ブラック・メルヒェン その6 「ピアノの想い出」

　ここ何年も利用されていなかった老朽化したコンサートホールの取り壊しが決まりました。当然、ホール備え付けだった様々な備品も処分される事になりました。その中にホールが落成した時から使用され続けた、一台のグランドピアノがありました。
　・・・確か最初に鍵盤に触れたのはウィルヘルムだったな。それからウラジミールとかマウリッツィオとか・・・とにかく私は彼らに最高の演奏をしてもらえた。そうそう、ヴァイオリンのギドンの時は伴奏役だったが、鋭いヴァイオリンの音色に思わず身が引き締まったもんだ。バスのデートリッヒも良い声だった。深くて優しくて涙があふれたな・・・思えば私は幸運なピアノだった。
　ピアノは紐でぐるぐるに縛られた譜面台の束がさよならを告げながら運び去られるのを見ながらつぶやきました。
　私の中には多くの名ピアニストたちの演奏がしっかりと刻み込まれている！　多くの名演奏家たちの素晴らしい音色が今も息づいている！　・・・でも、もうそれらは何の役にも立たないか。どうせ解体されてしまうんだからな。もうどうでもいいか・・・
　ピアノは諦めたように眠ってしまいました。
　そこへホールの主任がやってきました。主任は運搬作業者に言いました。
「このピアノは市長の家に運んでくれ。娘さんに使わせるそうだ」
「新しいのを買ってやればいいのに、ずいぶんしみったれた市長ですね」
「そのくせここに多目的ホールを入れた市立のビルを建てるってんだから、他人の金には太っ腹なのさ」
　ピアノが再び目を覚ました時には、大きくてきれいな部屋の中に居ました。
　ピアノは、ここはお払い箱になったピアノが行くピアノの天国かと思いましたが、眠り込む前に聞こえていた主任の言葉を思い出し、ここが市長の家で、この部屋は娘の部屋だろうと考えました。
　ドアが開き、小学生になったかどうか位の小さな女の子とその母親が入って来ました。女の子は鍵盤覆いの蓋を開け、椅子に座り、両手で鍵盤を叩き始めました。母親が「上手ねぇ」と褒めて拍手をしました。
　なんとした事か！　この子はピアノに初めて触るのか！　名演奏の刻まれたこの私が、こんな子供のおもちゃになってしまったのか！　違う、違うぞ！　
　女の子はさらに調子に乗って無秩序に鍵盤を叩き続けます。母親はさも面白いと言うように笑っています。
　確かにこんな現代曲も鳴らしたことがあるが、決して悪ふざけではなかった！　そこには深遠な哲学があったんだ！
　ピアノは怒りの頂点に達しました。女の子の手首をぐっと握り、鍵盤にしっかりと固定させ、両足を無理矢理引っ張ってペダルに届かせました。
　これがピアノだ！　悪ふざけの道具なんかじゃないんだ！　私が身体に刻み込んだ音楽だ！　聴くがいい！　
　ピアノは女の子の身体を使って演奏を始めました。指が激しく動き回り、ペダルがせわしなく踏み分けられます。
　ウィルヘルムのベートーヴェンは音楽そのものが鳴っていたんだ！　ウラジミールのあの鋼のような音色に私は壊されまいと踏ん張ったんだ！　マウリッツィオのシャープで完璧なショパンを見事に支えたんだ！
　女の子は全身の痛みに悲鳴を上げ、気を失ってしまいました。
　指の付け根が避け始めて血が流れ出し、脚は関節が全てはずれていました。それでも演奏が停まりません。
　そうだ、この感じだ！　私の中にある演奏を全部出してやるんだ！　私には名演奏が刻み込まれているんだ！　
　母親も悲鳴を上げながら、女の子をピアノから剥ぎ取るようにして抱き上げました。部屋から飛び出し、ドアを閉めました。
　待ってくれ！　まだまだ終われない！　私にはまだまだ刻まれているんだ！　偉大な演奏家たちの偉大な演奏が！　
　ピアノはドアに向かって何度も突進しました。ドアがめりめりと音をたてて破られ、ピアノは廊下に出てきました。女の子を抱えた母親はさらに大きな悲鳴を上げました。
　弾いてくれ！　私の中の音を弾いて取り出してくれ！　弾け！　弾け！！　弾け！！！
　ピアノは母親に向かって進み始めました。母親はとっさに身を翻しました。女の子の部屋は二階にあり、母親が身を翻した先には長い階段がありました。ピアノはそのまま階段を転がり落ちてしまいました。
　ガラン、ビシャン、ドゥインと言ったピアノが今まで鳴らした事のない音が立て続けに起こりました。
　こんな音じゃない！　こんな音じゃ・・・
　ピアノはばらばらになって一階の玄関ホールに埃を舞い上げながら散らばりました。
　その時ピアノが最後の音を鳴らしました。中のピアノ線が切れて鳴ったバイィィィンと言う音でした。

「最後の演奏にしちゃ、冴えないわね！」
　二階から女の子を抱きしめながら母親が叫びました。