まだ二月中旬なので、外へ出ると肌寒い。工場内は機械の熱気で暖かいせいか、作業服は非常に薄着である。まるで小学校の時給食で着た割ぽう着のような格好。敷地内だから回りも同じ服装なので構わないが、絶対に街中など歩けるような格好ではない。
「お兄さんはここに来る前、何の仕事をしていたの?」
栗原が歩きながら聞いてくる。
「う~ん…、整体を自分で開業していました」
多分これまでやってきた事を正直に伝えても、信用してくれないだろう。そう感じた俺は、神威整体をしていた事だけを話す。
「へえ、お医者さんをしていたんだ?」
「いえ、医者とは違うんですが……」
「だって白衣を着てやるんでしょ? 患者から先生って呼ばれて」
「ま、まあ…、そうですが……」
「じゃあ、医者と変わらないじゃないか。でも、何でこんなところに先生が来たんだい?」
それをすべて説明するにはとても時間が掛かる。なので簡潔に言う事にした。
「う~ん、この不況じゃないですか。駅前で開業していたので、家賃とかもすごい高かったんですよ。それで経営するのが難しくなったってところですね」
「なら、こんなところじゃなく、その腕を活かせる場所へ行けば良かったのに」
「それがまた難しいんですよ。一応自分で整体を経営していた訳じゃないですか。なので一従業員として他の整体で働くというのが、抵抗ありまして……」
「ふ~ん…、よく分からないけど、大変なんだなあ」
「まあそんな訳でここから再出発です。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
「うん、よろしく。あ、そうそう…、あんた、名前は?」
「神威…、神威龍一と申します」
栗原は「お兄さんのように礼儀もできて、ビシッとホテルマンみたいな人が、こんな工場に来るとはねえ…。世の中分からないもんだ……」と首を傾げている。
十数年前はバーテンダーとしてだけど、本当にホテルで仕事をしていたのだと、過去を教えたらきっとビックリするだろうな。
第二工場から第一工場まで、このぐらい話す時間があるほど距離があった。
道路を渡り、右手に食堂が見えるぐらいの位置に第一工場はある。正門のバスが到着する側の場所なので、こちらで配属されたほうが通勤時も便利だろう。
それにしても見事に華のない職場だ。女っけがどこにもない。
まあこれだけ広いんだ。いずれ誰かしらと会うだろう。
栗原のあとをついて工場内へ入る。この辺は向こうと変わらず出入り時のエアーシャワーなどやる事は同じだった。
「まずお兄さんには展色というものをやってもらいたいんだ。分かり易く言うと、インクの調合だな。これは新しく印刷する工程上、とても重要な部分として見直されているんだ」
「そうなんですか…。頑張ります」
「例えば…、うーん、そうだな……。ちょっとついてきて」
彼は大きめなバケツを一つ持ちながら奥へ進む。工程表という印刷する順番が書いてある紙を見ながら、「そうだな…、『ノリシオ65G』いってみるか」と一人で頷いている。
さっぱり意味不明な事なので、俺は黙ってみているだけだった。
一度工場内を出て通路を進む。
通路の途中途中にあるゴムでできたカーテンのようなものが道を塞いでいる。近くにぶら下がっている紐を引くと、それが開く仕組みになっているようだ。
「ここが一服とか休憩する部屋ね」
通り道沿いにある休憩室を指すと、栗原はその横にある棚へ行く。ファインダーで綴じてある資料をゴソゴソと漁りだした。何度も人の手によって持たれているせいか、ファイルはボロボロである。
「あったあった。いいかい? ここに『ノリシオ65G』って書いてあるだろ?」
「ええ」
「この工程表に書いている通り通常は印刷していくから、前もってその印刷するもののインクを調合しておくのが、俺たちの仕事なんだ」
「はい」
「このファインダーを開くと、いっぱい中に紙が入っているだろ? この中にうちらがやる展色のデータも必ず入っている。お、これだな…。これを見れば分かるんだけど、アイ・ベニ・キって三色の指定されたインクの種類と、数字が書いてあるだろ?」
よく見ると青、赤、黄色と、それぞれ四角いものが印刷された透明なシートがあって、『アイ CLIOS 60』と書いてある。
「すみません…、ノリシオって何なんですか? それに65Gって」
「ああ、ポテトチップスのノリシオ味六十五グラムの事だよ。ポテトチップスだけでも、色々な種類や中に入っている分量など、いっぱいあるからね。それぞれ使うインクや調合具合も若干違うんだ。前はあの大きな機械のところについている人たちが、直接印刷するインクを作りながらしていたんだ。でも調合を間違えると、印刷してみてちょっと赤味が多く、やり直しとか工程する上で無駄にしてしまう事もたくさんある。だから、うちらの仕事が重宝されるんだよ」
「へえ…、そういうものなんですか」
「お兄さん、タバコ吸うだろ? まあとりあえずそこで一服してから行こう」
目の前の休憩所へ入る際も、必ずエアーシャワーを浴びなければならない。面倒だが、ここの決まりなので仕方がないか。
栗原という男は思ったよりも温和で親切だった。丁重に仕事内容を教えてくれ、初日はこれが仕事でいいのかというぐらいゆったりとしたペースで終始進む。
昼になれば社員食堂へ行き、食券を買って好きなメニューを選ぶ。A、B、C定食と三種類あり、安いもので三百円台、高いものでも六百円台の値段である。うどん、そばは二百円。中は禁煙なのが面倒だが、烏龍茶や野菜ジュースなどはタダで飲み放題だった。
俺の与えられた仕事は展色機という機械を使い、クリアシートで印刷物のインクを調整するというもの。栗原は簡単な仕事だというが、すべて初めての事ばかりなので覚えるのが大変である。
インクを調合するのは三種類。アイ・ベキ・キで、印刷物によって使うインクの種類も様々だ。
CLIOS、ECOS、ファインスターという銘柄。各指定されたインクを使用しながらメジウムというもので色合いを微調整していく。
色合いだけでなく、濃度は常に一定にしなければならない。これを量るのは、バケツに作ったインクから鉛でできた分胴を入れ、十五秒ですべて落ちるよう計算しながら作る。濃度調整をする際、溶剤と言われるものを入れ、インクの濃さを決めていく訳だ。
インクを測定する場合、展色機横にある小さなパソコンを使い、基準のカット率という部分へそれぞれの印刷物のインクの数値を記入しておく。例えば『アイ75』、『ベニ40』、『キ60』といった具合だ。
お弁当に入れる醤油さしのようなチューブにできあがったインクを入れ、展色機の鉄の板の上へ一定に垂らす。ゴム製のロールにクリアシートを貼り付けてから、ONボタンを押すとロールは回転しながらうまい具合に印刷をする。
四角い形で印刷されたシートを近くにあるミニハンディー型スキャナーのようなもので読み取り、インクのデータをパソコンへ送り込む。すると先ほど記入した数値と現在作ったインクの数値が出てくる。『アイ75』の基準に対して、自分が調合したものが『210』と違っていた場合、『135原液追加』と表示される。
作ったインクの数値が指定したものより少なければ、メジウム追加。多ければ原液追加となる訳だ。
ただメジウムや原液を足す場合、今度はまた濃度が濃くなってしまうのでその辺の調整も気をつけていかねばならない。
慣れてしまえば楽な仕事かもしれない。それに自分のこうして調整したインクが、ポテトチップスやかっぱえびせんなどのスナック菓子の元になっている事を思うと、ちょっとはやり甲斐がある仕事かもな。
業務上一番の問題が、手についてしまうインクである。
いくらタワシで強く擦ろうが石鹸で洗おうが、まるで汚れが落ちないのだ。これを落とすには、インクの濃度を薄める時に使用する溶剤を使うしかない。
溶剤とはトルエンなどのシンナーを混ぜ合わせたもので、この中に手を入れてタワシで擦ると指先に付着したインクは簡単に取れる。だが難点もあり、溶剤は皮膚をとても荒れさせてしまう。皮膚はガサガサになり、酷い時だと固くなったつま先がヒビ割れてしまい、この状態で溶剤に触れようものなら激痛が伴う点だ。
家に帰り、風呂場で自分の指先を眺めると、こんな事をいつまでやらなければいけないのかと暗くなる自分がいた。
朝起きて七時半過ぎのバスに乗り、夜の八時頃まで仕事の日常。
入社して二日後には、二人の新人が同じ部署へ配属されてきた。名は石田と柿崎。石田は三十歳、柿崎は二十二歳。ずいぶんと年が離れた奴らが来たものだ。
「もう神威ちゃん、仕事はバッチリでしょ?」
「全然バッチリじゃないですよ」
「大丈夫だよ。飲み込み早いもん」
「毎日が必死ですよ」
「俺は明日から自分の持ち場へそろそろ戻るようだから、この二人を教えてやってね」
「は? 無理に決まってんじゃないですか! まだ俺、入って三日目ですよ?」
「大丈夫。俺がこの数日で教えた事を彼らに教えてあげればいいから。すごいなあ、もう二人の部下ができたよ」
「勘弁して下さいよ……」
本当に栗原は翌日になると自分の部署へ戻り、俺が新人を教える立場になる。
冗談で言っていると思ったのに……。
まあ仕方ない。やるしかないか。順を追って仕事の説明をしながら試しにインクを作らせてみる。直にやりながらのほうが分かりやすいだろう。
二人ともタバコを吸うので、時おり時間を見て休憩室へ行く。コーヒーを飲みながら雑談する俺と石田。年の離れた柿崎は一人ポツンの黙ったまま座り、テーブルを眺めている。
「柿崎君、ジュースは飲まないの?」
「え、ええ…、喉渇いていないもんで」
そう答える彼の表情は、多少引きつっているように見えた。おそらくジュース代すらないのかもしれない。現に柿崎は昼飯時になると、無料の野菜ジュースや烏龍茶を鬼のように飲んでいた。
「ずいぶん可愛い弁当箱を持ってきてるんだね」
小さな弁当箱を持ちながらご飯を食べる柿崎を見て、声を掛ける。
「あは、彼女が作ってくれたんすよ」
「へえ、いい彼女だね」
石田は何故俺がこの職場にいるのかを聞いてきた。話せば長くなるので、まだ印税が入っていない事を伝え、手短に伝える。
「え、神威さんって本を出してんすか? すごいですね」
「たまたま運が良かっただけだよ」
「今度自分、買いますのでサイン下さいね」
「はは、ありがとう」
社交辞令だと思うが、そう言ってくれた石田の言葉が嬉しく感じる。
昼食を終えると再びインクの調合開始。どうやれば彼らにも分かり易く伝えられるか。それを念頭に入れながら丁寧に教えた。
ほぼ工場の人間とは接触のない仕事。孤独だった職場が、これで少しはマシに思えた。村の中にできた小さな派閥みたいだ。
休憩になると暗く塞ぎ込んだように見える柿崎。金銭的に余裕がなかったが、俺は彼にジュースを奢ってやろうと思った。
「柿崎君、何か飲むかい?」
「いや…、自分、いいっす」
「遠慮すんなって。じゃあ、こうしよう。そこの自動販売機の缶コーヒー買ってきてよ。君の分も買っていいからさ」
「ありがとうございます!」
何度も頭を下げながらコーヒーを飲む彼を見て、ちょっとだけいい事をしたなあ感じる。この三人でしばらく一緒に仕事をするのだ。できれば仲良くやっていきたい。
翌日通勤のバスへ乗ると、石田が乗り込んできた。
「おはようございます、神威さん」
「おはよう。石田君もこの辺に住んでいるの?」
「自分は東上線の新河岸です。あ、神威さん。本…、『新宿クレッシェンド』買ってきたんでサインもらえませんか?」
いきなり従業員で満員の中、本をバックから取り出す石田。
「え…、でも…、ペン持ってないし……」
「マジックも用意してあります」
ここまで用意周到だと何も文句を言えない。少し照れ臭いが、彼の心遣いが非常に嬉しかった。
「ありがとう…。じゃあ、早速サインさせてもらいます」
本を片手にサインを試みる。しかしバスの揺れが酷く、文字が歪む。これじゃサインというよりも、歪な文字にしか見えない。こんな状況でサインをしようとした俺が馬鹿だったのだ。
「……」
石田は何ともいえないサインを見ながら絶句していた。
「ごめん…、バスの揺れがすごくて……」
「いえ、いいですよ…。ありがとうございます」
職場へ着いてからやれば良かったと後悔するが、もう後の祭りだ。油性マジックで書いたものは消えない。石田は悲しそうな表情をしながら外の景色を眺めている。彼から言い出した事とはいえ、悪い事をした気分だった。
昨日と同じよう石田と柿崎に展色の仕事内容を教える。
入って日にちはそんなに経っていないが、部下二名をつけられ和気藹々と仕事ができる環境はありがたい。
「私ね、龍一さんの書いた作品が大好きなの」
俺の腕枕に頭を乗せたまま、葵はそう笑顔で言ってくれた。
「俺の作品? 全然駄目だよ…。出版社も売る気ないみたいだし、地元だってほとんどの人間が知らん顔だ……」
「そう…。でもね、私は龍一さんの書いた作品が全部好きだよ。『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』、あと『新宿プレリュード』…。それと『デューク~指先にこの想いを乗せて~』なんか、読んでいて泣いちゃったもの」
「……。ありがとう……」
自分で生み出したものをこういう風に言ってくれる人がいる現実。心の底からありがとうと言えた。
「ホラーだと『ブランコで首を吊った男』や『進化するストーカー女』なんて、怖くて私、夜中にトイレに行けなくなったもん。あ、でもね、『忌み嫌われし子』は何だかすごい考えさせられたなあ…。あの作品は読んでいてとても嫌な気持ちになるけど、私はあの作品が好き。最後の最後になって龍さん、内容を変えたってあの頃言っていたでしょ? 私はあの終わり方がいいと思うんだ。憎しみの上に、より憎しみを被せた忌み嫌われし子じゃ、悲し過ぎるもの」
「……」
根底に根付く深い傷。以前付き合っていた百合子につけられたもの。「よくもこんな作品を私に読ませたわね? こんな三流お笑い芸人のような小説をっ!」と罵られ、どん底まで落ちた意欲。そこまで言われるような酷い作品を俺は書いたのか? 日々自問自答するあまり、俺はしばらく執筆ができなくなってしまったほどである。百合子と別れようと決意する起因の一つになった罵倒。
しかし今、葵の言葉に導かれ、徐々に傷ついた心が癒えてくるのを実感した。
「あとね…、プッ……」
途中まで言い掛けて、いきなり吹き出す彼女。
「どうしたの?」
彼女はしばらく一人でクスクスと笑っていた。
「あのね…、やだ、思い出すと笑っちゃう……」
「おい、どうしたんだよ?」
「だって…、『膝蹴り』もおかしかったけど…、定食屋さんの話……。アハハ…、もう駄目。思い出しただけで笑っちゃう……。あのパパンとママンがあまりにも変過ぎて……」
そう言って彼女は腹を抱えて笑った。
頭を空っぽにして書いたあれが、そんなに面白かったのか?
パパンとママン……。
それならタイトルをいっその事『パパンとママン』に代えて、シリーズ化してしまうか。あんな作品ならいつだって書ける。
俺は彼女を喜ばせたい一心で、また小説を書き始めた。
二千八年五月九日の出来事だった。
この頃、ホテル代も稼がなきゃと俺は、大日本印刷で働くようになっていた。そこで知り合ったムッシュー石川。彼とは同じ部署に配属され、俺に興味を持ったのか、『新宿クレッシェンド』を会社に持ってきて「神威さん、サインお願いできませんか」と言ってきた。
嬉しく思った俺は、彼に「作品に登場してみないか?」と冗談で言ってみた。
「え、神威さんの書く作品に僕がですか?」
「うん、フルネームで」
「恥ずかしいなあ…、じゃあ、ミクシィだとムッシュー石川で登録しているから、その名前で登場お願いできますか?」
「ムッシュー石川ね。でも、性格はメチャクチャに書かせてもらうよ」
彼をモデルに登場させた第三章の『先輩』は、こうした経緯から始まったのである。
しばらく執筆をしていなかったので、思うように文章が進まない。それでも俺は必死にキーボードを打ち続けた。
そして五月三十一日。二十日間以上掛かってしまったが、俺は第三章の『先輩』を完成させた。
まず不倫していた彼女にそれを見せると、案の定大笑いしてくれた。
調子に乗った俺は、第四章『月の石』から第九章の『同級生』までを、僅か十一日間で一気に書き上げる。
「ねえ、龍一さん。私もこれで出てみたい」
読者参加型という形式を採用していたので、当然彼女も作品に出たがった。
「ああ、全然構わないよ」
毎回それを楽しみにしていた彼女であるが、突如、現実問題が降り掛かった。不倫がどうやら旦那にバレてしまったらしい。彼女は俺の名前を一切出さず、誤魔化し続けた。しかしヤキモチ焼きの旦那は、毎日のように飲み歩いていた酒をやめ、彼女を拘束するようになる。
そんな状況下に置かれても、俺に逢いたいとメールで連絡をしていた彼女。この子となら、結婚してもいいかなと感じるようになった。
だけど、年頃の子供が二人いる現実。彼女は母親として生きる決断をした。彼女とは、もう自由に逢えない。
同時期にれっこさんは妊娠。そしてムッシュー石川の親父さんの容態が悪くなり、彼は仕事を休み、北海道へ向かう。
それから、『パパンとママン』は現実に起きる薄気味悪いものを感じた俺は、作品を書かなくなった。
年末の火事になった『兄弟』モデルの店をきっかけにお蔵入りにしたほうがいいと決める。
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