「お父様!」
わたくしは叫びました。倒れている父へと足が向きました。ですが、踏み出せませぬ。足が動かないのでございます。強い力でわたくしを押し留めているようでございます。
「お父様!」
わたくしは再度叫びます。届かぬものを捕らえるように、わたくしは右腕を伸ばします。ですが、その手は強い力で下されてしまいました。
「鬼よ! 地獄の亡者よ! お前の負けだな」お坊様はおっしゃいました。「その娘は正気を取り戻しつつある。父上が最期に娘を取り戻してくださったわ!」
「ぬかせ! 糞坊主が!」わたくしの口が言います。「この娘は我のものだ! 鬼の血を持つ、れっきとした鬼じゃ!」
「人は鬼にはなれん! 鬼になった気がするだけの事じゃ! 人は人、それより上は無く下は無い!」
お坊様はそうおっしゃいますと、新たにお念仏を唱えられました。お念仏でわたくしの頭が割れそうに痛み出しました。
「やめい! その下らぬ戯言をやめい!」わたくしの口が言います。「やめぬと、この娘が命、喰い尽してやろうぞ!」
「戯けが! その娘を死なせば、お前はもう現世にはおられんぞ! それにな、地獄の棲家にも戻れんわ! 御仏を侮ったお前は消えて無くなるのみじゃ!」
「やかましい!」
わたくしの口がそう叫び、双手の爪を突き出してお坊様に飛び掛かりました。お坊様は錫杖を振るって爪を躱します。それでもわたくしのからだは爪を突き出す事をやめませぬ。
「どうした? 息が切れておるぞ?」お坊様はからかうようにおっしゃいます。「お前の力は無限であっても、その娘は人じゃ。人の器を超えては動けんのだよ」
「ははは……」わたくしの口が笑います。「ならば、器を壊すまで! 坊主! お前の無力を嘆くが良いわ!」
わたくしの口がそう叫ぶと、右の人差し指の長い爪の先をわたくしの左胸に宛がいます。
「ふんっ!」
わたくしの口が気合を込めますと、爪が着物を突き破り、わたくしの胸に刺さって行きます。流れる血を感じました。そして、それ以上に、下腹部に甘い疼きが、今まで覚えた事ないほどの強さで襲ってまいりました。
「ははは…… この娘は淫楽の疼きの虜だ! もう人には戻れはせぬ! 深く傷つけばつくほどに虜となって行くのだ! 坊主! 良く見ろ、この娘の顔を!」
わたくしの口が言います。わたくしは腰が震えておりました。甘い疼きに立っていられないほどでございました。もっと爪が深く刺さってこないかと、そう願っておりました。
「やめろ!」坊主が言いました。わたくしの悦びを止めようとします。わたくしは坊主を睨みつけます。「……娘さん! しっかりしなされ! 父上の死を無駄にするでない!」
「……お父様……」わたくしは初めて言葉を覚えた幼児のような口調で申しました。「お父様……」
「そうじゃ! しっかりなされい!」
お坊様は凛とした声でわたくしに呼びかけて下さいます。そして、再びお念仏をお唱えになりました。その澄んだ声に甘い疼きが耐え難い苦痛へと変わってまいりました。
「うっ……」
わたくしは痛みに呻きました。赤く血の色に濁っていた視界が元に戻ってまいります。鬼になる事への恐怖が募ってまいります。胸を突き刺す爪を引き抜こうと致しましたが、からだが言う事を聞きませぬ。頭が割れそうに痛くなりました。わたくしの中に巣食う鬼が感じられます。
「最早これまでか…… ならば、この娘を道連れようぞ!」
「ならぬ! お前は一人で消えて行くのじゃ!」
お坊様はそうおっしゃると短くお念仏を唱え、手にした錫杖をわたくしにめがけて投げつけました。錫杖の頭頂部がわたくしの腹に当たりました。
わたくしの口は獣のような咆哮を張り上げました。胃の腑を何かが逆上がってまいります。それは喉一杯に広がり、わたくしは息が吐けなくなってしまいました。わたくしは地に両膝を突きました。しばらくすると、わたくしの口から真っ黒い泥濘のようなものが流れ出しました。それは耐え難い悪臭を放ちながら、まるで意志を持ったもののようにお坊様の方へと流れるように動き出しました。
「……お坊様…… お助けを……」
やっと息が吐けたわたくしはそれだけを言うと、その場に座り込んでしまいました。
つづく
わたくしは叫びました。倒れている父へと足が向きました。ですが、踏み出せませぬ。足が動かないのでございます。強い力でわたくしを押し留めているようでございます。
「お父様!」
わたくしは再度叫びます。届かぬものを捕らえるように、わたくしは右腕を伸ばします。ですが、その手は強い力で下されてしまいました。
「鬼よ! 地獄の亡者よ! お前の負けだな」お坊様はおっしゃいました。「その娘は正気を取り戻しつつある。父上が最期に娘を取り戻してくださったわ!」
「ぬかせ! 糞坊主が!」わたくしの口が言います。「この娘は我のものだ! 鬼の血を持つ、れっきとした鬼じゃ!」
「人は鬼にはなれん! 鬼になった気がするだけの事じゃ! 人は人、それより上は無く下は無い!」
お坊様はそうおっしゃいますと、新たにお念仏を唱えられました。お念仏でわたくしの頭が割れそうに痛み出しました。
「やめい! その下らぬ戯言をやめい!」わたくしの口が言います。「やめぬと、この娘が命、喰い尽してやろうぞ!」
「戯けが! その娘を死なせば、お前はもう現世にはおられんぞ! それにな、地獄の棲家にも戻れんわ! 御仏を侮ったお前は消えて無くなるのみじゃ!」
「やかましい!」
わたくしの口がそう叫び、双手の爪を突き出してお坊様に飛び掛かりました。お坊様は錫杖を振るって爪を躱します。それでもわたくしのからだは爪を突き出す事をやめませぬ。
「どうした? 息が切れておるぞ?」お坊様はからかうようにおっしゃいます。「お前の力は無限であっても、その娘は人じゃ。人の器を超えては動けんのだよ」
「ははは……」わたくしの口が笑います。「ならば、器を壊すまで! 坊主! お前の無力を嘆くが良いわ!」
わたくしの口がそう叫ぶと、右の人差し指の長い爪の先をわたくしの左胸に宛がいます。
「ふんっ!」
わたくしの口が気合を込めますと、爪が着物を突き破り、わたくしの胸に刺さって行きます。流れる血を感じました。そして、それ以上に、下腹部に甘い疼きが、今まで覚えた事ないほどの強さで襲ってまいりました。
「ははは…… この娘は淫楽の疼きの虜だ! もう人には戻れはせぬ! 深く傷つけばつくほどに虜となって行くのだ! 坊主! 良く見ろ、この娘の顔を!」
わたくしの口が言います。わたくしは腰が震えておりました。甘い疼きに立っていられないほどでございました。もっと爪が深く刺さってこないかと、そう願っておりました。
「やめろ!」坊主が言いました。わたくしの悦びを止めようとします。わたくしは坊主を睨みつけます。「……娘さん! しっかりしなされ! 父上の死を無駄にするでない!」
「……お父様……」わたくしは初めて言葉を覚えた幼児のような口調で申しました。「お父様……」
「そうじゃ! しっかりなされい!」
お坊様は凛とした声でわたくしに呼びかけて下さいます。そして、再びお念仏をお唱えになりました。その澄んだ声に甘い疼きが耐え難い苦痛へと変わってまいりました。
「うっ……」
わたくしは痛みに呻きました。赤く血の色に濁っていた視界が元に戻ってまいります。鬼になる事への恐怖が募ってまいります。胸を突き刺す爪を引き抜こうと致しましたが、からだが言う事を聞きませぬ。頭が割れそうに痛くなりました。わたくしの中に巣食う鬼が感じられます。
「最早これまでか…… ならば、この娘を道連れようぞ!」
「ならぬ! お前は一人で消えて行くのじゃ!」
お坊様はそうおっしゃると短くお念仏を唱え、手にした錫杖をわたくしにめがけて投げつけました。錫杖の頭頂部がわたくしの腹に当たりました。
わたくしの口は獣のような咆哮を張り上げました。胃の腑を何かが逆上がってまいります。それは喉一杯に広がり、わたくしは息が吐けなくなってしまいました。わたくしは地に両膝を突きました。しばらくすると、わたくしの口から真っ黒い泥濘のようなものが流れ出しました。それは耐え難い悪臭を放ちながら、まるで意志を持ったもののようにお坊様の方へと流れるように動き出しました。
「……お坊様…… お助けを……」
やっと息が吐けたわたくしはそれだけを言うと、その場に座り込んでしまいました。
つづく
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