられるまま、表情のない冷徹な眼差しをした教導官(みちのつかさ)達に機械的脚を拡げさせられる百合の姿…
『さあ、今日もうんと気持ち良い事をしてやれ…』
背く術のない私は、ならば、少しでも早く終わらせてやりたいと思い、百合の神門(みと)に穂柱を近づける。
『ウッ…!』
百合は、これからまた始まる事に覚悟を決めるように固く目を瞑り、歯を食いしばって、顔を背ける。
しかし…
『待て!』
父は、唐突に私を引き離すと、百合の神門(みと)を乱暴に指で拡げて見せた。
既に、父と教導官(みちのつかさ)達に抉り荒らされ、白穂と血に塗れた参道は、見るも無残な有様であった。
神門(みと)の付け根は裂け、肉壁は一面真っ赤に剥離していた。
『穂柱を挿れる前に、まずは、ここの包皮をめくるんだろ。』
父は言いながら、先端の包皮をめくり上げ、これまた真っ赤に腫れた神核(みかく)を剥き出しにした。
『イッ!』
百合は、思わず呻きを漏らす。
『さあ、それからどうするんだ?』
父の問いに答える代わりに、私は拳をグイッと握りしめて顔を背けると…
『どうした?できないのか?仕方ないな…』
父は、クィッと顎をしゃくって、合図を送った。
百合は、これから何をされるか察すると、忽ち顔色を変えて震えだした。
やがて、教導官(みちのつかさ)の一人が白いモノを詰め込んだ壺を待ってくると…
『嫌っ…嫌っ…嫌っ…』
それまで、何をされても、決して抗う事もなければ、言葉も発さなかった百合が、激しく首を振り立て、押さえつける教導官(みちのつかさ)の腕の中で踠き暴れ出した。
『やめて!やめて!お願い、やめてーっ!』
『喧しい!大人しくしろっ!赤兎の心得を忘れたのか!』
父は、泣き叫ぶ百合の頬を何度も激しく叩きながら怒鳴りつけると…
『さあ、よく見ておけよ。穂供(そなえ)をする前に、まずこうやって、参道をよく開くんだ。』
私の方を睨み据えて言うなり、壺の中に指を突っ込むと…
『もののついでに、しっかり清めてやろう。』
一摘み摘みあげた粗塩を擦り込むように、百合の腫れ上がった神核を思い切り抓り出した。
『ヒッ!ヒッ!ヒッ!ヒィィィーーーーーッ!!!!』
百合は、忽ち身体を大きく仰け反らせて悲鳴を上げた。
父は、そんな悲鳴など目にも耳にも入らぬ風に、更に壺に手を突っ込むと、今度はたっぷり握りしめた粗塩を参道に捻り込んだ。
『キャーーーーーーーーーッ!!!!!』
百合は、文字通り火に焼かれたような激痛に絶叫し、必死に手足を動かし、左右に身体を捩って、更なる苦痛から逃れようとした。
しかし、屈強な教導官(みちのつかさ)四人に押さえつけられては逃れる術はなく。
『やめてっ!やめてっ!もう…もう…もう、やめてーーーーーーーっ!!!キャーーーーーーーーーッ!!!』
父が壺の中が空になるまで、参道に粗塩を捻り込み、剥離した肉壁や、裂けた神門(みと)の付け根に擦り込むように指で掻き回し続ける間…
延々と泣き叫び続ける、鼓膜と胸を引き裂くような百合の声…
そして…
漸く父の粗塩責めから解放された百合の股間の前にしゃがみ込み…
『アッ…アッ…アァァァァーーーーーッ!!!!』
とどめを刺すような激痛に、身をのけぞらせて声を上げる百合の涙に濡らした顔を横目に、傷だらけの参道を穂柱で抉る自身の姿…
そんな日々の光景が次々と脳裏を過ぎり、私の胸が掻き毟られそうになる頃…
愛の可愛い声は、私に安らぎと癒しを齎してくれた。
同時に…
悍ましい思い出しかないように思われた、幼き日々…
母と百合と三人、切り絵をして遊んだ、楽しい思い出もある事を教えてくれた。
『親社(おやしろ)様、今日もお弁当、持ってきてあげたわよ。』
『ありがとう。今日は何が入ってるのかな?』
『さあ、何が入ってるかしら。』
愛が、クスクス笑いながら差し出す、小さな風呂敷包みを差し出されると、とっくに昼食は済ませてると言うのに、また、お腹が鳴るのを覚えた。
目的地に着くまでの道すがら…
愛が、めぼしい切り絵の題材を物色してる側で、私は、お弁当の中身ばかりが気になっていた。
『ねえ、そろそろ、お弁当にしようよ。』
私が言うと…
『まあだ。お山に来たばかりでしょ。』
愛は、振向こうともせず、山の景色をキョロキョロ見回している。
『ねえ、まだ?私は、お腹がペコペコだよ。』
『だーめ。もう少し奥に入ってから。』
『愛ちゃん、お腹すいたー。もう、歩けない!』
私が、風呂敷包みを掲げながら言うと…
『もう!仕方ないわね!』
愛は、漸く振り向いて…
『そんなに我慢できないんなら、次から連れてきてあげない!』
と、ブンむくれで言いながらも、筵を敷いて、お弁当の準備をした。
『ささ…今日は、お弁当何かなあ。』
私が、心踊らせ風呂敷つつみを解こうとすると…
『もう!これだから、子供を連れて来るのは嫌なのよ!』
愛は、私の隣に腰掛け、口を尖らせて言いつつも、風呂敷つつみを広げた時の私の反応を楽しみに、ジーッと私の顔を横から見つめていた。
私の腕の中…
美しい白無垢を着込み、愛しそうに赤子を抱く愛は、私にもたれかかりながら、ジッと、私の言葉を待っていた。
私は、まだ、言葉が見つからない。
脳裏に過ぎる言葉と言えば、謝罪の言葉ばかり…
しかし、それらの言葉は、愛の受けた心の傷を、いや増す事にしかならないだろう。
何て言葉をかけてやれば良いのだろう…
何て…
『ああ!今日は、出し巻き卵に昆布巻きが入ってる!美味しそう!』
『私がね、朝早くから起きて、作ったんだよ。さあ、食べて。』
目を瞑れば…
また、裏山で愛と並んでお弁当を広げた時の光景が、過ってきた。
「愛ちゃん…」
漸く声をかけると、愛は心待ちにしていたように、私の顔を見上げた。
「なあに、爺じ…」
私は、また、言葉を詰まらせた。
喉まで出かかった言葉が出てこない。
愛は、私の顔を真剣な眼差しを向けて、ジッと見つめている。
その目は、次に出てくる、私の言葉を待っているのだと言っている。
この言葉が聴きたくて、赤兎として過ごした三年を…
いや…
実際には、一年も前から始まっていた、実の父による田打の日々を合わせれば、四年の日々を…
ひたすら耐え忍んだのだと、愛の眼差しは言っている。
ふと…
私は、愛の細いうなじに目を止める。
そこに残る、痛々しい痣の跡…
七歳の終わり、田打が始まった頃…
早朝の目覚めと同時に、愛は一刻の間、 全裸で庭先に放り出される。行き交う人々の目に晒す為だ。
その時…
愛は、行き交う人々、覗きに来る人々に、一切、身体(からだ)を隠す事は許されない。
それどころか…
『おらおら、突っ立ってるだけじゃ見えねえぞ!』
『何、足閉じてるんだよ!どうせ、来年は毎日穂柱突っ込まれてイキまくるんだろ!』
『脚拡げろよ、脚!』
『神門(みと)の中も見せろよ!』
『ほらほら、自分でやって見せよろ!ほらっ!』
求められるままに、股を拡げ、自ら指で神門(みと)を拡げて参道を弄って見せねばならなかった。
そのあまりの露骨な要求に耐えきれず、蹲って泣き出してしまったのだ。
その事を、父である山田屋隆夫(やまだやのたかお)に酷く叱られ、棒切れで激しく打ち据えられた跡であった。
「愛ちゃん…」
私が、痣の跡をそっと撫でながら、また口を開くと、愛は嬉しそうな笑みを浮かべた。
目はかすかに涙に滲んでいる。
しかし…
愛がずっと待ち望んでいた言葉を、どうしても口に出す事ができない。
喉元まで出ては、どうしても脳裏をかすめる、あの日々の光景…
『愛ちゃん!何処だ!何処にいるんだ!』
下卑た笑みに涎を垂らし、疼く股間をもじつかせた十人もの荒くれ達に連れ出され、何刻経っても戻らぬ愛を探し回る日々…
『親社(おやしろ)様、此処よ…』
領内(かなめのうち)片隅の草叢から、愛のか細い声が聞こえて来る。
『そこか!』
茂みをかき分けると、大股に脚を拡げて仰向けた愛が、
両肘で支えるように上体を起こしながら、苦悶に歪む顔に、必死な笑みを浮かべて見せる。
その日も一日、一体どんな目に合わされてきたのか…
股間の参道と尻の裏参道の荒らされ方を見れば、一目瞭然である。
『愛ちゃん!』
思わず声を上げ、駆け寄ろうと、言葉に尽くせぬ悪臭が私の鼻をつく。
『駄目!来ないで!』
言いながら、私の前に翳す小さな掌は、数え切れぬ程の穂柱を扱かされ放たれた白穂にべとつかせている。
『私…穢いから…親社(おやしろ)様…汚しちゃうから…』
言うなり、何とか一人で立ち上がろうとする愛は…
『ウゥゥーッ!』
一声呻くと、股間を押さえて、前のめりに蹲った。
私が思わず抱きしめると…
『親社(おやしろ)様…私…臭いよ…汚いよ…穢れてるよ…』
激しく首を振る愛の目頭から、漸く我慢し続けた涙が溢れ出てくる。
『私が触ったものは、みんな汚れる…歩いた道は何処も穢れる…』
愛が譫言のように呟き続ける言葉…
それは、社(やしろ)を連れ出され、十人もの男達に散々玩具にされた後、行く先々で浴びせられた言葉なのだろう。
『穢い赤兎の分際で、人様の道を歩くんじゃねえ!』
『おめえが歩くと、その道が穢れるんだよ!』
そう言って、脇の草叢に蹴落とされ、目の前で歩いた道に塩を撒かれる。
そして…
『ケッ!早朝から、前と後ろ二つの孔から白穂を垂らしやがって…』
『そんなにされるのが好きなのか?まだ、九歳のガキのくせに…』
言いながら、愛を草叢に蹴落とした男達は、交代で傷だらけの股座を蹴り、血だらけの尻を爪先で小突き…
前のめりに倒れる愛を仰向けにするや、思い切り股間を踏み締めて…
『そんなに好きだったんなら、俺たちもしてやろうじゃねえか。』
舌舐めずりしながら褌を脱いで、愛にのしかかる。
どの社領(やしろのかなめ)でも、変わらない日常の光景…
ありふれた、赤兎の送る毎日…
『私…臭いよ…汚いよ…穢れているよ…』
愛は、私の中で尚も繰り返しながら、嗚咽し始めた。
『汚く何かないさ…』
私が絞り出すような声で言うと…
『えっ…』
愛は弾かれたように押し黙り、涙目を私に向ける。
『愛ちゃんは、一つも穢れてない…』
私は、更に絞り出すように言いながら、愛と唇を重ねる。
かつて、山中で弁当を食べたあと、愛の方から重ねてきた唇は、海苔や鰹節の香りがし、玉子焼きの味がした。
しかし、今は…
来る日も来る日も、行き交う男達に、厠から出てきてそのままの穂柱を捻り込まれ、舐めさせられ…
尿混じりの白穂を放ち、呑み込まされ…
言葉に尽くせぬ悪臭が、舌先から伝わり、私の口腔内に充満する。
それでも…
私には、愛の唇の味も香りも、あの時と何も変わらなかった。
今も、目蓋に浮かぶ山景色の中…
海苔や鰹節の香りがし、玉子焼きの味がする。
『愛ちゃん…』
漸く唇を離す私は、愛の目を見つめながら、最後に一つの言葉を絞り出そうとする。
『愛ちゃん…私は…私は…君を…』
しかし…
『どうですかな、親社(おやしろ)様。貴方様の手で皮剥の儀式を終えられたご気分は…』
最後の参列者が、愛の参道と裏参道と上参道…三つの孔全てに白穂を放ち終えた後…
股間と尻と下腹部の激痛に、息も絶え絶えの愛を見下ろしながら、悦に入った笑みを浮かべて言う、康弘連(やすひろのむらじ)の言葉の記憶が、愛への最後の言葉を遮った。
『これまで、少しばかり取るにたらん連中への施し政策を行い、何の生産性のない連中に、御祭神の如く崇められて調子に乗られておいでのようでしたがね。
これで、貴方様も、晴れて我らの仲間入りですな。』
『私が…おまえ達と同じ…』
『違いますかな?所詮、貴方様がなされてきた事は、慈善でも博愛でも何でもない。取るに足らん連中に崇められたい、敬われたいと言う自尊心に過ぎぬ。言わば偽善でございましょう。
そんな偽善を少しばかし積み重ねたからと言って、我らを散々見下されておいでのようでしたがね。
その偽善を続け、自尊心を満足させ続けたいばかりに、結局、貴方様は目の前で泣き叫ぶ愛に、何もなされなかった。なされないばかりか、最後まで祝詞をあげて、皮剥の祭祀を終えられた。
既得権益の為に、赤兎の兎幣を続けたい、我々と何の違いがありますかな?』
私に一言もなかった。
愛が目の前で数多の男達に、参道を抉られ、掻き回され続けてる中…
『痛い!痛い!痛い!痛いよー!痛いよー!』
『助けて!親社(おやしろ)様!親社(おやしろ)様!助けてー!痛いよー!』
凄まじい声で泣き叫ぶ愛の声を耳にしながら…
私は…
私は…
私は…
『愛ちゃん、私は、君を…』
尚も、静かな…それでいて、何か熱いものを胸に秘めた眼差しを向け、愛が待ち続ける言葉…
私は、遂に発する事が出来ず…
漸く、震える口から振り絞って出てきた言葉は…
「ねえ、そろそろお弁当にしようよ。」
在りし日、裏山に出かけた時の、いつもの言葉であった。
「もう!」
愛は、思わずため息をつきながらも、満面の笑みを浮かべると…
「私、まだ休み始めたばかりじゃない。」
あの時と同じ、ませた口調で口を尖らせた。
「愛ちゃん、お腹すいたー。もう、歩けない…」
私が、更に言うと…
「もう!仕方ないわね!そんなに我慢できないなら、もう連れてきてあげない!」
愛はそっぽ向いて見せた後、私の方に向き直って、クスクス笑いだした。
私も、釣られて一緒に笑い出す。
そうして、ひとしきり笑った後…
「爺じ…好きよ。愛してる…」
そう言うなり、愛はポッと頬を赤くして俯いた。
「あの時…私は、不安で、怖くてたまらなかった…
毎日、毎日、お父さんや近所の人達、お店にくるお客さん達に、身体中を弄られながら…
ここに来たら、どんな目に遭わされるのだろう…ここにいる人達はどんな人達なんだろう…
それを思うと、夜も眠れなかった…
だから、見にきたの。ここにいる人達が、どんな人達なのか見に来て、覚悟を決めようと思ったの…
そうしたら、爺じは優しくて、甘えん坊で、子供みたいで、可愛い人だった。
この人になら、何をされても、させられても我慢できる、頑張れるって思ったの…」
「愛ちゃん…」
「ううん…そうじゃない…」
愛は、しばし言葉を詰まらせた後…
「うまく言えないけど…お父さん達に、身体(からだ)中、弄られてる時…これしてるの、爺じだったら良いのになって、思うようにもなっていた…
固く目を瞑っては、今してるのは、爺じなんだって思うようにしてた。」
一気に話し終えた後…
「私、初めてあった時から、爺じの事が好きだった。愛してた。
だから…
この子のお父さん、爺じで良かった。」
そう言うと、とびきりの片目瞬きをして、満面の笑みを浮かべて見せた。
私は、次第に脈打つ鼓動が、激しさを増すのを覚えた。
胸の奥から、何かが込み上げてくるのを感じた。
そして、目頭が熱くなりかけたとき…
「お腹、空いたね、行こうか!」
愛は一声上げて立ち上がるなり、また、大きく十八番の片目瞬きをするや、不意に、唇を重ねてきた。
私が思わず目を見張ると…
愛は更に舌先をで唇をこじ開け、私の唇と絡み合わせてくる。
やはり…
海苔と鰹節の香りに、玉子焼きの味がする。
私は、次第にふわふわと浮かび上がるような感覚の中、そんな思いを抱きながら、愛の唇を吸い返した。
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