その夜、兵太は寝床には居るものの、まんじりともしなかった。両親ともすでに深い寝息を立てている。隣の弟の太郎も寝返りを打ちながら鼾をかいている。
「……ゲロゲロゲロ…… ゲロゲロゲロ……」
誰がどう聞いたって松次の声だ。あれで蛙だって? 兵太は笑いを堪えながら戸の心張り棒をそっと外し、音を立てないようにして外に出た。偉そうに腰に手を当てて立っている松次が、月明りに浮かんでいる。
「松次、お前、蛙の鳴き真似がうまいな」
「そうだろう。オレが鳴き真似すりゃあ、本物の蛙も黙って聞き惚れらあ」
それは人だとすぐにばれて蛙が逃げ出すんだぞと兵太は思ったが黙っていた。松次を怒らせると所構わず大声を出す。今そんな事になったら、おっ父うがすぐに家から飛び出してきて、オレはとっ捕まって大目玉だ。その間に松次は逃げちまうだろう。兵太は腹の中で松次を小馬鹿にすることで我慢した。
二人は月明りを頼りに荒れ寺へ向かった。寺に着くと、今まであった月明かりが湧いてきた雲に隠されて暗くなってしまった。
「これじゃよく見えねぇな」そう言うと、松次は崩れた塀の隙間から敷地内を覗いた。「暗くてわかんねぇけど、猫の声もしねぇし、エサやりのおっさんの声もしねぇ」
「だから、オレの思い付きだって言ったろう? 松次、お前が勝手にそうに違いないって言い張っただけじゃないかよう」
「いや、今はきっと一休みしてんでぇ!」
「向きになんなよ。もう良いから、帰ろうぜ。入口の心張り棒を外してきてんだから、気になるしよう……」
「ふん、じゃあ兵太は帰れよ! オレは中に入って見てくらぁ!」
松次は大きな声で吐き捨てると、門の方へと走った。兵太は後を追った。
門とは言え小さなもので、ほとんどが腐りかけていた。観音開きの二枚戸の右側はすでに朽ちてしまい無くなっていた。残った左側も蝶番が一か所無くなっていて、大きく傾いたまま開いている。松次はそこから入ろうと言うのだ。
「松次、やめろよ。帰ろうぜ……」
門を前にしたまま動かない松次に兵太が言う。
「……兵太。帰って良いって言っただろ」松次は背中で答える。「それに今帰ったんじゃ、明日、仁吉やおみよに何を言われるか、分かんねぇ」
「仁吉もおみよも何も言わないよ。それも松次の思い込みだ」
「やかましいや! とにかく、オレは中に入って見てくる!」
そうは言ったものの、月明りは相変わらず雲に隠れている。それと、妙にしんとした気配が相まって松次の足は動かない。
「松次よう……」兵太が松次の兵児帯をつかんだ。「薄気味悪いぜ…… 止めて帰ろうぜ……」
「いやだ、このまま帰れねぇ!」
松次は大きな声で兵太に向かって言うと、兵太の手を振り切って、門に向かって歩き出した。
すると、門の向こう側に、黄色く光る小さな丸い玉が集まってきた。月明りが戻ってきて、辺りを照らした。黄色い玉は、猫たちの目だった。ぞろぞろと猫たちが集まり始めている。鳴き声一つ立てない。
「松次! なんか変だぞ! 戻って来いよ! 帰ろうぜ!」兵太が言う。松次も足を止めた。「そうだよ! 無茶する事なんかないぜ!」
「……それもそうだな……」松次は言いながら踵を返し、兵太の方へ歩き出した。「エサやりのおっさんなんて、居なかったな……」
「そうさ、居なかったんだよ……」兵太はほっとしたように言う。が、すぐに険しい表情になって叫んだ。「松次! 走れ!」
松次は背後に気配を感じて、足を止めて振り返った。
門の所に居た猫たちが、声も立てずに一斉に松次に突進した。松次はあまりの事に驚いて腰を抜かして、その場に座り込んでしまった。猫たちは松次に飛び掛かった。首筋に噛みついたり、顔を引っ掻いたりした。松次はたまらず顔を手で覆った。その手にも猫たちは噛みつき、引っ掻いた。
「うへえええっ!」顔を押さえたまま松次は地面を右へ左へと転げまわった。だが、猫たちは変わらず襲い続ける。「痛い! 痛いよう!」
そのうちに猫たちは松次の着物の襟首を噛み、門の方へと引きずり始めた。数匹は松次の上に居て、はだけた胸に噛みついたり、顔を覆っている両手を引っ掻いたりしている。悲鳴を上げる松次を猫たちは門の中へ引きずり込んで行った。
月明りが消えた。悲鳴が止んだ。
しばらくすると、門の所に再び黄色い玉が集まり始めた。猫たちは瞬きもせず、兵太を見つめている。
「うわあああああっ!」
兵太は悲鳴を上げ、泣きながら家へ走って行った。
つづく
「……ゲロゲロゲロ…… ゲロゲロゲロ……」
誰がどう聞いたって松次の声だ。あれで蛙だって? 兵太は笑いを堪えながら戸の心張り棒をそっと外し、音を立てないようにして外に出た。偉そうに腰に手を当てて立っている松次が、月明りに浮かんでいる。
「松次、お前、蛙の鳴き真似がうまいな」
「そうだろう。オレが鳴き真似すりゃあ、本物の蛙も黙って聞き惚れらあ」
それは人だとすぐにばれて蛙が逃げ出すんだぞと兵太は思ったが黙っていた。松次を怒らせると所構わず大声を出す。今そんな事になったら、おっ父うがすぐに家から飛び出してきて、オレはとっ捕まって大目玉だ。その間に松次は逃げちまうだろう。兵太は腹の中で松次を小馬鹿にすることで我慢した。
二人は月明りを頼りに荒れ寺へ向かった。寺に着くと、今まであった月明かりが湧いてきた雲に隠されて暗くなってしまった。
「これじゃよく見えねぇな」そう言うと、松次は崩れた塀の隙間から敷地内を覗いた。「暗くてわかんねぇけど、猫の声もしねぇし、エサやりのおっさんの声もしねぇ」
「だから、オレの思い付きだって言ったろう? 松次、お前が勝手にそうに違いないって言い張っただけじゃないかよう」
「いや、今はきっと一休みしてんでぇ!」
「向きになんなよ。もう良いから、帰ろうぜ。入口の心張り棒を外してきてんだから、気になるしよう……」
「ふん、じゃあ兵太は帰れよ! オレは中に入って見てくらぁ!」
松次は大きな声で吐き捨てると、門の方へと走った。兵太は後を追った。
門とは言え小さなもので、ほとんどが腐りかけていた。観音開きの二枚戸の右側はすでに朽ちてしまい無くなっていた。残った左側も蝶番が一か所無くなっていて、大きく傾いたまま開いている。松次はそこから入ろうと言うのだ。
「松次、やめろよ。帰ろうぜ……」
門を前にしたまま動かない松次に兵太が言う。
「……兵太。帰って良いって言っただろ」松次は背中で答える。「それに今帰ったんじゃ、明日、仁吉やおみよに何を言われるか、分かんねぇ」
「仁吉もおみよも何も言わないよ。それも松次の思い込みだ」
「やかましいや! とにかく、オレは中に入って見てくる!」
そうは言ったものの、月明りは相変わらず雲に隠れている。それと、妙にしんとした気配が相まって松次の足は動かない。
「松次よう……」兵太が松次の兵児帯をつかんだ。「薄気味悪いぜ…… 止めて帰ろうぜ……」
「いやだ、このまま帰れねぇ!」
松次は大きな声で兵太に向かって言うと、兵太の手を振り切って、門に向かって歩き出した。
すると、門の向こう側に、黄色く光る小さな丸い玉が集まってきた。月明りが戻ってきて、辺りを照らした。黄色い玉は、猫たちの目だった。ぞろぞろと猫たちが集まり始めている。鳴き声一つ立てない。
「松次! なんか変だぞ! 戻って来いよ! 帰ろうぜ!」兵太が言う。松次も足を止めた。「そうだよ! 無茶する事なんかないぜ!」
「……それもそうだな……」松次は言いながら踵を返し、兵太の方へ歩き出した。「エサやりのおっさんなんて、居なかったな……」
「そうさ、居なかったんだよ……」兵太はほっとしたように言う。が、すぐに険しい表情になって叫んだ。「松次! 走れ!」
松次は背後に気配を感じて、足を止めて振り返った。
門の所に居た猫たちが、声も立てずに一斉に松次に突進した。松次はあまりの事に驚いて腰を抜かして、その場に座り込んでしまった。猫たちは松次に飛び掛かった。首筋に噛みついたり、顔を引っ掻いたりした。松次はたまらず顔を手で覆った。その手にも猫たちは噛みつき、引っ掻いた。
「うへえええっ!」顔を押さえたまま松次は地面を右へ左へと転げまわった。だが、猫たちは変わらず襲い続ける。「痛い! 痛いよう!」
そのうちに猫たちは松次の着物の襟首を噛み、門の方へと引きずり始めた。数匹は松次の上に居て、はだけた胸に噛みついたり、顔を覆っている両手を引っ掻いたりしている。悲鳴を上げる松次を猫たちは門の中へ引きずり込んで行った。
月明りが消えた。悲鳴が止んだ。
しばらくすると、門の所に再び黄色い玉が集まり始めた。猫たちは瞬きもせず、兵太を見つめている。
「うわあああああっ!」
兵太は悲鳴を上げ、泣きながら家へ走って行った。
つづく
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