岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

03 鬼畜道 悪魔的思想編

2023年03月01日 13時41分07秒 | 鬼畜道 各章&進化するストーカー女

 またタイミング良く、一人の女性が俺に連絡をくれた。教会の神父の妻、葵である。試合には心配し過ぎて来られなかったという彼女は、こんな俺に逢いたいと正直に言ってくれた。十年間真面目な妻として暮らしてきたが、俺に女としての気持ちを素直に伝えたかったのだろう。

 整体を閉めた去年の年末に会ったきり、メールや電話でやり取りをしていただけの俺は、葵と逢いたくて仕方がなかった。逢って思い切り彼女を抱きたかったのだ。

 二千八年二月十一日。

 夜中になると、車で彼女の指定した場所へ向かい、今年になって初めて葵と逢う。

「本当は自分でもいけない事だと分かっているんだけど…、でも、試合のあと本当は今すぐにでも龍さんに逢いたくて……」

 やや下をうつむきながら離す葵。神父の妻、そして二人の子供の母親という自覚を俺が取り払い、一人の女としての自我に目覚めさせてしまった。いけない事だと分かっていながらも、俺は葵にすがりつきたかった。彼女の持つ優しさに触れ、ボロボロに傷ついた心を癒したかったのだ。

「ちょっとゲームセンターにでも寄ろうか?」

 逢っていきなりホテルへというのも違うような気がして、俺たちはゲームセンターへ向かう。

 プリントクラブの中で写真を撮っている内に、俺は葵を抱き寄せ、何度も強引にキスをした。

「こういうの迷惑か?」

「ううん…、私もこうしてもらいたかった……」

「葵……」

 性欲を抑えきれず、すぐホテルへ向かう。部屋に入るなり、彼女の服の上から胸をまさぐり、舌を口の中へ捻り込む。パンティーの中へ手を差し込むと、彼女はグチャグチャに濡れていた。

「俺のがほしいか、葵」

「ほしい…、龍さんのがほしかった」

 お互い服を着たままセックスに没頭する。

 旦那の独りよがりなセックスでは一度も気持ちいいと思った事がないと語った葵。結婚してから初めて一対一で逢った異性が俺だと言っていたが、彼女もこのような展開を望んでいたのだろう。

 夜中から朝になるまで俺たちはお互いを貪り合い、とにかく語り合った。

 ビックリしたのが教会の神父である旦那の話だ。

 教会に来る人間の前ではいつもニコやかに笑っているらしいが、家に入るとわがままで気性が荒い性格を全面的に押し出すらしい。毎日のように飲み歩き、家事などは一切手伝わない。まあこの辺ぐらいなら、ほとんどの男はそうじゃないのだろうか。

 異様な部分を感じたのが、自分の気に食わない事があると、すぐ辺りの物に当たり散らし、妻である葵や子供たちに酷い言葉を浴びせるという部分だった。物が壊れるまで地面に叩きつけたり、壁へ投げつけたりと暴力一歩手前な行動を彼女は忌み嫌っていた。

 もっと牧師って職業は崇高なものだと思っていたが、そんな性格でも務まるのか。

 葵以外にも、これまでたくさんの人妻を抱いてきたが、そのほとんどは自分の旦那に不満がある女性が多い。こちらが少しその不満をつつくと、膨らんだ風船が割れたように一気に悪口を話し出す。

 そういった点で言えば、葵は少し変わった女だった。旦那のいい部分も悪い部分も、同じように淡々と事実だけを話す。そんな感じである。

 ただ、一つ分かった事があり、彼女は今の生活を結婚してしまい、子を産んでしまった為の義務としてとらえている点であった。

 俺が幼少期、母親の虐待にあったように、それぞれの数だけ人間には様々な過去や道のりがある。

 彼女は俺の好物だったステーキやハンバーグを覚えてくれていたようで、自分の得意料理であるミートローフを作って持ってきてくれた。アメリカの田舎料理らしく、ハンバーグが大きくなった化け物バージョンのようなものだ。

 これは食べてみて本当においしく一発に気に入ってしまう。ぜひ俺もミートローフを作ってみたいと伝えると、葵は丁重にレシピを教えてくれた。

 ミートローフの作り方は、ハンバーグと基本的には変わらない。挽肉を使った練り物の料理は、自分の工夫次第でいくらでも豊富なバリエーションを作る事ができる。

 それでも一から料理を覚えるかのよう熱心に彼女の説明を頭の中へ叩き込む。

 甘辛い味の決め手はピカントソースというもので、作り方は至って単純だった。ケチャップにブラックシュガー、粉辛子にナツメグを煮詰めながら混ぜるだけ。このソースをパウンドケーキを作る箱で型どったミートローフに塗り、オーブンでじっくり一時間ほど焼けば完成である。

 これなら俺でも簡単に作れそうだ。今度試してみよう。

「龍さんはね、お肉ばかりで野菜をあまり取っていないなあと思ったから、大量にサラダや煮物も作ってきたの」

 笑顔でホテルのテーブルの上に料理を並べる葵。

 こういう子と一緒に暮らしたら、俺もずっと笑顔でいられるのかもしれないなあ。

 葵と接している内に、そんな事をぼんやりと考える自分がいた。

 こういった家庭的な女性と共に、食事をしてみたかったのかもな……。

 どんな言い訳をしようと、綺麗事を取り繕うおうと、すべては偽善に過ぎない。世間一般で言うところの不倫。俺がした行為は、それ以外の何物でもないのだから。

 でも、葵を抱く事で、救われたような気分になれた。

 この先どうなるか分からなかった俺は、小柄な体の葵を思う存分これでもかというぐらい抱き、セックスに溺れる。

 そうする事で現実逃避をするかのように……。

 

 朝になった帰り際、葵は不倫した自分を振り返り、とても悩んでいるように見えた。

 これで俺に三回抱かれているのだ。気にしないほうがおかしい。

「龍さん…、やっぱり私…、こういう事をしたという事実を思うと、とても苦しい……」

「それは葵がまともな感覚の持ち主だからだよ」

「私がまとも?」

「うん、超がつくぐらい真面目だから。旦那にというより、子供たちの事を考えると、心が痛いんだろ?」

 俺が小さい時いつも夜遊びをしていた両親。このように異性と不倫を繰り返していたのかもしれない。俺はそんな両親を軽蔑して育った。だけど、今の自分はどうだ? まったく変わらない事をし、葵にもそれを半ば強要させていた部分がある。

 いくら自分の現状や立ち位置が辛いからといって、他の異性にもたれ掛かるのは単なる逃げでしかない。

 でも今までの人妻と決定的に違うのが、快楽に流されて逢った訳じゃない点である。純粋に彼女と逢いたかったから逢う。あくまでもセックスはその流れでしかない。

 だからこそ罪悪感を覚える葵の気持ちは大切にしてあげたかった。

「本当はもっと龍さんに逢いたい。ずっと一緒にいたい。でも…、前もそうだったけど、家に帰って子供たちの無邪気な笑顔を見ると心が痛くなってしまうんだ……」

 彼女の葛藤の中に、旦那の姿はまるで見えなかった。

「そんな葵だから、俺は君を大事に思うし、何度だって逢いたいと思った。矛盾しているように聞こえるかもしれないけど」

「私が独身だったら、迷いはないと思います……」

 裸のままベッドから出て、スーツからタバコを取り出す。ホテルの部屋の窓を開け、外の冷たい空気を浴びながら、大きく煙を吐き出した。

「しょうがないよ。すでに知り合った時、葵は結婚していたんだ」

「何で私に逢おうって思ったんですか?」

 真剣な眼差しの葵。何度このようなやり取りをしただろうか。罪悪感に悩ませられる彼女は、何回も同じ答えを聞いて安心したいように思えた。

「シンプルに言えば、逢いたかったから。逢って実際に話してみて、素直にいいなあと思った。逆に聞くけど、何故俺と逢ったんだい? 今まで結婚してから一度も異性と一対一で会った事すらないんだろ?」

「う~ん…、何でだろう……。龍さんとは『新宿の部屋』で知り合った訳だけど、最初ピアノを弾いている写真をプロフィールに載せていたでしょ? あれ見て、どんな人なんだろうって…。そのあと龍さんは、ピアノ発表会の映像をみんなに見せてくれた時、演奏見てゾクッとしたの」

 秋奈へ捧げるつもりで弾いたピアノ。でもあの日、彼女は発表会へ来なかった。実際に会場へ来て、俺の演奏を目の前で見てくれたら心を動かせる自信はあった。でも、来ないんじゃ聴かせようがない。

 辛い過去でもある発表会。それでも葵がこうして評価してくれた事は素直に嬉しかった。

「ああ、前にもそれは言っていたよね。一人の女性の為に始めたピアノ。ずっと誰にも捧げる訳でなく、曲を弾いたという事実だけが残った。気付いたらピアノは、いつの間にか辞めていて、別のものを探し出した。それが小説だったんだけどね」

「うん、そのあと龍さんは『新宿クレッシェンド』や『ブランコで首を吊った男』とか色々ネット上にアップしてくれた。私は龍さんの作品を読んでいる内に、逢ってみたいなあって思ってたんだ」

「俺も葵とチャットとかしている内に、あの頃付き合っていた女ともうまくいっていなかったし、逢ってみたいなあって思って誘った。それで本当に優しい子なんだなと、本当に抱いてみたかった」

「……」

 直情的な言葉をぶつけると、葵は困った表情をしながらうつむく。

「何故、何度も逢おうと思った? 一度だけだったら気の迷いで済む。でも、今日で俺たちが逢うのは四回目だ」

「去年、一年ちょっと間が空いていた頃は、龍さんに抱かれた事を後悔していたんじゃなくて、自分の立場を考えていたら、逢いたいけど逢っちゃいけない。常にそうやって自分に言い聞かせてきたんだ…。でも、龍さんが本当に賞を獲って本も出版して、試合にも出るってブログ見たら、逢って応援したいなあって…。実際に逢って試合の事を細かく聞いて、絶対に無事で戻ってきてほしいって、ずっと願っていて…。だからどうしても時間を作ってまた龍さんに逢いたかったの……」

「逢ったら抱かせるって思わなかったのか? それが君を悩ませる原因にもなっている」

「逢って抱かれたかった……。夫の独りよがりな感じで抱かれるよりも、龍さんに優しく抱いてほしかった……。でも…、家に帰って子供の顔を見ると……」

 そこまで言うと、葵は突っ伏して泣き出してしまう。俺は頭を優しく撫で、ゆっくり口を開いた。

「うん、これ以上俺たちは逢わないほうがいいと思う。本音を言えば、何回だって葵と逢って、何度だって抱きたい。でも、お互いの快楽の為だけじゃ、子供が可哀相だ……」

「本当に勝手でごめんなさい……」

「謝る事なんかないって。俺はこうしてまた葵と逢えて、本当に幸せを感じているんだ。試合が終わったあと、たくさんの嘲笑や裏切りなどで心が深く傷ついた。細長い真っ暗な井戸の底に、膝を抱えてすべてを遮断しているような感覚だったんだ。でも、葵がまた逢ってくれて、救われたって感じた。だから感謝さえしている」

「龍さん……」

 俺は強く葵の唇を奪い、再びベッドに押し倒した。これが彼女と最後のセックスになるのだろう。そう思うと愛しくて、激しく腰を振った。

 目の前で何度も体を痙攣させながら、いく葵。

 凍っていた心に、暖炉のような暖かい空気が当たり、ゆっくり溶けていく。そんな感覚を思いながら葵を抱き締める。

 あまりの気持ち良さに、俺は射精しそうになった。

 普通にセックスをして、自然とこうやっていきそうになれた女性は、これで何人目だろうか? ほんの数人しかいない。前に二年半ほど付き合っていた百合子とは、一度も自然に射精した事などなかったのだ。

 今まで数え切れないほどの女を抱いてきた。しかしほとんど自分自身がいかず、相手をいかせる事だけに念頭を置いたセックスだった。

「はぁはぁ…、龍さん……」

「何だい?」

「あなたのが飲みたい……」

 葵にそう言われた瞬間、俺は我慢できなくなり、彼女の顔へ自分の一物を持っていく。小さな口を大きく開く葵。俺はその中へ入れ、大量に射精した。

 彼女は俺の精液を吐き出しもせず、そのまま全部飲み込んだ。

 それを見てから崩れるように葵の体に被さる。体重を掛けないよう気をつけながら、そっと体を抱き締めた。

 この間まで自殺しようなんて考えていた俺が、こうやって女の体に溺れている。いい加減なもんだ。いや、違うな。いい加減とかの問題じゃなく、女って生き物が偉大なのだ。

 葵とはこれで関係がおしまいになるが、まだこれからも生きていこうという希望が沸いた気がする。

 

 帰り道、葵を途中の駅で降ろし、俺たちは別れた。

 もうこれで、彼女と逢う事はない……。

 別れる間際に『新宿クレッシェンド』を手渡す。出版社から十冊ほどもらっていたが、その内の一つは彼女へいずれプレゼントしようととって置いたのだ。

「龍さんの大事な本を……」

「葵…、君にもらっといてほしいんだ」

「……。大切にするね」

 皮肉にも今日で出版されてから約一ヶ月が経つ。

 お互い笑顔で別れると、俺は川越街道を真っ直ぐ運転した。もう逢えないという事実が、心の中にポッカリとした空洞を作っている。辛いけど、寂しいけど、現実を考えたら、この形が一番なんだ。そう自分へ必死に言い聞かせた。

 朝の八時過ぎなので交通量は多く、なかなか前へ進まない。俺は信号待ちしている間、葵へメールを打ってみる。

『これから教会で寝ずに仕事なんでしょ? 大丈夫かい? あまり無茶しないでね。葵に何かあったら俺が悲しい。今日は本当にありがとう。君と逢えて幸せだった。 神威龍一』

 送信してからもう一度文面を読む。おかしいもんだ。死にたいとこの間まで思っていた俺が、悲しいか……。

 運転中右手に我が母校である私立西武台高等学校が見える。国道二五四線と交差する浦和所沢街道。そのすぐ先に母校はあった。今では亀田先生と同級生の新川ぐらいしか関わりなどないが、あの場所へ三年間も通った時期があったのだ。

 思えば高校時代なんて、特に何の目的すらなかったっけ。それでも毎日を楽しく生きていたような気がする。何かにつけ絡んでは生徒をぶっ飛ばし、暴れていただけの学生時代。亀田先生がいつも必死に俺をかばってくれたよな……。

 母校を通過し、ぼんやり車を走らせながら過去を振り返る。

 今、三十六歳だから卒業してからちょうど倍の時間が経った。

 その十八年間で俺は何をやった? 何を得た?

 学校を卒業し、最初に行ったのが自衛隊。掃き溜めみたいな場所だったが、俺は楽しく生活を送っていたよな。

 三ヶ月で朝霞から北海道へ飛ばされ、理不尽な暴力に切れ、上官を殴って大暴れした雪国の町。そこを辞めてから出逢った香織。雪の上で三時間待ったっけな。

 興味本位で探偵をやってみたが、人間の裏を除く仕事なんて、とんでもない事だけが分かった。

 ちっぽけな広告代理業。十六万のワープロをローンで買わされたり、家の車を利用されたりとメチャクチャな社長だったっけ。まだ生きてんのかな、あいつ。

 横浜での鳴海との生活。よく接してくれた兄貴分だった彼を俺は裏切ってまで、プロレスラーになりたいと強行した。二十歳の時だから、もう十六年も会っていないのか。元気でやってんのかな。

 大和プロレスのレスラーになりたくて必死にトレーニングに明け暮れた日々。体を大きくする事しか頭になくて、人生で初めて本気で取り組んだ事だった。左肘を壊し、夢は破れたが、地獄のような鍛錬を送った俺は、健康で頑丈な筋金入りの体を手に入れた。もうチョモランマ大場社長も、ヘラクレス大地師匠も、今はこの世にいない。でも、今でもあそこにいた事は俺の誇りだ。

 心の支えだったものがなくなった俺は、ホテルでバーテンダーをしながら自分の居場所を探した。でも、そんなものは探すものじゃなく、自分で作るものなんだと実感する。あの場所で得たものはバーテンダーのスキルと接客術。

 先輩最上さんと有子さんの結婚式が決まり、職をなくした俺は新宿歌舞伎町へと新天地を求めた。そう言えば格好良く聞こえるかもしれないが、あの街に世間をまるで知らない無知な俺が行ったのは、金を稼ぐ為だった。

 喫茶店とは名ばかりのゲーム屋という存在を初めて知った当時。ヤクザ者のオーナーである鳴戸には妙に気に入られた。しかしその背景には、俺を筋者に入れようという魂胆があったっけ。カジノでの無意味な死闘。そして六本木辺りの大物ヤクザ事務所からのスカウト。あの街へ行って約一ヶ月で、そんな事があった。

 それでも何故か歌舞伎町という街が、自分にとって非常に居やすい場所だと肌で自覚した俺は、裏稼業という世界へ自ら足を再度踏み入れた。

 大和プロレスにいたという信念。それだけが俺の支えだった。そういった生き方が味方したのか、徐々に金というものが自然に集まるようになった。

 おそらく同世代の中ではかなり稼いでいたんじゃないかな、あの頃は……。

 おかげで金に目が眩み、ずいぶんと馬鹿をしながら無駄遣いをしたもんだ。

 そんな自分が嫌いになりそうになった時、俺はまた格闘技の世界へ復帰したいと思い、体を鍛え出した。強さというものに自信が満ち溢れていたあの頃の自分に戻りたくて、またトレーニングを再開した。だが皮肉にもその間に世話になった大地師匠は亡くなってしまった。何の恩も返せずに……。

 目的意識があまりないまま、総合格闘技の試合へ約七年ぶりに復帰した俺は、主催者側の汚いやり方に怒り、出場した大会を壊して表舞台から消えた。

 どんどん歌舞伎町という街に染まっていく俺。金を稼ぎ、すべてを遣い切るように日々遊ぶようになった。あの頃もっと将来を見据え、真面目に金を貯めていたら、今のような惨めな生活など味わわずに済んだものを。

 そんな時期に出逢ったミサト。家を出て行ったお袋に娘がいるという噂を聞いた時期でもあった。そんなタイミングも重なり、俺はミサトを妹代わりのように可愛がったが、気付けば一人の女として見ている事に気づいた。ハッキリ自分の気持ちを言えなかった俺を置いて、ミサトは沖縄へ行ってしまった。あいつとの連絡も、ずいぶん減ってしまったが元気でやっているのだろうか? あの時ちゃんと俺が告白していたら…。いや、もしそうだったら俺は小説など書かなかっただろうな……。

 しばらく務めていたゲーム屋系列の崩壊。俺は裏ビデオ業界へ行く。この辺から人生が狂い出したのかもな。

 日々やるせない思いで過ごす中、出逢った秋奈。何故かどうしても彼女をものにしたかった。今までのようなやり方で落ちないと思った俺は、新しいものを捧げるべくピアノを始めた。ただ月に百も二百も稼いでいた頃の感覚で麻痺していた俺は、今思えば短気で非常にわがままだった。俺に呆れた秋奈はピアノ発表会にすら来てくれず、思い切りフラれた形になった。

 希望も目的もない俺に、週末になるとスパルタ教育でパソコンを教えてくれた最上さん。何とか最上さんより優れたスキルが欲しいと考えていた俺は、小説というものにチャレンジしてみる事にしたっけ。

 何の勉強もせず、ただ書いてみようと思った作品が賞を獲ってしまうなんてな……。

 でも、以前弟の龍彦に言われたように、小説では飯など食えない現実。もっと稼いだ金は大事にしなきゃいけなかったのだ。周りから人生を舐めていると思われても仕方がないような生き方をしてきた俺。

 もう同級生のほとんどは結婚し、子供を作り、親として人生をまっとうしている。

 今の俺はそれに比べて何だ? 何もないじゃないか。

 おばさんのユーちゃんは、「人間、忍耐、我慢が一番必要だ」と言っていた。

 イライラする感情を抑えてどうなる? 常にそう思い、自分らしく生きてきたつもりだ。しかしそれは歌舞伎町だったから通じただけなのかもしれないな……。

 歌舞伎町に見切りをつけた俺は、表社会でまっとうにやっていくしかない。

 でも、そんな事をやっていけるのか? 家では忌み嫌われし存在な俺。呪われていると自身に流れる血を恨み、性格的にも破綻している自分が社会で普通にやっていく…。できるのかよ、そんな事……。

 もうやめよう。さっき葵に癒してもらい、救われたんじゃなかったのか?

 これ以上自暴自棄になってもしょうがない。何の目的もないけど、生きようとする最善の努力はしよう。

 本が発売されたらもっと明るい未来が待っているなんて、ただの俺の妄想に過ぎなかった。いいじゃないか、本として全国に出版されただけでも。

 おそらく『売れない作家』というレッテルを貼られるのが怖かったのだろう。それを変に気にし過ぎて神経をすり減らす日々。何を言われても、もう気にするなよ。どう足掻いたって何もならない。

 生きていれば腹も減るし、女も抱きたい。葵と入ったホテル代だって掛かるのだ。印税という金が入ってこない以上、プライドとか気にせず働くしかない。

 葵の目の前では精一杯格好をつけたが、まだまだ彼女と逢いたかった。そしてこの腕で抱き締めたかった。

 携帯電話にメールが届く。葵からだった。

『私も、龍さんと出逢えて幸せでした。与えられた一日を大切に歩んでいこうと思います。私みたいな者に、優しくしてくれて本当にありがとうございます。 鈴木葵』

「……」

 私みたいな者? 彼女の言い回し方が気になった。何故あんなに優しい性格なのに、自分をそう卑下する? 少しでも勇気付けてあげたかった。

『君のような優しくて心を癒してくれるような女性には、初めて出逢えた。だからこそ、葵はもっと幸せでいなきゃいけないと思うし、俺はそれを強く願う。 神威龍一』

 運転しながらなのであまり長くメールを打てなかったが、言いたい事を簡潔にまとめて送信する。

 格好なんてつけず、「もっと葵と逢いたい」。そうやって正直に言うべきだったのかな。でもそれを言う事で、彼女の現実をさらに悩ませてしまうだけ。これで良かったんだ……。

 すぐ葵からメールが入る。

『ありがとう。龍さんの事…、一生忘れないから……。龍さんの幸せを心から祈っています。 鈴木葵』

 俺の幸せか……。

 一体俺の幸せって何だろう? 葵のような心優しき女性がそばにいてくれるなら、幸せを感じる事ができるかもしれない。女の数なんて腐るほどいる。しかし、これだけ相性が合う相手なんて、そうそういるものでもない。

 一旦車を停める。ちゃんとメールを打ちたかった。

『俺だって葵を忘れないよ。葵が俺の幸せを願うように、俺も君の幸せを祈る。日々明るく元気でいるように…。君の存在は俺の中で大きくなり過ぎてしまった。このままズルズル逢っていたら、葵のいない毎日なんて考えられなくなりそうだ。だから今日で終わり。これで良かったと思う。本当にありがとう。 神威龍一』

 何度も文面に目を通し、声に出して読んでみる。今、これを彼女に送ってどうなる? せっかくお互いけじめをつけたばかりなのに。俺はメールを送らず、保存をしておくだけにした。これ以上のやり取りはモラルや良識を壊してしまう。

 今日で終わったんだ。メールも何も連絡自体やめておこう……。

 

 とにかく働いてみよう。どんな仕事だっていい。

 家に帰ると早速パソコンを起動し、求人情報を調べてみた。

 一つの判断として、家から出るという選択。この家の中にいる事は良くない。裏稼業を辞め、地元へ戻ってきたが、どうもいい方向へ進んでいないような気がした。

 平穏無事に笑って過ごしたいが、家の中にある三つの厄介な人間。

 その一つがまったく譲り合う気がない親父。未だ南大塚の土地を四千万円で売却した事について、恨みを持っているようだ。たまに家の中ですれ違う際、ジロッと睨みつけてくる始末である。いくら売ったからといって、それを使っているのは自分たちじゃないか。何度そう言っても、常に俺のせいしようとする性格。仲良くなれる訳がない。

 そして三村。言いように単純で馬鹿な親父の性格を利用して、どんどん家の中での態度が日増しに大きくなっている。過去あれだけの騒ぎを起こしておきながら、何事もなかったかのような態度が平気でできる図太い神経。何でこんな女が家に住み着いてしまったんだろう。

 最後におばさんであるユーちゃん。親父や三村の事を人一倍嫌っているくせに、憎まれ口を叩くのは俺とおじいちゃんにだけ。まともに話し合いをしようと心掛けても、常に人の粗をつついた言い方をするから、最後には絶対に口論になる。

 先輩の最上さんも、「前から言っているけど、龍一にとってあの家の環境は、本当に良くない。歌舞伎町の時から散々言っていたろ」といつも言われるぐらいだ。

 地元川越を嫌いになりかけている俺。そろそろ離れてもいいかもな。

 住み込み付きの職を探してみる。

 探せば結構あるもので、工場の仕事だがかなりの数がヒットした。こだわりをなくす為、最初に出た求人へ連絡をしてみる。

 未だ診てほしいという患者はたまに連絡があるので、一人暮らしをしながら空いた時間を使って困った患者を治す。このスタンスで暮らしていけばいいか……。

 川越駅西口近くに登録する事務所があったので、早速面接へ向かう。

 簡単に一般良識の問題が書かれたテストや、視力検査などを受け、何社かの工場のリストを見せてもらった。住み込みで月二十数万円もらえる大帝国印刷の仕事を選ぶ。

「では、追ってこちらより連絡いたしますので、一日お待ち下さいますか?」

「よろしくお願いします」

 工場なら知っている人間に会う可能性も低いし、地元からも離れる事ができる。思ったより簡単に決まったもんだ。とりあえずこれで俺の新しい人生がまた始まる。

 大手工場へ派遣勤務との事で、細かい書類を書かされたり、身体測定で病院へ行ったりと面倒な事も多かったが、あと数日で仕事が決まるようだ。

 会社から川越市の隣にある狭山市のマンションを用意してもらう。狭山市駅から徒歩十分ぐらいの場所にあった。中は八畳ぐらいのロフト付きワンルーム。テレビとキッチン、そして布団一式があるぐらいで、あとは何もない殺風景な部屋。

 ここに整体時代使用していた高周波の機械を入れ、施術ベッドを置けば、患者から連絡が来ても治療をする事ができる。まあすべては仕事を開始してからだな。

 俺と同時期に入った伊原と田岡の二人も、同じマンションに住むようだ。二人とも無口な男で、自分からは口を開こうとしない。田岡が診察を受けていたので、待つ間、伊原にこちらから話し掛けてみる。

「どうも、井原さんはどこから来たんですか?」

「自分は北海道です」

「北海道ですか。懐かしいなあ」

「え?」

「いえ、もう二十年近く前なんですが、自分も北海道に住んでいた頃あったんですよ」

「あ、そうなんですか」

「一年ぐらいですけどね。北海道は自分にとって本当にいい町でした。井原さんは何でこっちへ?」

「向こうで電気工事していたんですが、仕事がなくそれでこっちへ来たんです」

 世の中の景気は徐々に上がっていると言っていたが、どの辺が上がっているのだろう。彼のように生活ができず、困って上京してくる人間も現実にいるのだ。

「伊橋さん、中へどうぞ」

 看護婦がドアを開けて呼んでいた。

「じゃあ、先行ってきますね」

 ペコリと会釈をしながら伊橋はドアの向こうへ消える。

 一人になって俺は携帯電話を取り出し、葵からもらった過去のメールを読み返していた。

『二千七年十一月二十九日。

 ずっとパソコン開いていませんでしたが、昨晩久しぶりに開いてみると、龍さんの出版の日も決まり、良かったなあと思っていました。整体には行けなくてごめんなさい。私の中で色々思う事あり、行くのを控えようと思ったのです。でも、いつも龍さんの健康が守られるように…、頑張れ~って思っていますよ。 鈴木葵』

 しばらく連絡のなかった葵からのメール。まだこの頃は俺の『新宿クレッシェンド』の校正をしている段階で、格闘技に復帰するなんてまるでなかった時期だ。

 次のメールを見てみる。

『こんばんは。

 二千七年二十七日。

 今日もし時間あれば、夕食食べませんか? 鈴木葵』

 一年以上逢っていなかったが、彼女から突然届いた誘いのメール。

 実際に逢った時、葵は試合にも出る俺を元気付けてあげたいと言った。約一ヶ月の間、ずっと俺と逢う逢わないで葛藤していたんだろうな。人妻であり神父の妻という立場と、一人の女として俺に逢いたいという気持ちの両立。いや、両立なんて違う。だから彼女は常に苦しんでいたのだ。

 また逢いたかった。何もかも放り出して葵と暮らす……。

 無理だ。彼女には子供が二人もいる。子供にとって本当に一番幸せなのは、両親が仲良くいる事なんだから。

 私利私欲の為に、自我を貫く為に出てしまう犠牲があるなら、そんなものは正義でも愛でも何でもない。幼少期、それで俺はたくさん傷ついたんだ。親と同じ事をしちゃ駄目だ。

 そんな事を考えている内に、俺の順番が回ってくる。

 身長百八十センチ。体重九十六キロ。一月の試合の時で百四キロだったから、八キロも落ちたのか。視力は変わらず二・〇。

 結局どこも異常なしという診断結果に落ち着く。

 大きな病気もなく健康優良児そのものに産んでくれたのが、両親に対して唯一感謝すべき点だろうな。

 会社のマンションへ再び戻ると、俺たちの担当員である土田は、「だいたい二、三日後に大帝国印刷へ、まず見学に行きますから」と言い、車で去っていった。

 ただ働くだけなのに、ずいぶんと面倒な手続きがあるんだな。さっさと働かせてくれればいいのに。

 ポツンと残された俺、伊原、田岡の三人。生活をする為の必需品でも買いに行く事にした。キッチンはあるものの、皿も箸も調味料さえないのだ。部屋にはテレビがポツンとあるのみ。会社からすれば、近くの食堂でも弁当も買って、勝手に食えという感じなのだろう。

 ちょっとした家具などが安く売っているところはないかと聞かれた俺は、二人を連れて電車へ乗る。地元川越まで行くと、車を出して安く売っている店に買い物へ連れて行ってあげた。

 カラーボックスが組んである状態で六百八十円。テーブルが千五百円などと、とにかくリサイクル品なので安い。二人は喜んで気に入った物をそれぞれ買い、車の中へ入れた。

 荷物を一緒に運び終えると、彼らはそれぞれの部屋へ戻る。

 俺も一旦マンションへ戻るが、どうも退屈でしょうがない。

 普段テレビなどまったく見る習慣のない俺。パソコンもなければインターネットもないのだ。今から手続きしたとしても、一ヶ月ぐらい接続するまで時間が掛かる。

 こんな状態で家賃を引かれ、使わないテレビや洗濯機代のリース料として月に数千円も取られたら溜まったものじゃない。

 一晩部屋で過ごしてから、まだ仕事まで数日あるので一度家に戻る事にした。

 電車でたった三駅向こうにある場所へ、家賃を払ってまで借りる必要性があるのだろうか? ゆっくり考えてみて家から通う事に決めた。どうせ金を払うなら、もっと住みやすい場所を探してからでも良い。

 一日経って担当の土田から連絡が入る。翌日、大帝国印刷まで連れていかれ、簡単な業務の説明を聞きながら、工場内を見学した。

 これまでのプライドなど持っていちゃ、とてもじゃないがやっていけそうもないな……。

 今はしょうがない。ここからまた再出発なんだ。

 

 地の底まで堕ちた小説家。現在の俺の姿をみんなが知ったら、そう思うだろうな。

 本が売れたかどうかも知れない状態で、印税も入らない。

 他の出版社からの依頼もなく、工場で黙々働こうとしている独身三十六歳男。

 惨めなものだ。ちゃんと本腰を入れて整体を続けていれば、白衣を着ながら「先生」と呼ばれていたものを……。

 患者に誠心誠意接して、施術はちゃんとやった。だが経営という面で考えたら甘過ぎたのである。自分の腕に自信があるなら、正規の料金を取り、普通にやっていけば良かったのだ。それを変に仏心を出して料金をまけたり、施術時間を何時間もサービスでやったり、そんな事をしているから経営悪化になった。

 今の自分がここまで困り苦しんでいるのに、誰が助けてくれる? 誰一人助けちゃくれない。もうみんなにいい顔をするのは本当に考えなきゃ。

 誰かの行動と似ていると気がつく。そう、うちの親父とやり方がすっかり一緒なのだ。

 うちの親父の血を引いているせいかのか、このサービス精神の旺盛さは……。

 誰にでもいい顔をしようなんてそんな必要性など、どこにもなかったのだ。

 まあいい。今に見ていろよ。こうやって再び一から砂を噛み、泥の中を這いつくばってのスタートを忘れるな。

 まずは自分自身、しっかりと地に足をつけ、また這い上がってやる……。

 もう格闘家でもない。

 整体の先生でもない。

 そして小説家ですらない。

 何度このように自分へ言い聞かせただろうか? まだまだプライドが残っている証拠だ。根底では未だ俺は賞を獲った小説家だという妙なプライドがある。

 葛藤、渇望、迷い、様々な感情を抱えたまま大帝国印刷へ望む俺。

 通勤手段として、東武東上線川越駅西口まで送迎バスが定期的に出ている。場所は狭山市の外れのほうにあるので、朝など道が混む為、三十分ぐらいは計算に入れなくてはならない。

 挨拶一つない大帝国印刷の従業員たちと共に、バスへ黙々と乗り込む。乗車中まるで葬式の中にいるようなぐらい静かだった。今、この空間にいる人たちは、日々どんな思いで会社へ向かっているのだろうか?

 バスは国道十六号を通り、途中で右折する。狭山茶で有名な茶畑をボーっと眺めながら、初出勤する今後を考えた。

 やがて景色は大きな建物ばかりが並ぶ、工場地帯へ入る。

『DDP』という三文字のアルファベットが書かれた看板を過ぎると、門を通り敷地内へ到着した。

 ドアが開くと、外ではお偉いさんらしき人物が笑顔で降りる人たちへ向かって「おはようございます」と一人一人に挨拶をしている。ほとんどの人間は、返事すら返さず黙って歩いていく。その光景は、まるでそれぞれの牢屋の中へ戻る死刑囚のように感じた。せめて自分ぐらい挨拶をしようじゃないか。

「おはようございます」

 元気良く言うと、そのお偉いさんらしき人物は目を細めながらお辞儀をしてくれた。

 敷地内は入って右手に守衛所。すぐその先に野球もできるナイター設備つきのグランドがあり、奥には社員食堂もある。

 右手には大きな建物の第一工場。百メートルほど進み、道路を一本挟んだ向こう側には第二工場があった。俺は奥の第二へ向かう。

 中に入ってからもこんなに時間掛かるんじゃ、この先思いやられるな……。

 工場内のロッカー室で作業着に着替え、三階にある事務室のタームカードを押して初めて出勤扱いになる。ただっ広い中は非常に入り組んでおり、迷子になってしまいそうなぐらいだった。

 

 ロッカー室で着替えていると、同期入社の伊原、田岡がやってくる。彼らはそのまま狭山のマンションへ住んでいるので、狭山市駅発のバスで来たのだ。

 この二人しか知り合いはいない。なのでみんな白い割ぽう着のような作業着を着て、頭も白いフカフカの帽子をかぶると、三人一緒にタイムカードを押しに行く。

 まだ少し始業まで時間あったので、田岡と俺は喫煙室へ入りタバコに火をつけた。吸えない井原はポツンと一人暇そうに外で待っている。俺らが世間話をする中、先にいた白い割ぽう着を着た従業員が「君たちどこの課なの?」と声を掛けてきた。

「今日が初出勤なんで、まだどこへ配属されるかすら分からないんですよ」とそう答えると「じゃあしょうがないけど、もし配属が決まったらタバコ吸う場所も、関係ない課のところで吸っていると、うるさく文句言ってくる奴いるから」と意味不明な事を言ってくる。

「はあ…、そうなんですか。以後気をつけます」

「今度からここではタバコを吸っちゃ駄目だよ。それだけで文句を言う人多いからね」

 何度も同じ台詞を繰り返しやがって。いちいちうるさい野郎だ。実際に文句を言っているのはおまえじゃねえかよ……。

 タバコぐらい設置された喫煙場所で、好きなように吸ったって別にいいじゃないか。普段ならこう言い返していただろうが、初日でトラブルもマズいだろう。煙を吐き出すと、すぐ外へ出る。

 派遣担当の土田が「工場内は癖のある奴が多いから、あまり気にしないように」と言っていたが、本当に偏屈な人間が多そうだ。

 工場という巨大な空間で働く従業員たち。ここでしか働いた事のない人間は、それしか世の中の常識を知らない。つまり東証一部上場企業とはいえ、ここは閉鎖された一つの村みたいなもんなのだろう。

 一階で指定された位置で待っていると、ラジオ体操の音楽が聞こえてくる。周りを見ると、それぞれ持ち場の人間同士集まり、音楽に乗って一斉に体操を始めだす。どうしていいのか分からない俺ら三人は、その様子をぼんやり眺めていた。

 ラジオ体操が終わると朝礼を開始したようで、責任者らしき書類を抱えた人が俺たちを呼ぶ。

「君たちは朝礼終わったあとで仕事の説明するから、とりあえず今は列の中に入って」

 ポテトチップスだのかっぱえびせんだの、よく聞くお菓子の名前を言いながら責任者は何かを説明していた。辺りにある大きな機会には、カラムーチョの袋が印刷途中だった。ここはおそらくこういったスナック菓子類を印刷する場所なのだろう。

「はじめまして。二課工場主任の三沢です。私のあとについてきてもらえますか」

 朝礼が終わると責任者は俺たちを呼び寄せ、簡単な工場内にある機械の説明を始める。

 一つの印刷物が終了するまで、それぞれの箇所を分担した機械が七つほどあった。余った印刷物を四角く押しつぶして固める機械などもあり、初めて見るものばかりである。

 印刷をする際必要なインクは赤・青・黄色の三色。これらを混ぜ合わせれば、大抵の色は作り出せると言う。ここでは赤・青・黄色をベニ・アイ・キと呼ぶそうだ。慣れるまで時間が掛かるかもしれない。

 話の途中、別の従業員が間に入り、「一課のほうで人が足りないんで、一人回してもらえませんか?」と聞いてくる。三沢主任は腕を組みながら少し難しい表情をしていた。どことなく大和プロレスのエース伊達さんに似ている。あの人がもっと年を取ったらこんな顔になるんだろうな。そう思うと妙な親近感が沸く。

「悪いんだけど、君たち三人の中で一人…、向こうの第一工場へ行ってほしいんだけど…。誰か志願してくれないか?」

 主任はバツが悪そうに言うが、田岡も伊原も手を上げようとしない。一人で違う場所へ行くのがきっと心細いのだろうな。

「はい、自分が行きます」

 どこへ行っても変わらないだろう。俺は積極的に自分で手を上げた。

「じゃあ今からこの人、栗原さんについていってもらえるかな」

「分かりました」

 栗原が近づき「ありがとう。ちょうど人がいなくて困っていたんだよ。ほんと助かるよ」と言いながら、優しく微笑む。

 感じの良さそうな人で良かった。

 同期の二人は俺を見ながら軽く会釈をする。俺はニコッと笑い掛けてから、栗原のあとをついていく。

 工場内の出入りの際、個室化された空気のシャワールームへ入らないといけない規則がある。これは衣服や髪の毛についた髪の毛や埃などが印刷中、インクの中に入らないようにらしい。そういったものがインクの中へ入ると、印刷時とんでもないトラブルの原因になる為、神経質なぐらい慎重な決まり事である。これらをすべて吹き飛ばすエアーシャワーは上下左右無数に空いた小さな穴から勢いよく発射され、一度入ると一分ほど中に空気を浴びないとドアが開かない仕組みになっていた。

 トイレも非常に面倒で、一度入れば手指消毒器という機械の中に手を洗ったあと入れ、小さな赤いランプが緑色になるまで消毒しないとドアが開かない。

【扉は手指消毒器を使用しないと開きません。手指消毒器に手を入れ、消毒液の噴射が終わるまで手を入れておいて下さい。扉が自動で開きます。途中で手を抜いた場合、扉は開きません。非常時、停電時は手動で扉を開けて下さい】

 このような注意書きが、すべてのトイレに貼ってあった。

 初めて大帝国印刷のトイレを使った時は、ドアが開かなかったので本当にビックリしたものである。

 

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