「……さて……」
お坊様はおたきさんの足音が聞こえなくなってから、呟くようにそうおっしゃると、わたくしに向き直りました。
「うむ、しっかりと憑き物が落ちたようだね。もう案ずることはあるまい」
「……はい、お坊様のおかげをもちまして……」わたくしは頭を下げました。「ではございますれど、父や母、それにばあやには……」
「気に病むでない。あれは鬼が仕掛けた事じゃ。鬼は人の心など手の平の虫同様じゃ。いかようにも出来るのさ」
「はあ……」
「人が鬼に敵うわけが無いのだよ。拙僧も御仏のご加護で何とかなっただけの事さ」
「ご謙遜を……」
わたくしはそう申し上げながら、開いている障子戸の間から外を見ておりました。花が幾つも咲いているのが見えました。
「……花が咲いておりますね」
わたくしの声にお坊様は振り返り、庭の花をご覧になります。
「うむ、綺麗なものだね。でも、あなたの庭の方が見事だったよ」
「……わたくし、もう花は好きではございませぬ……」
「ほう……」
「花は何事があっても咲きます。此度の様な過酷な事がございましても、我関せずで咲き誇っておりまする」
「なるほど、それも一つの見方だね」
「その様、まるで鬼のようで……」わたくしはそこまで言うと、震えてまいりました。「わたくしが花を育てたは、元より流るる鬼の血の為せるものかと……」
「はっはっは!」お坊様は突然一笑されました。「それは違うな、お嬢さん!」
「違うと……」
「左様じゃ。花も人も、そこなを飛び回る蝶も、皆、御仏の慈悲の為せるもの。鬼など一片たりとも関わってはおらぬ。何があっても咲き誇る花は、揺るぎ無い御仏の慈悲の現われさ。お前さんだって、花に心の安らぎを見いだしたこともあっただろう?」
「……」お坊様の言葉に、わたくしは想い出を振り返っておりました。友の居ないわたくしに花々はいつも安らぎを与えてくれました。「……確かに左様でございました」
そう申し上げながら、わたくしは涙を流しておりました。お坊様は優しく頷かれていらっしゃいました。わたくしの心はすっと晴れて軽くなってまいりました。不意に、笑みがこぼれてまいりました。涙を流しながら、笑んでいたのでございます。
「うむうむ、それで良い、それで良い」
お坊様も笑みながら頷かれていらっしゃいました。わたくしも心が落ち着いてまいりました。そうなりますと、ふと思いによぎるものがございました。
「……あの、お坊様……」
「何ですかな?」
「お坊様は、どうしてあの時いらっしゃったのです?」
「はっはっは!」お坊様は豪快にお笑いなさいました。「拙僧は、良からぬ臭いに誘われますのじゃ。……おっと、こんな事を言うと、まるで銀蝿のようじゃなあ」
わたくしは困った顔をなさるお坊様に、思わず吹き出してしまいました。お坊様も楽しそうに笑っていらっしゃいます。
「まあ、戯れ話はともかく、最初に訪れた時から、何やら感じておったのだよ。それで、庭にお邪魔すると、あなたが居て、そして、あの井戸があった……」
「左様でございましたか」
「井戸を見た途端、さすがの拙僧も背筋がぞっとしたものさ」
「それで、護符を……」
「まあね。……だが、それが逆に鬼に使われてしまったようだ」
「護符を頂いてから、色々とございました…… 雨戸が叩かれたり、我が青井の家の生業を知ってしまったり……」
「それはな、鬼の仕業だよ。あなたを取り込もうと躍起だったのさ」
「それに嵌ってしまったのですね……」
「二度目にお会いした時の、あなたの変わり様は、只事では無かったな。だが、拙僧の非力さゆえ、如何とも為せなかった…… 本当にすまない事です」
お坊様はそうおっしゃると、わたくしに頭をお下げになりました。
「いえ、頭をお上げくださいまし」わたくしは慌ててそう申しました。「わたくしが父も母もばあやも見下し、鬼の血などと言う詰まらぬことに思いが傾いた末の事でございます。わたくし自らが鬼を誘ってのでございます……」
「いやいや、それも鬼の仕組んだ事。井戸の亡者たちも、自らが抱えたほんのわずかの恨みを鬼に膨らまされたのさ。それが証しに、あの者たちは皆、御仏の慈悲に救われた」
「左様でございました……」
「あなたの御両親もばあやさんも、皆、御仏に救われたよ」
再び溢れてくる涙越しに見たお坊様は、とてもお優しいお顔をなさっておいででした。
つづく
*次回最終回(予定)です。
お坊様はおたきさんの足音が聞こえなくなってから、呟くようにそうおっしゃると、わたくしに向き直りました。
「うむ、しっかりと憑き物が落ちたようだね。もう案ずることはあるまい」
「……はい、お坊様のおかげをもちまして……」わたくしは頭を下げました。「ではございますれど、父や母、それにばあやには……」
「気に病むでない。あれは鬼が仕掛けた事じゃ。鬼は人の心など手の平の虫同様じゃ。いかようにも出来るのさ」
「はあ……」
「人が鬼に敵うわけが無いのだよ。拙僧も御仏のご加護で何とかなっただけの事さ」
「ご謙遜を……」
わたくしはそう申し上げながら、開いている障子戸の間から外を見ておりました。花が幾つも咲いているのが見えました。
「……花が咲いておりますね」
わたくしの声にお坊様は振り返り、庭の花をご覧になります。
「うむ、綺麗なものだね。でも、あなたの庭の方が見事だったよ」
「……わたくし、もう花は好きではございませぬ……」
「ほう……」
「花は何事があっても咲きます。此度の様な過酷な事がございましても、我関せずで咲き誇っておりまする」
「なるほど、それも一つの見方だね」
「その様、まるで鬼のようで……」わたくしはそこまで言うと、震えてまいりました。「わたくしが花を育てたは、元より流るる鬼の血の為せるものかと……」
「はっはっは!」お坊様は突然一笑されました。「それは違うな、お嬢さん!」
「違うと……」
「左様じゃ。花も人も、そこなを飛び回る蝶も、皆、御仏の慈悲の為せるもの。鬼など一片たりとも関わってはおらぬ。何があっても咲き誇る花は、揺るぎ無い御仏の慈悲の現われさ。お前さんだって、花に心の安らぎを見いだしたこともあっただろう?」
「……」お坊様の言葉に、わたくしは想い出を振り返っておりました。友の居ないわたくしに花々はいつも安らぎを与えてくれました。「……確かに左様でございました」
そう申し上げながら、わたくしは涙を流しておりました。お坊様は優しく頷かれていらっしゃいました。わたくしの心はすっと晴れて軽くなってまいりました。不意に、笑みがこぼれてまいりました。涙を流しながら、笑んでいたのでございます。
「うむうむ、それで良い、それで良い」
お坊様も笑みながら頷かれていらっしゃいました。わたくしも心が落ち着いてまいりました。そうなりますと、ふと思いによぎるものがございました。
「……あの、お坊様……」
「何ですかな?」
「お坊様は、どうしてあの時いらっしゃったのです?」
「はっはっは!」お坊様は豪快にお笑いなさいました。「拙僧は、良からぬ臭いに誘われますのじゃ。……おっと、こんな事を言うと、まるで銀蝿のようじゃなあ」
わたくしは困った顔をなさるお坊様に、思わず吹き出してしまいました。お坊様も楽しそうに笑っていらっしゃいます。
「まあ、戯れ話はともかく、最初に訪れた時から、何やら感じておったのだよ。それで、庭にお邪魔すると、あなたが居て、そして、あの井戸があった……」
「左様でございましたか」
「井戸を見た途端、さすがの拙僧も背筋がぞっとしたものさ」
「それで、護符を……」
「まあね。……だが、それが逆に鬼に使われてしまったようだ」
「護符を頂いてから、色々とございました…… 雨戸が叩かれたり、我が青井の家の生業を知ってしまったり……」
「それはな、鬼の仕業だよ。あなたを取り込もうと躍起だったのさ」
「それに嵌ってしまったのですね……」
「二度目にお会いした時の、あなたの変わり様は、只事では無かったな。だが、拙僧の非力さゆえ、如何とも為せなかった…… 本当にすまない事です」
お坊様はそうおっしゃると、わたくしに頭をお下げになりました。
「いえ、頭をお上げくださいまし」わたくしは慌ててそう申しました。「わたくしが父も母もばあやも見下し、鬼の血などと言う詰まらぬことに思いが傾いた末の事でございます。わたくし自らが鬼を誘ってのでございます……」
「いやいや、それも鬼の仕組んだ事。井戸の亡者たちも、自らが抱えたほんのわずかの恨みを鬼に膨らまされたのさ。それが証しに、あの者たちは皆、御仏の慈悲に救われた」
「左様でございました……」
「あなたの御両親もばあやさんも、皆、御仏に救われたよ」
再び溢れてくる涙越しに見たお坊様は、とてもお優しいお顔をなさっておいででした。
つづく
*次回最終回(予定)です。
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