特急小江戸号が本川越駅に到着する。
改札を出て駅前のロータリーへ走った。白い軽自動車に寄り掛かるようにして百合子は俺を見ていた。
「し、心配掛けたな」
満面の笑みを浮かべ近づくと、いきなり顔面にパンチをされる。
「馬鹿馬鹿……」
好きなだけ殴らせてやった。
「よし、とりあえず肉を食うぞ。ステーキだ。あそこの駅前のところ行こう」
一人前七千円のステーキを注文し食べる。こんな高級肉など滅多に食べないが、出てきたのが冷凍肉だったせいもあり感動はいまいちだった。
腹が満腹になると、そのままホテルへ向かう。
「ほら、取っておけ」
オーナーから七十五万円をもらったので、三十万円をあげた。百合子は何度も断ったが、半ば強引に渡した。
バックから『キン肉マン超人大全集』を取り出し、笑いながらパラパラとページをめくる。よくもまあこんな本を警察に差し入れようとしたもんだ。
「いつも『俺は大丈夫だ』なんて偉そうに言っていたくせに、いきなり警察に捕まっちゃうんだもん……」
「悪かったよ。もうこんな事ないから安心してくれ」
「大変だったんだからね。大塚駅まで重いトランクを引っ張ってやっとの思いで到着したのに、靴下とその本しか受け取ってくれないんだもの」
「しょうがない。接見禁止だったんだから。文句は検事に言ってくれ」
「馬鹿…、反省が足りないぞ」
「……。すみません……」
「キスして」
「ああ……」
その日何度も百合子を思う存分抱く。この二十二日間、こいつは待ってくれるという不思議な自信があった。いや、信頼という表現が適切だろうか。
「これからどうするの?」
「数日ゆっくりして、それから考える。一応組織にもまだ顔出すようだろうし」
「そう」
「何かして欲しい事あるか?」
全身汗だくになりながら聞くと、百合子はジッと俺の顔を見ているだけだった。
「どうした?」
何かを言いたそうな表情の百合子。
しばらく無言でセックスに没頭した。
「中に欲しい。中にちょうだい……」
大きな喘ぎ声を出しながら、百合子は言った。
「……」
百合子の覚悟。ずっと俺を待っていたのか。
自分が子供を作るなんて、これまで考えた事などなかった……。
ヒステリックなお袋。
肩身の狭かった学生時代。同じ学校へ通う従兄弟の内海洋子からは、「あいつの家はよってたかってお母さんを追い出したんだよ」と陰で言われ続けられた。担任の先生までが洋子の話を鵜呑みにし、俺に出て行った母親と会わせようと当時したぐらいだ。
勉強がいくらできたって、強くならないと殺されちゃう……。
力無き子供の頃、心の底からそう感じた。理不尽な暴力による虐待。左まぶたの上についた二つの傷跡。未だ消えやしない。
一つ目の傷がついた発端は、俺が塾をサボったから。
当時住み込みで働いていたせっちゃんは、八つの塾へ強制的に通わされ休む日がない俺を見て、哀れに感じたのだろう。近所の喫茶店へ連れて行ってくれ、ピザトーストをご馳走してくれた。母親に見つかるとは考えていなかったんだよな……。
「……」
部屋に着くなり、ママは僕をソファの上に投げつける。テレビを見ていた弟の龍也は、その急展開にビックリしたようで部屋の隅に行きビクビク震えていた。まだ小さい龍彦は何も知らず寝ている。
僕は泣きながら何度も頭を地面にこすりつけ、必死に懇願した。容赦なく手当たり次第叩くママ。塾を一つさぼる事が、ここまで悪い事だなんて全然思ってもみなかった。
「まったく舐めた真似してくれたね。このガキは……」
いつもより感情が高ぶり、ママは高音で怒鳴っていた。その声を聞いているだけで、心に冷たいものが通過する。髪の毛をつかんで強引に立たされ振り回された。僕には泣く事ぐらいしかできない。
視界がグルグル回り、様々な角度を映している。自分が今、どのような目に遭っているのかすら分からなかった。突然、ガラスのテーブルが目の前に迫ってくる。僕は瞬間的に目を閉じた。ガチャンという音と共に、激しい痛みが襲う。
気がつくと、僕は床の上で倒れていた。
ズキッとした痛みを左まぶた辺りに感じる。
そっと手を触れてみた。
ぬるっとした嫌な感触。
左手の指先を見ると、人差し指に赤い血がついていた。
そう…、これが初めて振るわれた暴力だった。一つ目の傷がついたあの出来事……。
二つ目の傷の発端は、ひもじさから来たものである。
原因は一階のおじいちゃんとおばあちゃんのところへ、弟たちを連れてご飯を食べさせたから。
いつも夜になると出掛けてしまう両親。腹が減ったとまだ幼稚園の龍也と、赤ちゃんだった龍彦は泣き続けた。だから他に方法がなく…、仕方なく下へ連れて行ったのだ。
帰ってきてそれを目撃した母親は、感情的になり長男の俺へ怒りをぶつける。あの時は本当に殺されると思ったっけなあ……。
「……!」
一瞬、心臓が止まったかと感じる。僕は扉の少し開いた隙間を見て、ご飯の茶碗をテーブルに落としてしまった。
「ちゃんとしっかり持たないと駄目だよ、龍一」
おばあちゃんが注意をしても、僕の耳には届かなかった。
僕の全神経は、僅かに開いた扉の隙間に注がれていた。
隙間から見える暗闇。真っ暗な部分に白い目が、一つだけ見えたのだ。その目は怒りを表しているかのように釣り上がっている。
僕は、それがママだと直感的に分かった。
全身がガクガク震えだす。もっと早めに食べ終わり、すぐに二階の部屋に戻るべきだったのだ。あれほど、注意していたはずなのに……。
誰も扉の向こうにいる存在に気がつかない。僕だけがそれを知っているのだ。隙間から白い手が見え、ゆっくりと手招きしている。僕は操られるかのように立ち上がってしまう。
「どうした、龍一」
「も、もう…、お腹いっぱい……」
それだけ言うのが精一杯だった。
おじいちゃんたちに、扉の向こうにいる存在を知られたくなかった。
僕は黙って扉のほうへ、歩いていく。
誰か僕をとめて……。
お願いだから、誰か気付いて……。
いくら心の中で必死に叫んだって、誰にも聞こえやしない。
居間を出る際、一瞬だけ振り向く。龍也がおばさんと楽しそうにはしゃいでいるのが見える。羨ましかった。
その瞬間腕を強く引かれ、僕は廊下に引っ張り出される。
思った通りママがもの凄い形相で立っていた。足元から震えだす僕など一切気にせずに、ママは強引に階段へ連れていかれた。
一歩一歩階段を上るたびに尻を叩かれる僕。
今、声を出すとおじいちゃんたちに心配させてしまう。そんな思いが頭をよぎり、僕は懸命に涙を堪えた。途中の踊り場まで到着すると、髪をつかまれた。
「何で帰ってくるまで待てなかったんだ?」
僕だけに聞こえるぐらいの声で、ママはそう言った。
「ご、ごめんなさい……」
「何回、同じ事を言わせるんだよ?」
すごい勢いで尻を叩かれた。髪の毛を握るママの手が無言で、上にあがれと言っていた。足が震えてうまく階段を上れない。するとまた尻に痛みが走った。
部屋に到着すると、床に放り出される。
僕はそこで初めて泣いた。泣けば恐ろしいママの顔が、涙で滲んで見えなくなる。
「何度、言ったら分かるんだよ」
頬に痛みが走る。僕は両腕で顔を隠した。痛みは色々なところから感じた。
容赦なく無差別に攻撃を繰り出すママ。僕は泣くしか方法がない。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくママ。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。分かっていながら怖くて離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。
どんどん伸びていくコード。
それでも僕は電話の本体を震えながら持っている。
恐ろしかったのだ。抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、ママの手元から離れていた。
「……!」
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。
思わずその場にうずくまってしまう。目の上が焼けるような痛みを発している。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
逃げようと立ち上がり、後退した。
その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。
胸を押され、床に倒れ込む。
「何、勝手に転んでんだ。立て!」
僕は言われるまま立ち上がる。足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。ママはいくつかのブロックを拾っている。
「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」
「はい……」
これから何をされるのか。体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。ママがブロックを投げつける途中だった。青色のブロックが僕の頭に命中する。僕は再び倒れた。
「何、大袈裟に倒れてんだ!」
起き上がれば、また同じ目に遭う。分かっていながら立ち上がった。そうするしかないのだ。何度もママは、僕にブロックを投げつけた。僕はこのまま殺されるのかな。素直にそう感じた。
その時、部屋のドアが勢いよく開く。
「おまえは何をやってんだ!」
おじいちゃんだった。今まで見た事のないような厳しい目でママを見ていた。二階の騒ぎを聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。
真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。必死にその光ある方向へと向かう。
「おじいちゃん……」
自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。
そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。
「わぁっ……」
僕は目を押さえながら、床に転がった。
「……」
目を閉じればいつだって鮮明に…、昨日の出来事のように思い出す。
この二つの傷だけじゃない。ペットとして可愛がっていた猫のみゃうを小便したというだけで、ダンボール箱へ閉じ込め、川へ捨てに連れて行かれた。どんなにやめてと懇願しても、母親は容赦なかった。
両肩に爪を食い込まされ、いくら泣いてもやめてくれなかった事もある。
顔と心にたくさんの傷を負わせ、母親は俺が小学二年生の冬、俺ら三兄弟を残して家を出て行った……。
なかなか過去のトラウマから抜け出せない俺。だからこそ、処女作『新宿クレッシェンド』の主人公には、幼き俺の虐待のエピソードをプレゼントしたんじゃないのか? この忌々しい傷跡がついた部分を作り話に加える事で、作品はよりリアルさを増す。
書いていて本当に辛かった。心の中をエグられるような感覚。それを歌舞伎町の一角にあるビルの地下で、ひっそり書き続けたのだ。
右手でそっと傷跡を撫でてみる。
そのあとでゆっくりと百合子を見つめた。
身勝手な親父。
家の金を好きなように使い、近所では英雄気取り。昔から真面目に働かず、ただおじいちゃんの築き上げた財産を盗んでは使ってきただけ。絵に描いたような道楽息子とは、親父のような人間を指すのだろう。
家の中ではおばさんのユーちゃんの鼻の骨を折るぐらい、容赦なく理不尽な暴力を振るい続け、外では百八十度変わり、誰からも「本当にいい人ね」と笑顔で言われるほどだった。
「情けねえ野郎だ」
常に俺の顔を見ると、そう言って殴りつけてきた親父。きっとこんな部分があるなんて。近所の人には分からないのだろうと思った。
小学校四年生だった俺を配達と偽って、当時付き合っていた人妻の家へ連れて行かれ、そこで初めて見た三村。この女は多くの災いを俺にもたらせてきた。
親父の女遊びは人妻が多い。高校生になった頃、三村はそんな親父をストーカーするように毎日家のすぐ近くに車を停め、俺が学校やアルバイトから帰る度に「お父さんは?」と聞かれた。非常に迷惑だったが、それでも三村は世間体などまるで気にしない。その間、親父はいつも逃げ回っていた。
高三になって、三村とうちで働くパートの佐々木茜さん、そして知らない女三人で、強引に家へ上がり込んできた事がある。結果、全員親父が抱いた人妻だった。まさか茜さんまでそうだったなんて当時は知らない俺。人間不信になるようなショックを受ける。人の家に来るぐらいだから、三人共相当な覚悟があっただろう。しかしその中でも三村は群を抜いて強かった。
この一件を境に、俺は決めた事がある。
それは出て行った親父と母親を離婚させようというもの。家族の誰にも相談せず、自分自身で勝手に決めた。何故なら家の近くで他の男性と住み、商売を始めた母親に対し、誰一人関わろうともせず、無視をしていたからだ。
何で誰一人文句を言えないのだろう? 当時は不思議でしょうがなかった。そして親父の傍若無人な行動を止められる人間もいない。
だからこそ俺が離婚させようと動いた。高校を卒業したらと……。
すぐ働きたかった。大学へ行こうなんて高校へ入学した時から考えていない。親父が学費を出した事など一度もなく、おじいちゃんがそういったものをすべて肩代わりしていたからだ。
高校卒業後、小学二年生以来、俺は自分の意思で初めて母親の下へ行く。敬語で冷静に話し、離婚を承諾させた俺に待っていたのは、酷い現実だった。
「おまえはお母さんが恋しいのか?」
そう家族から言われ続け、俺の真意など誰も理解してくれない。恋しい? 恋しいはずないじゃないか。母親…、本来なら親父と呼んでいるのだから、お袋と言う呼び方が正しい。しかしあえて区別する為に俺は母親という言葉を使い分けているほどなのだ。根底にある感情は憎悪…、それしかない。
誰にも言い訳などしなかった。それだけショックだったのだろう。
家族から忌み嫌われ、常に厄介者扱いだった俺。ユーちゃんが俺の食事を用意する事なんて、社会人になってからまずない。
そんな二人の呪われた両親の血を受け継ぐ俺は、子孫など作らないほうがいいと、ずっと思っていた。
再び百合子を見つめた。彼女も俺の目をジッと眺めている。
まだ付き合い始めて数ヶ月。それでも警察にパクられた俺を待っていてくれた。
ずっと人間ってものを信じられなかった。
別に人間が嫌いって訳じゃない。
ただ、俺は常に寂しかったのだ……。
信用できる人間…、そばに寄り添ってくれる女を求めていた。
こいつなら、いいか……。
新しい家庭を作る。心の奥底でずっと待ち望んでいたのかもしれない。
もうそろそろ裏稼業なんて引退するようかな……。
真面目に働いて普通に生きる。そんな生活も悪くない。
ゆっくり目を閉じる。
俺は百合子の中に、何度も連続で射精した。
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