おくみは、坊様と藤島の様子を見て、何とかしなければと立ち上がろうとする。しかし、まだ腰がしゃんとしない。全身に震えが残っている。
「藤島様!」おくみは声をかけた。掠れた悲鳴のような声だった。「しっかりして下さいましよう!」
藤島がおくみの声にからだをぴくんと震わせ、刀は右手で握ったままだったが、両腕をだらりと下げた。声が届いた! おくみはほっと息を漏らす。藤島はおくみにからだを向けた。
白濁の双眼の目尻と口角の両端が吊り上がったままで、口の端から上る黒い霧から、強烈な腐臭が漂ってくる。おくみは嘔吐感に襲われ、思わず口と鼻を両手で塞ぐ。
「おくみさん、無理じゃ! 心の奥まで憑かれてしまっておるのじゃ!」
坊様は言うと、おくみの方を向いてがら空きになっている藤島の背に、裂帛の気合いと共に錫杖を突き入れた。と、藤島は背を向けたまま、まるで見えてでもいたかのように空いている左手で錫杖を掴んだ。坊様が引こうとするも、びくともしない。錫杖を掴んだまま藤島は顔を真後ろにいる坊様に向けた。首だけがくるりと回ったのだ。その異様な姿におくみが悲鳴を上げる。
「……許さぬ…… 許さぬぞ……」藤島の口から、藤島のものとは違うくぐもった低い男の声がした。「……我が地を荒らす者ども……」
「干乾び爺が、何をぬかしておるかあ!」坊様が一喝する。「畏れ多くも御神体を操る大たわけが! 何が許さぬか! 何が我が地か!」
藤島が錫杖を放り出すようにして手放した。坊様はその勢いで尻もちをついた。藤島はからだも坊様に向き直すと、刀を正眼に構えた。獣のような唸り声を発している。
坊様は素早く立ち上がると、錫杖を再び槍の様に構えた。その頬に苦渋の汗が滴る。
「やはり、これまでのようじゃ……」坊様は呟く。「何とか相打ちに持ち込めれば良いのじゃがのう……」
坊様は深く一呼吸すると、小声で念仏を唱え始めた。藤島はじりじりと坊様との間合いを詰めて来る。
おくみにも、次が最後の一手と分かった。藤島の全身から黒い霧が立ち上り始めたのが見える。坊様の額から汗が滴るのが見える。おくみは思わず両手を合わせる。
二人の対峙する祠を中心とした草木の刈り取られたその一角には、風がそよとも吹かず、鳥も啼かず、ただ中天へ進む陽だけが強く照りつける。
このままでは…… おくみは気は焦るが手立てがない。まだ腰も立たなかった。
おくみの背後で草擦れの音がした。
反射的におくみが振り返ると、お千加がぽかんとした顔で横座りに座っていた。状況を飲み込めていない虚ろな眼差しで周囲を見回している。
「お坊様!」おくみがお千加を見ながら必死で声を出す。「お千加さんが気が付きましたよう!」
途端に獣のような咆哮が起こった。……しまった! おくみは声の方に振り返る。藤島がこちらを見ている。おくみは軽率な自分を悔やんだ。……自分はともかく、お千加さんに何かあったら、わたしゃ死んでも死にきれないよ! おくみはいざりながらからだの向きを変え、お千加を自分の背に隠した。
坊様が隙を突いて藤島目がけて錫杖を繰り出す。しかし、藤島は坊様を見る事も無く刀を一閃させると、錫杖を坊様の手から弾き飛ばした。錫杖は祠の前に転がった。藤島は刀を手にしたまま、ゆっくりとおくみの方へ歩み出した。
「おくみさん! 逃げろ!」坊様が叫ぶ。「藤島さんは、もう世の者ではない!」
「でも、でも……」おくみは泣き出す。「足が立たないんですよう! それに、お千加さんもいるし!」
坊様は藤島に駈け寄る。首に掛けた数珠を手に移し、藤島の背に強く振り下ろす。藤島は振り返る事無く、乱暴に刀を振り回した。数珠が刀に弾かれ、散り散りになった。その間も藤島の足は止まらない。間伐を入れず坊様は藤島に背後から飛び掛かった。両腕を藤島の前で組み、藤島の腕を拘束すると力任せに引き倒そうとする。巨漢な坊様の怪力で藤島の足が止まった。坊様は念仏を唱え始める。
「ぬあああっ!」
突如、藤島が咆哮し、からだを揺する。坊様は飛ばされ、近くの樹に叩きつけられた。
「……むっ……」
坊様は貫く激痛に腰が砕け座り込むと、顔を歪めたまま気を失ってしまった。藤島は坊様を見ようともせず、おくみたちへと向かって来る。
おくみは、動かなくなった坊様と白濁の眼で迫ってくる藤島とを見た。……こんな事になるんだったら、お念仏の一つでも覚えておきゃあ良かったよ! おくみは覚悟した。
つづく
「藤島様!」おくみは声をかけた。掠れた悲鳴のような声だった。「しっかりして下さいましよう!」
藤島がおくみの声にからだをぴくんと震わせ、刀は右手で握ったままだったが、両腕をだらりと下げた。声が届いた! おくみはほっと息を漏らす。藤島はおくみにからだを向けた。
白濁の双眼の目尻と口角の両端が吊り上がったままで、口の端から上る黒い霧から、強烈な腐臭が漂ってくる。おくみは嘔吐感に襲われ、思わず口と鼻を両手で塞ぐ。
「おくみさん、無理じゃ! 心の奥まで憑かれてしまっておるのじゃ!」
坊様は言うと、おくみの方を向いてがら空きになっている藤島の背に、裂帛の気合いと共に錫杖を突き入れた。と、藤島は背を向けたまま、まるで見えてでもいたかのように空いている左手で錫杖を掴んだ。坊様が引こうとするも、びくともしない。錫杖を掴んだまま藤島は顔を真後ろにいる坊様に向けた。首だけがくるりと回ったのだ。その異様な姿におくみが悲鳴を上げる。
「……許さぬ…… 許さぬぞ……」藤島の口から、藤島のものとは違うくぐもった低い男の声がした。「……我が地を荒らす者ども……」
「干乾び爺が、何をぬかしておるかあ!」坊様が一喝する。「畏れ多くも御神体を操る大たわけが! 何が許さぬか! 何が我が地か!」
藤島が錫杖を放り出すようにして手放した。坊様はその勢いで尻もちをついた。藤島はからだも坊様に向き直すと、刀を正眼に構えた。獣のような唸り声を発している。
坊様は素早く立ち上がると、錫杖を再び槍の様に構えた。その頬に苦渋の汗が滴る。
「やはり、これまでのようじゃ……」坊様は呟く。「何とか相打ちに持ち込めれば良いのじゃがのう……」
坊様は深く一呼吸すると、小声で念仏を唱え始めた。藤島はじりじりと坊様との間合いを詰めて来る。
おくみにも、次が最後の一手と分かった。藤島の全身から黒い霧が立ち上り始めたのが見える。坊様の額から汗が滴るのが見える。おくみは思わず両手を合わせる。
二人の対峙する祠を中心とした草木の刈り取られたその一角には、風がそよとも吹かず、鳥も啼かず、ただ中天へ進む陽だけが強く照りつける。
このままでは…… おくみは気は焦るが手立てがない。まだ腰も立たなかった。
おくみの背後で草擦れの音がした。
反射的におくみが振り返ると、お千加がぽかんとした顔で横座りに座っていた。状況を飲み込めていない虚ろな眼差しで周囲を見回している。
「お坊様!」おくみがお千加を見ながら必死で声を出す。「お千加さんが気が付きましたよう!」
途端に獣のような咆哮が起こった。……しまった! おくみは声の方に振り返る。藤島がこちらを見ている。おくみは軽率な自分を悔やんだ。……自分はともかく、お千加さんに何かあったら、わたしゃ死んでも死にきれないよ! おくみはいざりながらからだの向きを変え、お千加を自分の背に隠した。
坊様が隙を突いて藤島目がけて錫杖を繰り出す。しかし、藤島は坊様を見る事も無く刀を一閃させると、錫杖を坊様の手から弾き飛ばした。錫杖は祠の前に転がった。藤島は刀を手にしたまま、ゆっくりとおくみの方へ歩み出した。
「おくみさん! 逃げろ!」坊様が叫ぶ。「藤島さんは、もう世の者ではない!」
「でも、でも……」おくみは泣き出す。「足が立たないんですよう! それに、お千加さんもいるし!」
坊様は藤島に駈け寄る。首に掛けた数珠を手に移し、藤島の背に強く振り下ろす。藤島は振り返る事無く、乱暴に刀を振り回した。数珠が刀に弾かれ、散り散りになった。その間も藤島の足は止まらない。間伐を入れず坊様は藤島に背後から飛び掛かった。両腕を藤島の前で組み、藤島の腕を拘束すると力任せに引き倒そうとする。巨漢な坊様の怪力で藤島の足が止まった。坊様は念仏を唱え始める。
「ぬあああっ!」
突如、藤島が咆哮し、からだを揺する。坊様は飛ばされ、近くの樹に叩きつけられた。
「……むっ……」
坊様は貫く激痛に腰が砕け座り込むと、顔を歪めたまま気を失ってしまった。藤島は坊様を見ようともせず、おくみたちへと向かって来る。
おくみは、動かなくなった坊様と白濁の眼で迫ってくる藤島とを見た。……こんな事になるんだったら、お念仏の一つでも覚えておきゃあ良かったよ! おくみは覚悟した。
つづく
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