母を見た時の父の顔と言ったら! 黒い人形どもに向かって虚しく刀を振り回していた父が、無様に狼狽し、刀を取り落としてしまいました。
「奥!」
父は井戸から這い上がろうとしている母に向かって声を張ります。しかし、その声は裏返り、さながら女の悲鳴でございました。
「旦那様……」
母はすっかり井戸から這い上がりました。右の腕があらぬ方向に曲がっております。井戸に落ちた際に骨をぶつけて曲がってしまったのでございましょう。脚も引きずりながら、父の方へと進んでいます。右半分の欠けた顔に残った左の眼はじっと父を見つめております。
「旦那様…… 何故わたくしを井戸に落とされたのでございます……」
次第に母の声が低くなっていきます。左目にちらちらと鬼火が燃えてきます。
「待て! 悪かった!」父は母を制するように右手を伸ばして広げます。その手は震えています。「落とすつもりなどなかったのだ! あれは、弾みだ! 本意ではなかったのだ!」
黒い人形どもは動きを止め、その間隙から母が父に迫ってきました。
「……旦那様ぁぁぁぁ!」
母の声は恨みの籠ったものでございました。
父は短い悲鳴を上げると、屋敷の中へと逃げ込みました。
わたくしの口は、けたたましい笑い声を上げていました。何もかもが滑稽で、無様で、愚かでございました。
母はすっと宙を浮くようにして屋敷の廊下に上がりました。その後に従うように、黒い人形どもは動き出し、廊下へと上がって行きます。皆父を追っています、時折、父の悲鳴が聞こえます。その度にわたくしは笑い声を立てておりました。
「鬼になれぬ者などいらぬわ! 何が先代に殉ずるか! 青井の、鬼の血を持ちながら、何が人に殉ずるか! 鬼になれぬ愚か者は、骸の鬼どもの餌食となるが相応しい!」
わたくしの口はそう言い、けたたましい笑い声を上げました。
しばらくして、屋敷の中からきな臭い臭いがしてきました。そして、煙が漂ってまいりました。
屋敷のほとんどの雨戸を閉めていたため、あちこちに蝋燭を立てておりました。それが倒れ、畳や障子に火が着いたのでございましょう。蝋燭の事を忘れて逃げ惑い、暴れ回った父は、真に愚かの極みでございます。
「ははは…… 燃えろ、鬼になれぬ青井など燃え尽きてしまうが良いのだ!」
わたくしの口が言い放ちました。そして、けたたましい笑いを上げます。
「待てい!」
背後から鋭い声が飛んでまいりました。振り向きますと、いつぞやの坊主が、相変わらずの汚い形で立っておりました。
「何じゃ、糞坊主?」わたくしの口が言います。「今さら来ても手遅れじゃ! 巻き込まれぬうちに立ち去れい!」
わたくしは言うと、父の落とした刀を拾い上げ、坊主に向かって投げつけました。切っ先が真っ直ぐに坊主に向かいます。坊主は手にした古びた錫杖で刀を払いました。
「お前さん、鬼に憑りつかれたね…… 護符を蔑ろにしたからだ」
坊主は悲しそうな顔をします。鬼となったわたくしが坊主に同情される事が可笑しゅうございました。
「ははは…… あんな紙切れ、蚊ほども効かぬわ!」
わたくしの口が嘲りました。
「黙れ、この大戯け(たわけ)が!」
坊主が一喝しました。今度は怒りに形相でございました。
坊主は袂から幾つか珠の欠けた大きな数珠を取り出しました。それから錫杖を地に突き立てました。
「鬼は大人しく地獄に居れ! その娘から放れよ!」
「ははは…… 坊主よ! この娘の中の鬼の血が香ったのだ! この娘は元々が鬼だ」
「それは娘の思い込みじゃ! ……いや、お前が唆したのであろうが!」
「はて、どうであったかな?」
わたくしの口はそう言って笑い出しました。
「戯けが!」
坊主は言うと、手にした数珠を突き立てた錫杖に打ち付け始めました。
つづく
「奥!」
父は井戸から這い上がろうとしている母に向かって声を張ります。しかし、その声は裏返り、さながら女の悲鳴でございました。
「旦那様……」
母はすっかり井戸から這い上がりました。右の腕があらぬ方向に曲がっております。井戸に落ちた際に骨をぶつけて曲がってしまったのでございましょう。脚も引きずりながら、父の方へと進んでいます。右半分の欠けた顔に残った左の眼はじっと父を見つめております。
「旦那様…… 何故わたくしを井戸に落とされたのでございます……」
次第に母の声が低くなっていきます。左目にちらちらと鬼火が燃えてきます。
「待て! 悪かった!」父は母を制するように右手を伸ばして広げます。その手は震えています。「落とすつもりなどなかったのだ! あれは、弾みだ! 本意ではなかったのだ!」
黒い人形どもは動きを止め、その間隙から母が父に迫ってきました。
「……旦那様ぁぁぁぁ!」
母の声は恨みの籠ったものでございました。
父は短い悲鳴を上げると、屋敷の中へと逃げ込みました。
わたくしの口は、けたたましい笑い声を上げていました。何もかもが滑稽で、無様で、愚かでございました。
母はすっと宙を浮くようにして屋敷の廊下に上がりました。その後に従うように、黒い人形どもは動き出し、廊下へと上がって行きます。皆父を追っています、時折、父の悲鳴が聞こえます。その度にわたくしは笑い声を立てておりました。
「鬼になれぬ者などいらぬわ! 何が先代に殉ずるか! 青井の、鬼の血を持ちながら、何が人に殉ずるか! 鬼になれぬ愚か者は、骸の鬼どもの餌食となるが相応しい!」
わたくしの口はそう言い、けたたましい笑い声を上げました。
しばらくして、屋敷の中からきな臭い臭いがしてきました。そして、煙が漂ってまいりました。
屋敷のほとんどの雨戸を閉めていたため、あちこちに蝋燭を立てておりました。それが倒れ、畳や障子に火が着いたのでございましょう。蝋燭の事を忘れて逃げ惑い、暴れ回った父は、真に愚かの極みでございます。
「ははは…… 燃えろ、鬼になれぬ青井など燃え尽きてしまうが良いのだ!」
わたくしの口が言い放ちました。そして、けたたましい笑いを上げます。
「待てい!」
背後から鋭い声が飛んでまいりました。振り向きますと、いつぞやの坊主が、相変わらずの汚い形で立っておりました。
「何じゃ、糞坊主?」わたくしの口が言います。「今さら来ても手遅れじゃ! 巻き込まれぬうちに立ち去れい!」
わたくしは言うと、父の落とした刀を拾い上げ、坊主に向かって投げつけました。切っ先が真っ直ぐに坊主に向かいます。坊主は手にした古びた錫杖で刀を払いました。
「お前さん、鬼に憑りつかれたね…… 護符を蔑ろにしたからだ」
坊主は悲しそうな顔をします。鬼となったわたくしが坊主に同情される事が可笑しゅうございました。
「ははは…… あんな紙切れ、蚊ほども効かぬわ!」
わたくしの口が嘲りました。
「黙れ、この大戯け(たわけ)が!」
坊主が一喝しました。今度は怒りに形相でございました。
坊主は袂から幾つか珠の欠けた大きな数珠を取り出しました。それから錫杖を地に突き立てました。
「鬼は大人しく地獄に居れ! その娘から放れよ!」
「ははは…… 坊主よ! この娘の中の鬼の血が香ったのだ! この娘は元々が鬼だ」
「それは娘の思い込みじゃ! ……いや、お前が唆したのであろうが!」
「はて、どうであったかな?」
わたくしの口はそう言って笑い出しました。
「戯けが!」
坊主は言うと、手にした数珠を突き立てた錫杖に打ち付け始めました。
つづく
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