世俗的な心配から霊的な期待まで
マタイによる福音書 6:25 新共同訳
[25] 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
何を食べるか考えたり、何を着るか心配したりするのにどのくらいの時間を費やしますか?あなたは十分であること、または十分であることに執着していますか?
数週間先の食事の計画を立てたり、年間予算を立てたりするのは悪いことではありませんが、心配しても役に立たないとイエスは説明します。
「だから私はあなたたちに言います。自分の人生や何を食べるか、何を飲むかについて心配する必要はありません。または自分の体について、何を着るかについて。命は食べ物以上のものであり、身体は衣服以上のものではないでしょうか?」
マタイ 6:25 NIV
イエスは、自分の基本的なニーズについて考えるなとは決して言いませんでした。彼は彼らのことは心配しないでくださいと言いました。
神はあなたが何をする前にあなたに何が必要かを知っています。神はあなたが祈る前からあなたの祈りを知っています。
自分の肉体的なニーズを認識すると、自分の精神的なニーズ、つまり究極の提供者を信頼するよう促すことを思い出させることができます。
同じ章の後半で、イエスは弟子たちに、神が鳥や花を養うなら、それ以上に神の民を養ってくださるだろうと思い出させます。さらに、「しかし、まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてあなたにも与えられるでしょう」(マタイ 6:33)と付け加えられました。
ですから、まず主を探しましょう。この待降節の季節に、神が備えてくださることを信頼しながら、私たちに託された働きについて思いを巡らせてください。そして、世俗的な心配事に一秒も無駄にしないようにしましょう。
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