さやえんどう21

思いついたことを載せています。

稲城長沼駅のスコープドックを見に行ってきた。

2024年11月18日 | 呟き













前々から行こう行こうと思っていました。
 
今日やっと行けました。
 
仕事のついでなのであまり長居できませんでしたが、一人感動に打ち震えていました。
相当過去の作品のボトムズが、ここでしっかり息づいていることに感動しました。
 
「キリコが飲むウドのコーヒーは苦い」という、高橋監督のセンスが光る渋い予告ナレーションが印刷されたコーヒーカップを買ってしまいました。(実際作中でキリコはコーヒーを飲んでいなかったと思いますが)税込880円
 
そしてウドの苦いコーヒーも、注文してしまいました。注文するとき少し恥ずかしかったですが、店員のお姉さんが明るく対応してくれて、飲んだ後のゴミのことも気遣ってくれました。
 
やさしそうなマスターが店員のお姉さん2人と楽しそうに話をしていて、あれはあれで客(自分)に対するマスターの気遣いなのだなと思いました。決して広い店内ではなく、マスターとお姉さんが黙りこくっていたら、自分はおそらく緊張してその場に居辛かったと思います。
 
マスターたちが明るく適当に会話をしているからこそ、店内をじっくり落ち着いた気分でながめることができたと思います。
マスターの何気の無い気遣いすごい。
 
あのマスターはボトムズマニアなのだろうか。普通のやさしそうなおじさんに見え、マニアック感はなかったですが、質問してみればよかった。そしてボトムズについて語りたかった。
 
かなり濃いめのビターテイストのコーヒーでしたが、その時は普通に飲みました。
帰り道、首都高用賀料金所を通過するときに、残りをすすろうと口にしたところ、喉にひっかかる感じがし、C2に接続するまでの間、ずっと咳き込みむせていました。
 
そして会社に戻り、仕事を終えて近くの体育館でランニングで汗を流して帰りました。
というか今日はあまり仕事をした感じがしなかったかな。
 
 

東京奇譚集 村上春樹

2024年11月10日 | 本の感想

5話からなる短編集 各話とも話の導入は引きつけるものがありましたが、本のタイトルも奇譚(ありそうにない話)ということもあり、リアリティーからかけ離れてしまい面白くありませんでした。

(村上春樹の作品の多くは、奇譚で結ぶことが多いですが)

ただ、「偶然の旅人」の話の中で、心に残った台詞がありました。

「偶然の一致というのは、ひょっとして実はありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりでしょっちゅう起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまします。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何もみえません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるのです。」

ひとつの考え方ですが、共感できる言葉でした。

自分はあまり周りに関心がなく、身の回りの出来事をただ眺めているだけの人なので「偶然の一致」を見過ごしている気がします。

逆に細かく周りに関心を持っていたり感受性が強かったりしている人は、偶然の一致に遭遇する機会が多いのではと思います。

 

 

 

 

 

 


すばらしき日々

2024年11月04日 | 呟き

すばらしき日々

 

生きている証としての何かを刻みたいが何をすればよいのかわからない

外に出て付き合いをするが、作り笑顔で体をなす時をやりすごす

実のところ、何が楽しいのかよくわからない

 

外に出て愛犬を連れて、子供を連れて笑顔に満ち溢れた家族を見かける

心の底から楽しんでいるのだろうかと疑問に思う

仲睦まじい恋人同士や、仲良しグループや部活の集団らしき人たちが若さという眩い光をあたりかまわずまき散らす

疲れないのだろうかと思ってしまう

 

みな、ただ世の中の規定に合わせて笑顔を拵えて演じているだけなのではと思う

集合写真をとるときの規定で、無理やりつくり笑顔を拵えるように

一人でいる方が楽なのに、でも世の中の規定では一人でいる人はつまはじきにされている人

そう思われたくないから皆といて楽しそうな自分を演じているのではと思う

 

今日、幼い子供をつれてゴルフ練習場にきている若いお父さんを見かけた

お父さんにクラブの持ち方や振り方を教わり子供はとても楽しんでいるように見えた

子供は夢中になって子供用ゴルフクラブで球を打ち続けていた。

しかし、ふとお父さんがトイレに行き打席を離れたとき

さっきまで夢中になってた子供は、急に冷めたように虚空を見つめ立ち尽くしていた

とてもつまらな表情だった

幼いながらも楽しんている子供を無理して演じているのではと思った

 

では生きていて何が楽しいのか

 

別に無理に楽しくなくても、いいと思う

飢餓や戦争におびえることなく衣食住に事足りて

適度な仕事があって、何もしない日は本を読んで

適度に運動をして健康な体があれば、十分だと自分は思う

そこに楽しいという感覚はなくてもいいと思う

皆が笑っているときに、笑っていない自分がいてもいいと思う

相手に合わせて無理に違う自分を演じなくてもいいと思う

人からネガティブなことを言われても自分は自分でいいと思う

楽しいという感覚を無理に追い求めない方が、心の安寧を招くものだ

 

今自分はすばらしき日々を生きていると思う