たろうくん(太郎)のつぶやき

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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」因縁(2)

2016-06-16 09:35:05 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」 因縁−⑵

慈根寺(じごじ)の本堂跡で18歳まで暮らした、家の材木は高尾にあった中島飛行機で調達したらしい。どの様にして運んだのか、判らない。クレーンを運転出来たらしいから、一時其処で働き手に入れたのかもしれない。私は大工仕事が苦手であるが、父は器用なようで縁側を足したりした。豆腐屋をする為に、市から当時のお金で1万円を借りた。竃や、豆腐の道具、窓等も作った。縁側を作るのを前の神主さんが、関心しながら眺めていた記憶がある。大きな台風が来ると父と二人で、戸を押さえたりして、台風が通り過ぎるのを待った。隙間から、猛烈な風が吹き荒れるのを何度も経験した。近くの人が、よく飛ばされなかったものだと感心せていたらしい。太い8番線を屋根に幾つも懸けていた。18年後に引っ越す頃は痛みが酷かった、トイレの床や、畳も落ちそうだった。その度に、木を切って来て治していた。トイレの糞を畑に埋めていた、姉も汲んでいた姿を覚えている。今から考えると、大切な聖地を汚していたのである。私も中学の頃になると痛んだ所を、板で修理もした。家を壊すのは半日で終わった、立っていた木の柱を蹴飛ばしたら、父に怒られた。残骸は火を点けて燃やした、トタンが焼け残っただけだった。
父の仕事はシャッター屋であったが、此処ではシャッターの仕事が出来なかった。板橋の「金物商会」で仕事をしていたと言う、仕事は出来たらしく、朝鮮に行き、懐にピストルをいてれいたと聞いた事がある。祖父の石太郎が父と板橋か王子で豆腐屋をしていたそうで、父も元八王子村で豆腐屋を始めた。何時からなのか分からないが、市から当時のお金で1万円を借りた。母と石臼を回していた、小学校の一年の時に、校舎の外を岡持ちを担ぎ歩く姿を覚えている。大豆を農家から借りて豆腐を作った、しかし、井戸水は谷から流れ込んでいた。其の谷には、昔から村の墓地が有り「死に水を使っている」と陰口を言われたらしい。
一家は父のニコヨン(254円)の仕事で暮らしていた、現場監督になって欲しいと頼まれても断っていた。アブレの日には各地の競輪に出かけていた、賭け事は若い頃から好きで、その上に女好きであった。今日は「327」に仕事だと自転車で出かけた事があったが、其処が何処かもう判らない。その時の仲間が「宮田勝」さんでした、それから父は日本共産党に票を入れていたのです。従姉に最近聞いたのですが、父の兄も日本共産党に票を入れていたそうです。反面教師の父であったが、そんな父が今は許せる。顔付きと声も似てきたと妻が言うのである。



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