たろうくん(太郎)のつぶやき

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エッセイ「じいちゃんの人間革命」降臨ー⑴

2016-06-24 11:58:58 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」降臨ー⑴

4月の八幡神社の祭礼に行き、母の祖父が産まれた家に寄ると、「未だ、出来ないのか?」とよく言われた、洋子さんには辛い言葉だったと思います。色々な出来事があった私ですが、「立川駅で、赤子をオンブしている」夢を見たのです。12月の或る日、洋子さんは「風邪かなぁ」と医院に出かけました、妊娠を告げられてのです。母は嬉しくて、男の子用のベビー服を買ってきたのです。洋子さんは女の子でも良いような服と取り換えて来ました、私も男の子だろうと思ってました。
10年目にして娘が、産まれたのです。北里大学病院での、帝王切開でした。キャスターのついた金の箱で運ばれて来ました、義母が覗き込んで「顔がとても、赤い子だね」と笑いながら言ったのです。義母には3人の娘がいて、最後にやっと女の子です。西新井から、嬉しそうに月に一度は、必ず来てくれました。
洋子さんと結婚してから、孤独性は消え、娘が生まれてた嬉しさは表現できいない程です。仕事から帰ると「おとうさんぁーん」と泣きながら、脚にしがみ付くのです。元気な時は部屋の中をアラレちゃん音頭を「めちゃんこ、めちゃんこ」と歌いながら廻ってました。七五三の時に、それをビデオに撮りました。そのビデオには母の声が残っています。お宮参りをしたのも日枝神社でした。テレビで放送している、女の子向けの番組のキャラクターが欲しいと言えば、何度もお店に足を運びました。隣が小学校でした、休みの土曜日には、門から入り、帰るのを待っていました。赤いランドセルを受け取り、100メートルに満たない、家までの道を後から付いて帰ってました。
小学校の高学年の時だったと思います、近くの文房具屋の帰り道に「おとうさん、オンブして」と言われ、家の側まで帰りました。その時の、背中の感触と、重さを今も忘れられません。
幼い娘が育つ頃は、安田生命立川支社に運転手として、会社で初めて私が派遣された頃と重なります。保険の仕事を、運転手の立場から見ていました。おばちゃん達の職場です、事務員さんも女性でした。男性は多摩地区の営業所長か支社の営業部長です。保険業界の最盛期でした、保険の獲得競争を盛り上げるイベントがありました。音楽をしていた男性スタッフが、即席のバンドを組み演奏をする大会に、娘を連れて行った事もあります。かなり良い給与も貰えました。三人の支社長に仕えました、最初の支社長は八王子にお住いの真面目で、どちらと言えば話が得意でない方でした。渉外課長と多摩地区の企業を訪問し、お昼に安くて美味しいお店見つけて食べ歩きました。新人の慣れない、おばちゃん達に何処へ書類を提出するのか等を教えていたので、長身で美人の事務員さんと机を並べていたのです。時々お昼を食べに行った事もあります、二人目の支社長に交代し机を変えられてしまいました。母方の姓と同じ事務員さんが、大好きでした。毎日会えるのが励みで、仕事ぶりを後ろから眺めていたのです、営業所から本社に移られましたのです。何度かお昼を御一緒しました、今でも年賀状のやり取りをしています。(次の世ではこの人と暮らせたらなぁ〜)
支社に配置された営業所長が、成績を上げて認められ、支社の営業部長になる。其処で成績を上げると支社長に昇格する。新入社員は補助なのです。支社長からその上に昇るには、役員やその上の人の「引き」なのです。最初の支社長は、常務になったようです。「ヤクザの盃を貰うつもりだった」「女房と別れて、水商売のママと一緒になる寸前まで行った」「セックスは旨いぞ」等と話してくれました。支社長室で大声を上げて、スタッフに「吠える」人でした、佼成会から来ている人と仕事をしているスタッフが「また、吠えるてる」と言ってしまいました、今ならパワハラとも言えるのでしょう。週末には、我孫子の自宅迄送ったりもしました。栄転して支社を去る時に「2万円」も頂きました。顔色が「ドス黒」けれど大丈夫なのかと或るスタッフが言ってました。
歌舞伎町や銀座にも行きました。職安通りで「夜の女人が客引きをする」光景を待機中の車から見ていた事もあります。
保険会社は勝ち組の世界なのです、其れを支えるスタッフの一人が庶務課長です。6年の間、私を温かい目で見ていただきました。お子さんを亡くし、奥様が「鬱」成られていたのです。組合の書記長を経験した人が、営業部長として来られたのです、クセのない、親切な人でした。若い営業員さんの中には、「惚れ惚れする」ような女性もいます。営業部長には、お子さんがいませんでした。二人は「不倫関係」になり、部長は左遷されました。営業員さんは、辞めたようです。
三人目の支社長は、商売が上手な関西人でした。私を替えたかったようです。安田生命が自社で運転手の会社を作り、運営することになりました。引き抜きは私の会社が「ノー」でした、仕方なく辞めました。或る日「俺の子供は、中学の頃になるとグレたり、おかしくなるんだよ、俺もそうだった」と車を運転中に話しかけられたのです。カミナリ族をしていたそうですが、先祖が「最後の仇討ち」をしたのだと言いました。その時に「槍で歯向かって来た少年を、殺めた」そうです。



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