2024/11/23 sta
前回の章
読売新聞の特集記事消滅。
記者の秋田も、記事には旬というものがあるってあの時言っていたもんな……。
それにしても出版社のサイマリンガル、俺に賞をくれたのは嬉しいが、ヤバい会社かもしれない。
怖いグランプリの一件。
あれは、どう考えても納得できない。
授賞式の時聞いてもいないのに、樽谷社長から言ってきたあの台詞は何なんだ?
二次選考で強引に俺を脱落させ、最終選考をやるのか知らないが、俺だけはハッキリ分かる。
グランプリは『キャップストーン』だと……。
それにしても、これから出版する作者に対しあまりにも礼を欠いた行為。
二次選考の時点で、『岩上智一郎氏は、他のグランプリを授賞した為当グランプリを辞退しました』と、表記すればいい話なのに。
あの滅茶苦茶な三種類の印刷の校正作業。
あの時俺が言い返したからか?
どちらにせよ、俺の特集記事が消滅したのは出版社側へとっても痛手なはずなのになあ。
弟の徹也が整体に入ってきた。
俺はサイマリンガルとのわだかまりを簡単に話してみる。
「いや、兄貴さ…、せっかく出版社が兄貴の本を出してくれるんだから、向こうの言いなりになっといたほうがいいよ」
徹也の言い分は分かる。
ただ読売新聞の件だけは、いくら考えても分からない。
まあ過ぎてしまった事なので、『新宿クレッシェンド』を本にするまでの我慢と捉えるしかないだろう。
食事休憩の札を出し、外へ出る。
どこへ行こうか?
本川越駅前を走る中央通りを真っ直ぐ歩き、蓮馨寺のところを右へ曲がる。
狭い商店街立門前通り。
通りの入口にある川越水族館へ入る。
保坂忠弘ことター坊のお袋さんが店番をしていた。
俺の顔を見ると、「やったねー、岩上君おめでとう!」と立ち上がる。
「お陰様で……」
「お祝いに金魚持ってくかい?」
「いやいや、まだこの間買った金魚、ちゃんと育ててますから」
賞など取る前からしっかり俺の作品を読んでくれ、ちゃんと感想まで言ってくれた。
クレッシェンドを読み終えたあと、「続きは無いの?」とあの時言ってくれた台詞が、どれほど嬉しかったか。
俺はこういった人たちから勇気付けられて、今の自分がある。
お礼を言い店を出た。
立門前通りと交差する形である大正浪漫通り。
旧名は銀座通りだが、昔は雨を凌げるアーケード商店街だった。
老朽管の為すべてのアーケードを撤去し、店構えまで大正時代風に造り替え、床までレンガ造りと洒落た通りに生まれ変わる。
先輩のスガ人形店を過ぎ、隣にある加賀屋化粧品店へ入った。
小、中学の同級生である滝川兼一のお袋さんへ、小説の事を報告したかったのだ。
「おばさん、こんにちは!」
「あら、智ちゃん! 聞いたわよ、小説。凄いじゃない」
全日本プロレスを目指した頃からだから、二十歳くらい。
何かあると、俺はよくおばさんのところへ来て色々話した。
年は俺の親父より少し上なので、愚痴だろうと自慢話だろうと、笑顔で話をいつも聞いてくれるおばさんに対し、母性を本能的に求めていたのかもしれない。
「あ、知っていたんですか? 一応自分の口から伝えようかなと思って」
おばさんは俺の家の複雑な環境を昔から知っている。
小二で母親が出て行った事。
親父が遊び人で、現在加藤皐月と再婚した事。
叔母であるピーちゃんの当たりが、俺にはキツい事。
だから俺もつい甘えてしまっているのだろう。
もちろん『新宿クレッシェンド』を書き上げ、自作の本を作った際、プレゼントした一人である。
当時読み終わったおばさんは、「うーん、何かね…、私も人の親だから、主人公の子の辛さがね……」と泣いてくれた。
「おばさん、とうとう俺の小説が本になるんですよ! まだ校正作業中だから、先の話になりますけど」
「本当におめでとうね、智ちゃん。私はあなたを昔から知っているから、今回の小説が……」
そこまで言って、泣き出してしまう。
俺はいつも決まって思う事がある。
この人が俺の母親だったら、本当に良かったのに……。
携帯電話が鳴る。
知らない番号からだ。
誰だろう?
岩上整体の広告に、俺の番号なんて載せていないしな……。
うちの患者から直接聞いて、紹介されたのかもしれないな。
とりあえず出てみる。
「あ、岩上さんですか?」
聞き覚えのある声だが、誰だろう?
「えーと…、どちら様で?」
「緑です!」
緑、緑……。
誰だっけ?
「えーととですね…。私、存じ上げないのですが……」
「えー、忘れちゃったんですか? よく新宿で、小山とご飯に行った緑なんですけど……」
「あ、あの緑ちゃんか!」
裏稼業ゲーム屋ワールドワン時代だから何年ぶりだ?
小山の話では、シャブをいくら言っても分からないから別れたと、随分前に聞いたような……。
「岩上さん、今はまだ新宿なんですか?」
「いや、全然違うよ。地元の川越で整体を開業しているんだ」
「えー、凄い! じゃあお祝いに行かなきゃ」
「いやいや、新宿でなく埼玉県の川越だよ? お気持ちだけで……」
「えー、私お祝いに行きたいですー。住所教えて下さいよ」
ここまで言うなら仕方ないか。
俺は岩上整体の住所を教えた。
小山とは別れたはずだよな?
まだ風俗の十一チャンネルで働いているのかな?
こんな数年も経って、何故俺に関わろうとするんだろう?
ひょっとして小山と関係無くなったから、俺に……。
いやいや…、シャブ中でしょ……。
それに風俗嬢……。
いや、偏見など無いが、元従業員の彼女とはさすがに……。
ドアが開く。
チャブーだった。
「何だ、おまえかよ……」
「ややや、それは酷い言い方だね」
「俺のグランプリ決定の時、眠いからという理由で顔すら出さないおまえのほうが、よっぽど酷いよ」
「あの時はさ、しょうがなかったんだよ」
「あのさ…、あの日ってかなり特別な日な訳ね? 飯野君や熊倉とかはお祝いに駆け付けてくれたよ? 誰かさんみたいに、眠いなんて誰一人そんな事言わないよ」
「ややや…、こりゃまた失礼」
面倒なので嘘をついて追い返そう。
「ごめん、患者これから来るからさ」
「じゃあ来たら、すぐ出ていくよ」
「いや、ほんと悪いけど、遊びで整体やってないからさ」
「えー…、俺に帰れと?」
「うん」
少し可哀想な気がしたが、仕方がない。
山崎ちえみの一件。
昔のチャブーはドラムがプロ級に凄かった。
だが、社会人になって再会したチャブーは少し頭がおかしい。
あいつの暇な時間を相手する為に、整体を開業した訳ではないのだ。
もう副業で金が入ってくる事は無い。
俺ももう少し真面目に整体へ取り組まないと……。
ドアがゆっくり開く。
中々入ってこないな?
外を見ると、同級生の守屋純一がいた。
彼は幼稚園から中学に掛けての同級生。
仇名は守コン。
段ボールに入ったポスターを何本も持っている。
「久しぶり、何をやってんの?」
「いやー、岩ヤンの店、駅前じゃん。だからこのポスター貼ってもらいたいなと思ってさー」
「何の?」
「スカラ座の」
「……」
市長の息子であり、現在県会議員をしている舟橋一浩こと舟ヤン。
彼が指揮を取って、川越最後の映画館のスカラ座を残そうという動きがあるのは聞いていた。
県会議員選挙の時も、守屋は舟橋にベッタリだった。
今年の四月に行われた県会議員選挙。
俺はおじいちゃんが面倒を見る自民党渋谷みのるの件があり、表立って舟ヤンを応援する事が立ち位置的に難しい状況だった。
その時守コンから電話が何度もあり、舟ヤンの選挙を手伝ってほしいと懇願される。
「守コンよ、うちの立場考えたら、俺は表立ってできないの分かるだろ?」
そう説明しても、守コンは「同級生の絆ってあるじゃん」と言い返してきた。
コイツ、何も分からないで小判鮫のようにいるのかと分かり、丁重に断る。
あとでこっそり舟橋へメールで『舟ヤン、表立って応援はできないけど、頑張れ!』と送った過去があった。
結果的に渋谷さんも舟ヤンも受かったから良かった。
守屋はそれ以来、音沙汰はまるで無い。
二十歳半ばの頃、守屋は家の人形屋を継がず、川越駅駅ビルアトレにある洋服のバンで働いていた。
俺は彼の顔を立てる意味合いで、履きもしないズボンを何度か買った。
しかし彼から遊びの誘いは一切無く、自然と関係は遠のいていった。
最近になり、家業の人形屋秀月モリヤを継いだという話を彼の母親から聞いたばかり。
先週守コンの母親が岩上整体へ来てくれ、その時聞いた話題である。
彼の母親とは、俺のお袋が出て行った日にちょっとしたエピソードがあった。
お袋と幼少の頃仲が良かった守コンの母親。
出て行った日の朝、何も知らない俺ら三兄弟の前に現れ「可哀想に…、智ちゃんたち可哀想にね…」とパンの朝食を作りに来てくれた事がある。
それ以来の再会だった。
幼馴染かもしれないが、俺と守屋の関係は薄い。
ただ親の件が幼少の頃記憶に残っているから、守屋には少し甘く接しただけ。
「ねえ、壁にスカラ座の貼っていいでしょ?」
「うーん……」
何か引っ掛かるものがある。
スカラ座自体は何も悪くない。
ただ気に食わないのが、うちの目の前にあった映画館ホームラン劇場が無くなる時は何も声を上げず、離れた無関係のところにあるスカラ座はやっている事に違和感を覚えていた。
舟ヤンは離れているから、まだいい。
守屋に関して言えば、「おまえはホームランの映画観て育ったんじゃないのか?」と、声を大にして言いたい。
「そういえばさ、岩ヤンって、小説? 何だか怪しい賞か何か取ったんでしょ?」
その瞬間俺は怒鳴りつけた。
「おい、馬鹿にしてんのか? 幼馴染だから殴られないとか思ってんの? 何が怪しい賞だよ? とっとと失せろ!」
守屋は焦って逃げていく。
随分前だが、うちに来るヤクザの内野正人からカツアゲされた同級生の一人。
一度は内野から守ってやったが、今後あいつを守る事は無いだろう。
俺にとって永遠のマドンナである品川春美からメールが届く。
彼女からの内容はまず、あの時最初に送った『新宿クレッシェンド』が賞を取れた事に驚きと、祝福の言葉を。
そして今でも俺が描いた絵や、現役時代の写真を大切に持っているという事だった。
わざわざ写真を撮り、小さな画像だが、添付してくれている。
何回も春美からのメールを繰り返し読んだ。
整体へ来てくれた時、彼氏と同棲していると言っていた。
だから賞が決まった時、すぐメールはしたが、返事など来なくても仕方がないと割り切っていた。
「失敗しちゃったかな……」
あの時、呟いた春美の言葉が蘇る。
どういう意味合いで、あの時俺に聞こえるように言ったのだ?
胸の奥がむず痒い。
ピアノを弾き出した…、小説を書き出した頃の赤い情熱。
今根底に押し込んでいた感情が、沸き上がりそうなのが自覚できた。
群馬の先生に以前言われた言葉が蘇る。
「あなたは愛に苦しむでしょう」
あれはこの事を予言した言葉なのか?
そしてもう一つ俺に言った。
「流れを大事に……」
たった一通の春美からのメール。
その意味合いは、俺にとって本当に大きい。
感情がまた爆発しそうだった。
気付けば俺は泣いていた。
俺はブログ『智一郎の部屋』を開く。
自分を抑えられない。
『俺が小説を書いたのは、応援してくれるみんなの為でなく、たった一人の女の為に格好つけたいから書いた。春美、俺はおまえの事がやっぱ大好きだ』
インターネット上に記事をアップして、本当に馬鹿な真似をしたと思った。
しかし素直な俺の感泣。
春美はこのブログの存在すら知らないだろう。
俺は応援してくれた人たちに、ただ後ろ脚で砂をぶっ掛ける行為をしてしまったのだ……。
まじまじと自分の書いた記事を何度も読む。
「本当に俺って馬鹿だよな……」
独り言を呟きながら、タバコに火をつけた。
結局春美のメールに対し、臆病な俺は返信できなかった。
勢いよくドアが開く。
二十歳そこそこの美人が中を覗き込んだ。
「あー、本物だーっ!」
「はい?」
「あ、ごめんなさい。私、ひなのって言います。先生の小説のファンなんです!」
どう対応していいのか、混乱していた。
「えーと……」
「あ、ごめんなさい。私、腰も結構酷くて」
「はあ…、OLさんですか?」
「いえ、女子大生なんですよ」
凄い美人なんだけど、何か変わっているな、この子……。
問診票を準備する前に、診察ベッドへうつ伏せになっている。
まあ患者いないからいいか……。
ひなのは自分でスカートをたくし上げ、「岩上先生、腰を診て下さい」とお尻丸出しになった。
これ、ヤバいでしょ……。
以前の俺なら多分…、いや、絶対手を出していた。
つい先日、春美からのメールに感泣したばかりの俺。
今の俺にはモラルがあるのだ。
高周波を当てて、岩上流三点療法。
しかし悲しい男の性で、視線だけはお尻に行ってしまう。
「はい、骨盤矯正します」
「あれー、凄い軽い! 先生ありがと」
ひなのは俺の頬にキスをしてくる。
これ、絶対に抱ける流れじゃん……。
いや、駄目でしよ。
先日春美への想いを世界中にぶち撒けておいて、節操が無さ過ぎる。
「また腰の具合悪くなったら来てね」
「はーい、ありがと先生!」
ひなのは去っていく。
台風みたいな子だったな……。
あ、施術代もらうの忘れていた。
乱暴にドアが開く。
おいおい、どこのどいつだよ?
俺は慌てて入口へ駆け寄ると、授賞式のあと久しぶりに再会した島村がいた。
「島村君?」
よく見ると、島村の顔は誰かに殴られたのかボコボコだ。
鼻や口からも血が垂れていた。
短い髪も、ところどころバリカンで刈られたような跡がある。
「す、すみません、岩上さん……」
「どうしたのよ、島村君? とりあえず中へ入りな」
傷だらけの島村を整体の中へ入れる。
「すみません、岩上さん。ご迷惑お掛けしちゃって……」
「一体何があったの?」
とりあえず島村から状況を聞き出す事にする。
インターネットカジノの名義人を務める事になった島村は、当時働いていたゲーム屋ワールドワンを綺麗に辞める。
それから七年経つ。
その間島村は池袋の店を切り盛りしていたが、最近になりワールドワン時代の番頭である佐々木さんから、客の紹介を受けたらしい。
そこまでまったくおかしな点はない。
しかしその紹介された客が曲者だった。
五百万円の現金を店ですべて溶かしたが、すぐ持ってくるから一千万円分のポイントを入れてくれと頼んできたらしい。
原則というか、賭博は現金と引換が必須。
それを島村は売上が欲しかったらしく、その客の言い分を聞き、ポイントを入れてしまう。
その一千万分のポイントはすぐ溶けてしまい、また一千万と要求。
さらに一千万と芋づる式にポイントを入れ、三千万分が無くなると、まずは現金を用意するようそこで初めて断ったようだ。
従業員一人がその客に付き添う形で外へ出たが、途中で走って逃げられる。
探し回るもすでに後の祭り。
残ったのは三千万分のポイントの消失。
焦った島村は、自分の店のポイントをさらに使って取り戻そうと躍起になった。
しかしその後待ち受けていたのは、一千万分のポイントが溶けてしまい、そこでギブアップ。
合計四千万分のポイントだけを無くした事に、切れたオーナーは島村を何度も殴る。
それは当たり前だ。
その後赤羽の住む家まで抑えられ、毎日のように押し掛けてきては殴られ、バリカンで髪を刈られ無茶苦茶されたらしい。
四千万の金も一生掛かって埋めろと言われ、隙を見て命からがら岩上整体へ逃げてきたという訳だった。
「四千万…、それ死人が出る金額だよ?」
「いや、それでもオープンから今まで億単位の金を献上してきたんですよ? その客に現金と引き換えに、ポイント入れたのは俺が悪いですが、毎日のように売上売上って怒鳴られて仕方がなかったんですよ」
「だからって、現金と引き換えに入れなきゃ駄目じゃん」
俺はインターネットカジノという業種はよく分からないので、何とも言えなかった。
一つ言えるのは島村のミスにより、その店が四千万円分の損失を出してしまった点である。
一文無しで逃げるように赤羽から川越まで来た島村。
俺は数万円の金を貸し、昼間は漫画喫茶、夜中は岩上整体のベッドを使っていいと、短期間であるが彼の面倒を見た。
順調だった流れが、授賞式から悪い方向へ変わったような気がした。
整体の患者状況もあるので、群馬の先生のところへ相談に行きたかったが、中々時間が取れない。
ギリギリ食える程度には、患者が増えている。
先程も森昇のお袋さんが施術を受けに来てくれ、グランプリのお祝いにと高級な肉まで置いていったところだ。
冷凍庫へ徐々に溜まる肉。
またここで焼肉パーティーをしないといけなくなるな。
上の焼肉炙りやに最新の注意を払いながら……。
糠味噌を掻き回していると、銀行員の渡辺信さんが来た。
この人は何度来てくれたか分からないほど、岩上整体に貢献してくれている。
トヨタ主幹の中原さんにしてもそうだ。
感謝してもし足りないほどだ。
一通りの常連患者の施術をこなし、タバコを吸って一息つく。
ドアが開く。
茶色い髪の毛にパーマが掛かった小動物のような目をした可愛い感じの女性が、岩上整体へ入ってきた。
問診票を書いてもらう。
パチンコ屋のコーヒーを売る職業。
二十四歳、木崎留美。
施術箇所は、立ち仕事故の肩凝りと腰。
「随分珍しい職業ですね? パチンコで出ている客に、コーヒーどうですかってやつですよね?」
「ええ、そうなんですよ」
「では早速施術しましょうか」
結構スタイル良く肉付きもいい。
余計な事を考えるな。
真面目にやろう。
百合子と別れてから、定期的に抱ける女がいないから悶々とするのだ。
またエレベーターガール宇土に会いたいな。
あの時指で触るだけでなく、ちゃんと抱いておけば良かった。
そんな事を考えていると、思考がどんどんおかしな方向へ行く。
気が付けば、施術をしつつ際どいところへ指が伸びていた。
甘い吐息を出すコーヒーガール。
パンティーは湿っている。
据え膳食わねば……。
俺は久しぶりに女を抱いた。
新宿歌舞伎町浄化作戦時、俺が統括していた五つの裏ビデオ屋。
区役所通りと東通りの間にあった一、二階の店『リング』と『らせん』。
その一階の名義人リングの伊田が、何故か岩上整体へ顔を出した。
「お久しぶりですー、岩上さん」
「お久しぶりです…。伊田さん何でここが分かったんですか?」
いまいち彼の事が苦手だった俺は、岩上整体を開業した事を伝えていなかった。
「インターネットで見ましたよ、岩上さん! とうとう小説も賞を取り、川越で整体までやってるなんて凄いなあー。あ、これ、お菓子です。食べて下さい」
「ありがとうございます」
伊田は現在執行猶予中。
まだ一年ほど大人しくしていないといけない状況。
裏ビデオで捕まった名義人の末路である。
その代わり彼は罪状と引き換えに、二百万円の金を得た。
今は昼の工場で働いているそうで、月給二十万しか稼げないと愚痴りだす。
歌舞伎町の頃は良かったの、また好きな時におさわりパブへ行けるくらいの稼ぎは欲しいだの、どうでもいい話題をダラダラ話している。
早く帰ってくれないかな……。
もしくは患者が、誰かしら来てくれたらいいのに。
因果なもので、こういう時に限って暇だった。
三時間ほどくだらない話を聞かされ、精神的疲労が凄い。
携帯電話が鳴ったので、見てみると自費出版作家の山嵐乃兎からだった。
案の定ワンコール切り。
まあこの際、電話代をこちらが負担してでもいいから、それを理由に伊田には帰ってもらおう。
「伊田さん、ごめんなさい。ちょっと出版社のほうから電話が入ったので、そろそろ……」
「あー、私は大丈夫ですよ。岩上さんの電話が終わるのを待ってますよ」
いやいや、おまえが大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないんだよ……。
「小説の打ち合わせも兼ねるので、とても長電話になりますから」
「へえ、小説の世界の裏話とか是非聞いてみたいですねー」
この野郎、脳味噌に皺あるのかよ?
「いや、そのあと校正作業残ってますので、できたら本当はすぐにでも取り掛かりたいんですよ」
「へえ、プロの作家の校正作業を間近で見れるなんて中々ないですよ!」
何でここまで言っているのに帰らないの?
「ごめんなさい、伊田さん。大変申し訳ないんですが、出版前の作品には出すまで作者と出版社以外、内容を見られてはいけない決まりがあるんですよ」
「まあまあそこは私と岩上さんの仲で」
コイツ、本当に日本語通じないなあ……。
「伊田さん、万が一この事が露呈したら、俺の作品の本になる話は消滅します。さすがにそれは嫌なので……」
ここまで言えば、さすがに分かるだろう?
「いや、あのですね……」
「何でしょう?」
「岩上さんの整体が終わったらでいいのですが……」
「はい」
「夜だけ寝泊まりさせてもらえたらと、思いまして……」
何いってんだ、コイツ?
「無理に決まってんじゃないですか! 俺の整体を潰すつもりですか!」
「いや、そういうつもりは無く、純粋にベッドもあるし、夜だけ寝泊まりを……」
「無理です! 申し訳ないけど、帰ってもらえますか」
ここまでハッキリ言って、ようやく伊田は帰ってくれる。
携帯電話がまたワンコールだけ鳴って切れた。
山嵐乃兎から……。
絶対に何か悪い流れになっているよな?
俺は携帯電話の電源を切って、家に帰って寝た。
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