仁吉は走った。走りながら本堂の住職の霊を見た。さっきまで見せていた穏やかな顔が、浅黒くなり、赤くなった両の目尻が吊り上り、口は両端が大きく裂け、しろと同じような牙を剥き出し、二股になった長い舌を突き出している。嫌な臭いのする涎が顎を伝って滴っている。住職の悪霊は立ち上がり、しゅうしゅうと威嚇するような音を喉から発していた。
仁吉が見たのはそこまでだった。
「……さて……」坊様は言いながら、仁吉から受け取った数珠を首にかけた。「このたわけめが! 御仏の慈悲を忘れた亡者めが!」
坊様は悪霊を叱りつけると、きっとした眼差しで睨みつけた。
悪霊は本堂の縁に立つと、吊り上った眼を大きく開けた。凄まじい風が坊様に吹き付け、袂を靡かせる。かぶっていた網代笠が吹き飛び、うっすらと伸びた頭髪の頭が晒される。
坊様は錫杖を振った。疾風が止む。それから錫杖を地に突き立て、念仏を唱え始めた。
悪霊は本堂の縁に立ったままの姿勢で、宙を流れるように動き、坊様に向かって来た。坊様は首にかけた数珠を左手で取ると、鐶の部分に叩き付けはじめた。叩き付ける音が悪霊の動きを止めた。悪霊は宙に浮いたままでそれ以上は坊様に近づけず、獰猛な唸り声を上げ、威嚇してきた。
坊様は念仏を唱え続けた。その声は四方に広がり、まるで念仏の声による壁の如くになり、悪霊と坊様を囲んだ。
「どうだ、もうお前は何処にも逃げられんぞ! わしを倒さぬ限りはな!」
悪霊は牙をさらに剥き出しにして坊様に近づこうとする。しかし、数珠の叩きつけられる音で身動きが出来ない。
と、坊様に飛びかかったものがあった。体勢を崩した坊様はその場に尻もちをついた。手が止まり、数珠の音が止んだ。坊様は飛びかかったものの正体を見極めようと横を見ると、朧になった猫のしろが背中の毛を逆立てて坊様に威嚇の唸り声を上げていた。その口には数珠が咥えられていた。数珠を乱暴に振り回すと、珠を通している糸が千切れ、珠は四方に散らばった。それをやり遂げると、しろはすうっと姿を消した。
「とんだ主人思いの猫じゃ!」
しろの最期の思いが形になり、主人を苦しめる坊様に一矢報いたわけであった。
坊様は悪霊に向き直った。数珠の音が止んだせいで、すすすっと坊様に向かって動き出した。
「おのれっ!」
坊様は地を転がり、錫杖をつかむと抜き取り、大きく振った。鐶が触れ合い音を立てる。悪霊の動きがゆっくりになった。その隙に坊様は立ち上がる。
「数珠よりは効き目はないか……」
坊様は錫杖を振りながら舌打ちをする。音が鳴ってはいるが弱く、悪霊の動きを完全には止められない。
「わしの邪魔をするなぁぁ……」悪霊の怒声が上がる。洞窟の中の響く声のようだった。「わしを崇めるのだぁぁ!」
「たわけが! お前は卑下され忌み嫌われるべき亡者じゃ!」坊様は怒鳴る。「もはや人ではないお前は成仏など出来ん! この場で滅びるがよかろう!」
坊様は錫杖を振り上げた。鐶の触れ合う音が消えた。悪霊は奇声を上げながら坊様に向かって突進した。坊様は錫杖を振り下ろした。
仁吉は寺の門を飛び出して走り続けた。涙がいきなり溢れ出してきた。声を出すまいとしたが、止まらなかった。仁吉は大声で泣いた。泣きながら走った。家が見えた。仁吉はその場に膝を付くと、さらに大きな声で泣いた。怖ろしかった事、坊様の事が心配だった事、そして何より、自分の家と言う安心できる場所に戻って来た事が、仁吉を泣かせた。
家から父と母が出て来た。泣き崩れている仁吉を優しく立ち上がらせると、家の中へと入って行った。
つづく
(次回、最終回)
仁吉が見たのはそこまでだった。
「……さて……」坊様は言いながら、仁吉から受け取った数珠を首にかけた。「このたわけめが! 御仏の慈悲を忘れた亡者めが!」
坊様は悪霊を叱りつけると、きっとした眼差しで睨みつけた。
悪霊は本堂の縁に立つと、吊り上った眼を大きく開けた。凄まじい風が坊様に吹き付け、袂を靡かせる。かぶっていた網代笠が吹き飛び、うっすらと伸びた頭髪の頭が晒される。
坊様は錫杖を振った。疾風が止む。それから錫杖を地に突き立て、念仏を唱え始めた。
悪霊は本堂の縁に立ったままの姿勢で、宙を流れるように動き、坊様に向かって来た。坊様は首にかけた数珠を左手で取ると、鐶の部分に叩き付けはじめた。叩き付ける音が悪霊の動きを止めた。悪霊は宙に浮いたままでそれ以上は坊様に近づけず、獰猛な唸り声を上げ、威嚇してきた。
坊様は念仏を唱え続けた。その声は四方に広がり、まるで念仏の声による壁の如くになり、悪霊と坊様を囲んだ。
「どうだ、もうお前は何処にも逃げられんぞ! わしを倒さぬ限りはな!」
悪霊は牙をさらに剥き出しにして坊様に近づこうとする。しかし、数珠の叩きつけられる音で身動きが出来ない。
と、坊様に飛びかかったものがあった。体勢を崩した坊様はその場に尻もちをついた。手が止まり、数珠の音が止んだ。坊様は飛びかかったものの正体を見極めようと横を見ると、朧になった猫のしろが背中の毛を逆立てて坊様に威嚇の唸り声を上げていた。その口には数珠が咥えられていた。数珠を乱暴に振り回すと、珠を通している糸が千切れ、珠は四方に散らばった。それをやり遂げると、しろはすうっと姿を消した。
「とんだ主人思いの猫じゃ!」
しろの最期の思いが形になり、主人を苦しめる坊様に一矢報いたわけであった。
坊様は悪霊に向き直った。数珠の音が止んだせいで、すすすっと坊様に向かって動き出した。
「おのれっ!」
坊様は地を転がり、錫杖をつかむと抜き取り、大きく振った。鐶が触れ合い音を立てる。悪霊の動きがゆっくりになった。その隙に坊様は立ち上がる。
「数珠よりは効き目はないか……」
坊様は錫杖を振りながら舌打ちをする。音が鳴ってはいるが弱く、悪霊の動きを完全には止められない。
「わしの邪魔をするなぁぁ……」悪霊の怒声が上がる。洞窟の中の響く声のようだった。「わしを崇めるのだぁぁ!」
「たわけが! お前は卑下され忌み嫌われるべき亡者じゃ!」坊様は怒鳴る。「もはや人ではないお前は成仏など出来ん! この場で滅びるがよかろう!」
坊様は錫杖を振り上げた。鐶の触れ合う音が消えた。悪霊は奇声を上げながら坊様に向かって突進した。坊様は錫杖を振り下ろした。
仁吉は寺の門を飛び出して走り続けた。涙がいきなり溢れ出してきた。声を出すまいとしたが、止まらなかった。仁吉は大声で泣いた。泣きながら走った。家が見えた。仁吉はその場に膝を付くと、さらに大きな声で泣いた。怖ろしかった事、坊様の事が心配だった事、そして何より、自分の家と言う安心できる場所に戻って来た事が、仁吉を泣かせた。
家から父と母が出て来た。泣き崩れている仁吉を優しく立ち上がらせると、家の中へと入って行った。
つづく
(次回、最終回)
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