「ほう、あれがしろか……」坊様も本堂を見て言った。「あれは良くないな……」
「長が言ってたけど、しろはもう死んでいるんだと……」
「そうじゃな。だが、唯死んでいるのと違って、かなりタチが悪い」坊様は言うとにやりと笑う。「ありゃあ、悪霊だよ」
仁吉は自分のからだが一気に冷たくなったのを感じた。
「しろは、昼間、寝ているオレの上に浮かんでいたんだろう?」仁吉の声が震えている。「オレも松次みたいになるのか?」
「それは分からんが」坊様は仁吉の肩に手を置いた。「お前さん、妙に気に入られたようだぞ」
しろはじっと仁吉を見つめている。仁吉は思わず坊様の背中に隠れた。
「お坊様……」
仁吉は背中から声をかける。
「なんだね?」
坊様はしろを見据えたままで言う。
「お坊様は、怖くないのか?」
「そりゃあ、怖いさ」
「でも笑っている……」
「そうかのう?」坊様は髭だらけの顎を撫でる。「不思議とな、怖ければ怖いほど、にやけてしまうんじゃよ」
「度胸があるんだな……」
「いや、怖いのを、笑ってごまかしているのかもしれんなあ」
言い終わると、坊様は錫杖の先端をしろに向けた。鐶が触れ合って音を立てた。坊様は念仏を唱えはじめた。
念仏は低いうねりとなって周囲に流れた。
敷地のそこここで揺れている霊が崩れるように霧散し、唸りを上げ、黄色い目で睨み付けている猫たちも姿を消した。
しかし、しろだけは平然と本堂に座り続けている。坊様の念仏を聞き流しながら、ひょんと本堂から地に降りた。そのままじっと坊様を見つめながら歩み寄ってくる。坊様はそれに構わず念仏を唱え続けた。仁吉は坊様の後ろからその様子を覗き、しろと視線が合うと慌てて顔を引っ込め、坊様の衣にしがみついた。
しろは坊様の前まで来た。念仏を唱え続ける坊様を見上げている。そして、後ろ脚で立ったかと思うと突然そのからだが伸び、坊様と同じくらいの丈になった。
大人の腕より太い前脚を振り上げた。鋭い爪が長く伸び出し、雲間から覗く月光にきらめいた。坊様の顔より大きな面の口を大きく開き、幾重にも並んだ牙を見せ、二股に分かれた舌先を別の生き物のように蠢かせ、溢れる唾液から耐えがたい腐臭を漂わせている。黄色く丸い目玉の真ん中で鬼火のような赤い瞳がゆらゆらと動いている。
「化け猫!」
仁吉は思わず叫んだ。
「破!」
坊様は強く一声上げると錫杖を振り上げた。しろは猫の本能が働いたのか、先端の勘が動くさまを見上げた。
「滅!」
坊様は勢い良く錫杖をしろの頭上に振り下ろした。断末魔の悲鳴が闇を切り裂いた。しろはそのまま霧散した。しばらくして、ふうと坊様の深いため息がした。
周囲から邪悪な気が消えた、そう感じた仁吉は坊様を見上げた。坊様は動こうとせず、じっと本堂を見据えている。
「お坊様……」
仁吉は坊様の袂を引っ張った。坊様は振り返った。汗まみれながらも、にやりとした笑顔がそこにあった。
「お前さん、もう帰りな」坊様は優しい声で仁吉に言った。「相手はかなり手強いんでな、ここに居ると、お前さんもどうなるか分からんぞ」
「……何があるんだい?」
「自分の目で見てみな……」
仁吉は坊様の脇から顔を出し、坊様が見据えている本堂を見た。
そこには住職然とした穏やかな表情をした老人が正座していた。
「あれは……」
「そう、あれは、ここの死んだ住職の霊だ。この大たわけめ! 死す時に急に浮世が惜しくなったようだ。自分はこんなオンボロ寺の住職で終わる者ではない、と思ってしまったのだ。その黒い思いがしろに憑き、しろが死んだ後もその思いが残った。この寺が荒れ、死人を放り込ませるようになったのも、このたわけの愚かな邪念が引き起こしたものだ」
「……どうするんだ……」
「こんな大たわけを知ってしまったからには、何とかせねばなるまい」坊様は言う。その声に力みも怖れもなかった。「とにかく、お前さんは帰りなさい。狙いはこのわしだ。お前さんは眼中になさそうだからな。それに、やつも元は坊主じゃ。慈悲のひとかけらくらいは残っておるだろう」
仁吉はそっと坊様の衣から手を放し、門の方を見やった。
「おおそうじゃ、数珠を返してもらおうかの。それが無いと、ちと厳しいかもれんでな」仁吉は数珠を手渡した。「さ、走って行け! そして、明日の朝に再び来ると良いだろう。わしがここに倒れておれば、わしの負け、おらなんだらわしの勝ちじゃ」
坊様は言うとからからと笑った。
つづく
「長が言ってたけど、しろはもう死んでいるんだと……」
「そうじゃな。だが、唯死んでいるのと違って、かなりタチが悪い」坊様は言うとにやりと笑う。「ありゃあ、悪霊だよ」
仁吉は自分のからだが一気に冷たくなったのを感じた。
「しろは、昼間、寝ているオレの上に浮かんでいたんだろう?」仁吉の声が震えている。「オレも松次みたいになるのか?」
「それは分からんが」坊様は仁吉の肩に手を置いた。「お前さん、妙に気に入られたようだぞ」
しろはじっと仁吉を見つめている。仁吉は思わず坊様の背中に隠れた。
「お坊様……」
仁吉は背中から声をかける。
「なんだね?」
坊様はしろを見据えたままで言う。
「お坊様は、怖くないのか?」
「そりゃあ、怖いさ」
「でも笑っている……」
「そうかのう?」坊様は髭だらけの顎を撫でる。「不思議とな、怖ければ怖いほど、にやけてしまうんじゃよ」
「度胸があるんだな……」
「いや、怖いのを、笑ってごまかしているのかもしれんなあ」
言い終わると、坊様は錫杖の先端をしろに向けた。鐶が触れ合って音を立てた。坊様は念仏を唱えはじめた。
念仏は低いうねりとなって周囲に流れた。
敷地のそこここで揺れている霊が崩れるように霧散し、唸りを上げ、黄色い目で睨み付けている猫たちも姿を消した。
しかし、しろだけは平然と本堂に座り続けている。坊様の念仏を聞き流しながら、ひょんと本堂から地に降りた。そのままじっと坊様を見つめながら歩み寄ってくる。坊様はそれに構わず念仏を唱え続けた。仁吉は坊様の後ろからその様子を覗き、しろと視線が合うと慌てて顔を引っ込め、坊様の衣にしがみついた。
しろは坊様の前まで来た。念仏を唱え続ける坊様を見上げている。そして、後ろ脚で立ったかと思うと突然そのからだが伸び、坊様と同じくらいの丈になった。
大人の腕より太い前脚を振り上げた。鋭い爪が長く伸び出し、雲間から覗く月光にきらめいた。坊様の顔より大きな面の口を大きく開き、幾重にも並んだ牙を見せ、二股に分かれた舌先を別の生き物のように蠢かせ、溢れる唾液から耐えがたい腐臭を漂わせている。黄色く丸い目玉の真ん中で鬼火のような赤い瞳がゆらゆらと動いている。
「化け猫!」
仁吉は思わず叫んだ。
「破!」
坊様は強く一声上げると錫杖を振り上げた。しろは猫の本能が働いたのか、先端の勘が動くさまを見上げた。
「滅!」
坊様は勢い良く錫杖をしろの頭上に振り下ろした。断末魔の悲鳴が闇を切り裂いた。しろはそのまま霧散した。しばらくして、ふうと坊様の深いため息がした。
周囲から邪悪な気が消えた、そう感じた仁吉は坊様を見上げた。坊様は動こうとせず、じっと本堂を見据えている。
「お坊様……」
仁吉は坊様の袂を引っ張った。坊様は振り返った。汗まみれながらも、にやりとした笑顔がそこにあった。
「お前さん、もう帰りな」坊様は優しい声で仁吉に言った。「相手はかなり手強いんでな、ここに居ると、お前さんもどうなるか分からんぞ」
「……何があるんだい?」
「自分の目で見てみな……」
仁吉は坊様の脇から顔を出し、坊様が見据えている本堂を見た。
そこには住職然とした穏やかな表情をした老人が正座していた。
「あれは……」
「そう、あれは、ここの死んだ住職の霊だ。この大たわけめ! 死す時に急に浮世が惜しくなったようだ。自分はこんなオンボロ寺の住職で終わる者ではない、と思ってしまったのだ。その黒い思いがしろに憑き、しろが死んだ後もその思いが残った。この寺が荒れ、死人を放り込ませるようになったのも、このたわけの愚かな邪念が引き起こしたものだ」
「……どうするんだ……」
「こんな大たわけを知ってしまったからには、何とかせねばなるまい」坊様は言う。その声に力みも怖れもなかった。「とにかく、お前さんは帰りなさい。狙いはこのわしだ。お前さんは眼中になさそうだからな。それに、やつも元は坊主じゃ。慈悲のひとかけらくらいは残っておるだろう」
仁吉はそっと坊様の衣から手を放し、門の方を見やった。
「おおそうじゃ、数珠を返してもらおうかの。それが無いと、ちと厳しいかもれんでな」仁吉は数珠を手渡した。「さ、走って行け! そして、明日の朝に再び来ると良いだろう。わしがここに倒れておれば、わしの負け、おらなんだらわしの勝ちじゃ」
坊様は言うとからからと笑った。
つづく
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