たろうくん(太郎)のつぶやき

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ナス

2016-06-26 08:25:25 | 日記
おはようございます。ナスの出来が良いです!初物は仏壇にあげました、そのナスは私の体の中へ!ご先祖さまも美味しかったかな?

世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!
#日本#東京#八王子#慈根寺(じごじ)の里#反原発#反戦#Facebook #Twitter #Tumblr
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世界中の子供たちに反原発反戦で笑顔を!日本国八王子市慈根寺(じごじ)の里の70歳の老人が2人目の孫たちの未来の幸せのために反原発反戦を訴えます!
Children around the world to smile at anti-nuclear anti-war! Village of 70-year-old old man of Japanese Hachioji jigojitemple (Jigoji) is complained of anti-nuclear war for the sake of happiness of the future of the 2nd of grandchildren!

ミニトマト

2016-06-25 08:26:18 | 日記
おはようございます。洋子さんが、プランターで育てたミニトマト赤くなり、ゆうとくんに収穫して貰いました。他にも、シシトウとナスを作っています。ナスはもう食べました、収穫の喜びを孫に伝える事が出来ました!冬に葉物を植えて見たいそうです。

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エッセイ「じいちゃんの人間革命」降臨ー⑴

2016-06-24 11:58:58 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」降臨ー⑴

4月の八幡神社の祭礼に行き、母の祖父が産まれた家に寄ると、「未だ、出来ないのか?」とよく言われた、洋子さんには辛い言葉だったと思います。色々な出来事があった私ですが、「立川駅で、赤子をオンブしている」夢を見たのです。12月の或る日、洋子さんは「風邪かなぁ」と医院に出かけました、妊娠を告げられてのです。母は嬉しくて、男の子用のベビー服を買ってきたのです。洋子さんは女の子でも良いような服と取り換えて来ました、私も男の子だろうと思ってました。
10年目にして娘が、産まれたのです。北里大学病院での、帝王切開でした。キャスターのついた金の箱で運ばれて来ました、義母が覗き込んで「顔がとても、赤い子だね」と笑いながら言ったのです。義母には3人の娘がいて、最後にやっと女の子です。西新井から、嬉しそうに月に一度は、必ず来てくれました。
洋子さんと結婚してから、孤独性は消え、娘が生まれてた嬉しさは表現できいない程です。仕事から帰ると「おとうさんぁーん」と泣きながら、脚にしがみ付くのです。元気な時は部屋の中をアラレちゃん音頭を「めちゃんこ、めちゃんこ」と歌いながら廻ってました。七五三の時に、それをビデオに撮りました。そのビデオには母の声が残っています。お宮参りをしたのも日枝神社でした。テレビで放送している、女の子向けの番組のキャラクターが欲しいと言えば、何度もお店に足を運びました。隣が小学校でした、休みの土曜日には、門から入り、帰るのを待っていました。赤いランドセルを受け取り、100メートルに満たない、家までの道を後から付いて帰ってました。
小学校の高学年の時だったと思います、近くの文房具屋の帰り道に「おとうさん、オンブして」と言われ、家の側まで帰りました。その時の、背中の感触と、重さを今も忘れられません。
幼い娘が育つ頃は、安田生命立川支社に運転手として、会社で初めて私が派遣された頃と重なります。保険の仕事を、運転手の立場から見ていました。おばちゃん達の職場です、事務員さんも女性でした。男性は多摩地区の営業所長か支社の営業部長です。保険業界の最盛期でした、保険の獲得競争を盛り上げるイベントがありました。音楽をしていた男性スタッフが、即席のバンドを組み演奏をする大会に、娘を連れて行った事もあります。かなり良い給与も貰えました。三人の支社長に仕えました、最初の支社長は八王子にお住いの真面目で、どちらと言えば話が得意でない方でした。渉外課長と多摩地区の企業を訪問し、お昼に安くて美味しいお店見つけて食べ歩きました。新人の慣れない、おばちゃん達に何処へ書類を提出するのか等を教えていたので、長身で美人の事務員さんと机を並べていたのです。時々お昼を食べに行った事もあります、二人目の支社長に交代し机を変えられてしまいました。母方の姓と同じ事務員さんが、大好きでした。毎日会えるのが励みで、仕事ぶりを後ろから眺めていたのです、営業所から本社に移られましたのです。何度かお昼を御一緒しました、今でも年賀状のやり取りをしています。(次の世ではこの人と暮らせたらなぁ〜)
支社に配置された営業所長が、成績を上げて認められ、支社の営業部長になる。其処で成績を上げると支社長に昇格する。新入社員は補助なのです。支社長からその上に昇るには、役員やその上の人の「引き」なのです。最初の支社長は、常務になったようです。「ヤクザの盃を貰うつもりだった」「女房と別れて、水商売のママと一緒になる寸前まで行った」「セックスは旨いぞ」等と話してくれました。支社長室で大声を上げて、スタッフに「吠える」人でした、佼成会から来ている人と仕事をしているスタッフが「また、吠えるてる」と言ってしまいました、今ならパワハラとも言えるのでしょう。週末には、我孫子の自宅迄送ったりもしました。栄転して支社を去る時に「2万円」も頂きました。顔色が「ドス黒」けれど大丈夫なのかと或るスタッフが言ってました。
歌舞伎町や銀座にも行きました。職安通りで「夜の女人が客引きをする」光景を待機中の車から見ていた事もあります。
保険会社は勝ち組の世界なのです、其れを支えるスタッフの一人が庶務課長です。6年の間、私を温かい目で見ていただきました。お子さんを亡くし、奥様が「鬱」成られていたのです。組合の書記長を経験した人が、営業部長として来られたのです、クセのない、親切な人でした。若い営業員さんの中には、「惚れ惚れする」ような女性もいます。営業部長には、お子さんがいませんでした。二人は「不倫関係」になり、部長は左遷されました。営業員さんは、辞めたようです。
三人目の支社長は、商売が上手な関西人でした。私を替えたかったようです。安田生命が自社で運転手の会社を作り、運営することになりました。引き抜きは私の会社が「ノー」でした、仕方なく辞めました。或る日「俺の子供は、中学の頃になるとグレたり、おかしくなるんだよ、俺もそうだった」と車を運転中に話しかけられたのです。カミナリ族をしていたそうですが、先祖が「最後の仇討ち」をしたのだと言いました。その時に「槍で歯向かって来た少年を、殺めた」そうです。



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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑸

2016-06-23 10:36:35 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑸

学校の庭に立ち、周りを風が吹き、その中心に泣いている、私がいました。夜の光に敏感になり、「火事だ、消防車を、呼べ」と叫び、消防車が来て、大騒ぎになりました。知り合いの子供さんの顔に、唾を塗ったりしたのです。家の中では、もっと変な事を続けていたのです。夏の暑い日の事です!
狂った結果が、精神病院へ3日間の入院でした。「誇大妄想症」と診断されたのです。病院へ行く途中の風景が変でした、着いた時の事は興奮状態で覚えて居ません。待合室で「こんな所には、俺は絶対入らない」と抵抗したようです。「何か運動をしてますか?」とも聞かれたようです。
大きな部屋に入り、沢山食べるように言われましたが「そんなに、食べられない」と言いました。「小鳥さん」と呼ばれている人の近くにいました、廊下を連れて行かれて、頭に脳波を測るセンサーをつけられ、鎮静剤の注射もされたようです。庭にある観音像を拝んでいる人もいました。「書道の道具を持ってきて欲しい」と頼みました、その日に洋子さんが、迎えに来たのです。もし、暴れていたら帰れなかったでしょう。
帰ってきて(寝ながら、とんでも無い事になった)と気がつきました。洋子さんがいなかったらと、今でも思うのです。その時に書いた「夢日記」は未だ残してありますが、他に書き残したものは捨てました。暗い部屋で、見た微かな観音の様な幻視と、ハッキリと現れて消えた、「海の怪獣たちの後に、本箱があり、その前の椅子に座った、白い服で外国の神のような人」の記憶だけが、鮮明でした。(この時に「潜在意識を、表に出せば、前世の記憶が現れ霊的に進歩する」言っていた、本を読んだ事があるのです。しかし、人間は知らなくても良い事があるのです。)
「神様が、助けてくれる」との依存状態から抜けるまで、数年かかりました。もちろん、仕事を探しました、採用されても、すぐに辞める、また探すの繰り返しでした。娘が生まれる時に、面接に行っていたのが、豊田商事でした。採用担当者の言っていることは、支離滅裂でした、適当に相槌をして、そのまま北里大学病院に直ぐ向かいました。
「2908g」の娘が生まれました、帝王切開でした。お産の費用は義母に借りました、それまで、洋子さんが貯めていた貯金は使い果たしていたのです。
暫くは仕事が手に付かない状態でした。「保育園に入るから、もう里見はいなくなるよ」と洋子さんに言われて、探した仕事が派遣の運転手でした。薬は2年ほど前まで飲み続けました、寝付けないので「ハルシオン」は今でも飲んでます。ハルシオンは、依存性が強いので変えたほうが良いと言われて、先月から交互に同じような薬に変えつつあります。
洋子さんと出逢ったのは、京都ヘ車でなく新幹線で行った時のことです。その頃は、サニー1200GXツインキャブに乗っていました。最初に買った車です。この車で奈良や京都に、高速道路を使って行ったのです。免許を取って直ぐにこの車を買いました。スポーツ用品問屋の仕事で、同僚と静岡の長崎屋に行った時の事です、どの位のスピードが出るのだろうかと、アクセルを踏み込みました。メーターが振り切れ、180キロが出ました。車体が中に浮いている感じでした!冬の朝にはエンジンが中々掛からなくて、バッテリーが切れて、団地の友人に押しがけを頼んだものです。「太郎さんが、出かける時は捕まるのが、嫌だったよ」といわれたものです。
寺を訪れるのが、好きでした。奈良と京都に、気心の知れた安い民宿が有ったのです。京都の宿に泊まった時の事です、「電球が切れたので、替えてきてくれない」と女主人から頼まれたのです。その部屋に、3人で来ていた女性の一人が洋子さんでした。
次の日に、「この子たちを、案内してあげてくれない」と頼まれ、三千院に行き、坂を登る途中に、「この女性とならいいな」と何故か思ったのです。正月で三十三間堂は、通し矢が行われてまいました。千体仏の廊下を歩いている時に、僧侶が通る人達に、浄めのお水を手に持った「椀?」から、笹の枝で振り撒いていたのです。私の顔から肩にかけて、そのお水が架かりました。
帰って、数日後だったと思います。女姓から電話でした、会う約束をしました。「あのひとだったらいいな」と思った女性でした、6月10日に結婚式を挙げました。「時の記念日」でした、「6月はジューンブライド」と呼ばれてるいるのを、あとで知りました。


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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑷

2016-06-22 13:27:43 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑷

卒業して、新しく入った会社が、ティアックです。新しく本社・工場を建てている時でした。「定時制を卒業したのだから、勤まるね」が採用理由だったようです。オープンリールのテープレコーダーの老舗でした。私は計測用のレコーダーの調整でした、3年程で辞めました、日本電産の守永さんが、居られたのを後で知りました。辞めた理由は「大学の受験勉強の為」でしたが、2つ受けた大学は落ちてしまいまた。工学院大学の2部電子科に入っていたのです、「文学とは何か」と云う、本を使った授業がありました。受けている時に「そうだ、私が学ぶのはこれだ」と思いました。文化系の2部に行くのが正解だったのです。母が一年分の授業料を払ってくれていたので、中退となっていると思います。山へも行っていたのですが、この頃から単独で行くようになりました。家でゴロゴロしていた時に母が、セイコー5マチックの自動巻腕時計を買ってくれたのです。机の中に眠っています、母の形見です。山へ行っていたので、立川のスポーツ用品卸の会社に勤めました。お店の新規開拓に、名古屋から東北各地を訪問しました。成果がありました、天職だったと思います。一度辞めて、また戻りました。しかし、仲人をしてくれた社長夫婦は離婚寸前でした。原因は、倉庫に売れないで残った、アイワールドやデスカウント向けの商品と、得意先に返品可能で卸していた、大型運動具店の冬物スキーウエアが積み上げられていたのです。その他に、増築した事務所の上にトイレが作られていました。そこにはかって内墓地があったのです、駐車場の隣も共同墓地でした。紙などを燃やして、灰が飛び散り汚していたのです。景気の良い時には、お店も数件あったのです。札束に埋もれ、「社長が札束に囲まれ、喜んでいるの」と、社員たちも密かに噂していたようです。
長崎屋のスポーツ用品部門に、それらの不良品を安値で売る等して、倉庫はガラガラになったのです。私の結婚式で司会をしてくれた上司は常務になっていました。常務はどうしたら会社から逃げ出せるのか、思案中だったようです。「清水さんが来たから、大丈夫!」と言ったのです。社長から「取締役営業部長になって欲しい」と頼まれましたが、断りました。倉庫は片付き、埃まみれの床も磨きあげました。メーカーから売れる商品を仕入れ、立ち直れると思えたのです。
正月に団地の仲間と身延山へ行きました、おみくじを引いたのです。「大凶」が出たのです。その年の3月末の夜に「明日から、来なくていい」と電話が来たのです。都合10年程も?勤めた会社でした。それからが転落人生の幕開きでした。
(会社に戻る前に、少しブランクが有ります。その時に、家系調査の営業マンをしました。そして、自分で系図を作る仕事をしたのです、数件仕事を頂きました。その時の調査で、お金の為に依頼された方のご先祖へ、間違いを犯してしていたのです)
「おじちゃんは、神様になる」と幼い姪たちに言っていたのです。家でも、神道の本を読んだり、お経等を唱えるなど、自己流で「神になろうと」していたのです。この時に人間は、宗教にのめり込み過ぎると「狂うのだと」後で知りました。新興宗教の創始者は「狂っている」と、言われているのです。









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