父は手にした刀の切っ先を井戸へと向けました。井戸からの声が次第に大きくなってまいります。何かが這い登って来ているようでございます。
「ははは…… 聞こえるか?」わたくしの口は笑います。「骸の鬼どもが、青井の家の者に挨拶がしたくて、這い上がって来ておるのだ」
「何を申すか!」父は切っ先をわたくしに向けます。切っ先は震えています。性根の座らぬ父をわたくしの声は笑いました。「何が可笑しいか! 青井の家は、その初めより、殿を、そして、お家を、陰ながらお守りするを生業としてきた家柄じゃ! 骸となったは、その者たちの不忠な故であろう!」
「青井が斬った者たちには、殿を諌める者、殿に正道を解く者も多く有った」わたくしの口が言います。「殿はそれが嫌いでな、それで青井に斬らせておったのだ。青井が斬ったのは、むしろ忠孝の者たちよ!」
「たわけた事を!」
父は血走った眼でわたくしを睨みつけます。鬢が乱れ、脂汗の浮くその無様で醜い顔に、笑い声を上げました。
「お前の斬った者も、そのような者の一人であった。お前は、青井の家は、余計な事をしてばかりおったのだ。今の殿はそれを知り、青井を取り潰すのだ」
井戸の中から大きなどよめきが興りました。わたくしの、鬼の言葉に賛意を示しているのでございましょう。父は切っ先を井戸とわたくしと交互に向けています。無様でございました。滑稽でございました。
鬼であるならば、どのような嘲りも罵りも、全てを己が糧と成せるものでございます。わたくしの口が放つ青井への罵りの言葉は、わたくし自身を恍惚とさせて止みませぬ。甘い疼きが全身に満ちておりました。
「おのれい……」
父は刀を振り上げました。わたくしを斬るのでしょうや。それはわたくしに甘い疼きをもたらすだけのものでございます。わたくしは歓喜の笑みを浮かべ、両手を左右に拡げ、父の太刀を待っておりました。
と、粘着な音が背後から致しました。
父は刀を振り上げたまま、両の目を見開いて、井戸を見つめています。
わたくしは、振り返ることなく、何が起こっているのかが見えておりました。
井戸の木組み縁から、汚泥のような黒くどろりとしたものが一塊となって庭へと流れ出したのでございます。それは庭の土の上をゆっくりと這いました。這いながらその中から迫り出すように頭が、肩が、腕と胴が、腰と脚が伸びてまいります。黒い塊は黒い影のような人形(ひとがた)となり、今度は歩き出しました。
「ははは…… 見えるか? これは青井の手に掛かって死した骸が、鬼となったものだ」わたくしの手が、振り返る事なく井戸を指します。「ほうれ、まだまだ出て来るぞ」
井戸から、幾つもの黒いどろりとした塊が湧いて出て、庭を這い、黒い人形となって、父へとゆっくりと歩きます。
父は迫る人形の一人に刀を振り下ろしました。右腕が斬り飛ばされましたが、胴体からむくむくと腕が伸びて来て、元に戻りました。
「ははは…… 無駄だ! 青井への怨みは、鬼になれぬお前の太刀では拭えぬ!」
父はわたくしの言葉が聞こえぬようで、構わずに刀を振り続けています。父の迫る人形は増えてまいります。わたくしは蝉の死骸に集う蟻どもの姿をそこに見ておりました。もちろん、蝉の死骸は父、蟻どもは黒い人形どもでございます。
「……旦那様……」
井戸から弱々しくも恨めしい声が致しました。父は振り回していた刀を止め、井戸を見つめます。
右半分が大きく欠けた血まみれの顔が井戸から覗きました。それは井戸に落ちた母でございました。
「旦那様…… 何故でございます? 何故わたくしを井戸に落とされたのでございます?」
つづく
「ははは…… 聞こえるか?」わたくしの口は笑います。「骸の鬼どもが、青井の家の者に挨拶がしたくて、這い上がって来ておるのだ」
「何を申すか!」父は切っ先をわたくしに向けます。切っ先は震えています。性根の座らぬ父をわたくしの声は笑いました。「何が可笑しいか! 青井の家は、その初めより、殿を、そして、お家を、陰ながらお守りするを生業としてきた家柄じゃ! 骸となったは、その者たちの不忠な故であろう!」
「青井が斬った者たちには、殿を諌める者、殿に正道を解く者も多く有った」わたくしの口が言います。「殿はそれが嫌いでな、それで青井に斬らせておったのだ。青井が斬ったのは、むしろ忠孝の者たちよ!」
「たわけた事を!」
父は血走った眼でわたくしを睨みつけます。鬢が乱れ、脂汗の浮くその無様で醜い顔に、笑い声を上げました。
「お前の斬った者も、そのような者の一人であった。お前は、青井の家は、余計な事をしてばかりおったのだ。今の殿はそれを知り、青井を取り潰すのだ」
井戸の中から大きなどよめきが興りました。わたくしの、鬼の言葉に賛意を示しているのでございましょう。父は切っ先を井戸とわたくしと交互に向けています。無様でございました。滑稽でございました。
鬼であるならば、どのような嘲りも罵りも、全てを己が糧と成せるものでございます。わたくしの口が放つ青井への罵りの言葉は、わたくし自身を恍惚とさせて止みませぬ。甘い疼きが全身に満ちておりました。
「おのれい……」
父は刀を振り上げました。わたくしを斬るのでしょうや。それはわたくしに甘い疼きをもたらすだけのものでございます。わたくしは歓喜の笑みを浮かべ、両手を左右に拡げ、父の太刀を待っておりました。
と、粘着な音が背後から致しました。
父は刀を振り上げたまま、両の目を見開いて、井戸を見つめています。
わたくしは、振り返ることなく、何が起こっているのかが見えておりました。
井戸の木組み縁から、汚泥のような黒くどろりとしたものが一塊となって庭へと流れ出したのでございます。それは庭の土の上をゆっくりと這いました。這いながらその中から迫り出すように頭が、肩が、腕と胴が、腰と脚が伸びてまいります。黒い塊は黒い影のような人形(ひとがた)となり、今度は歩き出しました。
「ははは…… 見えるか? これは青井の手に掛かって死した骸が、鬼となったものだ」わたくしの手が、振り返る事なく井戸を指します。「ほうれ、まだまだ出て来るぞ」
井戸から、幾つもの黒いどろりとした塊が湧いて出て、庭を這い、黒い人形となって、父へとゆっくりと歩きます。
父は迫る人形の一人に刀を振り下ろしました。右腕が斬り飛ばされましたが、胴体からむくむくと腕が伸びて来て、元に戻りました。
「ははは…… 無駄だ! 青井への怨みは、鬼になれぬお前の太刀では拭えぬ!」
父はわたくしの言葉が聞こえぬようで、構わずに刀を振り続けています。父の迫る人形は増えてまいります。わたくしは蝉の死骸に集う蟻どもの姿をそこに見ておりました。もちろん、蝉の死骸は父、蟻どもは黒い人形どもでございます。
「……旦那様……」
井戸から弱々しくも恨めしい声が致しました。父は振り回していた刀を止め、井戸を見つめます。
右半分が大きく欠けた血まみれの顔が井戸から覗きました。それは井戸に落ちた母でございました。
「旦那様…… 何故でございます? 何故わたくしを井戸に落とされたのでございます?」
つづく
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