女性元気に若返るために

赤ちゃんが欲しい方へのアドバイスと
健康について

今度は、学年閉鎖

2009-12-14 17:59:27 | 子育て
今朝、長女は、気持ちが悪いと

「遅れて、自転車でいくから」と言い出した。

先週、学級閉鎖で、長期に休んだので

また、「学校行きたくない病」が出たのだろう

12時、近くに妹が、お店に来てくれて

学校まで、送って行ってくれた。


そして、お昼を一緒に食べようと戻ってきたら

長女が乗っているではないか

「学校に行ったら、先生が『M、学校さ来たんが、何にも連絡ながった?

今朝、1・2学年、学年閉鎖になったんだぞ』って言われて、

まるちゃん(妹)さ、電話して、引き返してもらったな」だと


学校のHPには、何も載ってなかったから、

無理にやったのに


ひっやー!

また、今週も、休みかよー


冬休みより、長いのでは(^_^;)

「金運UP法」

2009-12-12 14:27:42 | こころ
今まで聞いた事ない「金運UP法」です\(^o^)/

メルマガ「精神世界の鉄人」さんから聞いたのものですけど




1つ目は、「家の床面積を広くするといい」らしいです。

「床面積」といっても、単純に、家の面積の広さではなくて、

正確には、「床が見える割合」なのだそうです。

たとえば、多くの人は、家に帰ってくると、すぐに、洋服やカバン、雑誌などを、

床に、投げ捨てたりしますね。これで、床が、隠れるのです。

ほとんどのお金持ちの家は、床に、そういう、投げ捨てたものが、

置いてなくて、いつも、片付いて、床が、全部、見えているそうです。

家具などの必要なもの以外は、床に、触れさせないよに




2つ目は、「財布を、新しく、買ったときに、最初に入れた金額に、

その後、その財布に、入ってくる金額が、合いやすくなる。」

始めは、なるべく大金を入れましょう

ないときは、借りてでも、だそうです。

財布が、波動を覚えるのだそうですよ。

通帳を作る時も、はじめに、大金を入れた法がいいそうです。

ちなみに、お財布を買うときは、「9月」ね

宇宙の法則で、9月は、「収穫」なのだとか

財布の色は、黄色って話もありますけど、今は、「金色」だそうですよ。





3つ目は、「一番好きは、お金を事細かくかける事だそうです」

みなさん、たぶん、「1万円札」だと思いますけど

諭吉の顔、黒子、裏の鳳凰、かけますか?

かけない人は、かけるようにすれば、諭吉がやってくるそうですよ。

思いを寄せている人は、はっきり、思い出せるでしょ

これたぶん、「引き寄せの法則」かもね

では、お試しあれ!



冷えてるねぇ

2009-12-11 14:44:22 | 仕事
このところ、時間が早く感じませんか

毎年、時間が加速してると言われてますが

今年の後半は特に、そう!

1日は、それなりに、長いです

しかし、月が短い

寒い8月と9月は、あった感じました。


10月・11月が「あっ!」という間に過ぎ、

12月も、半分近くになりました。


でも、その割りに、寒くないですね

いつもなら、山形は、雪が降ってもおかしくない時期

ずーっと、雪マークも出てるのに、実際、雨しか降ってません

良いのか、悪いのか、スキー場は、困ってるようですけど




それなのに、このところ、身体が冷えている患者さんの

多いこと、多いこと

新患さんの体調不良は、ほとんど「冷え~」って言っていいほど

今まで、そんなに「冷え」が気にならなかった常連さんまで


どうしたんでしょうかね(?_?)

末端冷え症だけでなく、腕・大腿、あげくに身体の幹まで

これは、物理的に温めた方がいいのでは

と、温泉療法をおすすめしました



実際に、朝、目を覚ましたら、頭痛くて、起きられなく

熱を測ったら、34度代だったとかいって

頭にホッカイロ貼ったら、置きあがれたというお客さんもいました。


頭痛は、熱が出るだけじゃなく

冷えても、痛くなるなんて、すごい、びっくり!


でも、34度代の人って、結構いるんですよ

特に、精神病の患者さんは多いです。

気をつけてくださいね。


そのうち、身体も懐も温める「しょうが」の話をしますね。

あ・い・う・べー体操

2009-12-10 15:32:20 | 健康


岡山の友達おーちゃんが教えてくれた

「あ・い・う・べー体操」


この体操は、福岡の「みらいクリニック」院長、今井一彰先生が考案された、

口と舌の体操で、呼吸を改善し、免疫力を高め、花粉症・喘息・アトピー・リュウマチ

胃潰瘍・高血圧・アレルギー性疾患が劇的に治った例があるそうです

いびきや睡眠時無呼吸症候群などの症状も、

面白いように改善するとか



そのことをお客さんたちに教えてたのですが

介護士のYさんが、老人ホームで、この「あ・い・う・べー体操」を

みんなに、教えたそうです。


いつも「あ・い・う・え・お」の体操?はやるそうです。

それを「べー」に変えて、教えたそうです

Yさんの面白いところは、

「いいですか、おうちで、やるときは、くれぐれも、

だんなさんの前では『ベー』は、やらないでください。後ろを向いてやるように」

ですって(^・^)


やり方は、口を大きくあけて

「あー、いー、うー、べー」と動かします

声は、小さい方がやりやすいです

1日最低30セットやってください。

詳しくは「あいうべ体操」で、検索してくださいね。

もっと、物を大切にしようよ。

2009-12-09 17:26:55 | こころ
新患のMさん

初めて来院されたけど、常連のOさんの友達

結構、話が弾んだ

Oさんと今年、初めて2人農業をやったそうで

その話をしてくれた


物欲がなく、

自給自足が大切と話してくれた

これ以上、贅沢しなくてもいいでしょって


今、勤めているところでは

「節約しないさいって、言うくせに、

実際は、売り上げ第一、使い捨ての物をつくってる最先端の会社なのよね」と

それでも、そこで働いて、お給料頂いて恩恵を受けているから

文句を言えないと嘆いていた。



友達のハッシーさんも、似たような事を言ってた

ハッシーさんは、昔、パソコン販売をやってて

次々に売ったそうである

そして、新しいものが出るたびに、古い物が捨てられて

ある日、気が付き、会社をやめ

今では、環境アドバイザーをしている


みんな、気が付いているけど

まだ、お金がいる世界

だから、仕方なく、生産増量・売り上げ第一

どんどん作って、どんどん捨ててが繰り返されている

早く、お金のいらない世界にならないかな


学級閉鎖

2009-12-08 17:19:48 | 子育て
昨日、長女のクラスが、

インフルエンザで、とうとう学級閉鎖になり

お迎えに行くと

今週1週間休みだとか


「宿題、いっぱい出されたべ」と聞くと

「インターネットで、HPにアップされるって」

「インターネットない人は、どうするんや?」

「ない人は、ある人から、メールで教えてもらえって」

「じゃ、電話でもいいんが?」

「電話だど、うつるがら、メールにしろって」(笑)



「はぁー?・・・メールは、うつらないのが?」

「担任、Yちゃんに聞かれて、苦笑いして終わったハ」



そして、今日、宿題を見に、お店に来てる

うちで、インターネットは、やってないからね

午前中はHPを見てみても、まだ、アップされてない。


夕方、やっと、アップされたようだ

しかし、写すだけ写したけど

全く、宿題やる気配なし


さて、また、1週間分、何もやらずに登校するのか(ーー;)




今日も、メルマガから

2009-12-07 10:41:43 | こころ
マイケル・ジャクソンの映画

「THIS IS IT」2回も見てきました。

この映画を見てると、マイケルが「愛」で、溢れている人だって

本当にそう思います。


もう1回見たかったと、思ってたら

19日から、またやると解ってラッキー

そして、このメルマガ

トーマ イタル氏の 「精神世界の鉄人」が

入ってきたのです。




今、親に愛されてない感じる人

愛したいけど、どうしていいか解らない人

また、子どもとどう接していいか、解らない人は、

読んでほしいです。




アメリカのオックスフォード大学での講演会だそうです。

以下、コピーです。↓







「マイケル・ジャクソンのオックスフォード大学での講演」



(一部抜粋ですが、かなりの長文です)



神の恵みによって、幸運にも、わたしは人生の早い時期にアーティストとして、
プロとしてのたくさんの夢をかなえることができました。

しかし皆さん、このような実績だけで、自分自身を語ることはできません。

5歳の少年は観客の前で『ロッキン・ロビン』や『ベンのテーマ』を元気に歌っていましたが、
実際、笑顔の裏側にある少年の本当の心を表してはいなかったのです。

今夜わたしは、ポップの聖像(この意味はともかく)としてでなく、
同世代、つまりもう子どもではない世代の聖像として、ここに立っています。

私たちはみな、幼児期の産物です。

子ども時代は、人格形成に大きく影響します。

でも、わたしにはすばらしい子ども時代はありませんでした。

両親や周りの大人からの愛情を一身に浴び、最大の心配事といえば月曜日の朝のスペリングテストしかないような、夢中になって遊べるはずの貴重な時期を過ごさずに来てしまいました。

ジャクソン・ファイブをご存じの方は、わたしが若干5歳という年齢でデビューしたことをご存じでしょう。

それ以来、歌い、踊り続けています。

ステージに立っている時や音楽を作り出している時は確かに大きな喜びで満たされていましたが、小さいころのわたしはそれよりも何よりも普通の少年でいたかったのです。

木の上に家を作ったり、水風船をぶつけっこしたり、友だちとかくれんぼしたりしたかったのです。

でも、これはわたしの運命で、周りで遊んでいる子どもたちの笑い声をうらやむことしかできませんでした。

……

みなさんの同情を買うために、この話をしたのではありません。

わたしが言いたいのは、子どもらしくない幼児期を過ごしているのは、ハリウッドの子役たちだけではないということです。

今日、それは世界共通の不幸であり、世界的規模の悲劇です。

現代では、子ども時代が悲惨な状況になってきているのです。

喜びを感じたことのない、権利を与えられない、自由を許されない、子どもらしさを知らないたくさんの子どもたちが生み出されているのです。

今日、子どもたちは早く大人になることを求められます。子ども時代と言われるこの期間がつらい段階であるかのように我慢し、できるだけ速やかに通過することを求められます。

この点に関しては、わたしも専門家と名乗れるくらいの経験があります。

わたしたちは、親子関係の断絶を目の当たりに見てきた世代です。心理学者は、無償の愛を与えられない子どもたちがどうなるのかを扱った多数の本を出しています。

無償の愛を注がれず、放っておかれるために、実に多くの子どもたちが、自らの力だけで成長していかなくてはならないのです。

かつて世代間を結びつけた強力なのりがはがれるように、愛を与えられない子どもたちは、両親、祖父母、ほかの家族たちから距離を取りつつ成長しています。

こうして、新しい世代――O世代と呼びましょうか――が生み出されました。O世代はX世代から、バトンを受け取りました。O世代は富も成功も、きれいな服も、かっこいい車もすべて手に入りますが、心はやるせなさで満ちた世代です。

彼らの胸の空洞、心の底に広がる荒野、中心にぽっかりあいた空間も、かつては鼓動や愛で満たされていたはずです。

そして、苦しんでいるのは子どもだけではありません。大人も同じです。

子どもの体をした小さな大人を育てようと努力すればするほど、大人の中の子どもらしさも失われていきます。大人の生活にも、子ども的な部分を必要とする場合がたくさんあるのです。

みなさん、

愛は家族にとって、最も貴重な財産であり、豊かな遺産であり、黄金の贈り物です。

世代から世代へと受け継がれていく宝です。

昔の人たちには、今わたしたちが手にしているような豊かさはなかったかもしれません。家には電気も通らず、セントラルヒーティングのない小さな家にたくさんの子どもたちがひしめきあって暮らしていたことでしょう。

しかし、家は暗くも寒くもありませんでした。愛の輝きで部屋をともし、温かい心で部屋を暖めました。富や地位という欲に毒されていない大人たちは、生活の中で子どもたちのことを最優先に考えたのです。

……

どの人も、自分が愛される対象であると実感することが、認識の土台、つまり意識のはじまりなのです。

髪の色が赤か茶色かを知る以前に、肌の色が黒か白かを知る以前に、どんな宗教に属しているかを知る以前に、自分が愛されていることを実感できなくてはならないのです。

12年ほど前、『バッド』ツアーをはじめようとしたころ、一人の少年が両親とともに、カリフォルニアの自宅を訪ねてきました。

その少年はガンのため、死期が近づいていました。わたしの音楽、そしてわたしのことがどんなに好きかを語ってくれました。

少年が長くは生きられず、今すぐにでも天国に召される可能性があることを、彼の両親から聞き、わたしは彼に言いました。

「ねえ、3 カ月後、君の住んでいるカンザスでコンサートをするよ。見に来てほしい。さあ、ビデオで着たこのジャケットを君にあげよう」。

少年は目を輝かせて言いました。「ぼくにくれるの」。

わたしは答えました。「そうだよ。でも、ツアーの時、着てくるって約束して」。わたしは少年を持ちこたえさせようとしていたのです。

「ツアーの時、君がこのジャケットを着て、この手袋をはめている姿を見たいんだ」。

そうわたしは言い、ラインストーンの手袋を少年にあげました。

――以来、ラインストーンの手袋は二度と人にあげていません。

少年は今天国にいます。

おそらく、ずっと天国に近いところにいたのでしょう。

わたしがカンザスに行った時には、すでに亡くなっていました。
あの手袋とジャケットを身に付けて、葬られたそうです。

少年はちょうど10歳でした。少年が持ちこたえようとベストを尽くしたことは間違いありません。

彼が亡くなった時、両親からだけでなく、血のつながりのないわたしからも、自分が愛されたことを実感していたことだけは確かです。

わたしは彼のことが大好きでした。愛情をいっぱいに受けたことで「自分がこの世にたった一人で現れ、たった一人で去っていったのではない……」と思っていることでしょう。

愛されている実感をもってこの世に生を受け、愛されている実感をもってこの世から去るなら、
生きている間に起こるすべてを乗り越えられるのです。

たとえ教授に中傷されたとしても、そう感じないでしょう。

上司にしいたげられようとも、へこたれないでしょう。会社の同僚に打ち負かされたとしても、成功の喜びを感じられるでしょう。

愛情を受けて育ってきた人を、心から傷つけることはできません。

自分が愛される価値のある人間だという実感をもっているからです。

それ以外の感情はただの包み紙のようなものです。

しかし、愛された記憶がなければ、心を満たすものを求め、世界中を探し回るようになります。

どんなにお金を稼ごうとも、どんなに有名になろうとも、まだ虚しさを感じることでしょう。

本当に探し求めているのは、無償の愛、つまりは無条件に受け入れられることです。

生まれた時に、享受できなかったものなのです。

想像してみてください。

ここにアメリカの典型的な1日の特徴を示すデータがあります。――6人の未成年が自殺をし、12人が銃の犠牲になっています――いいですか、これは1日当たりの数字で、年間の数ではありません。

399人の子どもたちが薬物中毒で逮捕され、1,352人の赤ちゃんが10代の母親から産まれています。

これは歴史的に見ても非常に豊かな先進国で起きていることです。

実際アメリカでは、ほかの先進国と比較にならないほどの暴力行為が多発しています。アメリカの若者が、心の傷や怒りを表現する方法なのです。

しかし、イギリスの若者の間に、同じ痛みや苦しみがないわけではありません。

調査によると、イギリスでは、1時間に3人の未成年者が、自虐行為――自ら体を傷つけたり、自らやけどをしたり、薬物を過剰に服用したり――をしているそうです。

こうして彼らは、愛されない心の痛みや苦しみを乗り越えようとしているのです。

イギリスでは、1年に一度しか、家族そろって夕食をとれない家庭が20%もあるそうです。1年にたったの一度ですよ!

……

この心の痛み、怒り、暴力行為の原因は探るまでもありません。

子どもたちは明らかに、愛してほしいと訴え、関心をもたれないことに体を震わせ、注目してほしいと叫び声をあげているのです。

アメリカの様々な児童保護機関によると、毎年何百万人もの子どもたちが、放っておかれるという形の虐待の犠牲になっているそうです。

放っておかれるという形の虐待。

あらゆる電化製品を完璧に備えた裕福な名声のある家庭の中で起こっています。

両親が帰宅する。 でも、本当にうちに帰ってきたのではない。

頭の中はまだ仕事場にある。じゃあ、子どもたちは?

与えられた感情のかけらで間に合わせているだけ。 そして絶え間なく流れるテレビ、コンピュータ・ゲーム、ビデオから得るものは少ない。

なぜわたしが自分の時間や財産の多くを「ヒール・ザ・キッズ」の活動をはじめるために費やすことにしたのか、おわかりでしょう。

わたしは統計の示す悲しい数字に、魂をもぎ取られ、精神を揺さぶられたのです。

私たちの活動の目標は単純です。

――親子の絆を取り戻し、関係を修復し、地球の将来を担うすべての子どもたちの進む道を明るく照らすことなのです。

わたしは、今日初めて公に講演をしています。

みなさんに温かく受け入れられ、さらに話をしたいという気持ちになりました。

人にはそれぞれ事情があり、その意味で、統計データが独特の意味をもつこともあります。子育てはダンスのようだと言われます。

親が足を一歩踏み出すと、子どもも足を踏み出す。

ですから、親が子どもたちのために再び愛を捧げるだけでは、まだ半分しか意味がないのです。

子どもの側にも親を再び受け入れるよう準備しなくてはならないのです。

……

ですから、自分が愛されていないと感じても親を許すよう、世界中の子どもたちに呼びかけているのです。

今日ここにいる人からはじめましょう。許してあげてください。

もう一度愛する方法を親たちに教えてあげてください。

わたしにはのんびりとした子ども時代がなかったと聞いて、驚く人はいないでしょう。父とわたしとの間の重圧や緊張は、よく取り上げられます。父は厳しい人で、小さいころから私たち兄弟がすばらしいアーティストになるよう強要しました。

父は愛情を示すのが苦手で、まともに愛していると言われたことは一度もありませんし、褒められたこともありません。

ステージで成功をおさめても、まあまあだとしか言ってくれませんでした。

そしてまあまあのステージなら、父は何も言いませんでした。

父は何も増して、わたしたちが仕事上成功することを望んでいるように思われました。

その点における父の力はずば抜けたものでした。父にはマネージメントの才能があり、そのおかげで、わたしたち兄弟はプロとして成功しました。芸能人として訓練され、わたしは父の指導のもと、敷かれたレールから足を踏み外すことはできませんでした。

でもわたしが本当に欲しかったのは、「お父さん」です。

自分を愛してくれる父親がほしかったんです。

父は愛情を示してくれたことがありませんでした。

目をまっすぐ見つめ好きだと言ってくれたことも、いっしょにゲームをしてくれたこともありませんでした。

肩車をしてくれたことも、まくら投げをして遊んだことも、水風船をぶつけあったこともありません。

でも、4歳のころ、小さなカーニバルで、父が私を抱き上げ、ポニーに乗せてくれたという記憶があります。

それはちょっとしたしぐさで、おそらく5分後には、父は忘れてしまったことでしょう。

しかし、その瞬間、わたしの心の特別な場所に、父への思いが焼き付けられました。

子どもとはそんなもので、ちょっとした出来事がとても大きな意味をもつのです。

わたしにとっても、あの一瞬がすべてとなりました。

たった一回の経験でしたが、父に対して、そしてこの世の中に対していい思いを抱いたのです。

自分自身が父親となり、ある日わたしは、我が子プリンスとパリスが大きくなった時、自分がどう思われたいと考えているのか、自問しました。

もちろん、自分の行くところにはいつも子どもたちを連れて行きたいし、何よりも子どもたちを優先していることを、わかってほしいと思います。

しかし、あの子たちの人生に困難がつきまとっているのも事実です。

パパラッチに追いかけられるので、公園や映画館にいつも一緒に行けるわけではありません。あの子たちが大きくなって、わたしを恨んだら?
わたしの選んだ道があの子たちにどんな影響を与えるのでしょう?

どうして僕たちには普通の子ども時代がなかったの、と聞くでしょうか。

その時、子どもたちがいい方向に解釈してくれるといいと思います。

「あの特殊な状況の中で、父さんはできるだけのことをしてくれた。父さんは完璧ではなかったけど、温かで、まあまあで、ぼくたちを愛する努力をしてくれた」

とあの子たちが心の中でつぶやいてくれるといいなと思うのです。

あの子たちが、あきらめざるを得なかったこと、わたしのおかした過ち、子育てを通じてこれからおかすだろう過ちを批判するのでなく、いい面、つまりわたしがあの子たちのために喜んで犠牲を払ったことに、目を向けてくれればいいと思います。

わたしたちはみな人の子で、綿密な計画を立て、努力をしても、常に過ちをおかしてしまうものなのです。それが人間なのです。

このことを考える時、つまり、どんなにわたしがあの子たちに厳しく評価されたくない、いたらない面を見逃してほしいかを考える時、わたしは父のことを思わずにいられません。

子どものころ、愛されたという実感はないけれど、
父がわたしを愛してくれていたに違いないと認めざるを得ないのです。

父はわたしを愛し、わたしにはそれがわかっていた。

愛情を示してくれたことは、ほとんどなかったけれど。

子どものころ、わたしは甘いものに目がありませんでした。
―兄弟みんなそうでした。シロップに覆われたドーナツが大好物で、父はそのことを知っていました。

数週間に一度、朝1階に下りて行くと、紙袋に詰め込まれたドーナツがキッチンカウンターに置いてあったんです ―メモも説明もなく― ドーナツだけが置いてありました。

まるでサンタクロースみたいでした。 夜中まで起きていて、ドーナツが置かれるところをみようと思うこともありました。

でも、サンタクロースと同じように、二度とドーナツが置かれなくなることを恐れ、その魔法を大切にしようと思いました。

父はだれかに見られないように、夜中にこっそり置かなければなりませんでした。父は自分の中の人間的な感情におびえ、それを理解できず、どうしていいかわからなかったのです。

しかし、ドーナツの件ではわかっていたようです。心の防波堤の扉を開けたままにすると、わたしの心に様々な記憶が走馬灯のようによみがえってきます。

ちょっとしたことで完全ではありませんが、その記憶は 

“父ができることをしてくれた”

ということです。

そこで今日これからは、

父がしてくれなかったことに目を向けるのでなく、父がしてくれたこと、父の努力に目を向けようと思います。

そして、父を非難するのをやめようと思います。

わたしは父が南部の貧しい家庭で育ったという事実に思いをはせるようになりました。

父は世界大恐慌の年に、この世に生を受けました。

わたしの祖父は家族を養うのに精いっぱいで、ほとんど愛情をしめすこともなく、子どもたちを厳しく育てました。

アメリカ南部で貧しい黒人が大人になっていくということが、みなさんにはどういうことか想像もつかないでしょう。

……

父が自分の感情をさらけだせなかったのも、無理もないことでした。

心をかたくなにし、壁でふさいだとしても何の不思議もありませんでした。

そして何よりも、自分が経験した屈辱的人生や貧困を子どもたちに味わわせないように、子どもたちが芸能人として成功するように強要したのも、当然のことでした。

父の厳しさはひとつの愛情の表れだった。

完璧ではないけれど確かに愛だと、わたしは感じはじめるようになったのです。

父はわたしを愛しているから、強引に背を押したのです。

自分の血を分けた子どもたちが低く見られるのは嫌だったのです。

時とともに、苦痛は、感謝の気持ちへ変わっていきました。

怒りを感じていたところも、許せるようになってきました。

復しゅうしたいと思っていたところも、折り合いをつけられるようになりました。はじめに感じていた怒りは寛容さへとゆっくり変わっていきました。

10 年前になりますが、わたしは「ヒール・ザ・ワールド」(Heal the World)というチャリティー活動をはじめました。

わたしは心で感じたことを、その名に託しました。よく知らなかったのですが、のちにシュムリーから、HealとWorldという単語は旧約聖書の預言の基盤となっていることを聞きました。

みなさん、わたしがこの世界を、今日でさえ戦争と大虐殺に翻ろうされている世界を、本当にいやせると信じているとお思いですか?

わたしが子どもたちを本当に癒せると考えているとお思いですか?

コロンバインハイスクールで起きたように、銃を持って学校へ行き、クラスメートを撃ち殺してしまうような子どもたちをいやせると考えているとお思いですか?

1993年に2歳で殺害されたジェイミ・バルジャーの悲劇のように、自らを守れない幼児を殴って死に至らしめるような子どもたちをいやせると考えているとお思いですか?

―わたしはもちろん、そう思っています。そうでなければ、今晩ここに来ていないでしょう。すべては許すことからはじまるのです。

世界をいやすためには、まず自分自身をいやさなくてはならないからです。

子どもたちをいやすためには、まず子どもたちの心の中をいやさなくてはなりません。どの子どもたちも同じです。

わたしは、このままでは完璧な大人にも、無償の愛を与えられる親にもなり得ないことがわかり、子ども時代のつらい記憶の扉を閉めました。

みなさんにも、そうしてほしいのです。モーゼの十戒、第五の戒律(あなたの父と母を敬え)にふさわしい生き方をしましょう。

親を非難するのではなく、尊敬しましょう。

物事をいい方向に考えましょう。

だから、私は父を許し、父を非難するのをやめようと思うのです。

父を許したい。「お父さん」をほしいから。

結局わたしには彼しかいないのです。わたしは過去の重荷を肩から降ろし、父との新しい関係を踏み出したいのです。

過去のつらい記憶に邪魔されず、未来を築きたいのです。

□憎しみに満ちた世界でも、望みをもたなければなりません。

□怒りに満ちた世界でも、慰めの心をもたなくてはなりません。

□絶望に満ちた世界でも、夢を忘れてはなりません。

□不信感に満ちた世界でも、信じなくてはなりません。

親から傷つけられたと感じていらっしゃるみなさん、失望感を捨ててください。

親にあざむかれたとお思いのみなさん、これ以上自分自身をあざむくのはやめましょう。

親が邪魔だと思っているみなさん、代わりに手を差し出してください。

ご両親に無償の愛を与えてください。

これは、みなさんに望むことであり、

自分自身に言い聞かせていることでもあります。

そうすれば、親たちはわたしたち子どもから愛し方を学ぶことでしょう。

そうすれば、荒れ果てた寂しい世の中に、愛が取り戻されるでしょう。



みなさん、わたしたちがこのような世界をつくっているのです。

わたしたちがその世界に住む子どもたちなのです。

インド建国の父マハトマ・ガンジーが言いました。

「弱者は人を許すことができない。許すことは強さの裏返しである」

さあ、強くなりましょう。そして、壊れた関係を修復するために、立ち上がりましょう。

子ども時代に受けた傷が人生にどんな影響を与えようとも、乗り越えなければなりません。

ジェシー・ジャクソンの言葉にあるよう、

互いに許し合い、互いに助け合い、そして前へ進みましょう。

許し合うことだけでは、涙に暮れる世の中は終わらないかもしれません。

しかし、多くの子どもたちが親との関係を修復することが、少なくとも新たな出発点となるのです。

結果として、わたしたちみんな、もっと幸せになるでしょう。

みなさん、信仰、喜び、興奮をもって、わたしの話を締めくくりたいと思います。

今日から、新しい歌が聞こえてきますように。
その歌を子どもたちの笑い声に。
その歌を子どもたちの遊ぶ声に。
その歌を子どもたちの歌声にしよう。
そして、大人たちは耳を傾けよう。

子どもたちのもつ力に驚き、愛の美しさに浸り、ともに、心のシンフォニーを創りだそう。

世界をいやし、痛みを取り去ろう。

そして、ともにみんなで美しいメロディーを奏でられますように。

神の恵みがありますように。“I love you”。



マイケル・ジャクソン






愛読してるメルマガ2

2009-12-04 09:33:10 | こころ
人の価値~ジェームス・アレン1日1話

「人の価値は、自分がどれだけ与えるか、にかかっており、自分がどれだけ受け
取るかではありません。」

アインシュタインの言葉です

「アインシュタインは、科学だけではなく、精神世界も信じていたそうです
ので、この引用にもその性格、人格が見えますよね。


自分が受け取ることを考える前に、まずは与えることを考え、実行する、と
いう重要性を今一度考えたいですね。


ものでなくても、ちょっとした好意、行為の積み重ねが最も重要なのでは、
という気がします。」



今日は、こっちのメルマガの方が

よかった。(^・^)

愛読してるメルマガ

2009-12-04 09:29:30 | こころ
井ノ原 卓一(コスモボイス) [inohara@cosmovoice.jp]からです

「自分のためにやったことは、自分の死とともに消えてなくなります。
他人のため、世界のためにやったことは、永遠に残るのです。」

アルバート・パイク


「つまり、自分の終焉から考えなさい


ということを説いています。


自分が死んだとき、まわりの人たちにどのように思われたいか??
そこを考え今を生きる、ということです。


そのことを考える元にあるべきものが、他人のために何かする、ということ
なんですね。


今一度、自分が死んでも、永遠に残る何か?を残すことを少しでも考え日々を
過ごすようにしましょうね。」


ですって


これを読んで、ももなは、

そうか、人のために生きることがすばらしいのだ

と単純に思いました。



けど、それも、自分の名前を残すためじゃ、ちょっと違うでしょ

って、考え直しました。


たぶん、アルバート・パイク氏や井ノ原さんも、

そんなことを言ってるのじゃないと思いますけど



人のため、世のために一生懸命働いて

自分の身体は、ぼろぼろ

家族を犠牲にしている人、多すぎではないでしょうか。





そして、結論、自分のために生きる

好きなように生きる

そして、たまたま、それが、人のためになれば、

一番いいのだ。

行き詰まった人に

2009-12-03 17:19:11 | こころ
友達のしゅうべいさんのブログを読んでて


ちょっと、今の人生に行き詰まった人に読んでもらいたく

転載しました。

下記「しゅうべいのちょっと哲学」より抜粋 です。

http://blog.livedoor.jp/torapa1701/



「苦しみからの解放と、囚われからの脱却」



ロジャーズが提唱した「カウンセリングにおける3つの条件」のひとつとして挙げられる

「自己一致」は、未だ多くの誤解を受けていると思われる。

己の内面にうごめく情動に無関心である者にとって、

この言葉は雲を掴むがごとく難解なものかもしれないが、

「一致」とは、思考と行動の一致といった表層的なことを指しているのではなく、

「こうであるべき」といった超自我に制約を受けている自分の思考が、

本質的な自己における自分らしさとの不一致による葛藤を超えて

「本当の自分になっていくプロセス」を示している。

ここで明確にしておきたいことは、「自分」と「自己」との区別である。



「自分」とは、まだ物心がつかない幼い頃から周囲の大人たちの操作による

「条件づけ」によって出来上がった「社会適応的人格」のことである。

一方「自己」とは、「生まれながらに備わっている本質的な私」を指している。


僕なりに解釈している「自己一致」とは、言うならば自分と自己が可能なかぎり

ズレていない自然な状態(境地)である。

たとえばカウンセリングとは、人格に支配されている自分が自己とズレている

「不一致」な苦しい状態から、「本来は、こうありたい」という本音としての

本質的な私を源泉として「それが許されていいのだ。不自然に抑圧する必要はないのだ。」

と深い位置から納得し、昨日までの「装ってきた自分」と決別し

「ありのままの私への変身」つまり「自己一致へと変容するプロセスへの支援」を意味している。


それが達成されるためには、まず今の自分が「こうでなければ・・」とか

「これではいけない」といった既成概念や常識などに基づく規範に縛られ、

成育の途上で「躾」によって反復された条件づけ(アメとムチによって飼い馴らされた性質)

に囚われ浸っている自分、すなわち「同一化」していることに気づかなくてはならない。

しかし、いままでずっと盲目的にその生き方をしてきてしまったこともあり、

“本来の私”を自分が所属している集団や、自分にとって大切な存在だと思ってきた親に対して、

じつは反抗的な想いや拒絶的な気持ちがあったことを認めるのはなかなか難しいものである。

さらに、その想いを口に出すことは、自分の存在が否定され、

ヘタをすると排除され孤立してしまうのではないか・・

という怖れや不安に苛まれることを意味する。


それらの怖れや不安が湧かないように、これまでは自分の内部に在る不満や、

相手に対する怒りなどのマイナス的な感情

(じつは、感情にはプラスもマイナスもないのだが・・

自分はそのように思いこんでいる。)に蓋をして溜めこんできたわけである。

それが苦しく重たいのは当然である。

まずは、そのような「囚われの中に浸って同一化している自分の有り様」に

気がつくことが「脱同一化」への第一歩である。

自分が同一化していることに気づけないかぎり、脱同一化は永久に叶わない。







この監獄から解放され、「させられている自分」から「したい自分」

または「する自分」へと変化し、いろんな柵から脱し

「本来の自分を取り戻すプロセス」にカウンセラーは立ち会い、寄り添うのである。


不一致な状態にあるクライエントは、カウンセラーによって為される感情への焦点化を基に、

思考に対してではなく、本質的な自己に向けられた素朴な質問

(操作的でなはなく、魂胆もなく、純粋な位置から発せられたもの)によって、

初めて自分の内面に在る自己の存在に気づき、それを観ようとする。

もちろん、怖れや不安を取り除くためには、この場所が、

またはこのカウンセラーが自分に害を及ぼさない安全なものであることが

認識できるよう配慮する必要がある。

このような、何を思っても、どんな言葉を吐いても、評価されたり

排除されない自由で安全な空間(非日常的な場)において、

徐々に本当の自分を確認していくのである。

確認できて初めて如何に自分が不一致であったかに、はっきりと気づくことになる。



気づいたからには、今後どうしたいのか?そしてどうすればいいのかについて

考え始める・・ここでようやく人は悩むことができるのだ。

多くの者は、自分にとって重大な不具合的な問題が起きて

どうしようもなくなっているとき「私はいま悩んでいる」との言葉を吐くものだが、

じつはこれは悩んでいるのではなく、「困っている」のであり、

思考の中に閉じ込められたまま泥沼に「浸っている」だけであり、

「同一化」した状態にあるわけである。



このような有り様の自分を、まるで他人事のように対象化し、

客観的に観ること、つまり「脱同一化」できて初めて人は「悩むこと」が可能となる。

いうならば、多くの人たちは「悩み方」を知らないくせに自分は悩んでいると思い込んでいるのだ。

となれば、カウンセラーの役割りとは、クライエントが

「しっかりと悩めるためにお手伝い」をすることとも言える。

ここで、少し整理したうえで別の言い方をしてみよう。



前述したように「真の自分に開かれていくプロセス」は、

これまで教育や躾によって擦り込まれたことによって構築された数々の

イラショナルビリーフ(根拠のない非合理的な思い込み)の支配からの脱却であり、

本質的な自己と自由な思考を取り戻すものである。

しかし、そこには既にこれまでの生活や対人関係において成されてきた経験則が

邪魔をする。それが不快な苦い経験であれば改善したいとも思えるだろうが、

下手にうまくやってこれたことで快を得てしまったこと、

または何とか立ち回ってこれたというコンテキストの中で不快を

避けてきたとなれば、手放すのは容易ではない。

それでも、握っているものを手放さなくては、新しい自分との出会いは果たせない。

それゆえ“産みの苦しみ”としての「死と再生」に向かう覚悟が必要となるのである。



「人生の中における“死”」とは、これまでの自分との決別を意味するものであるが、

これが成されなければ、もちろん“再生”はあり得ない。

たとえば、新たな家を建てるためには、旧い家を破壊し、
一旦さら地に戻す必要がある。
しかし、長年住み慣れた家を壊され、そのうえ裸であっては、
台風が来たらどうしよう・・とか、寒さに耐えられないのでは・・と不安が湧く。
だから、とりあえずこの古い家を増築や改築しながらなんとか使っていこうとするのである。
しかし、もう増築できるスペースもなく、
改築するにも柱にヒビ割れが起こっていて、すでに限界である。
このまま地震でも起きようものなら木端微塵に壊れてしまいそうである。
この時点でのカウンセラーは家屋診断士のようなものである。
どこがどれほど痛んでいるか、そしてこの家が既に耐久年数的に限界であり、
柱がぐらついて大きな地震には耐えられない状態であることを一緒に診てくれる。

そして迷った末に、ようやく「ならば、思いきって建てなおそう!」となるのである。(死と再生・破壊と創生)


このような展開が起こるためには、それまでの価値観が破壊されるくらいの

大きなショックが必要である。

この場合「ショック」とは、もはや修復が不可能と思えるような、

自分にとっての大事件であり、小手先の技などではうまくかわすことなどできない

ほど窮地に追い込まれることである。

いうばらば、絶望の果てにしか本当の意味での希望は見つからないともいえる。

このあたりが、西田幾多郎が言う

「哲学とは、人生の悲哀から始まらなくてはならない」や、

ヤスパースが語る「絶望こそが生まれ変わるための最大のチャンスである」

といったニュアンスの言葉等に集約されているわけである。



人は“自らの死”というものをきちんと受け入れてこそ、初めて“生”が意味を持つ。

つまり、人生の中で死ぬこと(これまでの自分を捨てること)ができる者は、

新たな自分を再構築することが可能となるが、生まれ変わる怖さから必死に過去にしがみついている者こそが、

物理的な死を選ばざるを得ない状況に追い込まれていくである。

その意味では、グルジェフの言葉にもあるように、敢えて困難に身を投げいれる

「意図的な苦しみだけが意味を持つ」のである。


現実を創り出しているのは「無自覚な自分」であり、

事がうまく運ばずに苦しんでいること自体が、

本質的自己が「自我の不当介入」に抵抗している様といえる。

最終的に、自我は自己には勝てない。

いかに粘ったとて、せいぜい身体が先に悲鳴をあげ始め病気になるだけである。

よく言われる「引き寄せの法則」や「成功マニュアル」に欠けているのはこの部分である。

自我が自己(よく潜在意識といわれているもの)をコントロールすることは、

むしろ多くの矛盾を作り出してしまう。


これを知らずに、単に欲求の充足だけを願えば転落するのはあたりまえである。

また、「笑顔を絶やさない自分」や「プラス思考!」とばかりに無理をしていれば、

いずれ病気になってしまうか、人格が崩壊するかのどちらかである。

「明るく元気なのがいいこと」または「くよくよせずに前向きに」といった思い込みによる言動が、

じつは葛藤や疑問を持ちながらの不自然な演技であることを本質的自己は知っている。

これでは紛れもなく不一致の状態であり、苦しいだけである。

このような無自覚な演技は、自分で自分の首を絞める自殺行為以外のなにものでもない。



自分の存在について考察を深めようとするのであれば、考えることをやめ、

ただ自分の胸に手を当て、自己に尋ねるだけでよいのである。

そういう意味では、身体は思考よりも先行しているといえる。

分がどうしたいのかが不明瞭な者は、身体に尋ねればよいのである。

身体はすでに答えを知っている。