岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

8 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編)

2019年08月01日 18時39分00秒 | 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編)


 週に一度のピアノのレッスン。
 僕は真面目に通っていた。真面目にといってもピアノのレッスンに行くまでというだけで、遊びに行っているようなものだった。ピアノは弾かず、先生とテレビを見ながら、楽しく話をするだけだった。
 たまに先生はピアノをやりましょうと促したが、僕は嫌がってやらなかった。
 ピアノのが終ると、先生はいつも僕を家まで送ってくれ、途中で必ず寄り道をして喫茶店に行った。そこでいつもゲームをやらせてもらい、食べ物もご馳走になる。
 以前、無理やり七つの塾へ通わされている事を知った先生は、僕に優しく接してくれた。その時に、喫茶店に連れて行ってくれたのだ。今ではそれが、すっかり当たり前のようになっている。
 お金を出してくれているパパには悪いと思ったが、それだけゲームが楽しみで仕方がなかった。
 ここ最近レッスンに行くと、先生の表情は少し悲しそうだった。楽しく会話しているのに何でだろうと、素朴に感じる。
 いつものように帰り道、喫茶店に寄り、先生がメロンソーダをご馳走してくれる。
 新しいゲーム、ギャラクシーウォーズの投入口に、先生は百円玉を入れてくれ、僕は一気にのめり込んでいく。
「龍一君、ほんとにゲーム好きね~」
「うん、大好き」
 自機がやられてしまい、その間をぬって、メロンソーダを口に入れる。操作方法がいまいち慣れず、インベーダーの時のようにうまくいかないでいた。
 先生のほうへ視線を向けると、寂しそうな表情をして画面を見つめている。
「先生、何かあったの?」
「ん、うんん…、何もないよ。何でそんな事、聞くの?」
「え、だって先生の顔、いつもと違うよ?」
「……」
 先生の様子に気をとられ、僕はプレイしていたゲームが終ってしまった。

「そ、そんな事ないよ。先生は大丈夫よ。気にしないで」
 そう言いながら笑う先生の目は、今にも泣きそうな感じにしか見えなかった。
「ね、ねえ、龍一君……」
「ん、なーに?」
「ううん、何でもない……」
 そう言って、ピアノの先生は寂しそうな目をして、天井を見上げていた。

 学校でテストがあった。カーブーが家にいた頃よりは、勉強する時間は減ったものの、自分なりにちゃんとやっていた。だから当然テストはオール百点だった。
 過去に一度だけ百点を逃した事があったが、あれはあの時の担任が悪いだけだ。唯一、間違った問題。「十回」を「じゅっかい」と書いたらバツにされた。先生は言った。私は授業で、「じっかい」と教えたと…。でも、「十回」を「じっかい」と発音する人は、未だに見た事がない。だから別にバツならバツでもいい。先生がおかしいだけなのだから。今の太田先生なら絶対にそんな事じゃ、バツにはしないだろう。
 先生に好かれたいという気持ちはある。だから僕は勉強をしている。全部百点満点とれば誉めてくれるからだ。案の定頑張ったなと太田先生は笑顔で接してくれた。
 隣の席のちゃまが、僕の答案用紙を見て、嬉しそうに笑っていた。
「神威君って、頭いいよね。尊敬しちゃう。今度、勉強教えてね」
 女というのは非常に怖い生き物である。数ヶ月前のバレンタインの苦い思い出が蘇ってくる。その後のプレゼント攻撃も酷い結末だった。こんな事を言いながら平気で僕を泥棒扱いしたちゃま。油断は禁物だ。
「おまえが僕に対してした事は許したけど、特別に仲良くしようとかは思っていない」
 僕の言葉でちゃまは涙目になった。可哀相だけど仕方がない。勝手に押し付けるようにプレゼントをしてきたのは嬉しくもある。しかしお返しをしなかった自分も悪いが、何も言わずに黒板に僕を泥棒だと感情のまま書いてしまうその行為自体怖く感じた。
 気まずい雰囲気で、その日は授業を過ごす事になった。多分席替えをするまで、この気まずさは消えないだろう。
 彼女に言い過ぎかとは思った。でもここで優しい言葉をかけても意味がない。いたずらにちゃまを癒しても、そのあとはどうする事もできない。僕は心の中でごめんと謝った。
 家に帰るのが楽しみだった。テストの結果をパパに見せたくて仕方がない。僕は早歩きで向かっている。
 僕の家の真向かいにある映画館。
 いつも僕の姿を見つけると、従業員のおじさんは中に入れてくれる。でも、今日だけは真っ直ぐに帰りたい。パパに一刻も早く見せたかったのだ。
「おーい、龍ちゃん。学校終ったの?」
「うん」
「今日はやけにニコニコしてるなあ。何かあったのかい?」
 僕は得意げにテストを見せた。
「お、すごいなあ。龍ちゃんは頭いいもんな。今日はジャッキーチェンの映画やってるぞ。見ていきなよ」
 ジャッキーチェンの映画。
 僕は最初の作品『酔拳』を見てから、一発でファンになってしまった。面白くて何度も何度も繰り返し見に行った。
 彼の繰り出すカンフーアクションは、僕や弟の龍也の心をガッチリととらえた。そういえば近所の潰れちゃったパチンコ屋『ジェスコ』の息子、吉岡は元気かな。あいつ、顔だけはジャッキーチェンに似てたっけ。
「ジャ、ジャッキー……」
 言いかけて、慌ててやめた。今日はすぐ、パパにテストを見せないと駄目だ。
「ごめんなさい」
「ん、どうした?」
「パパにテスト見せないと……」
「うん、それもそうだな。まだ、映画はやっているから、いつでも見においで」
「ありがとう」
 僕は横断歩道を渡り、家に向かった。
 映画館のおじさんは、一度も僕からお金をとった事がない。いつもアンパンとコーラまで、ご馳走してくれる。断るのが、すごい悪い事のように感じた。
 家へ帰ると、おじいちゃんが廊下にいた。僕はテストを見せた。おじいちゃんは、目を細めて喜んでくれる。嬉しそうに頭を撫でてくれた。
「おじいちゃん、パパは?」
「うーん、二階の部屋じゃないか?」
「あら、龍ちゃん、おかえり。」
 パパの妹であるユーちゃんが近づいてきた。
「ただいま。見て、ユーちゃん。ほら……」
 得意げにテストを見せると、ユーちゃんも笑顔になって誉めてくれる。
「あら、お利口さんね~」
「ヘヘヘ…。おばあちゃんにも伝えといて」
「うん、きっと喜ぶよ」
 僕は、階段を駆け足で駆け上った。廊下を全力疾走でいき、一番奥の部屋を開けた。本当はパパに一番初めに見せたかったのにな……。
 パパは、ソファに座って新聞を読んでいた。僕に気づくと、少し怒ったような顔をしたように見えた。
「ねえ、パパ。これ見て」
 僕が答案用紙を見せても、パパの表情は変わらなかった。いつもと様子が違う。
「どうしたの?」
「……」
 僕が尋ねても、パパは答えてくれなかった。それどころか、反対に無言で僕を睨んでいる。一体、どうしたんだろう。
「パパ……?」
「龍一……」
 やっと口を開いてくれたが、聞こえたのは冷たい声だった。
「おまえ、俺に似てないとか言ったんだって?」
「……」
「聞いたぞ。おまえは、パパに似てないと言っていたって……」
 パパが怒っている。誰がそんな事をいちいち言ったんだろう。
「返事ぐらいできないのか」
 頭に痛みが走る。初めてパパに叩かれたんだ。そう思った瞬間、僕は泣いていた。
「男のくせにメソメソ泣いてんじゃねえ」
 そう言いながら、パパはさらに頭を叩いてくる。
「そんなにパパに似ているのが嫌なのか?」
「ご、ごめんなさい…。ごめんなさい……」
 必死に謝った。カーブーにぶたれた時の怖さが蘇ってきた。
「ごめんなさい…。パパ、ごめんなさい……」
 何度も頭を叩かれ続けた。
「男のくせに、メソメソ泣きやがって」
「ごめんなさい……」
 痛みというより、パパが怖くてずっと泣いていた。
「ごめんなさい……」
 僕は両腕で頭をかばいながら、床にしゃがみ込んでいた。急に叩かれる痛みが消えた。しばらくしてから、そっと顔を上げる。気がつくと、部屋には僕一人だけになっていた。あんなに怖いパパは初めてだった。
 何であんなに叩かれたんだろう。パパに似ていないと言ったからかな…。テストを見せても、全然、気にしてもらえなかった。きっと機嫌が悪かったのか。色々考えても答えは何も出なかった。
 体がガタガタと震えていた。これからパパにどう接したらいいのだろう。怖かった。もう二度と、ぶたれるのは嫌だった。カーブーが家を出て行って、心から笑える日が来たと思ったのに……。
 僕は、わざわざパパに言いつけた人を恨んだ。
 一体、誰が言ったんだろう。僕は床屋のおじさんと、パパの後輩の人にしか言っていないはずだ。もし、会っても、この事は聞けないだろう。またパパに言われたらと思うと、絶対に聞けない。
 僕はパパと似てないと、人に言っては駄目なんだと感じた。

 何もせずに部屋でボーっとしていた。パパに、ぶたれた事がショックだった。
 おしっこに行きたくなり、部屋を出る。部屋の隣のトイレへ入ろうとすると、一階から声が聞こえてきた。
「まったく、何をすんのよー」
 おばさんであるユーちゃんの声だった。悲鳴に近い声。僕はおしっこを我慢して、階段のほうへ向かう。手すり越しに下を除くと、パパの頭が見えた。何があったんだろう。
「テメー、いつからそんな口を叩くようになったんだ?」
「やめろ、広龍」
 パパの怒鳴り声と、おじいちゃんの怒鳴り声が続けて聞こえる。
「いい加減にしな、広龍」
 おばあちゃんの声までする。
「お、女を殴るなんて…、さ、最低よ」
 ユーちゃんの声は震えていた。泣いているみたいだ。
 僕はその場から動けないでいた。
 壁にドスンと鈍い音がする。誰かが、ぶつかった音だ。
「ぼ、暴力しか…、暴力しか振るえないの?」
「うるせぇー」
「やめろ」
「広龍、やめなさい」
 家族みんなの声が交差する。
 あとは壁に誰かがぶつかる鈍い音が、聞こえてくるだけだった。どう考えても、パパがユーちゃんをぶっているとしか思えない。
 何で妹のユーちゃんをパパがぶたなくてはいけないのだろう。
「テメーは、いつも生意気なんだよ。兄貴を舐めてんじゃねえぞ、おい」
 パパの声がさらに大きくなる。僕は怖くなって部屋に戻った。何でこうなったんだろう。ユーちゃんの悲鳴に近い鳴き声が、ずっと耳に残っていた。
 部屋で震えながらいると、弟の龍也が泣きながら入ってきた。友達の家で遊んで帰ってところ、下の状況を目の当たりにしたのだろう。
「お兄ちゃん…、パパが…。パパが……」
 龍也は泣きながら、僕に訴えてくる。僕も泣きたいぐらいだった。でも、どうする事もできない。ユーちゃんが、あのような状況なのに、僕は何もできないのだ。
「こっちにおいで、龍也」
「うん…。で、でも、パパがね……」
「うん、分かってる。お兄ちゃんが行ってくるから、ここで待ってて」
「……」
 僕は弟の手前もあり、部屋を出た。一階では、まだ喧嘩をしている声が聞こえている。そういえば、龍彦はどこにいるんだろう。おじいちゃんたちの部屋かな…。できれば幼い龍彦には、下の出来事を知られたくなかった。
 龍也にも言っちゃったし、一階に行かないと…。ゆっくり廊下を踏みしめて歩いた。階段の手すりにつかまり、下の様子を再度覗き込んだ。
「まだ、分からねえのか、テメーは」
 急にパパの怒鳴り声に、僕は思わず後ずさりをしてしまった。情けない。何とかしたい。でも、怖くて下に行けない。僕はしばらくその状態で、見ている事しかできなかった。
 カーブーがいた恐ろしい時代。その頃に似た空気が、家の中を包み込んだような気がする。

 次の日になって目を覚ますと、パパが隣で寝ていた。
 昨日の事は夢だったのか。そう、思うぐらい、パパの寝顔は安らかだった。
 でも、あれは夢でもなんでもない。
 僕は頭を叩かれ、ユーちゃんは泣き喚くぐらいぶたれたんだ……。
 昨日はあれから部屋に戻り、布団に入ってしまった。起きていながら、何もできない自分が嫌だった。だから、耳を塞ぐようにして、寝るしかなかった。
 いびきを掻きながら寝ている龍也を起こし、パパが起きないように、静かに身支度を整えた。
 一階に降りると、おじいちゃんがお茶を飲んでいた。膝の上には龍彦がちょこんと、座っている。
「おはよう、おじいちゃん」
 僕と龍也は声をそろえて挨拶した。
「ああ、おはよう」
 いつもと何も変わらず、優しい表情で挨拶を返すおじいちゃん。昨日のパパの件はどうなんだろう。
「お腹は減ってるだろ?」
「う、うん……」
「台所におばあちゃんが、食事の準備をしているから、行って挨拶してきな」
「はーい」
「はーい」
 台所へ行くと、おばあちゃんが、ぬか味噌のきゅうりを切っているところだった。
「おはよう、おばあちゃん」
「おばあちゃん、おはよう」
「あら、龍一に、龍也。おはようさん」
 おばあちゃんまで、いつもと変わらない。やっぱり昨日のパパの件は、夢だったんだろうか。
「もうすぐできるから、向こうで待っといで」
「おばあちゃん、僕、手伝うよ」
 次男の龍也は要領がいい。僕が言い出す前に、先を越されてしまう。もちろん率先して、手伝っているのだからいい事である。
「僕も手伝う」
「あらあら、お利口さんだね~」
 兄弟でおばあちゃんの手伝いをして、食事をテーブルの上にせっせこ運んだ。朝の食卓の人数は、だいたいこの五人だった。ユーちゃんは朝寝坊なので、いつも十時ぐらいにならないと起きてこない。
 昨日の様子が気になっていたが、誰もその事に触れないので、僕らは学校へ向かう事にした。

 それから特に何も変化は起きず、数日が経過した。
 僕は、ジャッキーチェンの新しい映画を毎日のように見に行った。大きなスクリーンの中のジャッキーは相変わらず格好良かった。今まで僕と龍也の二人だけだったのが、龍彦まで加わり、一緒に見に行くようになった。
 おじいちゃんの畳の部屋で、ジャッキーの真似をして、カンフーごっこを楽しんだ。男三人で暴れているので、障子はボロボロになり、あちこち穴が開くようになった。
 いつも夕方ぐらいから、パパは出掛けていた。町内のお囃子の稽古で忙しいのだろう。しばらくパパと一緒に、ご飯を食べた事がないように思う。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
 夜になって、パパから珍しく電話が掛かってきた。
「おう、龍一か?」
 パパの声は非常に陽気だ。電話の向こうは、たくさんの人がいるみたいで、賑やかで楽しそうだった。
「うん」
「サンロードで、ケンタッキーフライドチキンのビルあるだろ?分かるか?」
「うん、分かるよ」
「パパさ、今、友達なんかと一緒にいるから、おまえも来いよ。そのケンタッキーのビルの屋上にいるんだ」
「龍也や龍彦は?」
「龍也は、もうこっちにいるぞ」
「え?」
 そういえば、夕方ぐらいから、龍也の姿が見当たらなかった。あいつ、パパと一緒に、出掛けていたんだ…。そう思うと、少し羨ましかった。
 急いで着替えをして、パパのいるところへ向かう。
 ケンタッキーのビルまで、歩いて五分も掛からない。僕ははやる気持ちを抑えながら、走った。ビルに着き、エレベーターで屋上のボタンを押す。
 エレベーターのドアが開くと、賑やかなそうな雰囲気が伝わってくる。
 屋上にはたくさんのテーブルや椅子、それに真っ赤な顔をした人たちがいっぱいいた。みんな、とても楽しそうだ。パパはどこにいるんだろう。
 辺りをキョロキョロしていると、龍也の姿が見えた。
「おい、龍也」
「あ、お兄ちゃん」
 龍也の右頬には、赤いものがついていた。何だろう。よく見てみると、キスマークだった。龍也は今にも泣き出しそうな顔をして、僕を見ていた。
「パパは?」
「あっち……」
「じゃあ、一緒に行こう」
 弟と一緒に、パパの元へ向かう。たくさんの友達に囲まれたパパが見える。
「パパ……」
「おう~、龍一君ではないですか~。ご機嫌よう」
 パパの友達は、大笑いしていた。みんな、顔が真っ赤っかだ。そばにいた金色の髪の毛で目の青い女の人が、笑顔で僕に近づいてきた。
「お~、プリティーね~」
 そう言って、右の頬にキスをされた。慌てて飛び退き、右頬を手で押さえる。龍也の頬もこれが原因だったのか。パパは、僕を指差しながら笑っていた。
 こんなところ、来なければ良かった……。
 お酒のせいか陽気にはしゃぐパパたちを見て、嫌悪感を覚えた。

 地元では、年に三つの祭りがあった。提灯祭り、川越祭り、酉の市。パパはお囃子をずっとやっていたので、十月にある一番大きな川越祭りの時期が近づくと、楽しみで仕方がないといった表情をしていた。
 祭りで大太鼓を叩くパパ。笛を吹くパパ。踊りをするパパ……。
 みんなが笑顔でそれを見ながら「広龍さ~ん」と大きな声援を飛ばしている。
 僕もやりたい。自然とそう感じるようになり、お囃子を習いだした。
 家から歩いて数分の場所にある熊の神社。僕はよくそこでドッジボールをしたり、蟻の観察をしていたが、毎週二回そこでお囃子の稽古もしていた。
 始めは、小太鼓を習う。二本の『バチ』と呼ばれる太鼓を叩く木の棒を一生懸命握り締め、毎週火、金曜日には稽古に行くようになった。先生役の中に当然パパはいる。
 褒めてもらいたい一心で必死だった。
 ニンバ、サイ、オーヒューヒャと呼ばれる太鼓のリズム。家に帰っても、お箸をバチに見立て、茶碗を太鼓代わりに練習した。パパのようにうまくなりたかったからだ。
 自然と近所の同級生たちも誘って、一緒にお囃子をやるようになる。毎週火、金曜日が、楽しみで仕方がなかった。
 同級生は僕と顔を合わせると、恥ずかしそうにニヤニヤしている。多分近所に住むおじさんたちが、先生役になって教えてくれる事に違和感を覚えているのだろう。
 週に二回のお囃子の稽古。そして一回のピアノのレッスンに行くふり。時間の空いた僕は自然と図書館へ行き、本を読むようになった。この当時主に好んで読んだ作家は『山中恒』の本で、テレビでドラマにもなった『あばれはっちゃく』の原作者でもある。
 しかし僕はメジャーな作品でなく、『ゆうれいをつくる男/てんぐのいる村』と二作品収録されたものが一番好きだった。しかもメインの『ゆうれいをつくる男』でなく、後半に載っている『てんぐのいる村』が気に入っている。
 これは僕らと同世代の男の子が主役の話で、夏休みに旅行の計画を立てていた家族が、様々な経緯からすべて中止になってしまい、ふてくされる状況から物語が始まる。そこで男の子だけ母方のおばあちゃんの家に行くという展開になった。樹木の生い茂る山の中で、金のカブトムシを見つけた男の子は崖から滑り落ちてしまう。目を覚ますと、そこには部落のような女子供しかいない辺鄙な村があり、変な昔の言葉遣いをする子供たちが興味深そうに寄ってくる。リュックの中にあるお菓子や薬など見た事のない子供たちは、男の子をてんぐ様じゃないだろうかと怖がり、主人公は色々な経験をして逞しくなっていくという内容だった。
 この話のどこが気に入っていたのか、考えてみる。ヒロイン役の女の子モメと一緒に澄み切った綺麗な星がいっぱい見える夜空を見るシーンが、脳裏で映像化され、僕は羨ましいと思っていたのだ。こういう場所に行ってみたい。素直にそう感じた。
 それからは暇さえあれば図書館に行き、様々な本を読むようになった。

 ママがいなくなって一年年以上経つ。
 パパは、ママが出てった事に関しての会話を一度もした事がない。僕も特にその件に関しては、何も触れようとしなかった。
 二つずつ年の離れた弟の龍也、龍彦も、同じようにママの事には触れなかった。
 多分神威家にとって、ママがいなくなったという事件はどうでもいい事だったのだろう。
 ヒステリックに暴れ、僕や弟を殴るママ。
 以前、泣きながらやめてと頼んだのに、ママは躊躇わず飼っていた猫のみゃうをダンボールに詰め込み、川に投げ捨てた。
 おじいちゃんや、おばあちゃんがおいしいご馳走を作ってくれているのに、一緒に食べる事を許してくれなかった。ママの出かけている間に、こっそり仲良く食べているところを見つかった時、幼いながらも僕は地獄を見た。左のまぶたにある傷が、今でもそれを証明している。
 頭にくると、玄関のドアを何度も叩きつけ、ガラスにヒビが入るまでやめなかった。
 自分以外の人間に、愛想よく笑う事すら制限された。
 肩を思い切り握り締められ、爪が食い込む。血が出て泣いているのに、それでもママは全然やめてくれなかった。
 幼稚園の弁当で、焼いてすっかりと固まった餅が二個だけの事があった。
 テストで常に百点を取らないといけなかった。
 強制的に七つの塾へ通わされた。
 泣くと、黒い涙を流したママ。
 腹いっぱいになるまで、ご飯を食べた記憶がなかった。
 僕ら兄弟は、ママがいなくなって初めて本当の自由を得たのだ。心から自由に笑えるようになった。ご飯もお腹いっぱい食べる事ができた。
 ママがいなくなって、おじいちゃんやおばあちゃん、そしてパパの妹であるおばさんのユーちゃん。みんなが、笑顔で優しく接してくれる。
 授業参観日の時の恐怖を思い出す。懸命に逃げ、バイクに跳ねられたが、あれはあれでよかったのだろう。あそこで捕まっていたら、僕はまた自由がなくなるところだった……。
 まだ僕は、お腹いっぱいにご飯を食べたい。
 おばあちゃんやユーちゃんは、いつだっておいしいご飯をお腹いっぱい食べさせてくれた。

 ある金曜日。いつものようにお囃子の稽古へ行くと、パパは僕だけに対し、急激に厳しくなったような気がする。
 硬い木でできたバチで、太鼓を叩く僕の手首を容赦なく叩くようになった。それでも痛みを堪えながら、懸命に太鼓を叩く。少しでもリズムが狂ったりすると、何度も叩かれた。痛みで目に涙が溜まる。
 同級生たちは、そんな俺の様子を黙って見ていた。
 そんな哀れむような目で俺を見ないでくれ…。心の中でそう思ったが、口には出せなかった。
 一週間後の金曜日。誘って一緒に稽古をしていた友達が一人、稽古を急に休んだ。それから彼が、稽古に来る事は二度となかった。
 それが発端になったのか、同級生たちは一斉に稽古場へ来なくなった。
 同級生たちが稽古に来なくなっても、お囃子の集まりにはあまり影響しない。僕の同級生が、ただいなくなったという事実だけが残る。他の学年の子たちは、いくらでも楽しそうに太鼓を叩きにやってきた。
 相変わらずパパの周りには、人の笑顔でいっぱいだった。
 みんなには優しいのに、何故僕だけ……。
 初めてパパに対して、不信感が芽生えた瞬間だった。
 あれだけ楽しかった金曜日の稽古。今では時間になると、家を出て稽古場まで向かうのが嫌になっている。とても足取りが重く感じられた。
 小太鼓を叩く。以前よりだいぶうまくなったと自分でも感じる。俺は恐る恐るパパの顔をチラリと見た。
「うん、龍一。うまくなったなあ」
 そこには前と同じ笑顔のパパがいた。素直に嬉しかった。やっとパパに褒められた……。
「よし、次は新しいのを教えてやるぞ。ほら、バチを持て」
「はい」
 一生懸命練習を積み重ねた結果。こんな僕でもやっと一人前に見てくれたんだ。お囃子を続けて良かった。本当にそう思う。
 新しい太鼓のリズムは難しかった。大人の人たちは、いとも簡単に太鼓を叩きこなす。
 早く追いつきたい。頑張って気合いを込め、太鼓を叩いた。
「……」
 右手首に痛みが走る。 
「本当におまえは駄目な奴だな」
 パパの怒鳴り声が、耳に響く。
 涙で視界を滲ませながら、太鼓を叩く。
 再び、右手首に鋭い痛みが走る。
 悔しくて、涙を流しながら太鼓を叩いた。その度にパパは僕の手首を叩く。
「ちょっと、神威さん。龍一君が可哀相ですよ」
 さすがに近所のおじさんが、間に入ってくれた。
「おまえみたいな奴は、辞めちまえ。この下手くそが……」
 僕は稽古場を出て、外で一人、佇んでいた。神社の中に稽古場はあるので、辺りは暗かった。稽古場の中の光が、ドアの隙間からかすかにこぼれている。
 パパは、さっき僕に怒ったような顔じゃなく、笑顔で他の生徒を教えていた。
 何で僕には、あのように優しく教えてくれないのだろう……。
 一筋の光が見える暗闇の中で、僕は誰にも分からないよう静かに泣いた。

 お囃子をみんなの前で披露する十月の祭りがやってきた。集大成でもある二日間。
 この時ばかりは学校でも特別扱いになる。小学校に登校して出席を取ると、お囃子をやる子だけはすぐ学校を帰ってよかった。祭りの時だけの特権だった。
 祭りのメインは、山車。高さは信号機よりも高く、二本の太い綱を持ち、みんなが引き回しをする。
 山車には、左に二台の小太鼓。右に一台の大太鼓。その奥で笛と鐘。一番先頭に踊りをするスペースがあった。
 午前中の部は、山車を町内のところで固定し、居囃子を披露する。幼い僕たちの出番だ。その為に、学校側まで祭りに協力してくれる。まだ見物客もまばらだが、お囃子をするみんなは張り切って、気合いを入れる。
 初めて山車に上がる。僕は緊張と興奮が同居したような妙な気分で、はしごを登った。
 最初は小太鼓。今までの練習の成果を思う存分振るう。パパに手首を叩かれ、痛い思いもした。でも、この日の為に僕はずっと頑張ってきたのだ。続けて良かった。
 山車の中は本当に狭い。木の枠で組んであるのがむき出しで、畳半畳ちょっとぐらいのスペースしかないのである。そこへ次、代わる者が待機して隙を見ながら交代する。
「龍一、おまえさあ、踊りもやってたろ。次、やってみるか?」
「え……」
 汗を手ぬぐいで拭いている僕に、二つ上の先輩が声を掛けてきた。
「この日の為にやっていたんだろ。ほら、これでいってみなよ」
 ヒョットコのお面を手渡される。僕はお面を持ちながら困っていた。
「ほら、早くいかないと、今、踊ってる奴が疲れて倒れちゃうぞ」
 ゆっくりお面をかぶる。視界のスペースが極端に狭くなりだす。
「よし、いってこい」
 背中を押され、表舞台へ出る。
 さっき小太鼓を叩いていた時よりも、見物客が多くなっていた。こんな大勢の前で踊りをした事などない。お面の中は汗でビッチョリだった。
 暑苦しい中、懸命に息を整える。僕はゆっくりと踊りだした。
 大勢の人のどよめきと歓声。ヒョットコのお面をかぶった僕が、みんなの前に出ただけなのにこんな歓声が…。心臓が破裂しそうなぐらいドキドキした。
 こんな大勢の前で踊りをできるのだろうか。狭い視界の中から、辺りをゆっくり見回した。体が萎縮している。思うように動かない。
「おら、龍一。しっかりせいよ」
 いきなり自分の名前を言われ、振り向く。いつも優しくしてくれる先輩の榊さんが、両腕を組みながら、僕を見守っていた。
 あれだけ堅くなっていた体が、稽古の時と同じように動く。
 見物人の歓声が、一際、大きくなっていく。
 ヒョットコのお面に隠れた僕の顔は、笑っていた。
 人間、慣れというのは恐ろしいものである。踊りの出番を数回迎え、僕は少し有頂天になっていた。
 踊っている最中、見物客の中に同級生たちの姿が見えた。もう学校が終ったのだろうか。クラスの女子たちもみんな、僕の踊りを見ている。
 お面に隠された僕の顔。
 みんな、僕だと気づいてくれない。お面をとって、「僕だぞ」と叫びたかった。
 祭りで踊りを披露するというよりも、同級生に自分の存在感を知ってもらいたい。
 山車の中で次の踊りの準備をする時に、僕は二枚のお面を重ねてかぶった。今になって思えば調子に乗っていたのだろう。
 みんなの前で踊りながら、一枚目のお面をとった。見物人たちは踊りではなく、僕のパフォーマンスで笑っていた。
 祭りの最中、僕はパパに山車から引きずり下ろされ、何度も殴られた。
 この日から僕は、お囃子の稽古へ行く事がなくなった。

 僕の家はクリーニング屋。パパはたまに配達の時、一緒に僕を連れていく。
 当時、まだ小学校四年生だった僕は、お客さんの家や会社へ行くと、非常に可愛がってもらえた。中にはお菓子やおもちゃ、冷たい飲み物をくれる人もいた。
 配達の車を走らせるパパ。
 部屋に飾ってあるパパの昔の写真。
 F1みたいなレーシングカーに乗り、カメラに向かってパパが手を振っている白黒の写真。僕は、一度もその写真について聞いた事がない。
「ねえ、パパ」
「なんだ、龍一?」
「部屋にある写真あるでしょ?」
「何の?」
「レースの車に乗っている写真」
「ああ、それがどうした?」
「あれって何をしてたの?」
「あれはパパが若い頃、まだ龍一も生まれるずっと前に、レースをやってた時の写真だ」
 パパは結婚する前という言い方をあえて避けたような気がした。
「ふうん」
「まあ、あれは金が掛かって、ライセンスも国際B級どまりだけどな」
「ライセンス?」
「うーん、おまえにはまだ分からないか。免許みたいなもんだ」
「免許?」
「車をこうやって運転するのも、免許が必要だろ?」
 財布から自分の免許証を取り出して、僕に見せるパパ。
「そうそう、龍一。おまえ、お腹減ってるか?」
「ちょっと」
「そっか。おいしいものを食べさせてやるぞ」
 そう言いながらパパは、車を住宅街の方向へ走らせた。
 どこかレストランにでも連れて行ってくれるのかな…。まだ一度も食べた事のないお子さまランチを頭の中で想像した。口の中で唾が充満する。
「よし、着いたぞ。降りな」
 車が停まる。僕は辺りを見回した。どこにお店があるのだろう。まわりは普通の住宅ばかりで、どこにもお店は見当たらなかった。
 パパは僕の手を引いて、目の前の家に入っていった。
「あ~ら、いらっしゃい、広龍さん」
 玄関で化粧の濃い女の人が、パパに声を掛けてきた。うちのお客さんだろうか。
「あれ、僕、龍一ちゃんかな? こんにちは」
「こ、こんにちは……」
 初対面のはずなのに、何でこの人は、僕の名前を知っているのだろう? 不思議だった。いつもなら玄関先で、クリーニングの品物を渡すだけなのに、パパは靴を脱いで、その家に上がった。
「ほら、龍一。早く靴を脱いで上がれ」
「う、うん……」
 居間へ通されると、テーブルの上にはたくさんのご馳走が並んでいた。

 言われるまま知らない人の家で、椅子に座らせられる僕。
「この間、おまえの誕生日をちゃんとお祝いしてなかったろ?」
 パパの顔は、上機嫌そのものだった。
「だって、もう十二月だよ? 僕の誕生日は九月だよ」
「そんな事は知ってるに決まってるだろ。遅くなっちゃったけど、お祝いしようと思ったんだよ」
「だって、龍也と龍彦は?」
 おじいちゃんも、おばあちゃんも、おばさんのユーちゃんも、弟たちもいない三ヶ月遅れの誕生会。パパにそんな事を急に言われたって、全然楽しくなんかない。
「今度、龍也や龍彦も連れてくるから、細かい事は気にすんな」
 上機嫌のパパに、下手な事を言って怒らせるのも嫌だった。僕は黙って頷く。
『龍一 誕生日おめでとう』と書かれたケーキが目の前に置かれる。何でこんなものが前もって用意してあるんだろう? 名前も知らないおばさんがロウソクに火をつける。
「ほら、龍一ちゃん。ロウソクを吹いて消して」
「だって誕生日なんかじゃ……」
「細かい事をいちいち抜かすな、龍一っ!」
「は、はい……」
 言われるまま俺は息を吹き出して、ロウソクの火を消した。パパと名も知らないおばんは拍手をして大袈裟に喜んでいる。何故かちっとも楽しくなかった。
 ケーキを切り分け、白い皿の上に乗せるおばさん。目の前にはケーキの乗った皿がある。知らないおばさんが覗き込みながら話す。すごい化粧品臭かった。
「ねえ、食べてみてくれる?」
 小さなフォークでケーキを取り、口に運ぼうとした。その時強烈な化粧品の匂いが、僕の鼻をつく。ママも、これと同じ匂いがしたのを何故か思い出す。吐きそうになった。
「おい、龍一。おまえ、何やってんだ。早く食えよ」
 パパがケーキを食えと、せっついてくる。
 嫌々口の中にケーキを入れた。少しだけ開いた口の中に、化粧品の嫌な臭いがわずかに入り込む。喉元まで汚物が上昇した。懸命に堪えなくては……。
 吐き出したら、間違いなくパパに殴られる…。僕はそう思って、必死にケーキを飲み込み、すぐにコーラを流し込んだ。化粧品の臭いが一緒に喉へこびりついたような感覚。ケーキが嫌いな食べ物になった瞬間でもあった。
「ほら、龍一ちゃん。温かい内に早くこれも食べてちょうだい」
 名前の知らないおばさんが作ってくれたミートソース。
 もちろん僕の大好物である。盛り付け方も、喫茶店やレストランに出てくるような感じでとてもおいしそうだ。でも、何かが違う。固めの麺だけじゃない。妙な違和感があった。別にこのミートソースが悪いという訳じゃない。
 パパとおばさんは、仲良さそうに話していた。
 一体、誰なんだろう、この人は……。
 このおばさんは、お客さんなんかじゃない……。
 まだ、小四の俺にでも分かった。俺は出来る限り顔に出さないよう、平静を装う。
 帰り道、僕は外の景色を見るふりをして、パパに話し掛けないように勤めた。

 小学校では、クラス替えがあった。僕は五年梅組。
 新しいクラス。
 新しい女の先生。
 新しい同級生。
 いつもの事だが、最初は戸惑いを覚える。
 三、四年生が男の担任だったのに対し、一、二年は女の担任。一年生の頃、その女の先生との間で嫌な思い出があったので、どうも女の先生は好きになれなかった。
「私は、倉橋市子と言います。音楽と美術以外は、私がほとんど教えますが、本当は国語が得意なんです。だから国語というか、言葉の使い方には厳しくいきたいと思います」
 何だか嫌な感じだった。この先生と、二年間も一緒にやっていけるのだろうか。不安を覚える。
 右のほうから強烈な視線を感じた。
 振り返ると、従兄弟の洋子ちゃんが廊下側の席に座っていた。
 怨みの籠もった強い視線で、僕をジッと睨んでいる。
 洋子ちゃんは出て行ったママの姉さんの子供。何を勝手に勘違いしているの分からないが、ママが自分で出て行ったのを僕の家全員で追い出したと思い込んでいる。またはママが洋子ちゃんたちへ、自分の都合のいいように吹き込んでいるのか……。
 その事について僕は、一度も弁解した事はなかった。出て行ったママが、自分の身内に都合よく、勝手に話しているのを信用しているだけなのだから…。本当の犠牲者はこっちのほうだと言いたい。
 そんな従兄弟の洋子ちゃんとも、これから二年間も同じクラス……。
 三、四年の時のクラスに戻りたい気分でいっぱいだった。彼女の性格や行動は嫌っていうほど知っていたからである。
 常にクラスでは成績トップ。まあ、そこは僕も同じだが、決定的に違うのは、学級委員を自分から立候補してやるような女であった。クラスのみんなをまとめるのが得意で、先生からは当然のように優等生扱い。
 幼稚園時代に王子様とお姫様ごっこで、チューをした経験はあったが、ハッキリいって嫌いだった。子供の遊びなので、「朝のチューは、王子様」と洋子ちゃんが言うと、僕はキスをする。「お昼のチューは?」と洋子ちゃんが言うと、同じようにキスをする。あと「夜のチューは?」という三パターンしかない遊びで、すぐ飽きた僕に、洋子ちゃんはしつこく何度も王子様とお姫様ごっこを続けさせた。
 多分僕も彼女もこれがファーストキスだろう。
 一度洋子ちゃんのママに見つかり、「あんたたち、何をしてんの?」と怒られた事がある。その時「龍ちゃんが何回もやろうって。私は嫌だって何回も言ったのに」と僕のせいにされた。
 自分の主張を通し、責任逃れをする性格。幼き頃から、彼女の心の奥底にあるエゴと意地悪さを感じ取っていたのかもしれない。
 恒例の学級委員を決める事になった。
 当たり前のように洋子ちゃんは、学級委員に選ばれた。自分で自ら立候補したのである。堂々と手を挙げ「私がやります」とハッキリ言い切った。クラスの女子で、これに対抗しようという子は誰一人いなかった。
 男子のほうはなかなか決まらず多数決になった。各自誰が一番適しているか、紙に書いて投票する事になる。
「田中君」
「佐藤君」
「鈴木君」
 倉橋先生が紙を見ながら、推薦された生徒の名前を読み上げ、洋子ちゃんが黒板に名前と、正の字を書いていく。
「神威君」
 僕の名前が呼ばれた瞬間、黒板に書いていた洋子ちゃんの持つチョークが折れた。僕が学級委員など冗談じゃない。そんなこっちの都合など知らず、洋子ちゃんにとっては悔しくて仕方がないのだろう。
 クラス替えした最初の頃は、いつもそうだった。僕を知らない生徒は、勝手に真面目だと思い込み、僕の名前を推薦する。この投票というシステム。ハッキリ言って、いい迷惑であった。
「神威君」
「鈴木君」
「斉木君」
「上嶋君」
「鈴木君」
 ヤバい、あと何票ぐらいあるんだ? 学級委員になるのも嫌だが、洋子ちゃんと一緒にというのは絶対に堪えられない。
「多数決により、学級委員は鈴木君に決定しました」
 結局ギリギリのところで僕は、二番手に落ち着いた。鈴木君には悪いが、よろしく頼むよといった気持ちでいっぱいだった。

 小学五年生になって変わった事。一番下の弟である龍彦が入学になった。
 二つ違いの龍也と四つ違いの龍彦。男三兄弟が全員同じ学校に通う事になる。ピカピカの一年生である龍彦は、新しいランドセルをおじいちゃんに買ってもらったらしい。
「兄ちゃん、良子ちゃんがいないよ?」
 一番下の龍彦が、あどけない表情で聞いてくる。
 毎朝一緒に登校していた隣の家の良子ちゃんは二つ上なので、中学生になっていた。そう龍彦にも分かるよう簡単に教えてあげた。
「あ、良子だ」
 真ん中の龍也が、指を指しながら大声で叫ぶ。
 その方向には、学生服を着た良子ちゃんが、むくれた顔で家から出てくるところだった。
「似あわねえ制服だな。変なのー」
 長年の宿敵でもある良子ちゃん。僕の言葉で道を歩く足がピタッと止まった。
「私はもう中学生のよ。分かる? あなたたちのような子供じゃないの。」
「偉そうにえばってんじゃねえよ。このブス」
「ブ、ブス……」
 良子ちゃんのこめかみが疼きだす。
「ふん、まあいいわ…。あなたたちクソ兄弟も、全員、やっとこさ小学生になったのね。一応、おめでとさんって言ってあげるわ。私に感謝しなさいよ」
「うるせー、何でおまえみたいな奴に感謝しなきゃいけないだ。それに僕たちはクソじゃない。謝れ、良子」
 良子ちゃんの足元を蹴飛ばしながら、龍也は叫んでいた。過去に何度も彼女から頭を叩かれていた龍也は、三年生になって少し自信がついたようだ。
「よ、よくも足蹴にしたわね?」
 ただでさえ細い目をさらに細くし、良子ちゃんは顔を真っ赤にして向かってくる。
「うるせー、クソブス」
 次男の龍也が必死に応戦する。いくら男と女とはいえ、小学校三年生と中学校一年生の違いは大きい。僕もこの小さな戦争に参加する事にした。
 その様子を怯えながら傍観している龍彦。
 俺たち三人は髪の毛をつかみながら互いに引っ張り合い、醜い戦いを繰り返していた。
「ふん、龍ちゃんの弱点、私は知ってるんだからね」
 必死の形相で、ハァハァと息を荒くしながら良子ちゃんは言った。
「ぼ、僕に弱点なんかねえよ」
「あなたは昔、デパートでウンチを洩らしたのよ。覚えてるでしょ? ふふ……」
「ハァハァしながら偉そうにしてんじゃねえや。何が、ふふだ。このクソブス野郎」
「ク、クソブス野郎……」
「クソブスが嫌なら、うんち洩らしだ」
「も、洩らしたのは、あなたでしょ」
「何言ってんの? 臭い臭い…。良子ちゃん、臭いよ。ほら、龍也も龍彦も言ってやれ」
「臭いよ、良子ちゃん」
「くちゃいよ、良子ちゃん」
 神威家男三兄弟の見事なコンビネーション。体を震わせながら良子ちゃんは黙っていた。
「うわ~」
 顔を真っ赤にしながら手を振り回す彼女。手負いの獣になった良子ちゃんは恐ろしく強かった。一番小さな龍彦を目掛けて襲い掛かる。龍也にも攻撃の魔の手は迫る。
 ここは兄として威厳を見せなければいけない。僕は充分な距離をとった。そして一気に全力で走り出した。
「うりゃ」
 必殺の飛び膝蹴りが良子ちゃんに命中し、彼女は吹っ飛んだ。
「あ……」
「……」
「あー……」
 道路に倒れこんだ良子ちゃん。運の悪い事に、その場所には犬のフンがあった。それをまともにお尻で乗っかってしまったのである。まだ柔らかいフンはベットリと彼女のお尻になびりついた。
「うわ~。良子、汚ねえ…。ホッカホッカのウンチに触った。ホカホカのウンチだから、ホカ便だ」
「ホカ便だ……」
「ホカ便だ」
「……」
 良子ちゃんは僕たちの言葉には一切反応せず、黙って自分の家の中へ入っていった。嫌な予感がする。案の定数分も経たない内に良子ちゃんは、もの凄い形相で家から出てきた。右手には大きな包丁が光り輝いている。
「おまえら、何がホカ便じゃあ~」
 慌てて僕たちは、一目散にその場から逃げ出した。

 新学期も無事始まり、日常が落ち着いてきた頃だった。
「おい、龍一」
「なに?」
「パパと配達、一緒に行くぞ」
「……」
 どう返事をしていいか、よく分からなかった。また、あの名前も知らないおばさんのところへ行くのかもしれない。
「行かないのか、龍一」
 僕たち三兄弟を母親代わりに面倒見てくれているおばさんのユーちゃんが、焦った表情で駆け寄ってきた。
「お兄さん、ミウラの工場。早く行ってくれないと…。さっきから何度もまだですかって電話が掛かってきてるのよ」
 自分の妹を見る時のパパの目つき。兄妹なのに、何て冷たい目で見るのだろうと思った。あきらかにパパは、イライラしている。
「お兄さん、聞いてるの?」
「ずいぶんと偉くなったな、由紀子」
「何を言ってるの。早く工場へ品物届けないと……」
「ずいぶんと偉そうな口を利くようになったなって言ってんだ」
「私はただ…。キャッ……」
 いきなりユーちゃんを殴りだすパパ。拳を握り締め、思い切りユーちゃんの鼻へ叩きつけている。そこには祭りの時のように、終始笑顔のパパではなかった。慌てて僕はとめに入った。
「やめてよ」
「どけっ」
 まだ小学五年生の僕は、簡単に突き飛ばされ、ユーちゃんの盾にもなれやしない。痛みで頭を押さえていると、ユーちゃんのもの凄い悲鳴が聞こえる。
 地面に座り込み、両手で顔を押さえるユーちゃん。両手の間からは、赤い血がポタポタと地面にしたたり落ちていた。僕は泣きながら近寄る。
 その辺りから定かではないが、おじいちゃんやおばあちゃん、そして家で働く従業員やお手伝いのせっちゃん。みんな大勢でパパを止めていたのをぼんやりと見ていた。
 ユーちゃんの鼻は医者に診てもらったところ、完全に骨折していたそうだ。あれだけ大量の出血を見た僕は、足がすくんで何もできなかった。自分の無力さが虚しかった。
 何故パパはあの程度の会話で怒り、暴力を振るうのだろうか? 僕には分からないし、理解できない。絶対に間違っている事だけは確かだ。
 頭がいいだけじゃ駄目だ。僕は強くなりたい……。
 ママの時は自分の身を守りたいが為に強さを求めた。でも今度の強くなりたいは、また違う種類の強さだった。

 

 

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