十年近くこの街の空気を吸ってきた。俺はこの街の空気、そして雰囲気が大好きだ。
一軒目の店を出て、次に繰り出そうと歩いていた時だった。
「おい、何を偉そうに歩いているだよ」
以前揉めた『マロン』の北方とバッタリ出くわす。会いたい奴には会えず、会いたくない奴には偶然出会ってしまう。因果なものである。
金に卑しい守銭奴。人を飼うという表現がとても似合う大馬鹿野郎だ。
いつまで俺を部下だと思っているのだ、この馬鹿は? ハッキリさせておくか……。
「ハッキリ言っとくけどさ、俺はもうあんたの部下でも何でもないんだぜ? 何を勘違いしてんのか知らないけどよ。気安く話し掛けるなよ」
「おまえはな……」
「どけよ、邪魔だ」
まだこいつには借りを返していない。いずれ倍返しでギャフンと言わせてやる。
今日のところは、伊田がせっかく出てきたのだ。今は思う存分飲んで楽しむだけ。
俺は北方を強引にどかし、道を譲らずにそのまま歌舞伎町を練り歩いた。
そういえば『マロン』の上にあるゲーム屋の『グランド』のみんなは元気でやっているだろうか? 久しぶりに顔を出してみようかな。
「伊田さん、ちょっと知り合いの店に顔を出してもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
俺は北方の生息しているかつてのビルへと向かう。
「……」
入口のインターホンを押すが、音が鳴る様子がない。ドアを何度かノックしてもまるで反応がない。ゲーム屋は二十四時間営業なので、いくら客がいないにせよ、誰かしら中にいるはずなのに……。
俺はここの従業員である山田に電話を掛けてみた。
「あ、神威さん。お久しぶりです。先日出てきたんですか」
「お久しぶりです。今、『グランド』に来ているんですけど、誰もいないみたいなんですよ。それでどうしたのかなと思って、山田さんに連絡してみたんですが」
「え、神威さん、知らなかったんですか?」
「何がです?」
「あの店やられちゃったんですよ。あ、ちょうど神威さんが入ったあとだったからか」
「一体誰が捕まったんです?」
「醍醐さんとブンチャイです」
「えーっ!」
性格の腐ったタイ人のブンチャイはどうでもいいとして、醍醐には同情をしてしまう。以前オーナーだった渡辺は、醍醐の名義料の貯金を使い込んでしまい、その代わりに彼へ店の権利を譲り渡した。その手引きをしたのは北方。あいつはそのあと醍醐名義の『グランド』をうまく食い物にしたのだ。そして今回、警察に捕まってしまった。あまりについていない。
「あの店、常に入口は鍵掛かっているじゃないですか。で、地下にいた北方さんのところに警察が来たらしいんですよ。『上のゲーム屋のオーナーはおまえだろ』と言われ、北方さんは『違うだよ』って言い逃れして。『じゃあ、おまえが上に行ってドアを開けさせろ』って言われ、その通りにしたようです」
「要するに自分がピンチだったから店のみんなを売ったと?」
「ええ、あの人、いつだって自分の事だけじゃないですか」
北方のようなクズが生息しているから、歌舞伎町がおかしくなる。
数ヶ月前、俺もこのビルにいた。辞めた時の事は未だ鮮明に記憶している。
「おっと動くなよ」
大柄の男がビデオ屋『マロン』に来て、警察手帳を出した時を思い出す。これまで警察に捕まった事がない俺は、目の前が真っ暗になった。
秋奈へ捧げようと出場を決意したピアノ発表会の二日前の出来事だった。
「刑事さん…。俺、本当に何も知りません。捕まえたいならどうぞ。但し、これ以上叩いたって何も出てきませんよ。それでいいならどうぞ、手錠を掛けて下さい……」
どうせ捕まるなら格好良く捕まってやろうじゃねえの。見苦しい真似なんぞ、したくなかった俺。
「今までたくさんのこういう稼業見てきたけど、ここまで酷いところは初めてだぞ?」
「え?」
「おまえみたいな奴が、何でこんなところにいるんだ?」
不思議そうに聞いてきた刑事。
「だから言ったじゃないですか。昨日入ったばかりだって……」
「そんな嘘はいい! 何でおまえみたいな奴が、こんなところで働いている?」
おそらく俺は運がいいのだろう。あの時秋奈へプレゼントしようと思った処女作の『新宿クレッシェンド』を持っていたから、小説を書く為にと言い訳ができた。
「刑事さん…。この小説、俺が書いたものなんですよ。あくまでも内容は作り物ですが、この街のリアルさは追求しているつもりです。でももっと色々知りたかった。だから昨日からこうしてちょっとだけ働いてみようかなと……」
「おまえは馬鹿か?」
「ええ、大馬鹿です。よくそう言われます」
「そのピアノは何だ?」
「あ、これですか? はは、実は明日ピアノ発表会でしてね…。捕まっちゃうから、出場できなくなっちゃいますけど……」
「おまえ、何者なんだ?」
「俺ですか? さっきから言ってるじゃないですか。昨日ここへ入ったばかりの新人だって……」
それに発表会前という事も手伝い、店にキーボードを持ち込んでいた事もプラスに作用したっけな。あの時ばかりは本当に終わりだって腹を括ったつもりだった。目を閉じ、静かに両腕を差し出した俺。いつになっても掛からない手錠。
「あれ、どうしたんです? 刑事さん」
「俺たちは何も見てない」
「は?」
「これは独り言だ」
「……」
「こんなところでおまえは働くな。今日で辞めろ。分かったな?」
「それって全然独り言じゃないじゃないですか」
俺は大笑いしていた。心の底から笑った。
「うるせー、本当にしょっぴくぞ?」
「刑事さん、ありがとうございます。俺、本当に今日限りでここ、辞めますよ……」
「うるさい。懐くな!」
刑事はそのまま『マロン』を出て行った。結局今回で捕まっちゃったけど、本当に俺って運がいいと思う。
ただ、それまで…、警察が来ても俺は北方をかばおうと身を挺していたのだ。警察が店に来た事を伝えようと「北方さん……。今、刑事が来ましたよ……」と電話をすると、奴は「うるせー、今忙しいんだ!」と麻雀をしながら電話を切りやがった。
完全にこれで頭に来た俺は、再度電話を掛け今までの怒りを爆発させたっけ。
「何だ、おまえは?」
「おい、ふざけんじゃねえぞ?」
「……」
「どれだけこっちが体を張ったと思っていやがるんだ?」
「おまえ…、誰に口を利いてるつもりだ?」
「北方! テメーにだよっ!」
「どういう目に遭うか、分かってんのか、小僧!」
「やれるもんならやってみろよ、コラッ!」
「おい、俺はだな…、真庭組だろ? 橘川一家だろ? 西台……」
「うるせーよ! ヤクザが何だってんだよ? おまえ、喧嘩強いんだろ? 今出てきて俺とキッチリタイマンしろや!」
啖呵を切って自分を貫いた。それだけ許せなかったのだ。
「おい、本当におまえの命なくなるぞ?」
「何だ? ヤクザ者でも動かそうってのかよ?」
「どれだけ俺がヤクザに顔が利くと思ってんだよ。命がねえぞ!」
「知らねえよ、んなもん。やれるもんならやってみいや、ボケッ!」
勢いだけの俺。本当に来るなら逃げずに構えるしかない。死を覚悟した。
しかし結果だけ見れば、奇跡的に俺は助かった。一度ヤクザ者に俺を消せと号令を出した北方だが、誰一人動かなかったのだ。だからこそ、こうして堂々とこの街を歩いている。
「おい、何を偉そうに歩いているだよ」
そう俺の目の前で睨みを利かしてきた北方。
あの野郎、自分が助かりたい一心で仲間を警察に売ったくせに、よくもあんな偉そうにしてやがったな。
金に困った従業員からさえ、利子を掠め取る男。
どれだけの人間が、北方のせいで傷つき騙されてきたんだ。
もう…、あいつの存在など、この街から消してしまえ……。
「伊田さん」
「はい、何でしょう?」
「ちょっと電話するんで、席外してもらえますか……」
「あら、彼女さんですか? それなら別に私は気に……」
「伊田さんっ! 悪いけど、席外して下さい」
彼のジョークを聞いている余裕などなかった。
「あ、はい……」
伊田が消えると、俺は担当の刑事だった溝口へ連絡を入れる。そして北方の組織全体の情報をすべて教えた。
これで警察がどう動くかまでは分からないが、動いた時点で北方は終わりだ。
チクり…、密告行為が卑劣だともちろん分かっている。
それでもあの男は許せなかった。
不思議と自分のした行為に、まったく罪悪感など覚えない。
街を歩いていて妙に悶々としてしまう俺。
罪悪感を覚えない? いや…、北方以外の人間には覚えているじゃないか……。
俺は野中の住む倉庫へ電話を掛けてみる。
裏ビデオ屋『マロン』…、元々は野中の店だった。その当時彼はかなりの金を持っていて、さくら通りにも二軒目の店を出したほどだ。経営のほとんどを従業員に任せ、自分は結婚した奥さんの国フィリピンへ、一ヶ月置きに行き遊んで暮らしていたと聞いた。
そこへ知人の紹介で入ってきた北方。奴はオーナーである野中が留守なのをいい事に、店の乗っ取りを始める。人のいい野中はフィリピンから帰ってくる度に金を補てんするようになり、気付けば無限にあったはずの金は目減りしていく。
ある日北方が話を持ち掛けてくる。
「野中さん、こうなったらさくら通りの店は畳んで、俺と野中さんの二人で店を切り盛りしよう」
ピンチになった野中は、これまでの平和ボケから簡単に北方の話を鵜呑みにしてしまう。それからだった北方の横暴ぶりが始まったのは……。
給料は二人とも二十万円ずつと固定し、売り上げが良かったら歩合で分け合う。そう言った北方。しかしここ数年間で歩合があったのは初めの一ヶ月のみで、それからは一切ないらしい。
そんな状態でもフィリピンにいる奥さんへ毎月十万円の送金をしていた野中。ゴキブリがうじゃうじゃと巣くうあの汚い倉庫の中で生活をし、ビールだって自由に飲めないような日々を五年以上も送ってきた。
「野中さん、悔しくないんすか? 北方さんにいいようにされて!」
あの話を聞いた俺がそう言うと、野中は下をうつむき、声を押し殺しながら泣いていた。
十歳以上年が離れた俺に、何故彼は自分の惨めな人生をあの時話した? あの現状を詳しく知る者に、やるせなさを誰かに伝えておきたかったからじゃないのかよ。あの時彼は、俺に過去を話し、あまりの悔しさに泣いた。
先ほど連絡した警察。このままでは本当に野中までが捕まってしまう……。
なら、あの北方の組織を辞めさせ、もっといい条件で彼を雇える組織を紹介する。それしかない。
「はい……」
ようやく電話に出る野中。
「あ、野中さん! お久しぶりです、神威です」
「おお、元気でやってるかい?」
「お陰さまで。野中さん…、今日はちょっと話が」
「何だい?」
「給料…、未だ二十万のままなんですよね?」
「ん…、ああ……」
「俺が最低でも月に五十万もらえる仕事を紹介します。だからすぐ辞めましょうよ、北方のところなんて」
「……」
「野中さん!」
「あ、あれは…、俺の店だ……」
そんなの俺が痛いほど分かっているよ。でも、もう終わりなんだ。この浄化作戦でいつ捕まってもおかしくない状況だし、それに俺はさっき警察へ連絡してしまった。
「でも…、もっといい生活をしましょうよ? フィリピンにいる奥さんの為にも…。そしてお子さんの為にも!」
「……」
「野中さんっ! 聞こえてますか?」
「行けないよ…。だってあの店は…、マロンは…、俺が作った店なんだ……」
痛いほどその気持ちは分かる。でももう崩壊寸前じゃないか。
「そんなの分かってますよ! でも、北方にいいようにされちゃってるだけじゃないですか? どうやって昔のように流行らせるんですか? もう俺はいないんですよ? あいつのやり方だけじゃ、どう考えたって流行っこない。野中さん…、実を取りましょうよ。俺が協力しますから」
彼をパクらせたくない。だから必死に心を込めて言った。
「……。ありがとう…、気持ちは本当に嬉しく思う。でもさ…、あの店は俺が作ったんだ」
「野中さん……」
これ以上いくら話しても無理か。余計に彼を傷つけてしまうだけだろう。
「たまには顔を出しにおいでよ」
まったく…、相変わらず人がいいんだから……。
「気が変わったら連絡下さい。待ってますから」
それだけ伝えると電話を切った。
あの日から数週間後、北方の組織に警察が入り、守銭奴の姿を歌舞伎町で見る事はなくなった。そして実刑一年六ヶ月、執行猶予三年になったと風の噂で聞いた。
自分の恨みを晴らす為に、俺はあの野中までパクらせてしまったのだ。言いようのない虚無感が全身を覆う。
だけどいくら後悔しても、もう遅い。こうして俺はまた一つ、業を背負う。
出てきたら、まずは彼に大好きなビールをたらふくご馳走しないと……。
―了―
表題『新宿リタルダンド』 作者 岩上智一郎
2009年2月23日~2010年11月14日 原稿用紙260枚
『新宿クレッシェンド』第六弾として執筆
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