兎神伝
紅兎〜追想編〜
(30)秘密
赤子を揺り籠に寝かせると、愛はゆっくりと帯を解き始めた。
私は、愛の着物を脱ぎ、髪を解く手伝いをしながら、朱理を呼びに行きたくなった。
白無垢の着付けに、文金高島田の髪を結うのも難しければ、いざ脱がせ、髪を解くのも至難の技なのであった。
「イッ!痛い!」
私に髪を解かれながら、愛が悲鳴をあげること五回…
「クッ!苦しい!」
帯を解こうとして、余計締め上げて、愛を呻かせること、十回に及んだ。
「もう!爺じって、どうして、そう不器用なの!」
「それを言うなら、女の子の髪型も着物も、どうしてこう複雑なんだ!」
「複雑なんじゃなくて、細やかなの!爺じやタカ兄ちゃんみたいに、粗雑に出来てないのよ!女の子の身体(からだ)も心もね!」
「すまん…」
私が、手を止め、押し黙って俯くと…
「あ…ごめんなさい…私ったら…」
愛も、それまでの苛々ぶりが収まり、急にしおらしく肩を窄めて俯いた。
「ねえ…何か、本当に、一番最初に戻れたみたいね。」
愛は、チロッと私の方を見ると、ニコッと笑って言った。
「そうだね…
まだ、アケちゃんやユカちゃんにも見つからず、君が私の秘密の友達だった頃に戻ったみたいだ…」
言いながら、私も、鏡に映る愛に笑い返した。
何とか解く事の出来た愛の髪は、和幸並みに長く腰まであった。
サラサラと柔らかく滑らかな髪に櫛を入れて行くと、鏡には、それまで大人びて見えていた少女が、次第に人形のように幼くあどけない少女に変わって行く。
女の子とは、髪型一つでこうも変わるものなのかと感心する。
それまで、彼女を覆っていた、白無垢の着物も何とか脱げ、肌襦袢に裾除け姿になったのも、何処かあどけなく見せてるのかも知れない。
こうして、幼帰りした愛の姿を見ると、成る程、初めて出会った頃の事を思い出す。
『親社(おやしろ)様、早く早く!』
いつも、社(やしろ)の裏手から入ってきた愛が、社務所の窓越しから呼ばわる声が、耳の奥底から蘇ってくる。
『もう、何グズグズしてるのよ!日が暮れちゃう!』
『ごめん、ごめん。画材がなかなか見つからなくて…』
『そんなの私が貸してあげるから、早く行こうよー。』
私が、漸く風呂敷に包んだ画材を抱えて出てくると…
『わー!臭い!』
愛は、唐突に鼻をつまむ。
同時に、私が本当に出てくるのが遅れた理由を、愛は悟った。
『また、太郎とかって悪ガキにやられたのね!それに、政樹と竜也の奴!』
私は、頭を掻きながら、苦笑いして見せた。
そう…
あの日は、一週間も掛けて練り上げた、神饌組の悪戯で、見事に落とし穴に落とされたのだ。それも、いつの間にそんな労力を費やしたのか、手洗いや肥溜の糞尿をたっぷり埋め込んだ落とし穴に落とされたのである。
『今日と言う今日は許さないわ!親社(おやしろ)様を苛める悪い奴!私、とっちめてやる!』
『まあまあ、そう言うなって。あいつらなら、ユカちゃんに、もう百叩きの刑を食らって、真っ赤になった尻を撫でてるところだよ。』
私が、顔を真っ赤に袖を捲って息巻く愛に、笑って答えると…
『親社(おやしろ)様も、そんなんだから、あいつら付け上がるのよ!百叩きじゃ済まないわ!私が千叩きにしてやる!』
愛は、益々顔を赤くして、息を荒くした。
『おいおい…みんなには、今日は地鎮祭に出かけると言ってあるんだ。そんな真似されたら、バレちゃうよ。』
私が慌てて言うと…
『そっか…』
愛は、ニコッと笑って、小さな風呂敷包みを掲げて見せた。
『わあっ!今日もお弁当を作って来てくれたの?』
『うん!今日は、卵焼きだぞ!』
『それは、うまそうだ!』
私が思わず手を出すと…
『だーめ!お弁当は、絵を描いてから食べるの!』
愛は、風呂敷包みを、サッと後ろに隠した。
『そんな、一口だけ…一口だけ、食べさせてくれよ。』
私が、愛の後ろに回って言えば…
『ダメったら、ダメだってばー。』
愛は、クルクル回りながら走り出し…
裏山に向かって、新しい切り絵の題材散策の冒険が、その日も始まったのだ。
「ねえ…あの頃、何で私の事、みんなに内緒にしてたの?」
不意に、愛は不思議そうに首を傾げて、私に尋ねた。
「何でだろうな…愛ちゃんと過ごす時間を、誰にもとられたくなかったんだろうな…」
「でも、知られてからだって、私と爺じ、切り絵を書きに山に出かけたじゃない。邪魔されるどころか、ユカ姉ちゃん、お弁当まで作ってくれたわ。」
「それも、毎回、梅干しのおにぎりね。」
私が、話題を逸らすように言うと…
「そうそう!ユカ姉ちゃん特製の梅干し入り…あれの塩辛かった事!あと、何も入ってない塩むすびも作ってくれた時があるけど…あれも、塩辛かった!」
愛は、それこそ梅干しのような顔をしかめて見せて言った。
「ユカちゃんは、何でもいっぱいなのが良いと思いこんでるところがあるからね。」
「そう言えば…お汁粉を作ってくれた時は、逆に甘過ぎてびっくりしたわ!」
愛は言うと、私と二人で大笑いした。
「だけど、どうして?あの頃、どうして私の事を内緒にしていたの?」
「それは…」
私は答える代わりに、最後に愛の身体(からだ)を覆っていた肌襦袢と裾除け、腰巻を脱がせると…
「さあ、風呂に入ろう。」
愛の手をとって、浴室に誘った。
愛は、また、あどけない笑みを浮かべると、浴室に入り、湯船の前に置かれた風呂椅子に腰掛けた。
もう、同じ質問はしてこなかった。
秘密と言うなら…
あの頃、愛も秘密にしている事があった。
『ところで、愛ちゃんは何処の家の子なの?』
『さあ、何処の子かなあ。』
『お弁当作るの上手だし…料理屋さんの子かな?』
『内緒。』
裏山に出かける時、道すがら、幾ら尋ねても答えてくれなかったのだ。
愛が、河曽根上町十番地で、座布団屋を営む山田屋隆夫の娘である事を知ったのは、兎神子(とみこ)達と神饌組に存在を知られてだいぶ経ってからの事であった。
突き止めたのは、太郎であった。
好奇心から、神饌組を率いて愛をつけた際、愛が河曽根下町の兄妹が、河曽根組神漏(かわそねぐみみもろ)衆の子弟達に虐められているのを助けようとして、逆に酷い目に遭わされそうになっているのに出くわした。
太郎達は、大喧嘩して愛を助けた際、愛の素性を知ったのである。
『おまえ、兎神家(とがみのいえ)の子だったのか…道理で、学舎(まなびのいえ)にも来ないわけだ。』
『でも、もうすぐ、学舎(まなびのいえ)に行く事になるわ。』
『えっ?』
『だから…来年には、社(やしろ)でも学舎(まなびのいえ)でも、毎日、太郎君達と会う事になるの。』
『愛ちゃん…』
『今日は、助けてくれて、ありがとう。』
愛は、十八番の片目瞬きをすると、悲しげな笑みを残して、駆け出して行った。
そして…
翌日から、愛は社(やしろ)に顔を出さなくなり、太郎は境内の木陰で一人寂しく座り込んでいた。
『愛ちゃん、泣いてたよ…』
太郎は、愛の後をつけて行った時の顛末を話すと、そう言って、立てた膝に顔を突っ伏した。
『だったら、その涙、君が拭ってやれば良い。』
私が言うと、太郎は顔を上げて、真っ赤に泣き腫らした目を向けた。
『好きなんだろう、愛ちゃんの事が…』
太郎は、大きく頷いた。
『ならば、君が守ってやれば良い。この前は、勇敢だったぞ。見直したぞ。
さあ、迎えに行こう。』
私が言い、河曽根町に足を向けると、太郎は満面の笑みを浮かべて私について来た。
「私が、秘密にしていたのはね…」
私が、愛の背中を洗い始めると、愛は何処か寂しげな笑みを浮かべて、話し始めた。
「みんなといる時だけは、忘れていたかったの。私が、兎神家(とがみのいえ)の子である事も、もうすぐ赤兎になる事も、全部忘れてしまっていたかったの。」
愛の話を聞き、私も同じだと思った。
「私、みんなといる時だけは、普通の女の子でいたかったの。赤兎になる事、忘れたかったの。だから、内緒にしてた。」
私も、そうだった。
愛といる時だけは、自分が和邇雨一族の人間である事を忘れたかった。
幼い時から、来る日も来る日も、年端の行かぬ子達を弄んできた醜い手。
十三になってからは、暗面長(あめんおさ)として、隠密御史の朧衆を率いて、数多の人々を殺し続け血に塗れた身体(からだ)。
私は、ずっと、自分を汚い人間だと思い続けてきた。
鏡に映る自分の姿を見ては、羞恥や苦痛を訴える事も許されぬ幼い兎神子(とみこ)達を汚す自分。昨日まで、共に神学、伝承、祈祷を学び、祭祀を執り行ってきた仲間達を、この手で冷酷に殺戮する姿。汚した兎神子(とみこ)達の破瓜の血と、殺した人々の返り血にまみれた姿。
こんな自分など消えて仕舞えば良い。存在していた事も忘れてしまいたい。そう思い続け、遂に本当に自分の名を忘れて生きていた。
しかし…
愛は、生まれて初めてできた、社(やしろ)の外の友達であった。普通の領民(かなめのたみ)の子供…少なくとも、あの頃は、そう思っていた。
私は、普通の子供として過ごしたかった。普通の子供として、普通に近所の子供達と友達になりたかった。苦悶に呻く同じくらいの年頃の女の子達の身体(からだ)を弄り回し、汚し、子を産ませる。そんな子供時代など過ごしたくなかった。
愛と遊んでいると、その夢が叶ったような気がしたのだ。
『ほら、遅い!遅い!早く早く!どうして、親社(おやしろ)様は、そんなにノロイのよ!』
『愛ちゃん、もう疲れた!休もうよ!お弁当!お弁当!お腹すいたー!』
『もう!これだから、子供を連れて来るのは嫌なのよ!そんなに言うなら、もう連れてきてあげないわよ!』
私は、すばしこく山道を駆け上がる愛に急かされながら、いつしか子供に返ってしまったような気がしていた。
百合が、いつも全裸でいる事に疑問すら抱かず、母に連れられて、一緒に野山を駆け回った頃に戻ったような気がした。
『愛ちゃーん!もう歩けない!歩けないったら、歩けない!』
『もう!しょうがないわね!』
『わあ!お弁当、卵焼きに焼き鮭も入ってる!』
渋々、愛からすればまだ早い弁当を広げて貰った時、私は、愛よりも幼い子供に返っていた。
『親社(おやしろ)様、美味しい?』
『凄く美味しい。』
『それじゃあ、私のもあげるわ。』
『ありがとう!』
『その代わり、もう駄々を捏ねないで歩くのよ。』
マセた口調で言う愛に、卵焼きを口に入れて貰った時、私は、お姉ちゃんができたような気がして嬉しかったのだ。
私は、ずっと子供でいたかった。何もかも、現実を忘れて、愛といる時だけは、幼い子供でいたかったのだ。
だから、愛の事は、誰にも教えない自分だけの友達にしておきたかったのだ。
「爺じ!もう!何処洗ってるのよ、くすぐったい!」
愛は、突然、ケラケラ笑いだしながら、身をよじらせた。
「おいっ!コラッ!大人しくしてないと洗えないだろう!」
「だって、だって、そこ、くすぐったい!」
愛は、一層笑い転げながら、身をよじらせた。
「もう!そんなに言うなら、本当にくすぐってやるぞ!」
言いながら、私が脇の下や腰をくすぐってやると、愛はあらぬ所が丸見えになるのも構わず、手足をバタバタさせて、笑い出した。
と…
私は急に手を止めた。愛の神門(みと)が見えた時、急に忘れかけていた消せない現実の日々を思い出したのだ。
私の見ている前で、彼女を宝物みたいに思っていた兎神子(とみこ)達や、神饌組達の見ている目の前で、醜いものがソコを貫いた消せない現実の日々。
「爺じ、今度は、私が洗ってあげる。」
愛は、私の手から手ぬぐいを取り上げると、今まで座っていた風呂椅子に、私を座らせた。
愛もまた、私と遊んでいる時、在りし日の家族との日々に戻っていた。
父と二人の母、腹違いの妹と遊んでいた日々。
家族と遠足に出かけ、家族と野山を駆け回っていた日々。
あの頃、毎日は輝きに満ちていた。優しい両親と可愛い妹と、一緒に遊んだり、店の手伝いをしたり…
学舎(まなびのいえ)に行かない兎神家(とがみのいえ)の子供は、母親に必要な事は全て教わり習う。二人の母親に、代わり番こで、習い事をするのも、楽しくて仕方なかった。何より、先に習って覚えた事を、お姉ちゃんぶって、妹に教えるのがとても楽しくて仕方なかった。
それが…
赤兎となる事が決まって、一変してしまったのだ。
愛は、私の背中を洗いながら、私の股座の狭間から見えるものに目を留めると、思わず目を背けた。赤兎となってからの日々を思い出したからではない。
一日で、一番の楽しみだったはずの、父親との入浴が、恐怖となってしまった時の事を思い出したのだ。
直に握り、揉み扱き、咥えさせられた穂柱…
口腔内に放たれ、飲み込まされた生臭い白穂…
上手くできなければ、容赦なく怒鳴られ叩かれ、出来るまで、同じ事を繰り返しやらされた。
「おいおい!愛ちゃん、くすぐったい!くすぐったいってば!」
今度は、私がゲラゲラ笑いだすと。
「ほら、爺じ、大人しくして!もう!良い子にしてないと、洗ってあげないわよ!」
言いながら、それこそ、愛は本当にわざと最初から、私を擽った。
「だから、くすぐったい!くすぐったいって!」
「だから、大人しくして!大人しくするの!」
暫くの間、洗ってるのかふざけあってるのかわからない格闘を続けた後…
愛は、私の後ろから齧り付き…
「爺じの背中って、相変わらず、広いね。」
言いながら、私の背中に頬を乗せた。
「こうすると、お父さんの背中を思い出すな。」
「あの頃も、裏山から帰ってきて、二人でお風呂に入ると、よくそう言ってたね。」
「うん。」
愛は、私の背中に頬を乗せたまま頷いた。
『親社(おやしろ)様のお背中、とっても大きくて広いなー。お父さんの背中みたい。』
『愛ちゃん、そろそろ、湯船に入ろう。』
『ううん。もう少し…もう少しだけ、お願い。』
それまで、私を子供扱いしていた愛が、漸く立場を戻して、幼い子供に返る瞬間であった。
「ほら、愛ちゃん。段々、身体(からだ)が冷たくなってきてるよ。風邪引くよ。」
「じゃあ、抱っこしてくれる?」
「良いよ、おいで。」
私は、言いながら、愛を抱え上げて先に入れてやり、自分も後から中に入ると、愛を膝に抱いてやった。
「爺じの腕って、暖かい。お父さんみたいだー。」
愛は、言いながら、私の腕の中で丸くなり、胸に寄り掛かって、ニコニコ笑いだした。
私は、そっと抱きしめ、愛の頭や頬を撫でてやる。
さっきまで、愛の弟だった私が、一気に父親になる瞬間であった。
「爺じ、お父さんの腕ってね、とっても優しくて、暖かくて、気持ち良いの。」
言いながら、愛は私の胸に頬擦りした。
「それも、あの頃、よく話してくれたね。」
「うん。」
「お父さんに会いたいか?」
「うん。お母さん、結衣母さん、舞ちゃんにも会いたい。」
「それじゃあ、今度、会いに行こう。」
「うん。でも、その前に、また爺じと二人だけで裏山に行きたいな。」
「赤ちゃんも連れて行かずにか?」
「うん。だって…」
「そうだね…あの場所は、私達二人だけの…」
「そう、秘密だもん。」
愛は、私の胸に寄り掛かったまま、にっこり笑った。
見れば、両目の瞼が重くなり、今にも眠りそうである。
「愛ちゃん、そろそろ出ようか?」
「ううん…もう少し…」
「湯船の中で眠ってしまいそうだよ。」
「お願い、もう少しだけ…お願い。」
「仕方ないな…」
私が、頭を撫でながら言うと、愛は嬉しそうに甘えるような笑みを浮かべて、私の胸に顔を埋めて目を瞑った。
私もまた、目を瞑る。
恐らく、二人とも、瞼の裏側に、同じ景色が浮かんでいるのであろう。
そう…
裏山を歩き回り、漸く見つけた、絶景の場所。切り絵の題材。
二人だけの秘密の場所。
兎神子(とみこ)達や神饌組に、愛の存在を知られた後も、未だに皆には明かしていない、二人だけの場所。
できれば、桃や桜の咲く春先か、紅葉の美しい秋が望ましかったけど、雪深い冬景色も格別だろう。
しかも、人に知られぬ裏道にも関わらず、雪の中でも道程は緩やかで、歩きやすい。
「また、お弁当持って行こう。」
「うん。」
「久し振りに、愛ちゃんのだし巻き卵と昆布巻き、作ってくれる?」
「良いわよ。卵焼きと焼き鮭も作ってあげる。」
「それは、豪華だね。でも、食べきれるかな?」
「食べられるわよ。爺じ、食いしん坊なんですもの。」
話しながら、私と愛はクスクス笑って、頬擦りしあった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます