深刻化する南西シフト態勢を水路とする日中の軍拡競争(「島嶼戦争」の危機)に対し、全野党・平和勢力は、直ちに軍拡停止ー軍縮を要求しよう! goo.gl/8oN6Um
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月29日 - 16:14
(ヘリ護衛艦「いずも」、もともとは「改修空母」の予定として建造)
安倍政権・自衛隊は、年末に予定する「新防衛計画の大綱」策定をめぐって、凄まじい軍拡キャンペーンを始めた。
F35Bの導入ー「いずも型」ヘリ護衛艦の空母への改造、F35(A・B)の100機購入(1兆円規模)、敵基地攻撃能力を有する巡航ミサイル、スタンド・オフ・ミサイル、そしてイージス・アショアの強硬的導入、宇宙への軍拡……。――自民党・自衛隊は、このために「防衛費2倍化」を要求している(現在、国際基準でGNP1・3%と公表)。
この大軍拡の口実が「安全保障環境の変化」と称する、中国との対抗的軍拡だ(煽りに煽った「朝鮮半島の危機」は消えつつある!)。これは、すでに東西冷戦後の南西シフトとして始まっていたが、2010年のアメリカのエアシーバトル構想ー新防衛計画の大綱で一挙に具体化し、2017年、トランプ政権の「国家安全保障戦略」(NSS)」、米国防省の「国家防衛戦略(NDS)」で、全面化ー対中・対ロ競争戦略=対中抑止戦略として本格化している(新冷戦の始まり)。
「島嶼防衛戦」と言えば、全ての軍拡が許容されるのか?
そして、このアメリカの対中抑止戦略下の、日米共同作戦態勢として始まっているのが、自衛隊の「島嶼戦争」=東シナ海戦争(琉球列島弧封鎖態勢)なのだ。今や、このような日米の共同作戦態勢下の戦争態勢作りが、先島―南西諸島において急ピッチで始まっている。
2016年、与那国島では、新基地が完成し、宮古島・奄美大島では、2018年度末に向け、新基地開設への突貫工事が行われており、石垣島では、来年2月の着工態勢が始まっている。さらに、種子島ー馬毛島には、米軍FCLP(空母艦載機着陸訓練)基地だけでなく、自衛隊の事前集積・機動展開・上陸演習拠点として、またF35B、対潜哨戒機(P3C)の新基地としての、文字通りの要塞化が発表され、動き出しつつある。
つまり、「中国の脅威」、「島嶼防衛戦」と言えば、全ての軍拡が許容されるとする、とんでもない風潮が生じているのだ(特にマスメディアの沈黙の中で)。
(宮古島・石垣島・奄美大島、沖縄本島などに配備予定の12式地対艦ミサイル)
日中の「小衝突」ー「島嶼戦争」が不可避の情勢に!
この情勢が進めば、日中の一触触発――島嶼戦争は不可避である。自衛隊の南西シフト態勢は、あらかじめ「島嶼防衛戦」がシームレスに発展することを予測している。このために、自衛隊はすでに統合幕僚監部による「対中・統合防衛計画」の策定、米軍との「対中・日米共同作戦計画」の策定を発表した。
事態は、恐るべき危機的情勢へと突き進みつつある。――日中の軍事的小衝突、その繰り返し→「島嶼戦争」→日米の通常戦型の「太平洋戦争」勃発という事態へである。
(参照「遂に自衛隊が「対中国・日米共同作戦計画」の策定開始―急ピッチで進行する東シナ海戦争計画)
https://blog.goo.ne.jp/shakai0427/e/d39a4e689cb8bb7217d0d40a49304309
日本と中国の軍拡停止―軍縮へ――東シナ海の「非武装地帯宣言」へ
この着々と進む、深刻な戦争の危機を打開するためには、今、何が必要なのか?
結論から言えば、全野党・平和勢力が一致して、日本と中国の軍拡の即時停止→軍縮交渉に直ちに入るべきことを、安倍政権に強力に要求することである。トランプ政権は、もちろん反対するだろう。だが、アジアの平和は、アジアの民衆が主導することなしには実現しない。「アメリカ帝国」の「アジア太平洋の覇権の独占」をいつまでも、野放しにしておく訳にはいかない。
1922年締結のワシントン海軍軍縮条約による島嶼要塞化の禁止
現在、アジア太平洋地域の軍拡競争の始まりは、1920~30年代の軍拡競争に類似しているが、このような、アジア太平洋地域の軍拡を阻み、軍縮へと導いた貴重な経験を、日本はもっている。
第1次世界大戦直後、アジア太平洋は、凄まじい軍拡競争へとたたき込まれたが、この大軍拡の時代において、1922年、ワシントン海軍軍縮条約による島嶼要塞化の禁止が締結され、実行された歴史があるのだ。
この年、米・英・日は、軍艦の保有数を制限した軍縮条約を締結(主力艦の対英米比6割、いわゆる5:5:3への制限)したが、この中では、アジア太平洋地域の「要塞化禁止条項」も結んだのだ。
それによると、なんと日本政府の提案によって、太平洋の各国の本土、および本土にごく近接した島嶼以外の領土について、現在存在する以上の「軍事施設の要塞化」が禁止されたのである。
日本に対しては、千島諸島・小笠原諸島・奄美大島・琉球諸島・台湾・澎湖諸島、サイパン・テニアンなどの南洋諸島の要塞化を禁止した。アメリカに対しては、フィリピン・グアム・サモア・アリューシャン諸島の要塞化禁止した。
だが、1930年代において、戦争の危機が深まってくると、例えば日本の場合、サイパンのアスリート飛行場(現サイパン国際空港)を始め、秘密裡の軍事化が始められた。重要なことは、この時代でさえもアジア太平洋地域の急速な軍拡の危機に対して、各国の島嶼の非軍事化が推し進められたということだ。
(1921年12月13日、日本・アメリカ・イギリス・フランスによって調印、1922年8月5日批准、1923年8月17日公布の4箇国条約。正式には「太平洋方面に於ける島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国条約」。この条約では、太平洋諸島の締約国相互の権利の尊重と紛争の平和的解決が謳われ、条約の締結により日英同盟は廃棄)。
しかし、こうした努力にも拘わらず、日本は1934年12月、単独でワシントン海軍軍縮条約を破棄を決定し、アメリカに通告した。1936年、ロンドン軍縮会議からの脱退も通告。こうして軍縮条約は実行力を失い、第二次世界大戦に向ったのだ(この直後から、サイパン・テニアンなどの軍事化が始まり、続いて1944年には沖縄・宮古島などの先島諸島で基地建設が始まる)。
だが、あのアジア太平洋戦争の時代の軍縮の努力は、決して無駄だったとは言えない。私たちに、歴史の教訓をリアルに残している。翻って、私たちは、あの時代ほどの努力をしているのだろうか? 今進行している事態――南西シフトを水路とした日中の軍拡競争の始まりを、ただただ見過ごしているだけではないのか? SNSには、日中の相互依存関係の中で、戦争が起きるわけがない、だとか、核戦争の時代に「島嶼占領・奪還」とか、あり得ない、だとか、「大国・中国を敵にして地対艦・空ミサイル配備」など空論だ、とか、などの軍事的現実(無知)を見ようとしない主張が溢れている。
(おおすみ型輸送艦に乗船する水陸機動団[ホバークラフト])
しかし、なんども繰り返すが、「島嶼戦争」はシームレスに、一発の銃声から始まるのだ(日中間にはホットラインが確立していない)。この小衝突の繰り返し、「力による外交」、つまり、日米の「インド太平洋戦略」(姑息にも「構想」に名称替え)のもとの、「力による、軍事力による外交」(砲艦外交)、つまり、中国(軍)の琉球列島弧(第1列島線、実際は中国沿岸へ)への封じ込め態勢づくりが推し進められているのである(宮古海峡などの封鎖)。この政治的目的は、日米によるアジア太平洋の覇権の絶対的確保ということだ。
まさしく、このような内容と目的をもって、安倍政権による年末の「新防衛計画の大綱」の策定が推し進められようとしている。
しかし、本当に日本(と中国、アジア)の民衆は、こんな中国との対決を望んでいるのか? 再びアジア太平洋で戦争が始まることを望んでいるのか?
そうではない。マスメディアの、この南西シフト態勢の隠蔽(報道規制)の中で、先島―南西諸島への基地建設の事実さえ知らされていないのだ。いわんや、この南西シフトが何を意味するのか、という軍事的解説など皆無だ。
だから、この急ピッチで進行する先島―南西諸島への新基地建設の事実ー南西シフト態勢の意味、「島嶼防衛戦」のもとに進む「東シナ海戦争」の現実を、広く知らせねばならない。
この事実の認識によって、日中の軍拡停止ー軍縮(そして最終的には、南西諸島の「非武装地帯宣言」)を民衆の手で勝ち取ることができるだろう。
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*要点ー要塞化禁止条項
・日本の提案により、太平洋における各国の本土並びに本土にごく近接した島嶼以外の領土について、現在ある以上の軍事施設の要塞化が禁止された。
・日本ー千島諸島・小笠原諸島・奄美大島・琉球諸島・台湾・澎湖諸島、そして将来取得する新たな領土(内南洋のこと)の要塞化禁止、奄美大島以外の奄美群島は対象外、対馬は太平洋に面していないので条項の対象外
・アメリカーフィリピン・グアム・サモア・アリューシャン諸島の要塞化禁止、アラスカ・パナマ運河・ハワイ諸島は対象外
・イギリスー香港並びに東経110度以東に存在する、あるいは新たに取得する島嶼の要塞化禁止、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドは対象外、東経110度以東なので、シンガポール(東経103度)は条項の対象外
*ワシントン四箇国条約本文
太平洋方面に於ける島嶼たる屬地及島嶼たる領地に關する四國條約(ワシントン・1921年12月13日、日本外交年表竝主要文書上巻,外務省,536-539頁)
亞米利加合衆國、英帝國、佛蘭西國及日本國ハ
一般ノ平和ヲ確保シ且太平洋方面ニ於ケル其ノ島嶼タル屬地及島嶼タル領地ニ關スル其ノ權利ヲ維持スルノ目的ヲ以テ之カ爲條約ヲ締結スルコトニ決シ左ノ如ク其ノ全權委員ヲ任命セリ(人名略)
第一條 締約國ハ互ニ太平洋方面ニ於ケル其ノ島嶼タル屬地及島嶼タル領地ニ關スル其ノ權利ヲ尊重スヘキコトヲ約ス締約國ノ何レカノ間ニ太平洋問題ニ起因シ且前記ノ權利ニ關スル爭議ヲ生シ外交手段ニ依リテ滿足ナル解決ヲ得ルコト能ハス且其ノ間ニ幸ニ現存スル圓滿ナル強調ニ影響ヲ及ホスノ虞アル場合ニ於テハ右締約國ハ共同會議ノ爲他ノ締約國ヲ招請シ當該事件全部ヲ考量調整ノ目的ヲ以テ其ノ議ニ付スヘシ
第二條 前記ノ權利カ別國ノ侵略的行爲ニ依リ脅威セラルルニ於テハ締約國ハ右特殊事態ノ急ニ應スル爲共同ニ又ハ各別ニ執ルヘキ最有效ナル措置ニ關シ了解ヲ遂ケムカ爲充分ニ且隔意ナク互ニ交渉スヘシ
第三條 本條約ハ實施ノ時ヨリ十年間效力ヲ有シ且右期間滿了後ハ十二月前ノ豫告ヲ以テ之ヲ終了セシムル各締約國ノ權利ノ留保ノ下ニ引続キ其ノ效力ヲ有ス
第四條 本條約ハ締約國ノ憲法上ノ手続ニ從ヒ成ルヘク速ニ批准セラルヘク且華盛頓ニ於テ行ハルヘキ批准書寄託ノ時ヨリ實施セラルヘシ千九百十一年七月十三日倫敦ニ於テ締結セラレタル大不列顛國及日本國間ノ協約ハ之ト同時ニ終了スルモノトス合衆國政府ハ批准書寄託ノ調書ノ認證謄本ヲ各署名國ニ送付スヘシ
本條約ハ佛蘭西語及英吉利語ヲ以テ本文トシ合衆國政府ノ記録ニ寄託保存セラルヘク其ノ認證謄本ハ同政府之ヲ各署名國ニ送付スヘシ
太平洋方面に於ける島嶼たる屬地及島嶼たる領地に關する四國條約所屬聲明
大正一〇年(一九二一年)一二月一三日華盛頓ニ於テ署名調印 大正一二年(一九二三年)八月一七日告示
http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/19211213.T1J.html
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参考文献『自衛隊の南西シフト―戦慄の対中国・日米共同作戦の実態』(第19章 先島―南西諸島の「非武装地域宣言」―かつて南西諸島は非武装地域だった――木一草も生えなくなる「島嶼防衛戦」)からの引用
自衛隊の想定する「島嶼防衛戦」は、平時から有事へとシームレスに発展することが予想されるとしている。このシームレスという表現は、自衛隊の全ての文書に出てくる。
これは何を意味するのか? 結論を言えば、島民・住民たちが、この戦争を避けて島外へ避難する時間的余裕が全くない、ということである。
なるほど、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)によれば、住民避難が定められている。だが、この場合、政府が「武力攻撃事態」「武力攻撃予測事態」などを認定することが必要であるが、平時から緊急事態へ、有事事態へと切れ目なく移行するこの戦争では、住民避難は不可能だ。
実際に、自衛隊制服組の島嶼防衛研究では、「島嶼防衛戦は軍民混在の戦争」になり、「避難は困難」とする結果が明記されている。研究の中では、その困難の中で、イスラエルのように各家に地下サイロを造るべき、という見解も出されている。
実際の「島嶼防衛」の作戦面からも、住民避難は困難だ。この戦争の初期戦闘では、自衛隊が宮古海峡などの主要なチョーク・ポイントに機雷をばらまくことが、作戦上決定的である。つまり、先島諸島だけで10万人を超える住民たちを避難させる輸送手段は、ないということだ。
実際にも、この住民避難の法律上の実施責任は、自治体であり、自衛隊はそれに「作戦上支障ない限り協力する」というものだ。
このような、島民・住民の避難が不可能という状況下で、見てきたように「島嶼防衛戦」は、対艦・対空ミサイル部隊が島中を移動し、戦場化する。また、島嶼間の高速滑空弾や、島嶼間の巡航ミサイルなども、雨霰のごとく降り注ぐのだ。
まさしく、先島諸島などの小さな島々は、一木一草残らず焼き尽くされ、破壊尽くされるだろう。
南西諸島の「非武装地域宣言」を!
このような、すさまじい戦争の中で、島々はどうすればいいのか? 結論から言えば、先島―南西諸島は、政府・自衛隊が行おうとするこの「島嶼防衛戦」に対し、世界に向かって「非武装地域宣言」を行い、一切の軍隊の駐留を阻むことだ。
この宣言は、ハーグ陸戦条約第25条に定められた「無防守都市」であることを、紛争当事者に対して宣言することであり、国際的にも認められたものだ。かつて、フィリピンのマニラをはじめ、この宣言を行った都市も数多くある。
あまり知られていないが、戦前の沖縄は、国際法上の「無防備地域」であった。これは、1922年、ワシントン条約(米英日仏)で締結された、「島嶼の要塞化禁止」に基づくものである。この条約(ワシントン体制)のもとで、奄美、沖縄本島、先島諸島(そしてサイパン、テニアン、グアムなど)は、1944年3月、沖縄本島、先島諸島への日本軍上陸までは、軍隊・基地は置かれなかったのだ(1930年代半ばからサイパンなどでは、秘密裡に基地建設)。
この中でも、石垣島は、戦中の1年半という時期を除いて、明治以来およそ150年の間、完全な非武装地域であった。この事実の前に、自衛隊の言う「防衛の空白地帯」などは、単なる屁理屈にしかならない。
[参考条約の要約]
*ジュネーヴ条約追加第1議定書第 59条「無防備地区」……紛争当事国が無防備地区を攻撃することは、手段のいかんを問わず禁止する。紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近またはその中にある居住地で、敵対する紛争当事国による占領のために開放されているものを無防備地区と宣言することができる。無防備地区は、次のすべての条件を満たさなければならない。
(a) すべての戦闘員ならびに移動兵器及び移動軍用設備が撤去されていること、
(b) 固定した軍用の施設または営造物が敵対的目的に使用されていないこと、
(c) 当局または住民により敵対行為が行われていないこと、
(d) 軍事行動を支援する活動が行われていないこと。
*ハーグ陸戦条約の第 25条「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」と定められている。
*日中平和友好条約による「武力による威嚇および覇権を確立」の禁止(1978年)
第一条 1 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第二条 両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
*参考資料 ワシントン会議と太平洋防備問題
http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j1-2_7.pdf
燐光群『サイパンの約束』 goo.gl/NnZkAH
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月27日 - 14:41
燐光群新作『サイパンの約束』―「集団自決」の島・サイパンから帰還した沖縄の少女の物語 blog.goo.ne.jp/shakai0427/e/d… @shakai_konishiさんから
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月27日 - 16:13
燐光群新作『サイパンの約束』―「集団自決」の島・サイパンから帰還した沖縄の少女の物語 blog.goo.ne.jp/shakai0427 pic.twitter.com/0puiFFL8Xv
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月27日 - 18:17
燐光群の坂手洋二さん演出、渡辺美佐子さん主演の『サイパンの約束』を昨日、観てきた。
演劇のテーマが、なんとあの僕の一番好きな島、サイパンーテニアンなのだ。しかも、アジア太平洋戦争下の、あの激戦の地で生き残り、かつ生還した沖縄の少女の物語だというから、これを観ないわけにはいかない(物語は、坂手さんの身内の実話のようだ)。幸い、上演会場の「座・高円寺」は、僕のところから歩いて10分!
芝居は、渡辺美佐子さんの扮する少女が、73年ぶりに「生まれ故郷サイパン」へ、沖縄から「帰郷」した話から始まる。「ガラパンは何も変わっていない。そのまま。南洋の銀座と言われたガラパン……」――と、渡辺さんの迫真の演技が続くのだが、劇中劇という設定のスピードに、僕の理解力が追いつかない。2~3度くらい観ないと、この劇評は、おそらく書けない。ということで、このすばらしい芝居を見に行くための、そして、この早い展開の物語を理解するために、僕なりの、当時のサイパンーテニアンの戦争、日本統治下のサイパンを理解するための材料を提供しようと思う。
さいわい、このサイパンーテニアンを始めとする「島嶼戦争」は、僕の専門分野であり、7年ほど前に『サイパン&テニアン戦跡完全ガイドー玉砕と自決の島を歩く』を書いている。この『サイパンの約束』の理解のための、最小限のものを拙著から要約して、坂手さんの芝居を観る方々の前段階的材料にしようと思う。
といっても、膨大な資料となり、それがためにテニアンの箇所をはぶかざるを得なかった(それにしても、シュガーキングの俳優さんは、松江春次[銅像]その人にそっくりだった!)。
*『サイパンの約束』12月2日まで「座・高円寺」、12月11日岡山、12月20日愛知など。http://rinkogun.com/Saipan_Tokyo.html
●常夏の島・サイパン サンゴ礁に囲まれた七色の海
楽園の島
サイパンの海は、1日に7回も海の色が変わるという。エメラルドグリーンであったり、コバルトブルーであったり。
西海岸のフィリピン海は、サンゴ礁に囲まれ、穏やかな海面が広がる。対して、東海岸の太平洋は、そりたった断崖が広がり、荒々しい。マッピ岬にある「バンザイクリフ」の海面は、どこまでも広く深い海原が横たわる。
そのサンゴ礁の海は、そんなに深くはなく、海水の温度も温かい。
それもそのはずで、サイパンの年平均気温は28度、年間を通しても温度差は1~2度という。熱帯性特有の雨期(7月~11月)と乾期(12~6月)があり、旅行には湿度の少ない乾期が最適だ。サイパン島は、全体的には平地が多いが、島の特徴としては、中部以北は山地が多く、熱帯特有のジャングル地帯が広がっている。
中部から南部にかけては平地が多く、ガラパン、ススペといった街の多くや飛行場(サイパン国際空港)もここにある。サイパン島の最高峰タポチョ山(標高466メートル)もここに位置する。
さて、サイパン島は、日本から飛行機で約3時間の距離にあり、位置的には日本から南へ約2400キロ。サイパン、テニアン、ロタなど北マリアナ諸島の14の島のうち、サイパン島は、面積も人口ももっとも多い島だ。面積は、185平方キロで、人口は約7万人(北マリアナ諸島全体では約8万人)。島は、南北約22・5キロ、東西は広いところで約10キロしかなく、日本で言えば伊豆大島の2倍といったところだろう。
(島を全周している点線は、軽便鉄道の路線図)
北マリアナ諸島自治政府とは
観光ガイドなどでは、サイパン、テニアンなどが属する北マリアナ諸島を「北マリアナ諸島連邦」と称しているものが多いが、正確には「自治政府」(CNMI)であって、「連邦」ではない(143頁以降参照)。自治政府とは、言うまでもなくアメリカの準州であり、USAに属する。したがって、サイパンなどの先住民は、アメリカの市民権を有する。
正確に言うと、北マリアナ諸島の人口(06年の統計では80360人)のうち、もともと島に住む住民である、チャモロ人、カロリニア人(カロリニアン)などのアメリカ市民権をもつ先住民は、全体の半数前後で、その他ではもっとも多いのがフィリピン人(26%)、中国人(22%)、さらに韓国人、日本人(約800人)と続く。
こうして見ると、サイパンを含む北マリアナ諸島は、文字通りの多民族社会である。
実際、街に出て見ると、商店・飲食店などの看板も、勤めている人たちも、様々な民族の人がいる。話されている言葉も、英語・チャモロ語・中国語・ハングル・日本語などと「多国籍語」だ。実際の公用語は、チャモロ語・カロリニアン語・英語であるが、もちろん、英語だけでなく日本語もある程度は通用する。
九・一一事件の影響
アメリカに属するということで、不便なのは空港の出入国や税関などが厳しくなったことだ。
本来は、サイパンへの入国は30日まではビザなしなのだが、入国審査では、「テロの組織に入ったことはありますか。逮捕歴はありますか」などということも聞かれる。そして、出国審査では、男女・子どもも含めて、靴まで脱がされる検査だ。
また、2010年11月からは、出国審査で全身透視装置が導入されるなどして、不評をかっている。
この出入国審査が厳しくなったことで、観光にも影響が出ている。実際、九・一一事件以後、サイパンの観光は落ち込んでいたが、リーマン・ショック以後の大不況は、これを一段と悪化させている。
コメから肉食文化へ
アメリカの文化を反映しているせいだろうか。サイパンは周りに海がありながら、食生活は「肉食」中心だ。スーパーでは、「ゴムぞうり大」ほどの牛肉が十数枚詰まったパックが、10ドルぐらいで売られている。
しかし、もともとチャモロ人たちの伝統的な食生活は、コメ文化である。近海で採れるカツオやマグロの刺身なども、食生活になじんでいる。またスーパーには、所狭しと白米が並んでいる。モノは比較的安いが、輸入品の缶コーヒーなどは高い。
(タポーチョ山頂から見た現在のガラパン市街[Facebook社会批評社])
●アジア太平洋戦争その概観ー開戦1年後に敗勢に追いつめられた日本軍
太平洋戦争の実像
サイパン島での戦争に至る、アジア太平洋戦争の戦局全体については、今まで省略してきたが、ここで少し概観してみよう。
太平洋戦争は、1941年12月8日、日本軍によるハワイの真珠湾、そして、イギリス支配下の、マレー半島への奇襲攻撃で始まった。以来、日本軍はフィリピン、太平洋諸島、そして東南アジア全域へ破竹の勢いで進軍した。マリアナ諸島の唯一の米領であったグアムも、開戦翌日には占領された。
日本軍は、もともと占領していた満州・中国はもとより、開戦とともにアジア大陸ではベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)まで占領。
そして、中・南部太平洋については、マーシャル諸島、ギルバード諸島をはじめとし、ソロモン、ニューギニア東部に至る島々まで占領した。まさに、無謀にも伸びきった戦線と言えよう。しかし、この日本軍の進撃は、開戦後1年も続かなかった。1942年6月の日本海軍のミッドウェー海戦での敗北が、日米の力関係を大きく変える転機となった。日本海軍は、この海戦によって太平洋での海上的優位を喪失し、その結果、アメリカの本格的な戦略的反攻をもたらすこととなった。それが、同年8月から始まったガダルカナル戦(ソロモン諸島)であった。そして、アメリカを軸とする連合軍は、この後、中南部太平洋の島伝いに積極的反撃を開始し、日本軍は戦略的敗勢へと追い込まれていく。
「絶対国防圏」の設定
この日本軍の戦略的敗勢の始まりの中で、最高戦争指導部である大本営は、従来から大きく後退した戦線「絶対国防圏」なるものを設定する(1943年9月)。この範囲は、千島―小笠原からマリアナ諸島―カロリン諸島―ニューギニア西部―スンダ海―ビルマを含む圏内であり、その中部太平洋の要衝がマリアナ諸島であった。
この「絶対国防圏」とは、言うまでもなく大日本帝国が絶対に確保・防衛すべき地域であり、これを確保しなければ、重要資源も、輸送の安全も、「大東亜圏内重要諸民族ノ政略的把握」もできないとされ、最小限度の要域とされた。
しかし、この広大な太平洋の島々の絶対的防衛は、制海権・制空権を喪失しつつあった日本軍にとって、あまりにも伸びきった防衛戦である。そして、それ以上に問題となったのは、すでに見てきたように、連合軍の「侵攻予想地点」のあらゆるところに兵力を配置した結果、膨大な兵力を増強したわりには、その配備はすべての島々で脆弱なものとなった。
約900万トンの商船隊が沈む
さらに、連合軍のいわゆる「飛び石作戦」の結果、太平洋の島嶼部に取り残された部隊は、遊兵と化し、また補給路を断たれたことで、飢餓地獄にたたき込まれるという事態を生じさせたのだ。
こうして日本海軍は、艦隊決戦主義(「大和」などの戦艦中心)で米空母艦隊との海戦に敗北したばかりか、その後には空母艦隊のほとんどを失ってしまったのだ(「あ」号作戦=マリアナ沖海戦)。この思想は、海上護衛の軽視にも現れていた。太平洋の海上輸送路のほとんどがマヒし、戦争の4年間で日本の商船隊は、約900万トンの船を沈められてしまった。
●サイパン戦その日米軍事力
マリアナ諸島への増強
さて、この「絶対国防圏」の設定後、太平洋の島嶼部、とりわけ、マリアナ諸島への陸海軍の増強がようやくが行われる。これ以前の同諸島の防備は、ほとんどが海軍の警備隊による小規模のものでしかなかった。
こうして、1944年2月、中部太平洋方面を管轄する陸軍第31軍司令部が新設された。これはマリアナ地区集団、パラオ地区集団などの8万人からなる兵力で強化された。また、海軍は基地航空兵力の主力である第1航空艦隊、第14航空艦隊をこの方面に集中するとともに、連合艦隊(中部太平洋方面艦隊の新設)の主力をもって司令長官の指揮下で、同方面の作戦を実施することになった。
次頁の表にあるように、陸軍第31軍には満州から転用した精鋭師団が当てられ(独立第47旅団ほか)、1944年3月以降、第1次から第9次までが、次々にサイパンを始めとするマリアナ方面に増強された。また、日本本土からも、同年5月20日、名古屋の第43師団が動員され、派遣された。しかし、このサイパン派遣軍の主力である、第43師団の現地到着から米軍上陸開始までは、わずか20日あまりしか残されていなかったのだ。
輸送船団の撃沈
この米軍上陸直前に、サイパンに到着するという圧倒的準備不足に加え、それ以上にこの第43師団には、大きな危機が生じていた。それは、サイパン到着前に米潜水艦によって、部隊の相当部分を失ったという現実である。
同師団の第1次輸送部隊は、何とか無事にサイパンに到着し、大本営を安堵させた。だが、第2次輸送隊は、館山沖を通過後の6月4日までに、同船団の勝川丸が潜水艦の雷撃を受け沈没したのを始め、翌5日には同船団の高岡丸、玉姫丸、同6日には、はあぶる丸、鹿島山丸と次々に撃沈されたのだ。被害状況は以下のとおりである。
*歩兵第118連隊 連隊長始め主力を失い、生存したのは第1・第2大隊の約千名だけで、約半数が負傷(2240人が海没)。
*独立臼砲第17大隊 将校以下50人と全兵器が海没。
このほか、海没した船団の部隊には、パラオ派遣予定の独立臼砲第14大隊約240人と兵器の大部分、独立戦車第3・第4中隊の兵器・人員の全部、第23野戦飛行場設営隊の200人など、多数がいた。こうして増強された1944年6月15日時点での日本軍の兵力は、左の表の通りである。
不幸に見舞われた歩兵第318大隊
派遣部隊の少なくない数が、マリアナ諸島への到着前に米潜水艦に沈められてしまった。
第31軍の編制が表のように複雑になっているのは、こうして消失した部隊が、再編統合されたからだ(あるいは、戦局の悪化で予定した島々への派遣が取りやめられ、サイパンに残留したものも含まれる)。
その中でも、もっとも不幸に見舞われたのが、新編の独立歩兵第318大隊だ。この部隊は、満州の独立守備隊を基幹に4月5日に編制、第9次派遣隊としてヤップ島へ送られる予定であった。そして、5月16日、サイパンを経由してヤップへ赴く途中の翌日、グアム北西海上で米潜水艦に攻撃され、輸送船・日和丸、復興丸が沈没、一部が日本艦船に救出され、サイパンに帰還した。
この雷撃で派遣隊は、第14大隊・第28大隊の大隊長を始め、兵員百数十名を、第12大隊は約60人を失い、兵器の大部分を失った。その後、この生存した兵員は、部隊の再編成につとめ、一部はヤップへ向けて出発したが、他の部隊は直後に始まったサイパン戦で出発が不可能となった。こうして、部隊は、サイパンで独立歩兵第318大隊を編制し、独立混成第47旅団に編入される(編制後の兵員631人、うち玉砕570人、帰還者22人)。
言うまでもないが、ここに記した米潜水艦による沈没はほんの一部である。この時期にマリアナ方面に向かった輸送船団の多くが、海の藻屑として消えていったのだ。
さて、この日本軍に対する米軍の戦力は、どのようなものか。米軍のマリアナ作戦は、レイモンド大将の指揮する第5艦隊が予定され、統合遠征軍はサイパン、テニアンを対象とする北方攻撃部隊と、グアムを対象とする南方攻撃部隊から編制された。
圧倒的兵力・火力で攻撃する米軍の攻撃部隊
そして、この北方攻撃部隊としてサイパン、テニアンの上陸作戦にあたるのは、第2海兵師団・第4海兵師団であり、遠征隊の予備隊として陸軍第27歩兵師団があてられていた。また、戦略予備として第77歩兵師団がハワイで待機し、同月20日以後、マリアナ地域に投入されることになっていた。
さらにこれに加え、第1群から第4群までの空母機動部隊の空母15隻他、多数の巡洋艦・駆逐艦から編制されていた(遠征部隊の艦船は、北部・南部の攻撃部隊合わせて535隻。陸上兵力は4個師団半。人員は12万7571人。このうち、北部攻撃部隊の人員は、7万1034人。米軍はグアム、サイパンの同時上陸を予定。だが、サイパンでの激戦でグアム上陸は延期。米軍は、日本軍のサイパンでの兵力を攻撃開始日には、約1万5千から1万8千人と見積る)。
米軍のサイパン上陸計画
*主上陸 上陸正面 6月15日H時、第2、第4海兵師団をもって、西海岸のチャランカノア付近に上陸、速やかに進出線に進出する。第2海兵師団はチャランカノア北方付近、第4海兵師団はチャランカノア正面及び同南方地区。
*支上陸 第2海兵連隊第1大隊で攻撃開始日前夜、ラウラウ湾に上陸、内陸に向かって迅速に進撃。
*陽動 上陸開始直前からタナパグ湾北西地域で行い、日本軍を牽制する。その他、サンゴ礁に対する特別措置として、攻撃用にLVT(水陸両用装軌車両)を使用。
見ての通り、日本軍の守備隊に対して、海軍・航空戦力を除いても、米軍は兵力的にも圧倒的数を誇っている(約2倍)。それにもまして、対戦車バズーカ砲などの装備に見るように、兵器の質においても米軍は勝っているのだ。
そして、何よりも米軍に対して日本軍が劣っていたのは、戦略思想であり、戦略・戦術の柔軟さ、合理的思考であった。後に見る「玉砕」や「捕虜の忌避=自決」こそは、この表れでもあった。
●空襲と砲撃で破壊された街 生々しい戦争の跡が残るガラパン⑦
(戦火で破壊されたガラパン市街)
◆観光スポットの刑務所跡
サイパンには、戦前の日本統治時代の建物がいくつも残っているが、もっとも有名なものが、日本統治時代の刑務所跡だ。
この刑務所跡は、サイパンのもっとも大きな街・ガラパンにある。次頁の写真に見るように、刑務所の高い塀ばかりか、囚人たちの留置所までもが未だに残っている。その監房の中には、月日を感じさせるように熱帯性の樹木が高く生い茂っているところもある。彼らは、日本から遠く離れた、この熱帯のむし暑い監房の中で、どんな思いで暮らしていたのだろうか。だが、こんな思いも吹き飛ばしてしまいそうなのがコンクリート塀のあちこちに残された銃弾の跡だ。
刑務所も爆撃の対象
言うまでもなく、米軍の砲爆撃は、対象を選ばない。囚人であっても同じだ。6月12日、米軍の空襲が始まると、当局は一斉に刑務所を開放したというが、囚人たちにどれほどの被害が出たのか、彼らは戦争下でどうしたのか、ほとんどわかっていない。おそらく、他の民間人・住民たちと同様、戦火を避けながら、ジャングルの中を逃げまどっていたのだろう。米軍の大空襲と砲撃は、ガラパンを始めとした島内のすべての街を廃墟と化したのだ。
◆シュガー・キング・パークの7メートルの銅像
シュガー・キングとは、「砂糖王」のこと。その名が示すとおり、戦前の日本統治時代のサイパン、テニアンで、一大砂糖キビ農場・工場を築き上げた松江春次を讃えて作られた公園と銅像が、ガラパン市内にある(銅像は戦前・生前に建てられたもの)。松江は、沖縄を中心に日本各地から大量の移民をマリアナ諸島に募り、最盛期にはその会社・南洋興発の社員は、約5万人を数えた。そして、1940年には、サイパン、テニアンの両工場での原料処理能力は、1日4400トンに達したという。
下の写真がその砂糖キビ運搬のための、南洋興発の蒸気機関車である。現在のサイパンやテニアンには鉄道はないが、戦前には、本書冒頭の地図にあるように、サイパンには、島のほぼ全域にわたって線路網が張り巡らされていたのだ。
南洋興発は軍需産業でもあった
この南洋興発は、中国大陸の満州鉄道になぞらえて「海の満鉄」とも言われた。だが、この会社が栄えたのは、砂糖キビ生産だけではなかった。アスリート飛行場、タナパグ港の水上機用基地などの軍飛行場、砲台、弾薬庫、防空壕、石油基地、送水管など、軍用のすべての施設の建設を請け負っていたのだ。
つまり、南洋興発はマリアナ諸島を中心に、中部太平洋の島々の占領・支配を軍とととも進めた、一大軍需産業であったということだ。松江の銅像は、米軍の激しい砲爆撃にも拘わらず、まったく崩れず残っている。だが、銅像の背面には、銃弾の跡が生々しく残っている。そして、後ほど詳しく述べるが、松江の南洋興発も敗戦とともに、軍の崩壊・解体とともに、戦後、米占領軍によって解散させられることになる。戦争によって儲けようとする者は、戦争によって滅びる―その典型が、「シュガー・キング」と呼ばれた男ではないだろうか。
◆彩帆神社の由来
前頁のシュガー・キング・パークの敷地内には、日本の神社が今なお残されている。この神社は彩帆神社、正式には彩帆香取神社と呼ばれている。
この神社の由来は、1914年の第1次大戦の日独開戦までさかのぼる。この戦争において、ドイツ領サイパンを占領した軍艦・香取は、その乗組員の守護神として、香取の艦内にあった神社をここに分祀した。これが大戦後の日本統治の始まりの中で、単なる軍艦の乗組員の神社ではなく、サイパン移民を含む日本人の「守護神」となり、「彩帆香取神社」となった。
だが、日本統治下のサイパン、つまり、日本の植民地下にあったサイパンに、その占領と植民地の象徴とも言える神社が、今も新しく建立されていることに、違和感をもつのは私だけであろうか。このサイパンだけでも、自治政府の好意とはいえ、今なお、鳥居などが各所に残されている(後に見るが、ススペに残されている「歴史的遺跡としての鳥居」は、その限りではない)。
◆日本病院跡
これらの彩帆香取神社、シュガー・キング・パークと道路を挟んで反対側に残されているのが、日本の病院跡(左頁上写真)だ。現在、この病院の建物は、改造されて北マリアナ博物館が建てられている。この日本病院跡には、病院の待合室ではないかと思われる建物がほぼ無傷のまま残されているが(前頁下)、その近くには、防空壕がこれも無傷のまま残されている(前頁中2枚)。
おそらく、この防空壕は、病院の職員などの避難のために造られたのであろうが、完全に無傷で残っている。写真にあるように、壕自体も内部も相当広い。出入口も2カ所に造られている。
◆ガラパンの実業学校跡
1937年度の「南洋群島要覧」によれば、この年のサイパン支庁管内の島別人口は、サイパン2万3853人、テニアン1万5112人、ロタ7522人、バガン196人で、総計4万6866人である。
また、1940年の南洋庁(南洋諸島の統治庁)の統計によれば、サイパンには、日本人約2万9千人ほか、チャモロ人2701人、カロリニアン1079人、朝鮮人408人などが住んでいたという。
日本の民間人の約7割は、沖縄出身の人たちであった。つまり、南洋興発の砂糖キビ栽培・生産のために、大量の沖縄人が移民として連れられてきたのだ。そして、その砂糖キビ栽培の形態は、ほとんどが小作制度であり、生活も相当厳しかったと言われている。後で見るように、実際、サイパンはもとより、砂糖キビ栽培・生産が大々的に行われたテニアンに至るまで、その戦跡には例外なく沖縄人たちや朝鮮半島の人々の足跡が残されている。
その足跡は、悲惨な戦争な跡、例えば「集団自決」であり、建立された慰霊碑である。サイパン、テニアンのあちらこちらに残る戦跡は、いかに彼らの犠牲がこの地で多かったのかを物語るものである。
ところで、当時島内には、日本人の小学校を始め、高等女学校、実業学校があった。下の写真は、その学校での弁論大会と運動会の様子である(この小学校などに通えるのは日本人だけで、チャモロ人などは、別の学校に通わされていた。先住民は、いわゆる同化政策のもとに置かれたが、植民地的差別支配のもとにあった)。
だが、ここサイパンにおいても、米軍上陸前、学生・女学生など青年たちの戦争動員態勢がとられ、多くの青年たちが戦死した。左の写真は、シュガー・キング・パーク内にある、サイパン実業学校の記念碑である。
●日本統治下のサイパンー先住民への皇民化教育と住民の戦争動員
日本統治下の皇民化教育
ここで少し、戦前の日本統治下のサイパンについて、見てみよう。
サイパン、テニアン、ロタを含む北マリアナ諸島が日本の統治下に置かれたのは、第1次世界大戦下である。日英同盟に基づき、大戦に参戦した日本は、当時ドイツの統治下にあった北マリアナ諸島を開戦とともに占領。
直ちに軍政を敷き、全諸島に守備隊を配置した。また、1922年になると、国連の委任統治下に南洋庁を設置し、支庁をサイパンなどに置く。
こうして、国際連盟規約に基づき、「委任統治領」になったサイパンを含むミクロネシア(南洋諸島)は、1933年、日本の国際連盟脱退の中で、「帝国の構成部分として不可分の一体」であり、「永久にこれを統治することを宣言」と、文字通り大日本帝国の植民地支配のもとに置かれるのだ。
この南洋庁の統治下に、日本企業は南洋興発を含めて、北マリアナを含むミクロネシアの島々に進出していく。そして、この企業の進出と合わせるかのように、日本統治下の「皇民化教育」も行われるのだ。
「皇民化教育」とは、日本の植民地下に置かれた朝鮮・台湾などと同様、現地の住民をすべて「天皇の赤子」として、日本語を話し、日本文化を敬い(神社参拝はその象徴)、天皇に忠誠をつくす、つまり、日本国民として教化するというものだ。サイパンなどでも、こうしてドイツ語を禁止し、日本語の強制が行われたという。別表(65頁)に見るように、現在も多くの日本語が現地では話されているし、サイパンでは年配者は今も日本語が話せるという。
しかし、チャモロ人などの先住民たちは、ほとんどがキリスト教徒であった。だが、日本本土のキリスト教徒と同じく、彼らも神社への参拝を強制されたのだ。
このように、戦争の結果、チャモロ人を始めとする多くの先住民が、一方的な戦争の犠牲を受けたことを考えるとき、私たちは、日本人の悲劇だけでなく、この人々の想いにも心をはせることが必要だろう。
先住民へのスパイ呼ばわり
ところで、サイパンでの日本軍の戦争を記録した朝雲新聞社発行の『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦①』の498頁には、次のような記述がなされている。
「戦況の混乱に伴いスパイが米軍に内通した。主としてチャモロ、カナカ等の現住民であったが、昼間、部隊とともに行動し、夜になると日本軍指揮官の隙を狙って狙撃し姿を消してしまう、司令部の移動直前には米軍の地域射撃によって擾乱されるのが例となっていた」
この、確たるスパイの事実もないのに、先住民に対して、スパイ呼ばわりする日本軍の体質を見ると、沖縄戦においてスパイ呼ばわりされ、処刑された沖縄人たちと同様の事態が、ここでも生じていたことが推測される。
このサイパン戦での、スパイの名による先住民の処遇が、どのようなものであったのか、これらの事実はほとんど解明されていない(サイパンでのスパイ容疑などでの、日本軍の先住民の殺害実態はわかっていないが、このサイパン戦の後に始まったグアム戦においては、約700人のチャモロ人がスバイ容疑などで殺害されたという。グアムのチャモロ人の民族団体は、この虐殺などに対して日本政府に謝罪と補償の要求を出しているが、政府はサンフランシスコ条約で解決済み、として応じていない)。
そして、もう一つ解明されていないのが、サイパン戦でのチャモロ人などの先住民たちの犠牲である。おそらく、戦争の実態からしても、相当の被害が生じていてもおかしくはない。
先住民慰霊の記念碑
さて、ランディング・ビーチの近くにある、チャモロ人などの先住民の記念碑には、「第2次大戦中に命を落とした419人のサイパン人の沈黙の英雄を記念し、敬意を表して、サイパンの人々が建てた」と書かれている(前頁写真参照。米軍上陸記念碑が手前にある)。
このランディング・ビーチ近くにある先住民たちの記念碑は、1960年という、未だサイパン戦による戦争犠牲の実態が不明なときに建立されたものだ。
だが、その後、自治政府の戦争被害の調査も進んだと見えて、1994年に建てられた先住民のメモリアルには、サイパン戦の戦争犠牲者を930人と記している(この個所は、マリアナズ・メモリアルパークの紹介頁で詳述する)。
しかし、日本住民の戦争犠牲者と同様、実際にどのくらいの先住民たちが命を落としたのか、確かなことはわからないのではないか。
明らかなことは、このサイパンにおいても、「皇民化」政策とは何であったのか、その実際の姿がここに表れているのではないだろうか。
戦争への住民の動員
あのアジア太平洋戦争で、日本軍隊の地上戦に巻き込まれた国民というと、私たちにはほとんど沖縄戦が思い出される。
だが、サイパン、テニアンでは、沖縄戦の前に、沖縄戦と同じく、軍隊の地上戦闘に住民たちが巻き込まれ、「玉砕」「自決」の名の下に、数え切れないほどの悲惨な死を遂げた地域なのだ。
おそらく、後で記述するように、サイパン、テニアンでの住民「自決」の犠牲者は、沖縄をはるかに超えるのではないだろうか。もっとも、日本軍としては、当初は、この住民の犠牲を避けるために、「老幼婦女子」の本国への引き揚げをなそうとした(青年男子は対象ではなかった。16歳以上60歳未満の男子は帰国禁止)。
しかし、この引き揚げは、すでに制海権を完全に喪失していた日本にとって、もはや不可能となっていた。
引き揚げ船の沈没
1944年に入ると、戦局の悪化にともない政府・大本営は、サイパンからの日本人婦女子の引き揚げを急遽開始した。しかし、これらの引き揚げ船は、サイパン出航後まもなく、米潜水艦に撃沈されるのである。
また、その後の引き揚げ船も、同様に次々と米潜水艦に沈められていくのだ。この段階では、もはや日本の住民たちには、島に残る以外の手だてはなかった。
そして、やむを得ず島に残された日本の住民たちにとって、このサイパン戦において、多くの犠牲をもたらしたものは、これもまた沖縄戦と同様、住民に対する軍の動員命令であった。つまり、米軍の砲爆撃だけが住民たちの犠牲を生じさせたのではない、ということだ。
戦火に逃げまどう住民
1944年6月14日、サイパンへの本格的空襲が始まるとともに、サイパンの在郷軍人会に防衛召集が下令。在住する日本の住民たち、警防団・青年団などにもまた、軍に協力して後方勤務に就くように命令された。つまり、日本軍は、その戦力不足を民間の成人男子の徹底動員によって補おうとしたということだ。この民間の成人男子の実際の戦闘への動員というのが、まさしく日本軍の地上戦の実態である。
そして、この青年団や警防団などの民間人の軍事的動員が、軍隊とともに民間人たちに対してもまた、「玉砕」「自決」を強制することを必然化させるものとなった。
もっとも、島内のすべての住民たちは、米軍の激しい砲爆撃の下で、すでに軍の動員以前に自主的に市街地から逃れ、タポチョ山周辺のジャングル地帯や周辺の山岳地帯に避難を始めていた(米軍の奇襲の中で、サイパンでは住民の動員がうまくいかなかった。対して、テニアンでは、住民が徹底動員された)。
だが、避難が遅れた住民たちは、チャランカノア地域で日米軍の戦闘に巻き込まれたばかりか、日本軍の撤退戦の中でも、相当に軍の戦闘の妨げになったとも言われる。つまり、散々な敗退戦の中において、住民たちは撤退する軍に保護を求めてきたのだ。
米軍もまた、上陸開始直後から、激しい戦闘の中で、この住民たちの保護に、相当の力を割かねばならなかったという。
こうして、日本人を含む住民たちすべては、日本軍とともに飢え、渇きをしのぎ、米軍の砲爆撃におびえながら、ジャングル地帯を逃げまどい、そして、スーサイドクリフ(自殺の崖)、バンザイクリフへと至っていくのだ。
ところで、この日本の民間人たちの逃避行の中で、現地のチャモロ人たちはどうしていたのだろうか。
当初、彼らは日本の民間人たちと一緒に、日本軍の保護を求めて、北へ北へと避難・逃避を行っていた。だが、戦況が明らかになるにつれ、彼らは日本軍・日本人たちとは離れていった。
つまり、米軍は投降する島民・住民を日本軍が教育してきたように虐待することなく、丁重に扱うことが知れわたったのだ。こうして、彼らは日本人や日本軍から離れ、それぞれの居住地域に帰って行ったという。このような、自分たちとまったく無関係な戦闘を避けて、居住地に帰って行くという先住民たちの当然の行動をもって、日本軍は「スパイの疑い」という宣伝を行ったのではないか。
●日本軍の敗残兵と住民が追いつめられたラストコマンドポスト⑬
戦跡の観光スポット
サイパンの最北端、マッピ山麓(バンザイクリフの南側)にあるラストコマンドポストは、その名称からすると、あたかも、日本軍の司令部が存在した最後の場所であるかのようだ。しかし、ここは司令部の存在した場所ではない。日本軍の司令部は、すでに見てきたが「地獄谷」においてその最後を終えたのだ。なぜこの場所が、観光名所としてこの名前になったのか、その由来は不明である。
ただ、この場所には、その由来はともかく、日本軍による自然の洞窟を利用した、コンクリートで補強された堅固な陣地跡(海軍の監視哨跡)があり、周辺には対空火器から戦車・火砲、そして、なぜか魚雷まで置かれている。まさに、ここはサイパンにおける戦跡の観光スポットとなっている。
だが、ここが観光スポットになっているのは、偶然ではない。ここの場所は、北側の方向にはバンザイクリフがあり、南側の方には厳しくそそり立つマッピ山がある。そのマッピ山の断崖は、スーサイドクリフと呼ばれる、日本人たちの悲惨な「集団自決」の地である。
こうした「自決の地」に囲まれていることから、この場所には日本政府建立の「中部太平洋戦没者之碑」(初めてサイパンに建立された)があり、この地で亡くなった沖縄人や韓国人を慰霊する「おきなわの塔」(96頁写真参照)「韓国平和記念塔」(98~99頁写真参照)も、それぞれ建立されている。
米軍の掃討作戦
7月7日、日本軍の最後の玉砕攻撃が終わった後、敗退した一部の兵士らは周辺のジャングルに潜み、あるいは、このサイパン北部を目指して逃れていった。
これに対して米軍は、この敗残部隊への掃討戦を火炎放射器などを使って行い、洞窟に潜む日本兵を一人ひとりつぶしながら進撃していく。
そして、米軍は7月9日、海上からの砲撃の支援のもと、最後の戦闘を行い、米部隊は島の最北端・マッピ岬に到達した。
ここに、米軍は、サイパンにおける完全占領を宣言する。上陸から24日目のことであった。
日本人の「集団自決」
そして、敗残の日本兵とともに、このサイパン最北の地へと逃れてきた日本の民間人たち、行くあてもなく、ただただ、北へと北へと戦火を逃れてきた人々の、絶望的な「集団自決」が始まる。
マッピ山のスーサイドクリフから飛び降りる者、マッピ岬(バンザイクリフ)から海中へ飛び込む者、そして、子どもを抱えて海へ飛び込む母親など、言い難いような、地獄のような光景が現出した。
サイパン戦の最大の悲劇の地が、この周辺一帯である。
もちろん、この「集団自決」から逃れて、米軍のもとへ投降する人々も、多数いたことは確かだ。だが、あの「戦陣訓」にあるように、米軍への投降、「捕虜」(民間人が保護を求めることさえも)になることを、日本軍司令部が厳しく禁止したことも明らかにされなくてはならない。
その軍の命令は、時には米軍兵士に虐待されるというデマ教育であったり、あるいは、米軍への投降は「スパイ」として糾弾されるというたぐいのものであった。
日米両軍の戦死者
さて、この日米両軍の、太平洋戦争の中での初めての本格的激突であり、大規模の地上戦となったサイパン戦での戦死者数は、どのようなものであったか。
記録によると、日本軍の戦死者は、陸軍約2万8958人(海没2680人含む)、海軍約1万5000人の、合計約4万3958人であった。
そして、民間人は、在留約2万5千人のうち、約8千~1万人が亡くなったとされている(実数は不明)。そして、その半数以上が沖縄人であった。だから、このラストコマンドポストには、沖縄の人たちの慰霊が建てられている(写真下)。
また、98頁以降の写真にあるように、日本軍の軍事基地建設などに動員された、多くの朝鮮半島出身の人々も犠牲になった。この人々の慰霊碑もここに建てられている(強制動員については後述)。
さらに、この戦死者には、現地の先住民たちが加わる。チャモロ人などの戦死者の実数は不明だが、約930人が亡くなったと推定されている。
これに対して、米軍の戦死者は、海兵隊2382人、陸軍1059人で、合計3441人、そして、負傷者1万1465人を入れると、総計は1万4906人である。つまり、サイパン戦は、米軍においても膨大な犠牲を生じさせたということだ。
この、サイパン戦、硫黄島戦、そして、それに続く沖縄戦などの米兵の多大な犠牲を伴った戦闘が、その後のヒロシマ・ナガサキへの原爆投下に繋がっていったと言われる(だからと言って、原爆投下が正当化できるわけではない)。
生き残った日本兵
しかし、サイパン戦で日本の兵士たちが、すべて玉砕したわけでもないことは明らかだ。
負傷して捕虜になる者、玉砕を選ぶよりは捕虜になる者、あるいは、後で述べる大場隊のように、玉砕などという戦法ではなく、ゲリラとなって戦うというような兵士たちもいた。この結果、記録によれば約3万2千人の陸軍のうち、約1354人が日本に帰還したという。ただ、日本軍には建前上、捕虜は存在していないので、戦後になるまでサイパン戦での捕虜は、存在さえ隠されていたといえよう。
民間人の収容所
これらの軍隊に対して、民間人で生き残った人々は、どうしたのだろうか。
現地在住の民間人たちは、米軍の保護もとで、すべてススペに設営された収容所に入れられることになった。後述するように、日本人と先住民は別々の収容所に入れられた。その内訳は、日本人1万424人ほか、全部で1万4949人である(戦闘終了後1週間内の収容者、後述)。
東条内閣の退陣と玉砕発表
サイパン戦の終了後、大本営は、だいぶ遅れて同月18日、サイパンでの玉砕を発表した。また同日、東条内閣はこの敗北の責任をとって退陣した。この大本営の発表は、「集団自決」について、次のように述べていた。
「『サイパン島』の在留邦人は終始軍に協力し、凡そ戦ひ得るものは敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共にせるものの如し」(『戦史叢書』)
つまり、大本営は、日本人住民の「集団自決」を承知しており、その結果も肯定していたと言うことだ。この政府・大本営の戦争指導が、次に続く沖縄戦にまで明確に引き継がれたことは明らかである。結論を言えば、サイパン、テニアンで引き起こされた住民の「集団自決」は、政府・軍部の戦争指導の結果であったということである。
●住民たちが追いつめられた最後の自決の地ーバンザイクリフ―マッピ岬⑮
最北端に広がる濃紺の海
バンザイクリフは、文字通りサイパンの最北端にある。この先には、果てしない大海原が広がるだけだ。
岬は、おおよそ80メートルの高さの断崖が、数百メートルにわたって連なる。断崖の下は、文字通りの深い深い濃紺の海。荒々しい波が岩肌に砕け散っている。
この最北端の地に、約1万人近い日本人たちは追いつめられた。着の身着のままで、飢え、渇き、そして激しい砲火の音が迫ってくる。長い間のジャングルでの逃避行は、絶望的な疲労と恐怖を生じさせていた。
辿り着くまでの洞窟においては、この疲弊した住民たちが、米軍に保護を求めるという様子を見せるものなら、日本軍兵士たちは、「恥を知れ、どうせ殺されるなら、オレが撃ち殺す」と威嚇していた。
(悲劇の地・バンザイクリフ[スーサイドクリフ])
しかし、それ以上に日本軍は、住民たちに徹底して教育を行っていた。「米軍に捕まったら、耳や鼻をそぎ落とされ、女の人は辱めをうける」と。
つまり、日本の住民たちの大半は、この軍のデマを信じ込み、米軍に虐待されるより、自らの手で自分も、愛する者も、命を絶つしかないと思い込まされていたのだ。
この怯えた多数の日本人たちに対して、米軍はたどたどしい日本語で、繰り返し、繰り返し、「投降勧告」の放送を行った。だが、日本軍が行っていた「残虐非道な鬼畜米英」という洗脳教育のため、この放送はほとんど効果はなかったのだ。
積み重なった死体の上に
こうして、戦闘が終了したこの7月7日の翌日、最北端のパナデル付近で万を超える住民たちは、いよいよマッピ山、そして、マッピ岬の端にまで追いつめられ、すさまじい修羅場が生じたのだ。
赤児を抱いて海中に飛び込む者、家族で固まって手榴弾で自殺する者、また、子どもたちが車座になって手榴弾自殺するなど、数知れない人々がこの場で命を絶った。
そして、この地―バンザイクリフとスーサイドクリフが筆舌に尽くしがたい悲劇の地であるのは、米軍の実写フィルムにもあるが、ある人は躊躇しながら、ある母親は子どもと手を取りあいながら、たくさんの人々があの崖の上から深い海に飛び込んだのだ。
膨大な人々が飛び込んだ結果、濃紺の海は血で真っ赤に染まり、海面は死体が積み重なっていた。そして、積み重なった死体の上に落ちたことで、生き延びた人も多くいたという。
「自決者」の多くは、「天皇陛下、万歳!」の声を挙げながら飛び込んだ。このことから、米軍はここを「バンザイクリフ」と名付けた。
生き残った少年
このバンザイクリフに身を投げながらも、奇跡的にも生き残った人がいる。沖縄出身の城間幸勇さん、72歳だ。
城間さんは、沖縄出身の両親のもとで、サイパンで生まれた。しかし、1944年、サイパンの戦火の中で両親とも死亡。7歳のときだった。また、城間さんは、2人の妹とも行き別れてしまった。
こうして、住民たちとともに逃避行を続けながら、彼はついにバンザイクリフから身を投げる。だが、このとき、奇蹟が起きた。城間さんは、偶然にも断崖途中の木にひっかかり、一命をとりとめたのだ。
城間さんはその後、サイパンの米軍収容所で親戚と再開、敗戦直後、沖縄にわたった(琉球朝日放送「バンザイクリフから65年 生き続けた城間さんの慰霊の日」2009年6月24日 )。
城間さんのように、途中で木にひっかかったり、先に飛び込んだ人の遺体がクッションになって助かった人が、相当いたことが明らかになっている。 特に多かったのは、小さな子どもたちであった。だが、別の見方をすれば、それほど膨大な人々が、この深い海に飛び込んだということだ。
予測できた「集団自決」
この住民たちの「集団自決」は、大本営―現地軍司令部においては、充分に予測できた。
というのは、軍部は「戦陣訓」によって将兵たちが捕虜になることを禁止していたが、軍民一体化の中での戦争遂行からして、当然それは民間人にも、当てはめられたのだ。とりわけ、サイパンにおける戦いでは、軍の兵力不足を補う民間人の動員が重要であったから(兵站支援など)、在郷軍人だけでなく、青年男子の動員は決定的であった(引き揚げ禁止命令)。
結局、サイパンでのかつてない悲劇である「住民自決」をもたらしたすべての責任は、大本営にあったのだ。この大本営発表に追随して、新聞各紙も「民間人の壮絶な最期」を、何の疑問を挟むことなく発表した。
沖縄戦の「自決」を招く
この結果は明らかだ。この後続く沖縄戦で、住民たちはここでもまた、「集団自決」という「自殺」の道を選んだ。 もしも、このサイパン戦の悲劇が正確に伝えられていたとしたら、住民のこの悲惨な事態が生じなかったことは疑いない。
そして、もう一つ重要な事実がある。それは、このサイパン戦の終了前後、この「集団自殺」をできる限り防ぎ、住民を助けようとしたのは、敵の米軍であったということだ。これは事実である。
実際、客観的事実として、米軍の収容所には救出された住民のすべてが収容された。これは、当時のサイパン在住日本人の半数以上にも及ぶのだ。
サイパンでの民間人のほとんどは、軍の適切な対応があれば救えた命であったのだ。
●チャモロ人もカロリニア人も戦争の犠牲者だったーススペに設置された島民たちの収容所
初期に設置された避難民収容所
ススペは、米軍上陸の最初の地点である。チャランカノア―ランディング・ビーチの間にあるサイパン第2の街だ。ここに、戦火を逃れた住民たちの収容所ができたのは、米軍上陸の数日後だったと伝えられている。当初、日本人とともに、軍の保護を求めて日本軍と行動をともにしていたチャモロ人などの先住民たちは、米軍が先住民を虐待するどころか歓待していることをうわさに聞くと、続々と南部のススペに向けて行動し始めたという。
戦局の悪化につれて、日本軍のチャモロ人などの先住民に対する悪感情(スパイ呼ばわり)も影響していたかもしれない。こうして、先住民を中心につくられた避難民収容所は、戦闘の終わりとともに急速に膨らんでいった。
(ススペの収容所)
洞窟やジャングルから出て
資料によると、戦闘終了直後の7月8日の収容者は、約8130人であったが、その後、収容者は続々と膨らんでいき、7月23日には約1万4千人、8月1日には約1万5千人を数え、このうち、半数以上が15歳以下の子どもだったという。
そして、収容者はその後も増え続け、1945年4月には、以下のようになっていた。
日本人1万3373人、チャモロ人2426人、カロリニア人810人、朝鮮人1365人、合計1万7974人。
収容者が時とともに増え続けたのは、言うまでもなく、米軍自体の啓蒙宣伝の結果だ。つまり、「鬼畜米英」の恐怖の宣伝に踊らされ、島内のジャングルや洞窟に潜んでいた日本の住民たちは、時とともにそのデマ宣伝に疑問を抱き、一歩ずつだが、収容所に足をを向け始めたのだ。
日本軍捕虜も
ところで、ここでは住民の収容者は、日本人とチャモロ人などは分けて収容されていたが、日本軍兵士の捕虜は、当然にも収容先は異なっていた。
当初、日本軍兵士たちの捕虜収容所は、チャランカノアに置かれており、一定の人数に達するとハワイに送られていた。
しかし、1944年12月になると、この日本軍捕虜たちも、キャンプ・ススペに設置された捕虜収容所に移されてきた。日本軍兵士らは、戦闘終了後、ジャングルや洞窟に潜んでいたり、場合によってはゲリラを続けていた者もいたが、時間の経過とともに投降は次第に増えていった。
1945年8月には、日本軍の収容捕虜は、600人を超えていたという。
収容者の手記
戦前、サイパンに渡り、あの悲惨なサイパン戦を体験し、戦闘終了後、避難民収容所に入れられた沖縄出身の松田カメさんという人がいる。
この貴重なおばあの体験記が、聞き書きとして出版されている(『沖縄の反戦ばあちゃん―松田カメ口述生活史』平松幸三編・刀水書房)。
「自由移民」として出稼ぎ
カメおばあは、1903年、中頭郡北谷村に9人きょうだいの2番目の長女として生まれた。きょうだいのうち、7人がサイパンなどの南洋群島に出稼ぎに行き、サイパンには、おばあの他に弟も行った。
戦前、南洋諸島に在住した日本人の3分2が沖縄人だったというから、その数は群を抜いている。そして、この南洋諸島での民間人の戦争犠牲者の過半数も沖縄人だった。
カメおばあのきょうだいたちも、サイパンへ出稼ぎに行ったこの弟を含めて、4人が戦争で亡くなったのだ。
カメおばあがサイパンに行くのは、1929年、「自由移民」としてである。おばあは当時26歳、すでに結婚していて、サイパンへは夫と一緒だった。移民の動機は、「亀甲墓を造る資金を稼ぐため」だったという。「自由移民」は、南洋興発などの募集移民ではなく、サイパンへ行ったからといって仕事が保証されているわけではない。
おばあは、サイパンへ着くと仕事を求めて、最初はテニアンに建設中の砂糖工場の食堂の賄い、また、サイパンに戻ってきてからは、豆腐屋から養豚まで、何でもやって必死に生きてきたという。
タポチョ山付近への避難
こうして、サイパンでの養豚を始めとした生活も軌道に乗ってきた1944年6月、サイパン戦が始まったのだ。
戦争の始まる前、「婦女子の内地送還命令」があったが、それは南洋興発や南洋庁の家族が中心で、おばあたちには何の連絡もなかったという。
戦闘が始まると、米軍の空襲は激烈をきわめ、ガラパン近郊にあったおばあの家も、粉々に吹っ飛び、破壊された家の跡地には、大きな爆弾の池ができたという。
危険を感じた住民たちは、軍とはまったく無関係に勝手に避難を始めたが、おばあたちもそうだった。
おばあと一緒に避難したのは、夫のほか近所の比嘉さん夫婦(沖縄・久米島出身)だった。4人はコメ1升を風呂敷に包み、カツオ節、それにナイフだけを持って避難した。まさに、着の身着のままだ。食料のあるうちは、コメは一握りぐらいを生ゴメで食べ、カツオ節はナイフで刻んで食べた。だが、すぐに食料は底をつき、自然に山に生えているパパイヤなどを拾って飢えをしのいだという。 当初、タポチョ山西側のファナガーナムというところに避難していたおばあたちも、日本軍の敗退とともに、次第に北へ北へと逃れていった。
4人の子どもを連れて
だが、激しい砲火の中で、一緒に避難していた比嘉さんの夫は、砲弾を腹部に受け即死、比嘉さん自身も片腕を切断するほどの重傷を負った。そして、おばあの夫もまた負傷してしまった。
次々に避難してくる住民たちも、激しい砲火の中で死亡する人々が続出し始めた。周辺には、泣き叫ぶ子どもたちがあふれていた。おばあは、そのうちの4人を一緒に連れていくことになり、さらに北部への逃避行を続ける。
ここまで危険を冒しても米軍に投降しなかったのは、やはり「アメリカーに捕らえられたら戦車で轢かれるー」などのうわさ話が流されていたからだ。
避難民たちの、この北部への逃避行で、マッピ―バナデロへと続く一本道は、まさに、縁日のようにごった返していたという。
このような、絶望的な行動の中で、おばあの周りでも「玉砕」「自決」する人々が出始めた。
しかし、なぜか、理由はわからないが、おばあたちが一緒に行動したグループには、「玉砕はするな、生きられる間は生きなさい」という命令が伝えられていたという。
米軍兵士に捕まる
あられのごとく降りそそぐ砲弾、そして、ひたひたと近づく米軍、ついに最後のときがきたと、おばあたち一行も観念した。何度も死のうと思ったという。「自決」寸前までいったときもあった。このときは、日本軍の兵隊さんに止められた。そして、ついに遭遇した米軍兵士たちに向かって、おばあたちは死ぬ覚悟(自決覚悟)で向かっていった。 だが、米軍兵士たちは、おばあたちを撃たなかったのだ。それどころか、米軍は、彼らを助け、丁寧に収容所に送った。
ススペの収容所生活
しかし、米軍の車に乗せられ、連れて行かれる途中も、おばあたちはいつ殺されるのか、ビクビクしていた。 連れて行かれたのは、ススペの海岸から少し入ったところで、最初はテント暮らしで砂の上に寝ていた。この年の9月ころからは、トタン屋根のついたキャンプが建てられ、各棟に50人が入れられた。
収容所の暮らしは、炊事当番や安い日当が出る労働もあった。食事は、日本軍の残した食料などもあり、相当豊かだったという。また、米軍は病気の夫や、ケガをしている比嘉さんなども、すぐに治療してくれた。
こうして、約1年半の間、収容所で暮らした生活も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。
敗戦の翌年1946年2月、おばあたちは、沖縄本島への引き揚げ船でサイパンを出発、沖縄本島中部にあった収容所に着いた。
だが、船から見た故郷沖縄も、サイパンと同様、家々のほとんどが戦争で焼きつくされていた。だから、沖縄に着いても行くところはなかった。
ここで約1年間生活し、ようやく故郷の北谷に帰ってきたが、やっと辿り着いたおばあたちの土地は、すでに米軍に接収され、基地となっていた。
戦後、南洋諸島から引き揚げてきた日本人は、6万1528人、そのうち沖縄人は3万3075人、外地からは全体で、約7万6980人の沖縄人が引き揚げてきたという。サイパンからの引き揚げは、沖縄人だけで約1万人とも言われる(サイパン戦での民間人の死者約1万人のうち、約6千人が沖縄人)。
つまり、戦前の沖縄は、南洋諸島を含む外地へ出稼ぎ・移民を行うことなしには生活できなかったということである。
きょうだいたち4人の死
サイパンは、地獄のような戦場だったが沖縄もそれ以上の地獄の戦場だった。
サイパンと同様、日米両軍の壮絶な地上戦が行われた沖縄では、膨大な住民が戦争に巻き込まれて死んだ(一般住民約9万4千人ほか、即製動員沖縄人兵士約3万人の死者。また強制連行された朝鮮半島の人々約1万人が死亡。日本軍の戦死者は約6万5千人)。
そして、サイパンと同じ、ここでも「玉砕」と「自決」が繰り返された。
このようにして、故郷に帰ってきたおばあを待ちかまえていたのは、荒れ果てた沖縄の山河であり、戦争で母が亡くなったという知らせであった。米軍上陸後、北部のヤンバルへ逃れていったおばあの母は、避難途中、病死したという。
おばあにとって、辛かったのは母の死だけではなかった。その後次々に届く、きょうだいたちの死がそれに輪をかけた。9人きょうだいのうち、2人の妹を除く7人が南洋諸島に移民し、次男、三男、四男、六男が還らなかった。また、おばあと別個にサイパンに行った四男は、現地で農業をして暮らしていたが、サイパン戦終了後の7月13日、死亡していたという。
こうした体験からカメおばあは、沖縄を昔のように平和の島にしてもらいたい、戦争は二度と起こしてほしくない、と訴え、戦後沖縄での平和運動の先頭に立ったのだ(1995年死去、享年91歳)。
(タナパグ海岸で玉砕した日本の将兵と住民4311人)
●戦闘後のサイパンは本土空襲の拠点になったーアスリート飛行場の米軍とB29
本土爆撃の開始
日本軍の制海権・制空権の喪失にともない、米軍の日本本土爆撃が始まったのは、1944年6月16日、中国大陸から発進したB29によってであった。この米軍の戦略爆撃機は、北九州の工業地帯に来襲し、いよいよ本土空襲の切迫を国民にも知らしめることになった。
しかし、この中国大陸からの本土空襲は、まだ米軍による牽制・威嚇でしかなかった。サイパンが陥落していない状況では、未だ日本本土に到達する航空基地を米軍は持っていなかったからだ。
だが、サイパンが陥落した今、米軍の本土空襲は現実的となった。このため、大本営は、硫黄島などからの何度かの米軍サイパン基地への航空攻撃を試みたが、いずれもそれは失敗に終わった。
テニアン・サイパンの基地
サイパンの陥落、そして、次に述べるテニアンの陥落後も含めて、その米軍の飛行場はフル稼働した。
米軍占領後のアスリート飛行場は、アイズリーフィールドと呼ばれ、2550メートルの滑走路2本をもつ巨大飛行場となった。ここから「超空の要塞」と言われたB29が、日本へ出撃した(B29の航続距離は、最大積載時5230キロ。サイパン~東京は約2400キロ)。
このB29は44年11月1日、初めて東京を偵察飛行した。そして、同年11月24日、ついにB29約80機の大編隊による本土空襲が始まった。
その目標は、東京西部の中島飛行機製作所であった。中島飛行機は、当時、世界有数の飛行機産業であり、その各地の工場は米軍の戦略爆撃の最大目標であった。
こうして、サイパンを始めとするマリアナ諸島の航空基地を占領した米軍の本土空襲は、日常化していく。まさに、日本全土が大空襲に見舞われ、焦土と化していくのだ。
この後、アイズリーフィールド飛行場からのB29の出撃は、戦争終結まで9894回に及び、約5万トンの爆弾を日本本土を中心に落としたのである。
この米軍の無差別都市爆撃は、日本軍の重慶爆撃などを含めてだが、絶対に許されない「人道への罪」であることを明記しておかねばならない。
その結末が、次に述べるテニアンからのヒロシマ―ナガサキへのB29の原爆投下であった(このアイズリーフィールド飛行場は、1949年に閉鎖された。その後、1975年に現在のサイパン国際空港が開港した)。
(テニアンのノースフィールドに掘られた原爆ビッド跡、ここからヒロシマ・ナガサキにB‐29が出撃)
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陸から海へにらみ石垣島など駐屯地新設で注目の「地対艦誘導弾」どんな装備? trafficnews.jp/post/81979 この内容は大きな間違い。南西諸島で自衛隊基地が「最初に建設されるのが石垣島」ではなくすでに宮古島・奄美大島で… twitter.com/i/web/status/1…
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こういうデタラメを書く人が「軍事ジャーナリスト」か。宮古島・奄美大島で南西シフト態勢下、2016~2017年から自衛隊基地建設が進行していることさえ知らない。この本のプロローグには写真入りで建設現場が掲載ー『自衛隊の南西シフト―戦… twitter.com/i/web/status/1…
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@kimatype75 @YahooNewsTopics 奄美大島の自衛隊基地建設現場(奄美市大熊地区)。さらにもう一箇所、瀬戸内町節子地区有り。 pic.twitter.com/CYCCNMkj43
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@kimatype75 @YahooNewsTopics 奄美大島の自衛隊建設現場、瀬戸内町節子地区(地対艦ミサイル部隊+警備部隊) pic.twitter.com/gDoWUkb8OD
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Yahoo!ニュースさん、先島―南西諸島問題で誤りを指摘したら2度も削除ですか! blog.goo.ne.jp/shakai0427/e/d… @shakai_konishiさんから
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月23日 - 14:15
Yahoo!ニュースといえば、ウェブメディア、ニュースサイトの中でも、1、2を誇るネットサイトだ。
この記事の11月10日発行のものに、重大な誤りがあった。軍事フォトジャーナリスト・菊池雅之氏の「陸から海へにらみ 石垣島など駐屯地新設で注目の「地対艦誘導弾」、どんな装備?」という記事だ。それは以下のように記述する。
(写真は、同記事掲載の地対艦ミサイル)
「2016年3月、与那国島に駐屯地を開設、そこに沿岸監視隊を置きました。この部隊の任務は、洋上を行く艦船を偵察、監視することです。引き続き、石垣島、宮古島、奄美大島にも駐屯地を建設する計画を打ち出しました。このなかで最初に建設されるのが石垣島となったのです。尖閣諸島から約110kmしか離れていないことを考えれば、最初にこの島が選ばれたのは当然といえます。ほかの島々に関しても、2019年内に動きがあると思われます。」
一読して、現地の人々はもとより、関係者はこの記事の重大な誤りに気付くだろう。
この記事が言う、先島―南西諸島の自衛隊基地で「最初に建設されるのが石垣島」というのは、完全な、重大な誤りだ(みっともないぐらいの)。すでに、2016~2017年から、奄美大島・宮古島では、自衛隊基地の建設が、急ピッチで進行しており、両基地とも2019年3月には開設まで予定されている(写真参照)。
そして、記事で書かれている、来年2月の「石垣島着工」は、先島―南西諸島の自衛隊基地建設の、まさに「最後」ともいえる着工なのだ。もっとも、種子島ー馬毛島など、他の島々においても自衛隊基地が予定されているから、南西諸島の基地建設の最後とは言えない。
(宮古島駐屯地の工事現場)
こんな、自衛隊の先島―南西諸島基地建設に関する、南西シフト態勢に関する、重大な記述の誤りは信じがたいが、問題は、この大きな誤りの訂正を指摘した記事の「コメント」の記述を、二度も削除する、ということが起こったのだ。
この「削除=検閲」を行ったヤフーは、ニュースサイト=言論機関としての役割を、放棄したに等しいといわねばならない。
現在では、多くの人々が、ウェブメディアから流されるニュースを見ているし、ある意味では、既存の紙媒体のメディアよりも影響力が大きい場合がある。
かつて、DeNA社が運営するすべてのキュレーションメディアが、「信頼性の薄い情報を流布した」し、「無断引用」「ほぼ盗作」「パクリ」「著作権侵害」として、「メディアの存在自体を揺がす取り返しのつかない致命的な問題」として「非公開」になった事件があった。https://ironna.jp/article/4752?p=1
ヤフーニュースも、読者の批判に意見を傾けず、読者のささやかなコメントまでも削除するようでは、「フェィク・ニュース」になりかねない、といわねばならない。
そして、軍事フォトジャーナリスト・菊池雅之氏、あなたは、こんなデマ記事を書き、それを修正しないようでは、ジャーナリストを語る資格はない。
あなたが「自衛隊賛美」の記事を書いている「御用ジャーナリスト」であることを、ここで問うているのではない。「事実」の大きな誤りを指摘し、訂正を求めているのである。
それにしても、自衛隊の先島―南西諸島配備について、マスメディアが報道規制すると、ここまでの「とんでも事実⁉」が一人歩きすることになるのか。マスメディアの関係者にも、深刻な反省を促したい、と思う(この記事の読者コメントには、数十の書き込みがある)。
*なお、この記事の先島―南西諸島配備のミサイル部隊についても、幾つかの重大な誤りが散見されるが、ここでは、一つだけ指摘しておきたい。記事中の、奄美大島・宮古島に配備される地対艦ミサイル中隊は、熊本の第5ミサイル連隊ではない。この予定されているのは、第4ミサイル連隊(八戸)であり、この部隊から抽出された、2018年3月創設の西部方面隊直属(平時第8師団隷属)の西部方面特科連隊隷下、第301ミサイル中隊が、奄美大島に配備されると推測されている。
*菊池雅之 ツィッター、@kimatype75 から
軍事フォトジャーナリスト。講談社フライデー編集部を経てフリーに。危機管理をテーマに警察や海保、消防も取材。現在アニメや漫画の監修等もしており、「東京マグニチュード8.0」や「ヱヴァンゲリヲン」「亡国のイージス」などをお手伝い。主な著書「陸自男子」「試練と感動の遠洋航海」「がんばれ女性自衛官」「特殊部隊の秘密」など
警備隊発足へ作業急ピッチ 宮古島陸自配備 着工1年 強まる「南西シフト」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース ryukyushimpo.jp/news/entry-836…
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月20日 - 11:31
拙著『反戦自衛官』ほか、50数点を検閲し隠蔽していた山口県立図書館(1973年)―「図書館戦争」はすでに始まっていた! goo.gl/MyZjXz
— 小西誠(社会批評社) (@shakai_konishi) 2018年11月19日 - 14:48
Facebookでの鄭玹汀さんが紹介している、国会図書館に掲げられた「真理がわれらを自由にする」という言葉と理念に関して少し調べていたら、重大な問題を発見することになった。図書館関係者には周知の事実のようだが、なんと、1973年にあの安倍の地元の山口県立図書館が、ボクの『反戦自衛官』ほか50数冊を「禁書」にして、隠していたというのだ。しかも、県立図書館の管理職の課長が自ら、「好ましくない本」としてだ。
(Facebook掲載の鄭玹汀さんからの引用)
この経過は、『「自由宣言」と図書館活動』馬場俊明著に詳しく書かれているが、図書館の管理職ぐるみで「特定の政党や宗教などに偏った書籍を開架式に置くのは、好ましくないとかねがかね考えていた。移転開館を機会に、図書館の中立性を欠いたり、公序良俗に反することをモノサシに抜き出した(隠して保管)」という。
(同書77頁、https://books.google.co.jp/books?id=rj1xDgAAQBAJ&pg=PA77&lpg=PA77&dq=%E5%8F%8D%E6%88%A6%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98&source=bl&ots=myM7cKoQGT&sig=CLjhHLzlwc8LTGvVvVpZ5yewg-0&hl=ja&sa=X#v=onepage&q=%E5%8F%8D%E6%88%A6%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98&f=false )
ところで、「図書館の自由に関する宣言」(日本図書館協会)という文を、ボクは恥ずかしながら初めて読んだが、ここには素晴らしい、戦後の民主主義の全盛期とも言える内容が謳われている。
「図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。」
「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。図書館の自由の状況は、一国の民主主義の進展をはかる重要な指標である。図書館の自由が侵されようとするとき、われわれ図書館にかかわるものは、その侵害を排除する行動を起こす。このためには、図書館の民主的な運営と図書館員の連帯の強化を欠かすことができない。」http://www.jla.or.jp/Default.aspx?TabId=232
最近は、民営化や予算の節約などで、図書館自体が変質を余儀なくされている中で、この「宣言」を再確認することは重要ではないだろうか。
そして、冒頭に述べた国会図書館である。
1948年に起案された国立国会図書館法の「前文」には、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」と記されている。
Facebookの鄭玹汀さんのタイムラインで話題になったのは、この国会図書館に高々と掲げられている「真理がわれらを自由にする」という理念の意義についてであった。
この国会図書館内に掲げられた理念は、国会図書館法の法案の起案に参画し、参議院図書館運営委員長であった羽仁五郎氏が、ドイツ留学中にフライブルグ大学図書館で目にした銘文をもとに、掲示されたという。
羽仁五郎といっても、もはや古い世代の人々しか知らないことになるが、歴史家であり、かつ実践者でもあった。戦前は戦争に反対し治安維持法で逮捕・投獄され、戦後は参議院議員として希代の悪法、破防法に反対し、1970年には、当時のマスメディアが矮小批判を繰り返す、全共闘・反戦青年委員会ー新左翼を全面支持し、ともに闘った戦後のホンモノの「識者」「知識人」のひとりである。
つまり、このような国会図書館の理念、全国の図書館の「図書館の自由に関する宣言」などは、戦後の民主主義―知る権利、表現の自由、出版の自由、検閲禁止などとともに、「平和に寄与する」という高い理念のもとに創られたということだ。
しかし、今や、安倍政権の改憲策動、自衛隊の南西シフト態勢を媒介とする、「島嶼戦争」=対中抑止戦略=新冷戦の始まり、という歴史的転換がおとずれており、これらの戦後民主主義の諸権利の剥奪が始まることは疑いないだろう。これにいかに対峙するのかが問われているのだ。
https://books.google.co.jp/books?id=rj1xDgAAQBAJ&pg=PA77&lpg=PA77&dq=%E5%8F%8D%E6%88%A6%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98&source=bl&ots=myM7cKoQGT&sig=CLjhHLzlwc8LTGvVvVpZ5yewg-0&hl=ja&sa=X#v=onepage&q=%E5%8F%8D%E6%88%A6%E8%87%AA%E8%A1%9B%E5%AE%98&f=false
*ボクと羽仁五郎さん
歴史家・羽仁さんの著書と言えば『都市の論理』『ミケルアンヂェロ』などが知られているが、ボクが感銘したのは羽仁さんの『現代とは何か』という著作だった。そこにはこう書かれていた。
「戦後日本が民主主義社会であるということなら、自衛隊隊内から自衛官が反戦を唱えて出てきてもおかしくない」
――このたった一言が、ボクの最後の背中を押すことになった。自衛隊法の様々な処罰が待ち構える中で、「決起」を躊躇していたボクは、羽仁さんのこの一つの言葉で、勇気をもらったのだ。以来、10年以上にわたるボクの刑事裁判、27年にわたる行政裁判(懲戒免職の取り消し)などの、いくつかの反戦自衛官裁判の、最大の支持者・支援者として羽仁さんには、とてもお世話になった。
しかも、1972年の、現職自衛官5人を含む決起については、その彼ら自衛官たちの「10項目要求」にご意見をいただいたのだ。羽仁さんは、その前にどこかで、西ドイツの将校団の「10項目要求」のことを書かれていたが、その原文を教えていただくために、お住まいの逗子市の「羽仁邸」に通った。こうして、羽仁さんは、亡くなるまで、私たち、反戦自衛官たちの同志であった!
*『反戦自衛官―権力をゆるがす青年空曹の造反』(復刻増補版)の「試し読み」ができます。
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