「おさえ、帰ったよ」
太吉は家の引き戸を開ける。家と言っても、土間と囲炉裏を切った上がりと奥に狭い寝床の間があるだけだった。それでも太吉夫婦には広々として見えた。共に人数の多い兄弟姉妹で育ったから、こうして、二人だけでいると静かで余計広く感じた。
「あら、お帰り。今日は早いのね」おさえが囲炉裏の前に座って火加減を見ていた。まだ幼さが残っているが、口だけは一人前の嫁だ。周りのおかみさんたちに日頃鍛えられている成果なのだろう。「漁は中止になったのかい?」
「そんな所だ」太吉は足の砂を手で払い落し、おさえの横に尻を据えた。「鉄兄ぃがさ、今日一日中は子作りに励めってさ」
「まあ、いやだ!」おさえは太吉を肘で突つき、赤くなった。「こんな明るい中、無理よ。恥ずかしい……」
「おさえはあの時の声が大きいから、皆に聞かれてしうましな」
「いやっ! もうっ!」
おさえは真っ赤になって太吉に背を向けた。太吉はその背からおさえを抱きしめた。おさえは抱きしめられたまま、その太く逞しい腕に頬をそっと当てた。どこからか子供の泣き声や夫婦喧嘩の怒鳴り声や大笑いしている声などが聞こえてきた。
「太吉さん……」おさえはそのままの姿で言う。「わたし、太吉さんと一緒になれて、とっても嬉しい……」
「オレの方こそ、嬉しいよ……」太吉の腕に力がこもる。「ずっと一緒だ……」
おさえは頷きながら、太吉に背を預けるように倒れてくる。太吉はそれを優しく受け止める。
と、引き戸が無遠慮に叩かれた。二人は弾かれたように離れた。おさえは慌てて奥の間に駆け込んだ。太吉はちょっと忌々しそうな顔をして引き戸を開けた。
鉄と権二と松吉が立っていた。それぞれの手に酒と干し魚を持っていた。
「鉄兄ぃ……」太吉は驚いた顔をする。「何でぇ、オレにあんなこと言っておきながら、邪魔しに来たのかよ」
「まあ、そう言うな」鉄はにやにやと笑う。権二も松吉もにやにやしている。酔ってもいるようだ。「太吉、お前らは若い! これから幾らでも時がある! だがよ、オレたちみたいな爺ぃには時が少ねぇ。だから、太吉と飲みてぇと思ったら、飲まにゃあならねぇ。明日はどうなるか分からねぇからな!」
「何言ってんだよ。兄ぃたちゃあ、まだ若けぇじゃねぇかよう。それに、飲みたいからって、ちょっと勝手過ぎねぇか?」
「とか何とか言ってよう……」権二が言う。「良いところだったんじゃねぇのかあ?」
「おっと、そうだったのかい?」鉄が言う。「そりゃあ悪いことをしたなあ。まあ、お前らはまだ時があるから良いじゃねぇか」
そう言うと鉄は大きな声で笑った。権二も松吉も笑う。太吉もつられて笑い出した。
「鉄兄ぃにゃあ、かなわねぇなあ……」太吉は振り返って、奥へ声をかける。「おさえ、もう諦めて出てきなよ」
奥の部屋の戸がするすると開いて、頬を染めて恥ずかしそうにしたおさえが現われて、ぺこりと頭を下げた。
「いやあ、おさえちゃん、悪いなぁ……」鉄は言うが、ちっとも悪びれていない。「本当はな、皆、おさえちゃんの顔を見て、飲みたがってよう」
「何言ってんだ」松吉が口を尖らせる。「おさえちゃんと飲みたがってんのは、鉄じゃねぇかよ」
「そうだそうだ!」権二も加勢する「おいらたちゃあ、邪魔すんじゃねぇって言ったんだぜ」
「まあまあ、いいじゃありませんか」おさえはいっぱしの口を利くが、まだ頬が赤い。「皆さん、上がってくださいな」
三人は口々に詫びを言うが、どかどかと上がって囲炉裏を囲んだ。太吉も加わり、酒宴が始まった。
おさえはまめまめしく酌をしたり、干し魚を切り分けたりしている。
しばらくすると、引き戸が開いた。そこに居たのは鉄の女房のおみわだった。
「あんた! 帰ってこないと思ったら、こんな所で……」
「どうして、ここだと分かったんでぇ?」
「あんたの大声が辺り中に響いているからね、分からない方がどうかしてるよ!」おみわが怒鳴る。おみわもなかなかの大声だ。「それにね、飲みたきゃ家でおやりよ」
「ふん! 古女房の面見て飲んだってな、悪酔いするだけでぇ!」
「なんだってぇぇ!」
「まあまあ……」おさえが二人の間に立った。双方に笑顔を向ける。「おみわさんも上がってくださいな。みんなで楽しくやりましょう」
「……いいのかい?」おみわは言う。「言ってくれたら、こいつらまとめて連れ出すよ」
「いいえ。みんなと一緒の方が太吉さんも楽しそうだし……」
「おさえちゃんは、いつだって太吉さんが一番なんだねぇ……」おみわは溜め息をつく。「……うちの亭主も見習えってんだ!」
「ふん! お前がおさえちゃんくらい可愛かったら、幾らでも見習ってやるぜ!」
「違ぇねぇや、あっはっは!」権二が言いながら笑う。「鉄の女房はひでぇもんな!」
「何だとぉ!」鉄は権二を睨みつける。「てめぇ、人の女房に何ぬかしやがる!」
「自分で言ってたじゃねぇかよう!」
「オレは良いんでぇ! 他のヤツに言われると、腹が立つんだ!」
「勝手だなぁ……」
皆笑った。太吉もおさえも楽しそうだ。
つづく
太吉は家の引き戸を開ける。家と言っても、土間と囲炉裏を切った上がりと奥に狭い寝床の間があるだけだった。それでも太吉夫婦には広々として見えた。共に人数の多い兄弟姉妹で育ったから、こうして、二人だけでいると静かで余計広く感じた。
「あら、お帰り。今日は早いのね」おさえが囲炉裏の前に座って火加減を見ていた。まだ幼さが残っているが、口だけは一人前の嫁だ。周りのおかみさんたちに日頃鍛えられている成果なのだろう。「漁は中止になったのかい?」
「そんな所だ」太吉は足の砂を手で払い落し、おさえの横に尻を据えた。「鉄兄ぃがさ、今日一日中は子作りに励めってさ」
「まあ、いやだ!」おさえは太吉を肘で突つき、赤くなった。「こんな明るい中、無理よ。恥ずかしい……」
「おさえはあの時の声が大きいから、皆に聞かれてしうましな」
「いやっ! もうっ!」
おさえは真っ赤になって太吉に背を向けた。太吉はその背からおさえを抱きしめた。おさえは抱きしめられたまま、その太く逞しい腕に頬をそっと当てた。どこからか子供の泣き声や夫婦喧嘩の怒鳴り声や大笑いしている声などが聞こえてきた。
「太吉さん……」おさえはそのままの姿で言う。「わたし、太吉さんと一緒になれて、とっても嬉しい……」
「オレの方こそ、嬉しいよ……」太吉の腕に力がこもる。「ずっと一緒だ……」
おさえは頷きながら、太吉に背を預けるように倒れてくる。太吉はそれを優しく受け止める。
と、引き戸が無遠慮に叩かれた。二人は弾かれたように離れた。おさえは慌てて奥の間に駆け込んだ。太吉はちょっと忌々しそうな顔をして引き戸を開けた。
鉄と権二と松吉が立っていた。それぞれの手に酒と干し魚を持っていた。
「鉄兄ぃ……」太吉は驚いた顔をする。「何でぇ、オレにあんなこと言っておきながら、邪魔しに来たのかよ」
「まあ、そう言うな」鉄はにやにやと笑う。権二も松吉もにやにやしている。酔ってもいるようだ。「太吉、お前らは若い! これから幾らでも時がある! だがよ、オレたちみたいな爺ぃには時が少ねぇ。だから、太吉と飲みてぇと思ったら、飲まにゃあならねぇ。明日はどうなるか分からねぇからな!」
「何言ってんだよ。兄ぃたちゃあ、まだ若けぇじゃねぇかよう。それに、飲みたいからって、ちょっと勝手過ぎねぇか?」
「とか何とか言ってよう……」権二が言う。「良いところだったんじゃねぇのかあ?」
「おっと、そうだったのかい?」鉄が言う。「そりゃあ悪いことをしたなあ。まあ、お前らはまだ時があるから良いじゃねぇか」
そう言うと鉄は大きな声で笑った。権二も松吉も笑う。太吉もつられて笑い出した。
「鉄兄ぃにゃあ、かなわねぇなあ……」太吉は振り返って、奥へ声をかける。「おさえ、もう諦めて出てきなよ」
奥の部屋の戸がするすると開いて、頬を染めて恥ずかしそうにしたおさえが現われて、ぺこりと頭を下げた。
「いやあ、おさえちゃん、悪いなぁ……」鉄は言うが、ちっとも悪びれていない。「本当はな、皆、おさえちゃんの顔を見て、飲みたがってよう」
「何言ってんだ」松吉が口を尖らせる。「おさえちゃんと飲みたがってんのは、鉄じゃねぇかよ」
「そうだそうだ!」権二も加勢する「おいらたちゃあ、邪魔すんじゃねぇって言ったんだぜ」
「まあまあ、いいじゃありませんか」おさえはいっぱしの口を利くが、まだ頬が赤い。「皆さん、上がってくださいな」
三人は口々に詫びを言うが、どかどかと上がって囲炉裏を囲んだ。太吉も加わり、酒宴が始まった。
おさえはまめまめしく酌をしたり、干し魚を切り分けたりしている。
しばらくすると、引き戸が開いた。そこに居たのは鉄の女房のおみわだった。
「あんた! 帰ってこないと思ったら、こんな所で……」
「どうして、ここだと分かったんでぇ?」
「あんたの大声が辺り中に響いているからね、分からない方がどうかしてるよ!」おみわが怒鳴る。おみわもなかなかの大声だ。「それにね、飲みたきゃ家でおやりよ」
「ふん! 古女房の面見て飲んだってな、悪酔いするだけでぇ!」
「なんだってぇぇ!」
「まあまあ……」おさえが二人の間に立った。双方に笑顔を向ける。「おみわさんも上がってくださいな。みんなで楽しくやりましょう」
「……いいのかい?」おみわは言う。「言ってくれたら、こいつらまとめて連れ出すよ」
「いいえ。みんなと一緒の方が太吉さんも楽しそうだし……」
「おさえちゃんは、いつだって太吉さんが一番なんだねぇ……」おみわは溜め息をつく。「……うちの亭主も見習えってんだ!」
「ふん! お前がおさえちゃんくらい可愛かったら、幾らでも見習ってやるぜ!」
「違ぇねぇや、あっはっは!」権二が言いながら笑う。「鉄の女房はひでぇもんな!」
「何だとぉ!」鉄は権二を睨みつける。「てめぇ、人の女房に何ぬかしやがる!」
「自分で言ってたじゃねぇかよう!」
「オレは良いんでぇ! 他のヤツに言われると、腹が立つんだ!」
「勝手だなぁ……」
皆笑った。太吉もおさえも楽しそうだ。
つづく
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