さやえんどう21のお部屋

何かものをつくろうと考えたり、作ったり、修理したりするのが好きです。いろいろなことについて書いています。

東京奇譚集 村上春樹

2024年11月10日 | 本の感想

5話からなる短編集 各話とも話の導入は引きつけるものがありましたが、本のタイトルも奇譚(ありそうにない話)ということもあり、リアリティーからかけ離れてしまい面白くありませんでした。

(村上春樹の作品の多くは、奇譚で結ぶことが多いですが)

ただ、「偶然の旅人」の話の中で、心に残った台詞がありました。

「偶然の一致というのは、ひょっとして実はありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりでしょっちゅう起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまします。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何もみえません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるのです。」

ひとつの考え方ですが、共感できる言葉でした。

自分はあまり周りに関心がなく、身の回りの出来事をただ眺めているだけの人なので「偶然の一致」を見過ごしている気がします。

逆に細かく周りに関心を持っていたり感受性が強かったりしている人は、偶然の一致に遭遇する機会が多いのではと思います。

 

 

 

 

 

 


『天才の勉強術』木原武一を読んで

2024年09月16日 | 本の感想

気に入ったところ

『ものを集めるというのは、世界をほんの少しばかり切り取って、自分のものにすることである。あるいはこんな言い方もできるかもしれない。コレクションとは世界に秩序を見つけようとする試みであると。少年少女が拾い集める石ころは、世界の秩序を告げるシンボルなのである。石ころを集めるのは地球を知るひとつの試みである。』(P111)


『暇と退屈の倫理学』國分功一郎著 を読んでどんな内容かまとめてみました。

2024年06月23日 | 本の感想

どんな内容かまとめてみました。

 







簡単に言ってしまえば、このような筋書きですが

最後に國分先生は結論に至る過程を熟読してほしい、と言っています。

 

人間が退屈を感じるようになった理由については

「狩猟時代(移動)から農耕時代(定住)へ移行し、移動の際に変化に対応する為に活発に使われていた大脳が、定住することにより使われなくなりもてあまし退屈を感じるようになった。」

「有閑貴族の特権であった暇が、現代人にも享受されるようになってきたが多くの人は暇の使い方がよく分からなく退屈を感じている。」などの推論を述べています。

動物が退屈を感じない理由についても、常に定型行動をとっているため、人間と違って大脳が変化に対応する必要がなく、そのため退屈を知覚しないとの事が書いてあります。

 

◆自分について…現在の仕事が嫌いではないですが、同じことを繰り返していると退屈を感じて、他のことをやってみたいとか、違うところに行ってみたいとか、他の仕事もやってみたいとか感じる理由は これか とこの本を読んで気づきました。

そもそも脳が変化に対応して闊達に動いていないと退屈する仕組みなだったとは…。

それを意識できるだけでも、脱退屈にたどり着きやすいかなと思いました。

自分の場合は、お金を掛けずに脳に変化を与える方法としては、図書館から借りた本を読んで、感想を書いたり、イラストを描いたりですかね。 

 

 

 

 


1分でわかる『異邦人』カミュ著 の話の内容と作品テーマ

2024年06月18日 | 本の感想

作品テーマは不条理な実存主義(=例えば、まわりが「お前は○○だ」といいつづければ、本人もだんだん「自分は○○かな」という認識になってしまうこと。)

『異邦人』の舞台設定は アフリカ北部地中海に面したアルジェリア アルジェ。






 



『異邦人』 細かい点は省き、ざっと短くまとめるとこのような話です。

随分昔にも読んだことがありますが、そのときはムルソーがアラビア人を撃った理由は、「フランス人作者カミュが、アウェー感のあるアルジェリアでの生活で、アラブ人対し少なからずストレスを感じており、それが鬱積して作中でのアラビア人殺しになった。」という解釈を勝手にしていました。

 


「 i(アイ)」西加奈子著を読んでみました。

2024年06月16日 | 本の感想

「 i(アイ)」西加奈子著を読んでみました。何気にブックオフで手に取った本です。西加奈子さんの作品を読むのも初めてです。

主人公のワイルド曽田アイは、シリア難民の子で生まれて間もない頃に、アメリカのダニエルと綾子夫妻に養子として引き取られる。

そこは裕福な家庭でアイは両親から溢れんばかりの愛情を注がれるが、自分の身の回りや、世界のあらゆるところで起こっている不幸な出来事があるたび、自分が被害者側でなく、幸福の側にいることの罪の意識に苛まれる。

その都度日付と出来事と死亡者数をノートに記録しそれら出来事を自分に刻み付けている。

現実逃避から勉強、特に数学の世界に没頭し虚飾のない数式が織りなす美しさ魅了されていき大学院でも研究に没頭するが、罪の意識の強い感受性による責め苦からは逃れることは出来ず、むしろより意識を内側へと向かわせる。

様々な過程をへて暖かい両親、高校で知り合った親友のミナや、夫の佐伯ユウに支えられ前向きに生きる力を得、自分自身で決断し、自分自身を肯定するようになり、最後は作中何度も繰り返される「この世界にアイは存在しません」という呪縛から解放される。

主人公アイの幸福の側にいることについての罪の意識への強い感受性は、普段何事もなく生活をしている人には理解し難いものかもしれないと思いました。

アイの罪の意識についての感受性については、15歳から高校生の頃の多感な少女時期、さらには同一性を重んじる日本の教育風土の中での疎外感などが絡みあって、彼女にとって一層強いものになり自身を苦しめたのだと思います。

少し前に読んだ村上春樹氏の「海辺のカフカ」で想像力があるところに罪の意識があると書かれており(言い換えれば〝被害者側の苦しみを想像できない人に罪の意識はない″。ユダヤ人を虐殺したアイヒマンの話の例で)、主人公アイの場合、被害者のイメージがが高波のように押し寄せ、自分の精神を蝕むくらいに罪の意識に苛まれてしまう。

アイは夫のユウから「幸福の側にいることに感謝をしなければならない(それにより亡くなった人達にどう思われようとかまわない)」との救いの言葉を掛けられる。

この言葉はありふれた言葉かもしれないですが、このストーリーを通じて投げかけられると強い救済の言葉として心に強く響きます。

また流産の辛い経験はアイを、自分も完全には幸福の側にいるのではないと考えるきっかけとなって、ユウの心の力添えもあり前に向かって結果的には進むきっかけとなったと思う。

 

アイの罪意識ついては「そりゃ考えすぎだよ。」って思いながら読んでいました。読む姿勢としては失格であることは重々承知ですが。

ただアイのような生い立ちは特殊すぎて、アイの苦しみを理解でき「そりゃ考えすぎだよ。」って言えるひとがアメリカや日本にはいなかった。

養子として引き取られて、単独アメリカに移住したようなものだから、同じ境遇の人同士のコミュニティーもなく、「そりゃ考えすぎだよ。」って言えるひとなどいるはずもないですね。

 

 

 

 

 

 

 

 


『海辺のカフカ』を読んでいます。

2024年06月01日 | 本の感想

ブックオフで「海辺のカフカ」を買ってきました。これから読んでみます。

心にとまった内容を備忘録代わりにここに書いていこうと思います。

イラストは何もまだ読んでいないうちに、本を読んでいる女の子を描いてみました。ニコニコしながら読んでいますが、そのように読む本でなかったら、これはこれでミスマッチがあっておもしろいかもです。

 


◆「この世界における一人ひとりの人間存在は激しく孤独であるけれど、その記憶の元型※においては私たちは一つにつながっているのだ」(山梨県元教師の手紙の中から)

 

◆(夏目漱石の「坑夫」の主人公の話から)「坑夫」の主人公は作中で成長性がなく、恋愛事件のことばかりくよくよ考えていて、目の前に出てくるものをだらだらと眺め、それを受け入れているだけ。つまり、彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんど何もないんです。すごく受け身なんです。でも、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択できたりしないもなんじゃないかな」(カフカが大島さんに言った事)

 

◆ある種の不完全さをもった作品は、不完全であるがゆえに人間の心を強く引きつける。少なくともある種の人間の心を強く引きつける、ということだ。たとえば君は漱石の「坑夫」に引きつけられる。『こころ』や『三四郎』のような完成された作品にはない吸引力がそこにはあるからだ。

質の良い稠密(ちゅうみつ)な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。ぼくは(シューベルトの)二長ソナタに耳を傾け、そこに人の営みの限界を聴きとることになる。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる」(大島さんの言葉)

 

◆ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンがテルアビブの法廷の被告席にあって、「自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びるようになったのか。自分は一人の技術者として与えられた課題に対してもっとも適切な解答(どうすればローコストでユダヤ人の大量虐殺を行えるかについての)を提出しただけなのだ。どうして自分だけこのように責められなくちゃならないのか。」といって罪悪感を感じていないことについて、

「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。逆に言えば想像力(虐殺される側のこと)のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例にも見られるように」(大島さんの意見)

「もちろんアイヒマンの計画がすべてすんなりと実現されたわけじゃない。現場(戦争によって引き起こされる障害)の事情で計算通りにものごとがすすまないこともある。そうすると、アイヒマンはそこにある戦争を憎みさえするー彼の計画を邪魔する「不確定要素」として

 

◆「ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・Sエリオットのいう〈うつろな人間たち〉だ。その欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁屑(わらくず)で埋めてふさいでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理やり押し付けようとする人間だ。」(甲村図書館にてフェニミズム女性2人組が帰ったあとの大島さんの言葉)

 

◆「人間が抱く激しい感情はだいたいにおいて、個人的なものであり、ネガティブなものなんだ。」(大島さんの言葉)

 

◆「世の中ってのは、自分の思い通りにならねえから面白いんだって」(ホシノさんの言葉)

 

◆「田村カフカくん、あるいはほとんどの人は自由なんて求めていないんだ。求めていると思い込んでいるだけだ。すべては幻想だ。もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ」

 


◆ソファに腰かけてあたりを見渡しているうちに、その部屋こそが長いあいだ探し求めていた場所であることに気づく。ぼくはまさにそういう、世界のくぼみのようなこっそりとした場所を探していたのだ。(甲村図書館にいったとき)

 

◆「腕立て伏せ シットアップ スクワット 逆立ち 何種類かのストレッチ 機械や設備のない狭い場所で、身体機能を維持するためにつくられたワークアウト・メニューだ。ぼくはジムのインストラクターからそれを教わった。「これは世界でいちばん孤独な運動なんだ」と彼は説明してくれた。「これをもっとも熱心にやるのは、独房に入れられた囚人だ」。(大島さんの兄の小屋にてカフカのセリフ)

 

◆「頭上には無数の星が光っている。空にちりばめられたというよりは、手当たり次第にばらまかれたというほうが近い。僕は彼らの存在に今まで気づきもしなかった。星についてまともに考えたことなんて一度もなかった。いや星だけじゃない、そのほかにどれくらいたくさん、僕の気づかないことや知らないことが世の中にあるのだろう? そう思うと、自分が救いようもなく無力に感じられる。どこまで行っても僕はそんな無力さから逃げ切ることはできないのだ。(大島さんの兄の小屋にてカフカのセリフ)

 

◆音楽にかわるものはいたるところにあった。鳥のさえずり、様々な虫の声、小川のせせらぎ、樹木の葉が風に揺れる音、何ものかが小屋の屋根を歩いている足音、雨降り。そしてときどき耳に届く、説明のつかない、言葉では表現することもできない音…。地球がこれほど多くの美しく新鮮な自然の音に満ちていることに、これまで僕は気が付かずにいた。(大島さんの兄の小屋にてカフカのセリフ)

 

◆「いかなる人間も同時にふたつのちがう場所に存在できない。それはアインシュタインが科学的に証明しているし、法的にも認められている概念だ」(甲村図書館にて カフカのアリバイについての大島さんの説明)

 

◆「でも当たり前の話だけれど、ものごとはじっさいに起こってみて、そこで初めてそれが起こったことになる。そして往々にして、ものごとは見かけどおりのものではない」(大島のセリフ)

 


「世の中のことはすべてメタファー(比喩)である」とのテーマにそって書かれている。

佐伯さんー母 さくらさん―姉 ナカタさん―父を殺す自分 佐伯さんの元彼(少年)-15歳のカフカ カラスと呼ばれる少年-自分自身の心の投影。

カフカの逃避行は、最初父ジョニーウォーカーの予言(カフカが父を殺し母と姉を犯すこと)から逃れる目的であったが、父の死をきっかけにそれから逃れられないことを悟り、それを一つひとつ享受して父の呪縛から逃れようとするが、その過程で超現象的な精神世界へ深く入り込むことになる。 

ナカタさん、佐伯さんは それぞれ過去の事件によって既に内的に部分欠損しており(ナカタさんは知性がないが人や猫を引き付ける不思議な吸引力がある 佐伯さんは知性があるが心の空虚感があり人との付き合い表面的である)、二人は出会うことによってようやく予定調和としての死を遂げることができる。

(これは勝手な想像ですが、作中には書かれていませんが、ナカタさんが少年の頃不思議な体験をした頃に佐伯さんが誕生したのではと思いました。ナカタさんは元々知性あふれる少年でしたが、不思議な体験を経て知性が全て欠如してしまいました。その知性がこの頃生まれてくる佐伯さんへと強引に引き渡されたのではと思いました。二人の年齢差もちょうどよいので。)

精神世界に深入りするようになったカフカは、導かれるように樹海のような森の奥まで入り込み、そこにある異世界での不思議な経験や母としての佐伯さんとの本当の別れを経て、現実世界で生きていこうとする。(佐伯さんも最後にカフカと会って本懐を遂げる)そして母としての佐伯さんや姉としてのさくらさんを強く意識し、それまでの捨てられた思いでと(母をゆるすという形で)決別する。

そして中野区野方での元の生活に戻っていく。

 

「1Q84」「騎士団長殺し」同様、メタファーとしての描写が多いからでしょうか。わかりづらいところもありましたが面白く読みました。物語の話の展開の整合性や必然性については「ん~?」と思うところがありました。ナカタさん星野さんの偶然にしてはあまりにも出来過ぎている展開とかメタファー世界ならではのことだからと読めばよいのでしょうか。やはり村上作品を読むときは細かいことは気にしないのが一番と個人的には思います。

またいつか魅力的なキャラやストーリーのことを思い出したいと思います。

 

 

田村カフカとナカタさんのイラストをイメージで描いてみました。カフカ君は作中では筋トレが日課なのでもっと一回り体が大きいと思いますが、自分はなんとなくエヴァンゲリオンの碇シンジ君っぽい少年のイメージで読んでいます。

佐伯さんは上品で知的な感じで描いてみました。実際の設定では髪がもっと長いと思いますが。大島さんは美しい女性的な雰囲気がある人のように描いてみました。大島さんに女性的という表現は正しくないですが。

 

 

 

 

                   

 

 

 


秋川まりえ『騎士団長殺し』村上春樹

2024年05月26日 | 本の感想

ブックオフで買ってきて『騎士団長殺し 還ろうメタファー編』を読んでいます。

イデア編を読み終えてから随分時間がたってから読んでいます。前半いろいろなことが謎だらけで終わっていましたがこのメタファー編で解明されていくのだろうと楽しみながら読んでいます。

免色さん、秋川まりえ 騎士団長 雨田具彦 スバル・フォレスターの男 等々 魅力的で謎めいたキャラの今後が楽しみです。

イラストは秋川まりえをイメージして描いてみました。

 

◆「男女の仲はある種のゲームと考えられる。お互いがルールをもっていて、お互いに相手のルールを尊重し合わないとうまくいかない。ゲームがうまくすすまないようになると試合を中断して、新たな共通ルールを定めなくてはならなくなる。あるいはそのまま試合を止めて競技場から立ち去らなくてはならない」

 

◆「記憶は時間を温めることができる。そして もしうまくいけばということだが、芸術はその記憶を形に変えて、そこにとどめることができる」

 

◆「『人に訪れる最大の驚きは老齢だ』…老齢は人にとって、あるいは死よりも意外な出来事なのかもしれない。それは人の予想を遥かに超えたものかもしれない。自分がもうこの世界にとって、生物学的に(そしてまた社会学的に)なくてもいい存在であると、ある日誰かにはっきり教えられること」

 

「壁はもともとは人を護るために作られたものなのです。…しかしそれはときとして、人を封じ込めるためにも使われます。…壁の高さにはずいぶん威圧感があります。そこにはある種の無力感が生まれます。私は同じような壁をしばらく前にパレスチナで目にしました。イスラエルがこしらえた八メートル以上あるコンクリートの壁です。(免色の言葉)

「我々は生きている限りその制約(時間と空間と蓋然性に縛られていること)から逃れ出ることはできない。言うなれば我々は一人残らず、上下四方を堅い壁に囲まれて生きているようなものだ。たぶん。」(主人公の言葉)

 

◆「この人生にはうまく説明のつかないことがいくつもありますし、また説明すべきではないこともいくつかあります。とくに説明してしまうと、そこにある一番大事なものが失われてしまうというようば場合には」(免色の言葉)

 

◆「完成した人生を持つ人なんてどこにもいないよ。すべての人はいつまでも未完成なものだ。」(主人公の言葉)

 

◆「私が生きているのはもちろん私の人生であるわけだけど、でもそこで起こることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手に決められて、勝手に進められているのかもしれないって。つまり、私はこうして自由意志みたいなものを持って生きているようだけれど、結局のところ私自身は何一つ選んでいないのかもしれない。」(ユズの言葉)

 

◆「外に広がる太平洋を眺めた。水平線がせり上がるように空に迫っていた。私はそのまっすぐな線を端から端まで目で辿った。それほど長く美しい直線は、どんな定規を使っても人間には引けない。そしてその線の下の空間には、無数の生命が躍動しているはずだ。この世界には無数の生命と、それと同じ数だけの死が満ちているのだ。」

 

◆「心臓の出血は続いていたが、勢いは弱まっていた。右手をとってみたが、ぐにゃりとして力がなかった。肌にはまだ少し温もりは残っていたものの、皮膚の感触には既によそよそしさのようなものが感じられた。生命が着々と非生命に向かっているときに漂わせるよそよそしさだ。」

 

読み終えてみて

すみません、あまり難しく考えることをしないで、窓を開けて風を部屋に招き入れベランダ近くで陽光を浴びながらさらっと読みました。村上春樹の作品は音楽を聴くように読むと気持ちがよいと自分は思っています。

イデアあるいはメタファーといった観念としての世界や人物を認識するようになった主人公そして秋川まりえの話。

次の展開が気になって気になって一気に読めてしまう作品でした。

登場人物やストーリーについて深く考察して読むというよりは、物語の世界観を主人公の言葉を通して楽しんで読むという読み方をしました。

だから気持ちよくさらっと読めました。

多分本来は一つ一つのイデアやメタファー(比喩)が意味するものは何かを考えながら読むのが、この本の読み方だったと思いますが。

村上作品の文章は一つひとつが平易で分かりやすく女性的でとても綺麗で、外国語訳したときはきっと綺麗なフレーズになるのではないか、それが海外の若者にうけている理由の一つではとも思いました。

 

免色渉 秋川まりえ 騎士団長 など魅力的なキャラクターのことを時々振り返り思い出したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ジーキル博士とハイド氏 スティーブンソン著」 ハイド氏の人格をまとめてステッカーにしました。

2024年05月17日 | 本の感想

「ジーキル博士とハイド氏 スティーブンソン著」を読んでいます。

ブックオフで100円で売ってた薄い本で、すぐに読み終わるだろうと思っていたら、これがなんか読みづらい。

有名な二重人格者の話なので、話の大筋はわかりますが、見慣れない文章表現や理解しづらい比喩表現が多く、自分のごときには大変読みづらかったです。

 

ただハイド氏の人格についての説明表現がものすごくカッコイイです。

タイトルステッカーとハイド氏人格ステッカーを作成してみました。

 

これをシール紙に印刷してステッカーにしますが、さて何に貼ればよいものか?

この本を読んでいて何度か寝落ちしました。

 

今日よかったこと、ホッケ定食880円をおごってもらったことかな。


京極夏彦を読む 自分流の京極読み 京極きたーっ!

2024年05月15日 | 本の感想

京極夏彦の小説を読む。

まずはページを繰りながら京極ワールドにじっくり浸る。

そして、「ところで、あなたはもう死んでますよね」のような、京極お決まりのびっくりどんでん返しの展開になると、

「京極きたっーーーー!」と心の中で一人絶叫する。

酒を用意しながら、一人乾杯しながら心の中で絶叫する読み方もあります。

これが自分の京極夏彦の読み方です。

プロレスを観て、お気に入りのレスラーが期待通りのパフォーマンスをしたときに、一人盛り上がるような感じと言えばわかるでしょうか。

「冥談」「幽談」はこの読み方をしました。

 

「虚談」については、前半はこの読み方で読めましたが、途中から本のタイトルも「虚談」であることから

「どうせ、これは真実ではないって、最後はいうんでしょ」という感じで先読みができるようになり、

後半の話は、京極先生も、自分のような読者がしているような先読みを、いい意味で裏切ろうとしてか、かえって何をいいたいのかわからない話に仕上がっていいました。

 

はっきりとした落ちがない、あの湿っぽい文章を読んでいるだけで、京極ワールドに浸ることができて満足です。

先日も図書館で読み返しました。

 

明日は雨ということで涼やかな風を部屋に入れて、いま窓を開けながらラジオを聴きながら、ブログを描いています。

静かな夜です。窓の外は漆黒が広がるばかりです。

ラジオからは浜崎あゆみの曲が流れています。「ばいばいばい、ばいばばいばい♪」という曲です。

イラストは題して、ホームセンターで、紅あずまを眺める、紅あずま女子です。意味なく描きました。

 

 


「日々是好日」 森下典子著を読んで 

2024年05月09日 | 本の感想

『日々是好日』

 

映画も見て、本も読みました。

風流心というものが皆無な自分には、お茶の世界の良さがわかりませんでしたが、

また時間がたってまた見れば、今度は良さが分かるのかもしれません。

世の中には。すぐにわかるものと、すぐにはわからないものの2種類あるとこの本は教えてくれています。

 

◆◆◆読んでいて自分に刻まれた言葉◆◆◆

 

「きまりごとを離れたとっさのアドリブこそが、人としての実力のみせどころなのだ」P168

「個性を重んじる学校教育の中に、人を教育に追い立てる制約と不自由があり、厳格な約束事に縛られた窮屈な茶道の中に、個人のあるがままを受けれる大きな自由がある」「いったい本物の自由とはなんだろう」「そもそも、私たちは何と競っているのだろう」「学校はいつも他人と比べ、お茶はきのうまでの自分と比べることだった。」p229


いわゆる宗教臭さが全くなく完全肯定しないざっくばらんな学術的な居酒屋的トークがとにかく面白い 『聖書を語る』佐藤優 中村うさぎ

2024年05月04日 | 本の感想

読んでいて自分に突き刺さったところです。

◆◆「カルヴァン派の特徴(生まれる前から神に選ばれる人は決まっているという考え)は、試練に対して強いことなんです。選ばれいるに違いないから、目前の試練を乗り越えようとするわけですよ。競争にも強い。絶対にあきらめないから。欧米で資本主義がこんなに発展したのは、実はカルヴァン派ガプロテスタントの主流だからでもあるんです。」◆◆

(感想)西欧の資本主義の発展の要因としてカルヴァン派の考え方が大きく影響していたことはなんとなく暗記程度に知っていましたが、理由がよくわからないままでしたが、こうもあっさりと短文で明朗解決してしまう佐藤優は流石です。

 

◆◆「人間はそれほど合理的な生きものじゃないっつうの。あらかじめ美味と安全を与えられると、今度はまた違う病理を抱えることに絶対なると思う。マルクスだってさ、頭のいい人だったけど、理論どうりにはいかなかったわけじゃない。

私が思うに、経済学にしろ何にしろ、人間の「非合理性」を計算に入れていない理論ってのは必ず失敗するんじゃないかな。

人間は常に予想外というか計算外の非合理的な動きをするの。したがって完璧な理論は人間の非合理性によって、必ず失敗する運命にある、と。

幸せのマニュアルは書けない。」※途中中略しています。◆◆

 

(感想)中村うさぎさんの言葉で、まったくその通りだと思いました。

たとえば会社の給与システムを、毎月完全定額支払い制(固定残業制など)を導入するなどして給与保証をすると、だんだん働く意欲を減退させるという病理現象が生じ会社の体質に変調をきたします。

定額給与保証は、安定感を第一に求める女性はまだしも、本質的に競争原理の中で生きている男性にとっては、労働の活力を削がれ、今度は欲求のベクトルが「なるべく楽をしたい」に向かうと思います。従業員全体に広がってしまえばこれは会社の病理現象となってしますと思います。

ですので、賞与として成果に基づく報奨制をプラスするなど、働く人の欲求を計算しコントロールしない給与設計は失敗すると思います。

すこしずれてはいますが、話の内容に自分の経験として符合した部分があり、自分の中に突き刺さりました。

 

◆◆現代社会において神様は収縮して小さくなり、そのぶん人間に自由をくれたわけです。だから人間は、自由の限界まで自分たちの力でやらなければならない。◆◆

 

(感想)昔大学の授業で、西欧ではギリシャ神話の話を子供に教えていて、その内容は、人間は創造神から地球創造の際に不要として捨てられたパズルのかけらの存在だから自由を持っている、と言っていたことを思い出しました。

神様はよく思われているような平等で博愛精神をもっている存在ではないと、今でも思っており、そう考えたほうが世の中に不条理が横溢していることを説明できるのでは、と思っています。

村上春樹「海辺のカフカ」にも「神様のやることはだいたいにおいてよくわからないんだ。怒りっぽいし、あまりになんというか、理想主義的な傾向があるしね。」ということが書かれています。

 


1Q84(1冊目)を読んでいました。ふかえりの行方が気になります。

2022年07月10日 | 本の感想

いまさらかもしれませんが1Q84を読みました。

天吾・ふかえり と 青豆 の交互に織り成すストーリー 凄く面白いです。

 

キャラ像を、頭の中で自分なりに勝手に変換して面白く読んでいます。

天吾は実際は熊みたいな大柄な人との設定ですが、標準体型の好青年を勝手にイメージしていました。

青豆さんは、美人とまでは言えないまでも顔立ちの整ったショートヘアーの女性をイメージして自分のイメージの中では筋肉質の体系ではないです。

ふかえりさんは、上のイラストのような、実際にもしいたらどう話しかけてよいか掴みかけるような感情を表に出さないタイプの少女を想像しました。実物の顔だと誰みたくなるんでしょうか。例えば誰かタレントさんのような顔といったようには思いつきませんでした。

人妻のガールフレンドは、見る人から見るとあまり美人ではないとも書かれていましたが、年齢も変わりますが、吉瀬美智子さんを想像しながら読んでいました。これは自分の中ではしっくり合いました。ドラマ「昼顔」の影響なのでしょうか。

タマルはシティーハンターに登場する海坊主みたいな人に勝手に変換しました。これもしっくり合いました。

小松は若い頃の柳ユーレイをイメージしていました。映画リングに編集者役で出ていたからだと思います。

ふかえりが行方不明になって1冊目は終了しましたが、この先が気になります。

 


名作映画 『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』のウィルと、エヴァリスト・ガロア 

2020年07月26日 | 本の感想

(描いてみました)

 

「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」

(内容)

幼い時から里親に虐待を受けていたウィルは、高校卒業後、大学の構内の清掃の仕事をし、仕事の他は夜の街で仲間と酒を飲む生活をしていた。

ある日、ランボー教授が数学の難問を廊下の黒板に掲示し、翌日ウィルはその解答を黒板の隅に書き込んだ。その難問は構内のどの優等生でも解けないレベルのものであった。

ランボー教授は、その解答を書きこんだ人物を探すがなかなか見つからない。

しかし、後日偶然廊下で(別の問題の)解答を書き込んでいるウィルを目にする。

この後、ランボー教授はウィルの才能に磨きをかけ、また人間的にも成長させようとあらゆる支援の手を差し延べていく。

 

エヴァリスト・ガロアとの比較(※片やフィクションですが)

 

ウィルもエヴァリスト・ガロア(仏1811~1832)も、数学の才能を埋もれさせてしまっていた点では共通しています。

 

しかし両者を比較してその違いは、

ウィルは幼少の頃から不幸な家庭環境で育ったのに対して、ガロアは比較的裕福な環境で育ったことです。

人生の原点が異なっているので、その後、二人の人生のベクトルも大きく異なっていきます。

 

ウィルは理想の未来を思い描くことなく半ば人生なんてどうでもいいという気持ちで生きていきますが、ガロアは名門校に入って数学に没頭したいけどそれが叶わず挫折の人生を歩んでいきます。

 

しかし両者に救いの手が差し延べられます。

ウィルにはランボー教授や心理学の講師のショーンやハーバード大学の女学生のスカイラー達。

ガロアには、彼の天才性を見抜いた数学教師リシャールや、彼の才能に着目した科学アカデミー会員のポアソン。

ウィルは彼らに救われ人生を希望有るものへと軌道修正していきますが、リシャールやポアソンは悲運の淵へ向かうガロアを軌道修正して、立派な数学者として大成させるには力が及びませんでした。

ポアソンの場合、ガロアの論文が斬新すぎて理解できなく(当時の数学者で理解できたものは皆無でした)、彼の理論の解読は彼の死後の40年後に数学者ジョルダンによってようやく成し遂げられます。

 

そしてガロアはステファニーに恋をして、それが彼女の婚約者の怒りに触れて、決闘をする羽目になり、そして相手の銃弾が腸を貫通して命を落とします。

 

ガロアの方はいわゆる「早すぎた天才」であり時代と反りが合わなかった。

数学の才能を開花させてからは時代に、まるでつまはじきにでもされるかのように不運と挫折に見舞われてしまったように見えます。

 

作中のウィルの数学の才能は問題を解く際の天才的閃きにあるように見えますが、それがガロアのように時代にそぐわない斬新的な理論を作り出す才能であった場合、映画のストーリーももっと苦悩に満ちたものとなっていったのではと勝手ながら想像してしまいました。

 

【お薦めの一冊】

面白すぎる天才科学者たち 世界を変えた偉人たちの生き様(講談社)  内田麻理香著

東大工学部卒の内田麻理香氏により、ニュートンやダーヴインやアインシュタインや南方熊楠などの天才偉人達の生涯について女性視点で書かれています。

厚みのある知的な話を、女性ならではの感情的でしかも柔らかい表現でよく299ページにまとめ上げていることがまず驚きです。

前書きでは「どうかお気軽な気持ちで読んでください」とあるように、あまり気構えなくてもさくさく読めるよう文章全体に配慮が行き届いるように感じました。

何より登場する天才偉人(奇人もいますが)への筆者の愛情が読み手の方にも伝わってきます。

これは是非ともお勧めの一冊です。

孤高の天才達の意外な人間臭さが感じ取れます。

 

 

 

 

 

 

 

 


百田尚樹著 「幻庵」

2020年06月07日 | 本の感想

今日は仕事の合間の待ち時間に、百田尚樹氏の「幻庵(上)」を読みました。

 

江戸時代の天才囲碁棋士達の熱いバトルのお話ですが、お気に入りのキャラは天才少年、桜井智達。

主人公と仲良しでありながら好敵手。

天真爛漫なキャラが可愛いです。

深く考えずに即打ちをし、己の才だけで碁を打つキャラです。

残念ながら18歳で労咳で夭逝してしまいますが、どこか新選組の沖田総司を彷彿とさせます。

 

江戸時代の碁はまさに命懸けの戦い。現代将棋のように3時間という制限はなし、決着が着くまで三日三晩寝なくともとことんやる。まさに己の命を削っての戦いです。

 

ところで「幻庵」の最後の方に「爛柯(らんか)」という故事成語が紹介されていました。「爛」とは、腐る・ただれること。「柯」は斧の柄をさします。


晋の王質というきこりが、切り株で碁を打つ子供たちに森で会った。王質はそれを見ていて時間が経つのを忘れ、ふと気がつくとそばに置いていた自分の斧の柄が腐っていた。森を出て帰ってみると、当時の知り合い人は誰もいなかったという故事に基づきます。

 

自分にとっての「爛柯(らんか)」は絵を描いているときにまさしくそれですね。ああもう22:23だ。早く寝よう!

 

 

 


芥川龍之介 「南京の基督」イラストを描いてみました。

2014年05月10日 | 本の感想


作品からイメージしてイラストを描いてみました。

芥川龍之介作品の中ではこれが一番好きです。
ラストも謎めいていて独特の余韻を残します。
「青空文庫」のサイトで読むことが出来ますので、おすすめしたい一作です。
篤く基督を信奉する南京(昔の中国の首都)の宋金花という15歳の身を売る少女の話です。梅毒を患ってしまった宋金花は、キリスト教的隣人愛からそれ以後は客を取ることをやめることにしたが、ある日イエスにうり二つの外国人が彼女の家に訪れ、彼女を求めてくるが・・・。

宋金花の身を売るか否かの葛藤や逡巡が書かれています。芥川龍之介の別作品「杜子春」でも、仙人になるか、それとも畜生道で馬の姿になった父母が痛めつけられるのに堪らず声を掛けるか(杜子春には声を掛けたら仙人にはなれないという試練が与えられている)逡巡しますが、結局杜子春は「お母さん」と声を掛けてしまいます。

南京の基督、杜子春とも決意を貫き通すことは叶いませんでしたが、結果としてはそれで良かったことになります。しかし宋金花は梅毒が治ったと思い込んでいますが、治っていないというのが概ねの見方です。身を売る仕事を休養している期間があったため、病気の進行が少し遅れているだけとの見方もあるようです。(NHK大人ラジオより)