エッセイ「じぃちゃんの人間革命」 因縁−⑶
中学を出て、姉と私が働くまで貧困生活で、生活保護も受けていました。昼の高校へ行きたかったですが、無理でした。布団の中で泣きました、成績は悪くなかったのです。
40坪の畑を前の神主さんにお借りしていた、野菜はそれでなんとか買わずに済んだのです。電気も父が引き、風呂はドラム缶、薪は山で集めました、飲み水は慈根寺(じごじ)の古い井戸がありました。近所で井戸の無い人も汲みに来ていました。ジャガイモが特によくでき、美味しかったです。新聞も、ラジオもあったのですが、電気を停められてランプで寝た夜もあります。
ある日、母が苦しい生活から逃れる為にと佼成会に入信したのです。其の日の夕飯がスイトンでした。「こんな物を食わせやがって」お前のせいだと、父が大声を出したのです。母は私たち子供の為に祈り続けました、あの日の祈りがあったから現在の生活に繋がっていると思のです。一時、父も「フミョウカイ」という宗教に入り何処かへ、祈り歩いていたらしいです。
高速道路に家が架かると決まり、父は家を広げた、「清水さんはそんな事をする人だったのか」という人が、いた様です。「背に腹はかえられぬ」と父も思ったのかも知れません。其のお金を持って初沢町へと引っ越しました、10年程住んだと思います。元八王子町からバイクで南多摩高校の定時制に通い、4年生の頃から電車通学に代わりました。夜学でしたから昼間働きました、巷の発明家「北澤金重」さんとの出逢いは父の縁でした。長崎誠三先生や熱分析装置の仕事をしていた人たちとも定時制を卒業するまで、仕事をさせて頂きました。「赤旗にはいい事が書いてあるぞ」と言っていたのが、後に「真空理工」の社長になられた前園明一さんでした。
定時制の一年に野球部入り、2年になると社研部に代わりました。此処なら歴史の事が出来ると思ったからです、先生と国会へ「日韓条約反対」のデモに行ったのもこの頃です。
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中学を出て、姉と私が働くまで貧困生活で、生活保護も受けていました。昼の高校へ行きたかったですが、無理でした。布団の中で泣きました、成績は悪くなかったのです。
40坪の畑を前の神主さんにお借りしていた、野菜はそれでなんとか買わずに済んだのです。電気も父が引き、風呂はドラム缶、薪は山で集めました、飲み水は慈根寺(じごじ)の古い井戸がありました。近所で井戸の無い人も汲みに来ていました。ジャガイモが特によくでき、美味しかったです。新聞も、ラジオもあったのですが、電気を停められてランプで寝た夜もあります。
ある日、母が苦しい生活から逃れる為にと佼成会に入信したのです。其の日の夕飯がスイトンでした。「こんな物を食わせやがって」お前のせいだと、父が大声を出したのです。母は私たち子供の為に祈り続けました、あの日の祈りがあったから現在の生活に繋がっていると思のです。一時、父も「フミョウカイ」という宗教に入り何処かへ、祈り歩いていたらしいです。
高速道路に家が架かると決まり、父は家を広げた、「清水さんはそんな事をする人だったのか」という人が、いた様です。「背に腹はかえられぬ」と父も思ったのかも知れません。其のお金を持って初沢町へと引っ越しました、10年程住んだと思います。元八王子町からバイクで南多摩高校の定時制に通い、4年生の頃から電車通学に代わりました。夜学でしたから昼間働きました、巷の発明家「北澤金重」さんとの出逢いは父の縁でした。長崎誠三先生や熱分析装置の仕事をしていた人たちとも定時制を卒業するまで、仕事をさせて頂きました。「赤旗にはいい事が書いてあるぞ」と言っていたのが、後に「真空理工」の社長になられた前園明一さんでした。
定時制の一年に野球部入り、2年になると社研部に代わりました。此処なら歴史の事が出来ると思ったからです、先生と国会へ「日韓条約反対」のデモに行ったのもこの頃です。
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