たろうくん(太郎)のつぶやき

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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」因縁ー⑷

2016-06-18 08:05:02 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」因縁ー⑷

学校では先生に恵まれていたのだと思います、小学校5年生の時の担任であった「須田忠治」先生はすぐ側に元気でお住まいです。6年生まで教わります、綴方で詩を教えて下さいました。中学時代には「理科部」でした、「田中徳松」「松井夙」「関田照男」先生に出逢えたのが嬉しいです。定時制では「石井真之介」先生がおられたのですが、板碑の研究者では著名な「縣敏夫」先生と出逢うまで「英語の発音が悪い先生だなぁ」と思う位でした。5歳上の恋心を抱いていた化学の「越川悦子」先生どうしていますかねぇ、担任は「松村けいじ」先生で山へ連れて行って頂きました。
2年生から3年まで生徒会長をしてました、まさか失業式で表彰されるとは思いませんでした。中学校の時に書記もしていました。
娘は高校で副会長になりましたが、「ホー」と思いました。マックの仲間から「会長」「会長」と呼ばれていたのです。マックのバイトを大学卒業まで続け、男の子たちを顎で使っていたみたいです。マックの接客術を覚え、資生堂のBCになれました。この時の経験が、今も役に立っているようです。「西海賢治」先生は民俗学の博士号をお持ちです、娘の大学の先生でした。「縣敏夫」先生とも知り合いでした、その関係で大学へお邪魔して、お話させて頂きました。大学の図書館を使わせてい頂きましたが、その蔵書の多くが先生の集められた本のようです。運転手の派遣会社の人たちから「博士」と呼ばれていましたが、こそばゆいやら苦笑いでした。
私は孤独性で、足がデカイ、背の大きい、少年でした。お金が欲しかったのです、中学の2年の春休みに霊園でバイトをしました。図体はデカくても子供でした、その結果、腎炎になり3ヶ月の入院でした。3年の時は勉強が出来ませんでした、その為に定時制高校も1年遅れだったのです。洋子さんと結婚する時に、お姉さんが「大丈夫?」と心配する程顔色が悪かったのです。
赤子の時にひじろに落ちて、頭に火傷を負いました。腎炎で入院した時に、整形手術をしたのですが、失敗でした。南多摩病院です、後に孫のはるとくんがここにお世話になりとは思いもよりませんでした。何でも思い道理に、自分勝手な人間にならない様にと、神さまが戒めの印を付けたのだろうと、今は思えます。


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