7月15日、一人の元プロ野球選手が亡くなりました。
元大洋・横浜、投手『石田文樹』投手
彼が残したプロ野球での成績はたった1勝。
だけど甲子園であのKKコンビを破り、優勝した輝きは何勝分にも値し、記憶にも残った。
その魂は息子へと受け継がれた。
15日午前1時40分。父を横浜市内の病院でみとった。幼い頃のキャッチボールから始まり、野球のすべてを叩き込んでくれた。スライダー、カーブの握り、そして投球フォームは84年夏に茨城・取手二のエースとして甲子園優勝を飾った父の直伝だ。病床で意識がなくなった父には「ありがとう」と呼びかけた。
大会中の悲劇…「私情は持ち込みたくなかった。自分がエースだと思っているので(出場に)迷いはなかったです。オヤジなら“行け”と言うと思う」と自ら登板を志願した。
チームは勝利した。次の試合に向けて「絶対勝ちます」と石田は言った。球場から出て1人になった時、初めてポーカーフェースが崩れた。新貝監督から渡された“ウイニングボール”を握り締め、父を思って泣いた。
「親父、勝ったぜ」
その魂は確実に受け継がれた。
たった1勝の投手の魂は今、新たに飛び立つ魂へと…
元大洋・横浜、投手『石田文樹』投手
彼が残したプロ野球での成績はたった1勝。
だけど甲子園であのKKコンビを破り、優勝した輝きは何勝分にも値し、記憶にも残った。
その魂は息子へと受け継がれた。
15日午前1時40分。父を横浜市内の病院でみとった。幼い頃のキャッチボールから始まり、野球のすべてを叩き込んでくれた。スライダー、カーブの握り、そして投球フォームは84年夏に茨城・取手二のエースとして甲子園優勝を飾った父の直伝だ。病床で意識がなくなった父には「ありがとう」と呼びかけた。
大会中の悲劇…「私情は持ち込みたくなかった。自分がエースだと思っているので(出場に)迷いはなかったです。オヤジなら“行け”と言うと思う」と自ら登板を志願した。
チームは勝利した。次の試合に向けて「絶対勝ちます」と石田は言った。球場から出て1人になった時、初めてポーカーフェースが崩れた。新貝監督から渡された“ウイニングボール”を握り締め、父を思って泣いた。
「親父、勝ったぜ」
その魂は確実に受け継がれた。
たった1勝の投手の魂は今、新たに飛び立つ魂へと…