2024/11/2
前回の章
試合日が決定して、まず出版社へ電話を掛けた。
「あ、社長ですか? 俺、この度総合格闘技の試合が決まりましたから。マスコミもたくさん取り上げますよ? クレッシェンドにとって絶対いい宣伝効果になると思います。とりあえず今日はご報告までに連絡しました」
しかし出版社からは三日経っても、電話はおろかメール一つなかった。
俺は怒り狂い、「何で俺が命がけでやろうとして、それを連絡したのに何の返答もない? ふざけんじゃねえ」と電話で怒鳴った。
出版社から一通のメールが来た……。
『岩上さま、お世話になっております。
先ほどは失礼いたしました。
せっかくお知らせ頂いたにも関わらず、お祝いのメールすら遅れまして申し訳ありません。
改めまして、復帰(復活が正しいでしょうか?)おめでとうございます。
岩上さんの復活戦が丁度、本の書店発売予定の十日~十五日に近いので、宣伝として利用させて頂く事も考えたのですが、それによって、「新宿クレッシェンド」が作品としてフラットな状態でなくなる事を懸念して、つまり、作品に対する販売ターゲットなどが変わってしまう、読者層が限定されてしまうのでは、という可能性を考慮して、現状ではあまり世間に向けて宣伝は行わない方が良いのでは…、という思いがあったようです。
何しろ、小さな出版部ですので、宣伝によって読者層が限定されてしまうような事があっては本末転倒ですし、岩上さんも「たくさんの人達に、作品を読んで貰いたい!」と思っている事と、私も思っています。
確かに復活戦は喜ばしい事なのですが、今、会社として「新宿クレッシェンド」をどういう本として売っていくかを考えた結果と、どうか捉えて頂きたいと思います。
どちらにせよ、復帰の連絡を頂いていたにも関わらず、こちらからのアクションがなかった事は私に非があります。申し訳ありませんでした。
メールの文章でちきんと気持ちが伝わっているか不安ではありますが、言葉が足りていない部分がありましたら、ご指摘ください。
宣伝は行わないとは言っても、これはあくまでも一般に向けて、なので本を置いてくれる書店さんや、その本社、出版業界の方々にはしっかり宣伝させて頂きます!
先ほどはお電話できちんとお伺いできませんでしたので、復帰戦の情報、改めまして、私に…、お知らせ頂けますでしょうか?
後で自分でも調べてみます。
出版社担当編集 今井貴子』
今井の奴、何いきなり小さな出版社とか言い出しているんだ?
だったら読売新聞の特集記事の話の時に、何故協力しなかったんだ?
格闘技を宣伝すると、読者層が限定される?
コイツ、何を言ってんだ?
『忌み嫌われし子』のホラー部門でのやり取りで、俺はサイマリンガルへ不信感を抱いたが、どうやらそれは間違いじゃなかったようだ。
社長の樽谷を始め、編集の今井も、コイツら頭が少しおかしい。
何故大手企業が大金を使ってCMを流す?
より多くの人に知ってもらう為だろう。
賞を取った作家が本を全国発売し、その数日後に総合格闘技で戦います。
多分これ、世の中で俺にしかできない事だぞ?
それを読者層が限定されるって何だ?
携帯電話が鳴る。
出ようとするとワンコールで切れた。
画面を見なくても分かる。
どうせ自費出版作家山嵐乃兎だろう。
電話代が惜しくて、飲み屋のフィリピン人みたいにいつもワンコール切り。
普段なら放っておくが、出版社サイマリンガルの事を話したかった。
出版社が本を出すという事について、何をどう考えているのか、俺には理解できないところが多い。
ちょっと聞いてみるか。
彼も自費出版とはいえ、世に二冊も本を出している作家なのだから。
山嵐乃兎へ…、いや彼のお袋さん名義の携帯へ電話を掛ける。
俺はサイマリンガルとのやり取りを簡潔に説明した。
「うーん、けったいな出版社やな。岩上君の言う事は間違っているとは思えへん」
「ですよね?」
「もしくはよほど岩上君の事が嫌いなのか…。あ、でもそしたら賞どころじゃないか」
「賞を取ってから直に接してみて、嫌いになったのもありますよね」
「まあ岩上君の場合、派手やからな。本出して、そのあと試合って、ほんまぶっ飛んでるわ」
「小説に興味無い人だって、え、何ってなりますよね?」
「そうやなー」
「あ、岩上君、前にワイに『結婚しているのか?』と聞いてきた事あったじゃない」
山嵐と初期の頃会話をしていて、俺より十歳上なのにまるで生活感が無かった。
それで一度だけ結婚をしているのかと聞いた事があったっけ。
あの時妙に口籠り、夫婦喧嘩でもしているのかな程度には思っていたけど。
「あ、はい。それが?」
「実はワイも以前結婚していたんや…。でも、ある日…、もう数年前になるけど、帰ってきたら、妻は風呂場に顔をつけたまま溺死していたんや」
「……」
彼の言葉が頭の中でリアルな映像として描かれる。
俺は何て言葉を掛けていいのか、少し混乱していた。
「元々精神的におかしくなっていて、薬で治療はしてたんや…。でも、不思議な事にあまり衝撃って無いんやな。多分だけど、ワイはそうなる事を何となくだけど、覚悟していたんや……」
「そうでしたか……。お悔やみを申し上げます……」
「嫌だな、岩上君。そんなん言われても、もう昔の話なんやから」
風呂場で湯船に顔をつけたまま溺死って、心臓か脳の障害でもあったのだろうか?
今度じっくりその事について聞いてみたい。
岩上整体の電話が鳴る。
「あ、山嵐さん、すみません。患者来たんで」
携帯電話を切り、整体の電話を取る。
トヨタの主幹中原さんからだった。
「岩上さん。今日は整体はやられないんですか?」
「いえいえ、今日はいますよ」
この人も、自費出版作家山嵐乃兎と偶然な事に同じ年。
何故か中原さんは俺を気に入ってくれて、よく整体へ顔を出してくれる。
差し入れとかもよく持ってきてくれるので、自然に打ち解けプライベートでも飲みに行くようになったぐらいだ。
タイミング良く知り合った十歳ほど年上の男性二人。
彼らには一つの共通点があった。
まるで俺と同じ独身のように、まるで生活感が無いのである。
失礼かなとは思ったが、気になったので以前施術中に聞いてみた事があった。
「中原さんってご結婚されていますか?」
「ええ、していました……」
していましたという過去形。
おそらく離婚をしてしまったのだろう。
失礼な事を聞いてしまったものだ。
「では後ほど伺いますね」
夕方になりトヨタの主幹中原さんは顔を出してくれる。
身体なんてどこも悪くないのに、診てほしいと言ってくる。
「中原さん、悪いけど、どこも悪いところないのに金なんて取れないし、診れませんよ」
「んー、でも、とりあえず岩上さんに診てもらおうかなと思って」
「三日前に診たばかりじゃないですか。何か話したい事でもあったんですか?」
「え、ええ…、実は前にちょっとお話した時の件なんですが……」
「前に? 酒の席で話していた俺の歌舞伎町時代の馬鹿話ですか?」
「いえ…、私が結婚をしていたと言う事についてです……」
「……」
「実は恥ずかしい話なんですが、私の妻は首を吊って自殺をしたんです……」
「何故それを私に?」
「何となく岩上さんになら伝えておきたいなと思いまして……」
「すみませんでした。古傷をエグるような真似をしてしまい……」
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません。こんな嫌な話をしてしまい……」
山嵐乃兎の妻は風呂場で溺死。
トヨタ主幹中原さんの妻は首吊り。
二人の共通点は同じ年というだけ。
もちろん二人ともお互いの存在など知らない。
ただ同じ日に、その二人から『結婚』について語られた。
共通するのは二人とも妻が亡くなっている事。
少し薄気味悪いものを感じていた。
施術が終わると中原さんは、岩上整体を辞めないようまた説得してくる。
どうやったら生き残れるか?
それを色々考えてくれたが、続けるだけの金も気力も当時の俺には無かった。
今は目の前にある試合に備え、身体を少しでも昔に戻しながら体重を上げなければいけないのだ。
たった三万のファイトマネーの為に……。
結局岩上整体を閉めてしまうと中原さんは、俺から去っていった。
感謝はいくらでもあるので何度かメールを出した。
だがそれ以来一度も返事をくれる事は無かった。
この頃俺の体重は、自身の最高記録百キロを初めて超えた。
整体のドアが開く。
「すみませーん」
俺よりちょっと年上な感じの女性。
黒髪ショートカットで、やや恰幅のいい体格。
「初めてですか?」
どこかで見た事あるような気がするが、うちは来た事無いよな……。
「はい、小宮山です。智一郎さんのおじいさんのご紹介と言うか」
「え、うちのおじいちゃん?」
そんな事聞いて無かったけどな。
「まあ紹介と言うか……」
「あの…、お名前は?」
「小宮山泰子です」
どうりでどこかで見たと思った。
俺の岩上整体の広告よりも、川越の街で無数に貼ってあるポスター。
現衆議院議員の小宮山泰子。
「何だ、泰子さんかー。早く言って下さいよ。おじいちゃんのって言うから誰かと思いましたよ」
「外に貼ってあったけど、智一郎君小説で賞取ったの?」
「そうなんですよ、まぐれですけど。今日はどうしたんです?」
「首が鞭打ちというか、もう限界で……」
「よし、診ましょう!」
政治家なのに泰子さんは気取ったところが無い。
非常にフレンドリーなのだ。
年は俺より六つ上で、家の目の前にあった映画館ホームラン劇場の櫻井さんと同級生。
思ったより首回りが酷い。
まあ始めは高周波つけてほぐしてから三点療法をやれば、問題ないだろう。
「政治の仕事もこんなになるなんて、大変なんですねー」
「いや、それがね…。言っちゃっていいのかな。〇〇に首根っこ掴まれて床に叩きつけられた時に、鞭打ちみたいになっちゃってね」
「えー、泰子さん女性なのに酷い奴だなー」
「でも誰もあの人に文句言えないでしょ」
「まあ、それはそうかもしれないですけど」
雑談を踏まえ治療しながら二時間ほど経つ。
「智一郎君、お世話様。おいくら?」
「五千円です」
「は? こんなにやってもらって五千円?」
「俺が勝手にやっただけですからね。うちはいつもこんなもんですよ」
「商売下手と言うか…、本当に五千円でいいの?」
「いいっすよ」
「お店大丈夫なの?」
「いや…、それがもうすぐここは、閉めるんですよ」
俺はこれまでの経緯を簡単に教える。
「あらら、大変ねー。まあ試合頑張ってよ。首楽になったわ、ありがとう」
小宮山泰子が満足そうに出ていく。
手元に置いてある俺の処女作『新宿クレッシェンド』の本。
表紙は俺が写っている。
本当は、こういう感じじゃなかったんだけどな……。
一ヶ月前を思い出す。
まだ内野の野郎に金を持ち逃げする前の話を。
この本の作者自身が、小説の扉絵も自分で描いたら、話題的により面白くなるんじゃないか。
そう思いながら描いた『新宿クレッシェンド』の扉絵。
表紙をめくった次はこんな絵がいいと、ピアノを弾いた時の感覚で描く。
担当編集者の今井貴子にデータを送り、これを使いたいと言うも「ピアノを弾く話ではないので」と即却下。
「これが見本です」と送ってきたデータを見て、俺は激しく切れた。
帽子を被りサングラスを掛けた目つきの悪い口髭がうっすら生えた怪しい男。
本の中央よりやや右側に立ちながら、どこかを見ている。
何なのこの品の無い男は?
これが今井貴子のいう新宿クレッシェンドのイメージなのか?
もう一つのデータが届く。
先程の怪しい線の細い男が、新宿の靖国通りか…、そこへ佇む表紙。
だから何でコイツに拘っているんだよ!
俺は即座にサイマリンガルへ電話を掛け、今井に怒鳴りつけた。
「何なんだよ、あの変な男は! 俺の描いた表紙を却下して、あれは無いだろ! こんなんじゃ、本にしなくていいよ!」
「岩上さん、落ち着いて下さい。あれはあくまでも見本ですから」
「見本であれって、ふざけんなっ! 何なんだよ、あれは?」
「ですから…、二回目に送った感じのシチュエーションで、当社は岩上さんを使おうと思っています」
「は? 何で俺が表紙に出るの? 変でしょ? 俺が目立ちたがりとか勘違いされるでしょ」
「ならあの写真の方を……」
「それはもっと嫌だ! 絶対に嫌だからな!」
「では岩上さんで行きましょう」
あの変な男にだけは絶対に嫌だった俺は、仕方なく自分が表紙になる道を選ばされた。
岩上整体を一日休み、撮影の為新宿へ。
俺は寒い中コートを剥ぎ取られ、スーツだけで中央分離帯に立たされる。
視線の先には新宿プリンスホテルが見えた。
そういえば裏稼業ゲーム屋時代、俺はよくプリンスの支配人たちからお世話になったよな……。
鎌田さん辞めてどこ行っちゃったんだろう。
そんな事を考えている内に、撮影は終了した。
もちろんノーギャラ。
終わったあと、普通の一般人じゃ通りづらい道を案内する。
今井はそのディープさに感動し、同行したカメラマンも辺りをパシャパシャ撮っていた。
その一角にある中華料理叙楽苑へ連れていき、俺が奢ってやった。
そうしてできたのが、俺が写る『新宿クレッシェンド』の表紙となった訳である。
今井貴子はまったくセンスの欠片も無い。
それだけは分かった。
出版社との溝ができた一件でもある。
さて、先輩の岡部さんに本を届けに行くか……。
年末に向けて、岩上整体の中を奇麗に空にして掃除をしなければならない。
一年ちょっと続いた岩上整体も、もう少しでおしまい。
水槽に飼っている魚をどうしようか迷った。
漫画に出てくるあの肉などユニークなメニューのある後輩の店『めし処のぶた』の大野信成。
彼なら昔から実家でも店でも、たくさんの水槽を置き様々な種類の魚を飼っているのを思い出す。
俺が二十歳くらいの頃、家でアライグマまで飼っていたもんな……。
連絡すると信成は快く引き受けてくれる。
水槽ごと彼の店へ運び、古代魚や金魚のリンとバット、水泡眼プクプク、出目金のでめ太とお別れを済ます。
店内を掃除していると、チャブーが岩上整体へ顔を出し、「ここももう辞めちゃうのか」と残念そうに項垂れる。
「まあいいや。俺も岩上の店の掃除手伝うよ」
少し彼を見直した。
まさか手伝ってくれるなんて、思いもしなかったのだ。
店内に貼ってある広告や説明などを剥がし、外の看板を車へ積む。
「こういうのってどこへ捨てればいいのだろうね?」
「あー、車をここ真っ直ぐ行って、あそこを曲がって」
俺はチャブーの指示通り運転する。
道はどんどん辺鄙で薄暗い電灯も無い道路を進む。
川越にこんなところあったのかと思うぐらいだ。
「はい、ここ」
停めた場所はちょっとした林に囲まれ、周りには古くなった車や看板など様々なものが捨てられている。
「ほら、岩上。岩上整体の文字や連絡先のところだけは、剥がすなり切るなりしろよ」
変なところで悪知恵の働くチャブー。
お陰でとても助かった。
不法投棄がいけない事なのは分かるが、今の俺には時間も金も余裕も無い。
お礼を言ってチャブーを家まで送る。
あとは診察ベッド二台に、高周波とエアーコンセラー。
漫画本は明日ブックオフへ取りに来てもらうからいいとして……。
携帯電話が鳴る。
教会の神父の妻である望からだった。
いつ以来だ?
俺のピアノ映像を見てゾクッとしましたと言ってきた彼女。
食事へ行く約束をして、その日俺は望を抱いた。
罪悪感に悩まされたのか、それ以来彼女からの連絡は一切無かったのだ。
清楚では無くなった宮下望。
汚したのは俺だ。
結婚して十年の望。
それまで旦那以外の異性と二人きりで会った事が無いという。
性欲の赴くままあの時抱いた。
電話に出る。
「智さん…、遅くなってしまってごめんなさい。『新宿クレッシェンド』の授賞、おめでとうございます」
「ありがとう、望」
「……」
「ん、どうした?」
「実は今…、川越の近くを車で運転していたら、智さんの事を思い出してしまって……」
また彼女を正直抱きたかった。
「今俺は、岩上整体のところにいる」
「……」
「近くにいるなら顔が見たい。嫌か?」
「……」
「俺さ、望は知っているか分からないけど、来年試合へ復帰する」
「それは智さんのブログで見ました」
「誓約書も書いてさ…、死のうが怪我しようが一切の責任を追及しないってやつ。だからどうなるか分からない。今の元気な内に、望が近くにいるのなら顔を見たい」
「……。分かりました……」
本川越駅のロータリーで待ち合わせ、俺たちは合流した。
しばらくお互い無言のままドライブ。
俺は車を人気の無い道で停車させ、望の唇を奪う。
長いキスが終わると望は静かに言った。
「智さんと会うと、こうなるのが怖かったんです……」
罪悪感と性欲の狭間にいる望。
「じゃあ何故近くまで会いに来たんだ?」
「色々智さん忙しそうだったから、元気つけたいなと思って……」
俺は正直に抱きたいと伝える。
望は黙ったまま、通り沿いにあったラブホテルへ車を入れた。
春美へ本の事は伝えていたが、総合格闘技に復帰する事は伝えていなかった。
メールで知らせると、すぐに返信が届く。
『楽しんで来てね。 春美』
楽しむ?
誓約書へ死んでも怪我しても責任を主催側へ追及しないとサインするような試合へ臨むのに、どうやって楽しむのだ?
『命のやり取りするんだ。楽しめる訳ねえだろ! 岩上智一郎』
感情的にそう返す。
メールを送信してから、すぐに後悔した。
少し乱暴に言い過ぎてしまったな……。
俺はインターネットでも春美の為だけに小説を書いたと、みんなへ暴露したいう正直な気持ちを伝える。
これだけ年月が経っても俺は品川春美が好きだ。
付き合ってほしいとも書いた。
タイミングがチグハグなのは自覚していたが、心に余裕が無かったのだ。
すぐ返信が来る。
『今同棲している彼氏と、来年私の誕生日に籍を入れます。 春美』
春美が結婚するのか……。
少しばかりの動揺はあったが、そこまでショックを受けていない自分がいた。
俺は冴えないピエロ。
本当に大馬鹿だ。
先日抱いた望の悲しい横顔が思い浮かぶ。
何を迷走しているんだ、俺は……。
部屋の壁に何度も頭を叩き付ける。
隣の親父の部屋から「うるせえぞ、智一郎!」と怒鳴る声が聞こえた。
岩上整体の中を空にして不動産へ引き渡す。
トレーニング以外する事が無い。
俺は先輩の岡部さんが営む小料理屋『とよき』へ入り浸る。
常連客の竹花さんらと毎日のように酒を飲みまくる。
年明けも似たような生活を送った。
食べて飲んでトレーニング。
息抜きで頭を空っぽにして書いたコメディ小説『パパンとママン』を書き始める。
夜になると酒を飲み、岡部さんが大変そうだと料理を作るのを手伝う。
岡部さんはお駄賃として五千円を
同級生の飯野君やおぎゃんたちは俺の試合を観に行くと応援してくれた。
岩上整体の隣の街中華の王賛でよく会う税理士の大野さんも、応援に来てくれると声を掛けてくれる。
俺はゴリへ連絡を掛けた。
「俺さ、誰にも試合応援に来いなんて言っていないけど、おまえは応援に来いよな」
「いや、仕事だから無理だよ」
「おい、十四日は特別な日なんだぞ!」
日頃ゴリの面倒を見てきたという自負のある俺は、強引に誘う。
「岩上にとって特別な日かもしれないけど、俺にとっては仕事おる普通の日常だ。本は出たら買うよ。ただ活字読まないなら、買うだけだけど」
素っ気ないゴリの対応に、腹を立てながら電話を切った。
二千八年一月十日、『新宿クレッシェンド』が全国書店にて発売開始。
インターネットで色々な反応を見ながら時間を潰す。
「飲んだ、こりゃ?」
『川越ケーブルテレビ 岩上智一郎さん取材』と書かれた記事を見掛け、思わず声が出る。
川越ケーブルテレビへ連絡を入れると、事後報告にすみませんと謝られ、俺の特集取材をしたいと言われた。
断る理由も無く、撮影場所は幼少期よく遊んだ蓮馨寺で撮影する事になる。
ディレクターの野田礼子という女性一人による取材。
俺は淡々と意気込みを語り、歌舞伎町についても説明した。
「まあ歌舞伎町って街は怖いイメージあると思うんですが、チンコをおっ立てたような馬鹿がぼったくりの……」
「岩上さん、カット! カットです。もう少し言葉を選んでもらえますか」
こうして三回ほど撮り直し、無事撮影を終える。
GBR>ニュース>【clubDEEP】1・14合計体重なんと700Kg以上!メガトンマッチにリングが壊れる!?
試合先日、大久保にある総合格闘技の公開計量及び記者会見の為、新宿へ向かう。
体重計に乗り、測ると百三・五キロ。
これまで生きてきて最高の体重へ持っていけた。
DEEPの佐伯社長から撮影時、隣に来るよう促され写真撮影。
賞を取った小説家が、総合格闘技のリングで戦うと紹介される。
会見後、長谷川昭夫と連絡を取り新宿駅周辺で落ち合う。
彼の同郷の幼馴染斉藤裕二も東京へ出てきていたので、三人で食事を楽しむ。
紀伊國屋書店へ寄り、斉藤裕二が店員に『新宿クレッシェンドはあるか?』と聞くと案内される。
書店に置かれた俺の本……。
斉藤裕二は一冊買ってくれ、残りの本を平積みコーナーへすべて持っていき、強引に並べてくれた。
整体の祝い金までくれ、クレッシェンドの事もこんな風にやってくれる。
俺は彼に深い感謝を覚えた。
いよいよ明日になれば、復帰試合。
帰り道、風俗『ガールズコレクション』の四人のオーナーの一人、平野さんとバッタリ会う。
「おお、岩上。おまえは今どこで何をしているんだ?」
本を出版し、明日新宿フェイスで総合格闘技の試合へ出る事を告げると、応援に来てくれるらしい。
俺の集大成か……。
川越へ戻り、明日へ備える。
「あ、いけね……」
肝心の試合用コスチュームやマウスピースを用意していない。
ただ整体も閉め、資金がまるで無い俺。
俺は家の役員会議の時協力した従兄弟の南大塚の叔父さんへ、金の無心に行った。
頭を下げて、八万円という金額を借り、それで何とか試合用の準備を整える。
あとは明日に備えてゆっくり部屋で休もう……。
突然ゴリから電話があった。
本来なら相手にもしたくなかったが、幸せな環境に包まれ幸せな時を送っていたので、俺は笑顔で電話に出た。
「あ、わりーね、岩上」
「何か用? もう明日試合なんだよ」
「ちょっと悪いんだけどさ。今からちょっと会えないかな?」
「何でよ? 俺、正味あと半日で試合なんだよ?」
「ああ、それは分かってる」
「ゴリは俺の試合、仕事で来れないんでしょ?」
「ああ…。でもさ、今日、結菜の事考えていたら、悔しくて会社休んじゃってよ」
「はあ?」
この男、仕事で俺の試合を来られないと言っておきながら、あんな女の事で悩んで会社を休んだだと……。
頭の構造がとうなっているのか、本当に分からない。
「もう俺さ、あいつとの関係を終わりにしようと思ってるんだ……」
終わるも何も、はなっから何も始まっていないだろうがとつっこみを入れたいが、何やら非常に面白そうな展開になっている。
「何があった訳?」
好奇心が疼く。
「些細な事から喧嘩になってさ。それで俺も勢いでガーガー言っちゃって、そしてら向こうが『じゃあ、終わりにしようね』って本当に怒り出しちゃってさ」
「ちょっと落ち着けよ。最初から手順を踏んで聞かないと分からないよ」
「だから、これから会えないかって言ったじゃん」
「会うってどこでよ?」
「居酒屋か何かでさ、今日は飲みたい気分なんだ」
「あのさ、俺は明日試合なんだけど……」
よくもまあ、こんな台詞を抜け抜けと言えたものである。
「それは分かっているよ。わりーなーとも思ってる」
「いや、思ってたら、こんな電話してこないでしょ?」
「とにかく今からおまえの家まで歩いて行くからさ」
「え? おい、ちょっと……」
ゴリからの電話は、もう切れていた。
試合前の夜十一時。
ゴリは俺の家までやってきた。
さすがに俺の対応は冷たくなる。
それでもゴリは構わず自分の携帯を開き、結菜から送られたメールを見せてきた。
『ねえ、岩崎さん。彼氏だから逆に今まで言えなかったんだけど、エルミーやお客さんからすごく電話来て、最近すごくまいっててさぁ。別れるとかじゃなく、しばらく一人になりたいなって…。それか今日明日にでも携帯変えようかと思って…。ドコモに電話したら、解約金で一万五千円ぐらい掛かるみたいでさ。今月の携帯代や事務手数料は、私が親に払うからさぁ。一万五千円か一万円、助けてくれないかな? バイト代で買おうと思ってたけど、もう限界なんだ。 結菜』
俺はゴリの携帯を手に持ち、じっくり何度か読み返してみた。「何これ? どういう事?」
「ああ実はさ、結菜の奴、俺の為にあの店を辞めるって去年言い出してね。でもあそこのオーナーが辞めないでくれってうるさいらしいんだ。で、行かなくなったら店や客から連絡がジャンジャン入ってまいっていたんだよ」
「ゴリの為に、店を辞める? 何それ?」
そんな事ある訳ないのを何故コイツは気付かないのだろう?
「ん、いや、俺って結構ヤキモチ焼きだろ? だから辞めるって向こうから言い出したんだ」
「それと携帯代と何の関係がある訳?」
「でね、黙って店を行かなかったから、当然店からのペナルティとして罰金がある訳ね。あと携帯にしつこく他の連中から掛かってくるの嫌だからって、携帯も代えたいらしいんだよ。俺だけに新しいメールアドレスを教えてくれているんだけどね」
「いや、俺が聞きたいのはそんな事じゃなく、ゴリは金を貸すの?」
「っていうか、もう貸したんだけどさ……」
「……」
呆れて物が言えない俺。
「それでさ……」
「ちょっと待って。おまえの話は飛び過ぎてて、よく分からない。もう一度、振り返ってゆっくり話しなよ」
ゴリの話には、疑問に思う事がたくさんあり過ぎた。
彼氏だとか、意味がまったく分からない。
「だからちょっと酒をつき合ってくれって、さっき言ったんだよ」
「あのね、俺、明日試合なんだよ? 何度も言っているけどさ」
「だから、飲むのは俺だけでいいからさ、な?」
ゴリは、自分の事しか考えられないぐらいの脳みそしかないのだろう。
これまでの彼の挙動がおかしいのは、自分のせいだけじゃないような気がした。
要は遺伝なのかもしれない……。
こうして俺は、ゴリに連れられて居酒屋ぼだい樹へ行く事になった。
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