エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑶
初沢町の借家は、高乗寺のすぐ側に有りました。住職さんが、小学校の先生だったのです。寺の土地借りて家を建てようと考えましたが、しませんでした。姉は此処から嫁に行き、妹がまだいましたが、洋子さんと結婚生活を始めました。38歳の時です、1年後に、アパートが当たりました。都営の長房町と市営の大和田町のの二つです、母が障害者の3級を持っていたからです。長房町のアパートは、今の娘たちと住んでいる近くです。大和田町のアパートを見に行くと、間取りがとても良かったのです。妹は、籍を姉の所に仮に移し住みました。半年くらいいたと思います、初沢町にいた時の近くの人の紹介で、市営のアパートの人と結婚して済む事になりました。
大和田のアパートでは、父と母が一緒です。2棟有りました、同時入居でした、親と同居の家族は居ませんでした。住むと年代が近いので、親しい交流が出来たのです、素晴らしい団地でした。父と母はこの番地の集会所で旅立ちました、多くの人々に見送られました。
移って暫くして、洋子さんの腹が大きくなっきたのです。北里大学病院に行くと、卵巣嚢腫でした。この病院で、2番目の大きさでした。後に、双膈子宮もあったので手術しました。片方の腎臓が無かったのが、判ったのは数年前の事です。不妊なので、精子を採り、受精もして見ました。私の精子も少し元気がないようでした、体位を工夫して、交わってましたが、10年も子に恵まれませんでした。
母方の志村の墓は、母が建てたものでした。兄がいましたが、何故、母が建てたのか分かりません。子供の頃から、お墓参りしていましたが、母の建てた墓石以外は、印に石を数個?置いてあるだけでした。私は河原から、形の良い石を運び置きました。知らなかったのです、してはいけない事だったのです。
自分の占いは色々して見ました、その中に墓相もあったのです。カロトは作らない方が良いと、本には書いてあるのですが、狭い墓所では仕方がないのです。底を半分開けて、土が見え、雨水が抜けるようにしたのです。2段の納骨棚にしました、墓誌と刻む処を、墓碑に変えました。長細かった墓所も小さくして、御影石で囲いました。この時に、墓碑をセメントで固めずに、差し込むようにしたのですが、数年前から墓所が沈み?傾いたのでセメントで固めるように、石屋さんにお願いしました。石屋さんは曽祖父の妻(ヨシ)の実家でした。この志村家の墓地を私が受け継ぎ、父と母、おじ夫婦を葬りました。おじ夫婦は、父と母の兄弟同士だったのです。跡を継ぐべきの伯父の後妻も、一緒です。母が作った墓石に刻んでない人たちの戒名も彫りました、カロトは私と妻が入る分だけ残っています。
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初沢町の借家は、高乗寺のすぐ側に有りました。住職さんが、小学校の先生だったのです。寺の土地借りて家を建てようと考えましたが、しませんでした。姉は此処から嫁に行き、妹がまだいましたが、洋子さんと結婚生活を始めました。38歳の時です、1年後に、アパートが当たりました。都営の長房町と市営の大和田町のの二つです、母が障害者の3級を持っていたからです。長房町のアパートは、今の娘たちと住んでいる近くです。大和田町のアパートを見に行くと、間取りがとても良かったのです。妹は、籍を姉の所に仮に移し住みました。半年くらいいたと思います、初沢町にいた時の近くの人の紹介で、市営のアパートの人と結婚して済む事になりました。
大和田のアパートでは、父と母が一緒です。2棟有りました、同時入居でした、親と同居の家族は居ませんでした。住むと年代が近いので、親しい交流が出来たのです、素晴らしい団地でした。父と母はこの番地の集会所で旅立ちました、多くの人々に見送られました。
移って暫くして、洋子さんの腹が大きくなっきたのです。北里大学病院に行くと、卵巣嚢腫でした。この病院で、2番目の大きさでした。後に、双膈子宮もあったので手術しました。片方の腎臓が無かったのが、判ったのは数年前の事です。不妊なので、精子を採り、受精もして見ました。私の精子も少し元気がないようでした、体位を工夫して、交わってましたが、10年も子に恵まれませんでした。
母方の志村の墓は、母が建てたものでした。兄がいましたが、何故、母が建てたのか分かりません。子供の頃から、お墓参りしていましたが、母の建てた墓石以外は、印に石を数個?置いてあるだけでした。私は河原から、形の良い石を運び置きました。知らなかったのです、してはいけない事だったのです。
自分の占いは色々して見ました、その中に墓相もあったのです。カロトは作らない方が良いと、本には書いてあるのですが、狭い墓所では仕方がないのです。底を半分開けて、土が見え、雨水が抜けるようにしたのです。2段の納骨棚にしました、墓誌と刻む処を、墓碑に変えました。長細かった墓所も小さくして、御影石で囲いました。この時に、墓碑をセメントで固めずに、差し込むようにしたのですが、数年前から墓所が沈み?傾いたのでセメントで固めるように、石屋さんにお願いしました。石屋さんは曽祖父の妻(ヨシ)の実家でした。この志村家の墓地を私が受け継ぎ、父と母、おじ夫婦を葬りました。おじ夫婦は、父と母の兄弟同士だったのです。跡を継ぐべきの伯父の後妻も、一緒です。母が作った墓石に刻んでない人たちの戒名も彫りました、カロトは私と妻が入る分だけ残っています。
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