家に久しぶりに帰る。約一ヶ月ぶりの我が家。
捜索願いの誤解は解いたし、龍也にも嘘の説明をして納得させておいた。問題はないだろうと思いつつも、罪悪感からか泥棒が忍び込むように家へ入る。
「龍一っ!」
いきなり玄関先で靴を抜いているところをおじいちゃんに見つかった。
「た…、ただいま……」
おじいちゃんは「どこに行っていたんだ」と大きな声で言ってくるので、仕事で大阪にと同じ嘘をついておく。心配させたくなかったから。
あの親父さえ、「おまえ、連絡ぐらい入れろよな」と言ってくる始末だった。
歌舞伎町一番街の四十四人を巻き込んだ大惨事を思い出す。
『あ、長谷部です。龍一、大丈夫か? 今、テレビですごい事になってるぞ! この留守電聞いたら電話ちょうだい』
『もしもし、兄貴! 歌舞伎町すごいじゃん。兄貴の店、大丈夫なの?』
数分の間に入っていた俺の安否を気遣う留守電の数々。あの当時歌舞伎町一番街通りで働いていた俺は、地下にいたせいかそんな騒ぎになっていたなんて何も分からないでいた。留守電を聞き、初めて事の重大さに気付いたほどである。
あの時も親父は心配していたっけ……。
そしてあの日の仕事帰り、突然朝っぱら掛かってきた知らない番号。「はい」と出ると電話は切られ、不審に思った俺はすぐ掛け直した。するとその番号は母親の家の連絡先だった。
「あの~…、一体、何の用でしょうか?」
「あ、ああ…、あの騒ぎを聞いたから、生きてんかなと思って電話しただけ」
「……」
「さっき電話したら出たから、ああ、生きてんのかって思って切っただけだから……」
あの鬼畜のような母親でさえ、どこで調べたのか知らないが、俺の携帯電話に連絡をしてきたほどである。そういった意味で、どんなに憎んでも血の繋がりはなかなか消せないもの……。
命の心配をしてくれるのは、家族と恋人と本当に仲のいい友達だけだ。
歌舞伎町で働くようになって、俺はどれだけ危険な目に遭ったのだろうか? 思い返せば、いつ死んでもおかしくないケースは多々あった。
ホテルを辞め、新天地を求めて行った始めの頃。俺は初めて働いたゲーム屋『ダークネス』のオーナー鳴戸に気に入られ、組員にされそうになった。カジノの用心棒との死闘をさせられ、オマケに大物ヤクザの事務所まで連れて行かれたっけ。
そしてあの腐った北方のところを辞める際、あいつはヤクザ者を使い、俺を消そうとした。
いつ無くなっておかしくない環境の中を自分らしく生きてきたつもり。
あれほど家にいる事を忌み嫌い、神威家の名が通用しない場所へと歌舞伎町へ渡ったのに、こうして俺はまた家に戻っている。不思議なものだ。そして目の前にいる親父と、ちゃんとした会話をしているのだ。
これも百合子と出会い、幸せを感じられるようになったからだろうか?
どちらにしても、無事生きて来られて良かった。
今、こうして生きているからこそ、ああして百合子と出会えたのだ。
「そういえばあの子は元気か?」
「あの子って百合子の事?」
「ああ」
「もちろん元気だよ」
「ここしばらく顔を見ないからなあ」
親父が俺の女を気にするなんて初めての事じゃないか。違和感を覚えたが、気に掛けてもらえ嬉しく思う。
「だって俺がずっと大阪に行っていたんだから、当たり前じゃねえか」
「あの子は何歳なんだ?」
こうして親父と俺が普通に話すなんて、何年ぶりだろう。
「俺の二つ上。だからああ見えて三十五なんだよ。見えないでしょ?」
「若く見えるな。でも結婚とかそろそろ考える時期だろ?」
確かにあいつは俺と一緒になりたがっている。だが俺も今後の仕事を考えなきゃいけない時だ。宙ぶらりんなまま勢いだけで結婚という訳にはいかない。
「まあ、もうちょっと先の話だろうな」
「ちゃんと考えろよ?」
変に焦らせてもしょうがないので、百合子が過去、離婚している事は伝えといたほうがいいだろう。
「実はあいつ…、一回失敗しているんだよ」
俺がそう言った瞬間、親父の顔つきが変わった。
「何、バツ一か? 駄目だ駄目だ。そんな女は!」
「何だと……」
「いくらモテねえからって、バツ一なんぞに手を出しやがって。本当に情けねえ野郎だ」
「何だおまえ、この野郎っ!」
売り言葉に買い言葉なんかじゃない。百合子を侮辱した事が許せなかった。自分はあれだけ散々人様の妻に手を出しておきながら、何を抜かしてやがんだ。
「そういう女は駄目だ」
「うるせっ!」
俺は壁を思い切り殴ると、そのまま部屋に戻った。百合子を侮辱した親父と、これ以上話せない。あの場にいたら親父を殴り倒していたかもしれないのだ。
この日から親父はいくら百合子が挨拶しても、一切無視するようになった。
数日後、『リング』の名義人、伊田がようやく出てくる。
生理的に嫌いなタイプではあるが、同時期に捕まったという仲間意識はあった。出所祝いという事で歌舞伎町へ繰り出す。
俺と伊田との決定的な違い。それは起訴か不起訴かという点である。伊田はあくまでも名義人なので全責任を背負う事になる。今回こうして出てこられたのは仮釈放なだけで、裁判がまだ一ヶ月ぐらい先に残っている状態なのだ。しかしその裁判も猥褻図画なんて小便刑なので、初犯だと執行猶予三年ほどで済む。形式上裁判をし、実刑にはならない判決を言い渡すだけなのだ。この裁判が終わって初めて組織を守った事になるので、伊田は保証金の二百万円を手にする事ができる。
何軒もはしごをして、いい感じで酔う。歌舞伎町をフラフラ歩いていると、制服姿の警官が職務質問で近づいてきた。
本来なら任意で行われる職質も、最近の警官は思い違いをしている。まるで自分たちが特別な人種なんだと言わんばかりの態度だ。街の様々な場所で横柄に職質をして、荷物を点検している姿をよく見掛けた。
あまり職質などされないが、ちょうどいいタイミングだ。
「おい、おまわりさんよ。俺が三日前。隣のこの人は今日出てきたばかりなんだ。いくら叩いたって誇りも何も出ないけど、財布からすべて見せようか?」
おどけながら話すと、警官も「失礼しました」と頭を下げてくる。
「こんな場所で職質なんてしないでさ、もっと人の多い場所でやったほうがいいんじゃないの?」
「そ、そうですね」
気まずそうに警官はその場を立ち去った。まさか職質した相手が昨日今日留置所から出たばかりなんて夢にも思わなかったのだろう。
俺たちは大きな声で笑いながら街を闊歩した。
巣鴨警察留置所で知り合ったあの乞食を思い出す。こんな風に歩いていてバッタリ出くわさないかな? そしたら腹一杯カレーライスをご馳走してやりたいのに……。
俺はサリーちゃんのパパのような髪型をした乞食がいるか、歩きながら自然とキョロキョロ見回す。
「プッ……」
思わず笑ってしまった。まだ彼は留置所の中だったっけ。こんなところにいる訳がないのだ。
携帯電話が鳴る。巣鴨警察署生活安全課の刑事、溝口からだった。
「神威か?」
「はい、そうですが…。何かありましたか?」
俺の番号に掛けておいて、いきなり「神威か?」はないだろう。溝口らしいが。
「おまえのくれた本をたった今、読んだんだよ。『新宿クレッシェンド』だっけ?」
「あ、読んでくれたんですか。嬉しいですね」
あそこを出てからすぐ本を作り送ったが、まだ三日前の話だぞ? 送るのに最低一日は掛かるだろうから、この二日間で小説を読んでくれた計算になる。警察って本当に暇なんだなと思ったけど、それ以上にすぐ読んでくれた溝口の心意気が嬉しかった。
「大変だったんだな、おまえも……」
「え、大変って何が?」
「いや…、妹さん…、幼い頃に亡くしていたんだろ?」
「はあ?」
「だから…、おまえの妹さんだよ…。愛さんって言う子だったんだな……」
溝口刑事は気を使いながら言葉を一生懸命選んでいるようだ。
「あの~、溝口さん……」
「何だ?」
「巣鴨の時、俺の調書取ったでしょ?」
「ああ、それがどうした?」
「俺は男三兄弟だし、妹なんていませんよ。溝口さんが言っているのは、『新宿クレッシェンド』の中の話でしょ……」
「だって…、妹さんがブランコで……」
「だから~…、はあ……。それは小説の中の話じゃないですか」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、溜め息しか出てこない。
「何だ…、ビックリさせやがって、この野郎」
俺の書いた小説を読み、その設定を勝手に真実だと思い込んで電話をしてきたのである。こっちが違うと説明すると、逆切れして「この野郎」呼ばわり。まったく憎めない性格と言うか、この人は本当に天然だ。だからこそ、留置所生活も楽しめた訳であるが。
「まあそれだけ感情移入して読んでくれたんで、こっちも光栄ですよ」
「神威」
「はい?」
「おまえ、この小説は…、ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないぞ」
「そう言ってもらえて嬉しいですよ。頑張りますから」
刑事までが俺の小説を絶賛してくれた。これでまた一つ、自信がつく。
「おう、頑張れ。それとな……」
「何でしょう?」
「早いところ彼女と籍を入れてやれ」
「……。切りますからね、電話」
「なかなかいないぞ、あんな風に待ってくれる子なんて」
「それは充分分かってますよ。でも、今はまだ時期じゃないってだけです」
「そうか、なら早いところ式を挙げろ」
勝手な事を言いながら溝口は電話を切る。披露宴するのに、いくら掛かると思っているんだ、あの人は……。
携帯電話をスーツの胸ポケットへしまうと、俺はセブンスターに火をつけた。
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