朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

相談相手になって下さるのだそうです。あの方。

2015-04-20 06:52:58 | 聖書から
私はあなたに感謝をささげる、
あなたは答え、救いを与えて下さった。詩編118:21







だれでも、求める者は受け、
探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。マタイ7:8




        (ローズンゲン日々の聖句4/20;月)







 私たちの求めに答えて下さる方なのですね。
天の神、主と呼ばれる方。
この方に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよいのだそうで(詩篇118:9)。




 死を宣告されて、モーセは、イスラエルを導く後継者を立てるようあの方に願い、

その願いのとおりに新しい指導者としてヨシュアが立てられたのだそうです(民数記27:15~18)。




 天の神、主は、私たち人間一人一人に計画をもっておられて(エレミヤ29:11)、

その、私たち一人ひとりを通してしようと思っておられることを、

私たちの内に願いとして起こし、求めを起こし、

そして、実現に至らせて下さる方なのだそうです(ピリピ2:13)。




私たちに同労者の地位を与え、

それが成ったとき、同労者として共に喜び合い、私たちを一つ栄光で包もうと思っていて下さるのでしょうね。




 それで、私たちも願っていいのだそうですね。
それぞれの場所で。
「主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
ああ、主よ。どうぞ救って下さい。
ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください」(詩篇118:14、25)と。
今日も。


イメージ 1











[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









<imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>









[269RANKのランキングサイト]






"哲学・思想 ブログランキングへ"

王の王として天の御座に着いておられる方は、日々、親しく声をかけて下さっていた親しい方。

2015-04-19 08:13:05 | 聖書から
わたしは良い羊飼いである。
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
わたしは彼らに永遠の命を与える。ヨハネ10:11、27、28(今週の聖句) 







彼(ロバに乗る王)の支配は海から海へ、
大河から地の果てにまで及ぶ。ゼカリヤ書9:10







神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずきます。フィリピ書2:9〜10




          (ローズンゲン日々の聖句4/19;日)







 ロバに、しかも、子ロバに乗ってエルサレム入城なさった柔和な方。
その支配は、地の果てにまで。
すべての名にまさる名を持っておられる方。

たくさんの羊飼いの声が飛び交う中で、
この方の声を聞き分け、
この方の声について行くのだそうですね。
この方のものである羊は。

今日も。





イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



<imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>



[269RANKのランキングサイト]



"哲学・思想 ブログランキングへ"

語ろうとしておられる思いを置いて下さるのだそうです。私たちの心にも。

2015-04-17 23:26:44 | 聖書から
モーセへに主の言葉

さあ、行くがよい。

このわたしがあなたの口と共にあって、

語るべき言葉を教えよう。出エジプト記4:12







わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、

すなわち、父のもとから出る真理の御霊が来るとき、

その方がわたしについて証しをなさるはずである。ヨハネ15:26〜27




          (ローズンゲン日々の聖句4/18;土)




 エジプトでの奴隷状態からイスラエルの民を導き出した偉大な指導者モーセ。

彼がエジプトへ行ったのも自分の意志によることではなかったのだそうですが、

語る言葉の一つ一つも、自分で語っているのではなく、

天の神、主がモーセを通して語ろうとされたことを語っていたようですね。

エジプト王パロに対しても、また、イスラエルの民に対しても。




どうしていいか分からないときには、主の御前にひれ伏して、言葉を待っていたのですね(民数記16:4)。




モーセは、一度だけ、天の神、主が言われたことと違うことをやってしましました。

イスラエルの民が、水がなく、また、つぶやいたとき、

天の神、主は、石に命じて水を出すよう、言われたのに、

モーセは怒りのあまり、前の時と同じように持っている杖で石を打ったのだそうです(民数記20:1~13)。

しかも、2度も。

この、天の神、主がしようと思っておられることと違うことをしたことで、モーセは約束の地に入ることができなくなったのだそうです(申命記32:51~52)。




 イエスは、捕縛される直前の夕食の席で弟子たちに語っておられるのですね。

これから、自分が十字架刑で処刑され、墓に葬られ、

三日目に復活し、天の父である方のところに帰ったなら、

もう一人の助け主、あなたがたを弁護する方を遣わすと。




 そして、その方が、弟子たちの心の内に、わたし(イエス)について証言をし、

この方が語られる証言のままに、弟子たちが語り伝えるようになる(ヨハネ15:27)と。




 イエス自身も、御自分のことを語っておられるのですね。

「わたしは、自分から話したのではありません。

わたしを遣わした父御自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

……

わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ12:49~50)と。




 イエスがそうであったように、イエスに似せられていく私たちも、

私たちの内に来て下さる真理の御霊とか聖である霊とか呼ばれる方によって、

父である方が私たちそれぞれを通して語ろうとしておられる思いが、私たちの心に来て、

私たちも、

父である方が私たち一人ひとりを通して語ろうとしておられることを語る者にしていただけるようですね。

今日も。





イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>









[269RANKのランキングサイト]









"哲学・思想 ブログランキングへ"

誰かを裁くことも、自分自身を裁くこともお任せしていいようですね。

2015-04-17 07:25:40 | 聖書から
主よ、
諸国の民を裁いてください。詩編7:9







律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。
この方が、救うことも滅ぼすこともおできなるのです。
隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。ヤコブ書4:12




          (ローズンゲン日々の聖句4/17;金)




 裁く基準を持っておられる方、裁きを行う方が天におられるのだそうです。

私たち、それぞれ、自分の基準をうちに持ち、互いに裁く思いが心に起こるものですが、その思いも、天におられる方の御前に差し出し、お渡し、この方に裁いていただきなさいということでしょうか。


 自分を責めたり、誰かをなじったりする思いが、心の内側から噴き出してくるとき、自分でその思いを抑え込み、なくしようとする努力は空しいもののようですね。


裁く方が天におられることを思い出したいものです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(ヘブル10:30)と仰られる方を。
今日も。


イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>









[269RANKのランキングサイト]









"哲学・思想 ブログランキングへ"

死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

2015-04-16 00:29:20 | 聖書から
主は正しい。
私が主の口に背いたのだ。哀歌1:18







私はここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、私は天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました」と。ルカ15:18





      (ローズンゲン日々の聖句4/16;木)




 私たちは自分の蒔いた種を刈り取ることになるのですね。
でも、自分の背きの罪を認めて天の神、主に帰るならば、
天では大きな喜びがあり、
天の神、主は、私たちを受け入れ、子の身分を下さり、
子にふさわしく扱って下さるのだそうです。




 ちょうど、相続財産の自分の分を生前贈与してもらい、

金に換えて遠くの町に出て行き、
全部を使い果たして落ちぶれ、飢え死にしそうになって、
やっと父の家を思いだし、頭を下げて帰ってきた息子のように。





 父親は一言も叱らないで、遠くから息子を見つけ、
走り寄って抱き、口づけしたのだそうです。
そして、一番良い服を着せ、指輪をはめさせ、靴を履かせて、
祝宴を始めたのだそうです。
「死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから」と。




 きっと、その指輪は、
その家の息子であることを証明する紋章が彫ってあるものだったのでしょうね。




 私たちも、自分の背きを認めて、天の神、主のもとに帰って行くなら、神である主は、私たちを
子の身分を授ける霊と呼ばれる方で覆って下さって、
私たちに子の心、父と思いを一つにしていきたい願いを与えて下さって、

父と一つ思いをもつ者にして下さるのだそうです。




背きの罪の罰は、残らず独り子である方に負わせて。

今日も。





イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>



[269RANKのランキングサイト]


"哲学・思想 ブログランキングへ"